鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

蛙と瞑想?②

2010-05-21 21:02:43 | Weblog
真夏の暑さ。夕方の風は、涼しく、爽やか・・・。


このところ、水田に水が張られている。
田植えも、もう終わりかな・・・。

水田に水が入ると、鳴き出すのが、カエル。

昼間は、そうでもないのだけれど、アタリが、薄暗くなると、一斉に鳴き出す。

夜中は、更に、大きく響くのだけれど、このカエルの声に耳を集中していると、僅かの間だけれど、『瞑想』状態が体験できる。
ほんの数秒だけれど・・・・。

凡人以下の私は、雑念が多くて、多くて、カエルの声を聞いていても、仕事のことやら、面倒な日常やら、アタマにくる奴らのことで、もう、煩悩だらけだ。

煩悩が、服を着てあるいているのが、この『私』・・・と言っても、過言ではないと思う。

それ程までに、私の頭の中の私は、数秒の休みもなく、おしゃべりする。

煩い。煩い。煩い・・・。
少し黙っててくれないかな?
そうお願いしても、やめることをしない。

アンタの声(・・・というのも少し違うようなのだけれど)なんて、もう聞きたくないし。
ホントに、少し、黙っててくれないかな・・・。

それでも、無理。
やはり、アタマの中で、絶え間なく、ロクでもないことばかり、考えている。

・・・そんな日常なので、眠る前くらい、静かにして、本来の?(実は、アタマの中のもうひとりの私も本来のなくてはならない存在なのだが・・・)自分に帰りたいと思うので、カエルの声を聞きながら、眠ることにしている。

カエルは、いいよな・・・なんか、凄く、楽しそうだしな・・・。

来世は、カエルでどうだろうか・・・。
でもな・・・。昆虫とか食べるのイヤダしな・・・。
カエルになったら、そんなこと言ってられないよな。昆虫は、ご馳走だしな・・・

・・・そんなクダラナイ事を考えるに及んで、もう瞑想という概念と実行は、既に何処かへ消えている。

蛙と瞑想?

2010-05-20 21:03:17 | Weblog
曇りときどき雨。夕方、雷雨。


雨が降る前、蛙が鳴き出す。

『雨が降ってくるよ~~~。』
『雨だよね~~~。』
『ここ暫く、晴れの日ばかりだったもんね~~~。』
『水がないと干上がっちゃうからね~~~。』
『ヨカッタね~~~。』

・・・なんて会話は、多分、成立してないと思うけれども・・・。
でも、随分と楽しそうだね。

蛙の鳴く声は、初夏の訪れを告げる季節のお知らせみたいで、4月の下旬・・・ゴールデン・ウィークと大体、重なっているようで、それで、私も、少しだけ、解放されたような気分になっているから、随分と楽しそうに聞こえるのかもしれない・・・などと思ったりする。

カエルの声は、カエルの種類によって、違うけれど、以前、テレビで、山陰地方だったか中国地方だったか・・・カジカ蛙(・・・という名前でよかったのかどうか・・・???)というものすごく、綺麗な声を発する蛙がいる事を知った。
ほんとに美しい声だった。
実物の声は、聞いたことがないけれど・・・。

一度、心行くまで、味わってみたいと思う。
西域の山間(・・・ということでいいのか・・・カジカ蛙の生息地って・・・???)の静かな木の香りがするような旅館で、涼しい夜風に吹かれて、一晩中・・・蛙の声を聞いてみたい。
ゆるゆる酒なんぞ飲みながら。

我家の隣の水田でなく蛙どもは、たぶん、普通のアマガエルというヤツだと思うけれど、これも、なかなか良い声でなく。
こやつらは、騒がしいが、それでも、かなり良い声で鳴くのだ。

人が寝静まった深夜、このカエルの声を聞きながら、瞑想・・・(・・・と言うほど、ちゃんとしたものでは、ないのだけれど)しながら、いつの間にか眠ってしまう。
全く、瞑想じゃなのだけれども・・・。

欧米人は、可聴帯域が日本人とは、違うので、虫の声も雑音に聞こえると聞いた。
もしかすると、ウチの隣の水田のカエルどもの声も、雑音にしか聞こえないのかもしれないが・・・。
そういう異人と生活をしたらどうなんだろう?
多分、一緒には、暮らしていけないんだろうな・・・と、在りもしないことをつらつら考えたりして・・・。

こんなことを考えているから、全く、瞑想になんてならなのだけれども。

下手な考え休むに似たり・・・とも言うが・・・。

『死ねばいいのに:京極夏彦・著』②~死ねばいいのに・・・と言われた人々

2010-05-19 21:07:47 | Weblog
曇りのち雨。


昨日の続き・・・。

この小説で、ケンヤから
『死ねばいいのに。』
・・・と言われる人々は、幸福ではない。どちらかと言えば不幸な生活を送っている。
そして、ほとんどの人が、真面目に仕事に従事しているにも関わらず、自分の現状に満足できないでいるひとたちばかりだ。
・・・身につまされる。
それは、誰でも無く、他ならない私であり、そして、この本の読者諸氏の中にも、これは自分自身かもしれない・・・と思われる方もいらっしゃるのではないかと思う。

真面目に努力しているのに、何も報われず、不幸な人達・・・。

そんな人達の対極にいるのが、死んだ女の生前を、聞きまわる無礼な青年・ケンヤだ。
正規の職もなく、バイトで生計を立てているらしい、ケンヤだが、生活苦というか、生活感がまるでない。
どういう服装で、どういう髪型で、どういう容姿なのか・・・それさえもよくわからない。
序章で、『ちんぴら』っぽい・・・という記述があるだけのようだ。
ケンヤ像を想像できるのは、彼の語る『言葉』のみだ。

どういう環境で育ったのかは、最終章の『6人目』で、少しだけ語られる。
そして、だれも、被害者である鹿島亜佐美の本当の姿を語らない・・・というか、語れない。
これも最終章で、僅かに語られるだけである。

コイツは、一体ナニモノなんだ・・・???
ケンヤの正体の謎は、読み続けるうちに、段々と深くなっていく。


心の闇の暗さ、深さ、不気味さ、何が真実で、何が嘘なのか・・・その境界さえ危うくなってくるようで、やはり、この世で一番、恐ろしいものは、ひとのこころなのかもしれない・・・。

このところ、『厭らしい小説』、『冥談』といったラインの小説が続いている京極堂さんだけれど、この方のこころの闇を見てみたい気がする。
そんな事をいったら、京極堂さんに言われるだろうか・・・
『―――死ねばいいのに・・・・。』
・・・と・・・。

『死ねばいいのに:京極夏彦・著』~生成された謎の行方

2010-05-18 21:02:27 | Weblog
お天気・・・そろそろ変わり目か・・・。


本ばかり読んでいる・・・。
会社なんぞ行かなくていいくらいの資産があるなら、引きこもって本ばかり読む生活がしたいものである・・・と希望的観測を述べてみた・・・。

さて、京極堂さん最新作。
・・・いつも後悔するのだけれど、どうしてこう一気に読んじゃうのかなぁ・・・。
もっと、もっと、ゆっくりと、楽しみながら読みたい・・・と思いつつ・・・先が知りたい・・・と心は逸る。
ああ・・・こんなに良い季節なのに、こんなに焦ってどうするの・・・???

・・・という訳で、約4時間・・・休憩を含め、読了。
はぁ・・・。

人の心を弄ぶような筆致。

何が一番、怖いかって・・・???
人の心だよ・・・・。
・・・なんて、声が聞こえてきそう・・・。

或る女性(鹿島亜佐美・アサミ)の殺人事件をめぐり、被害者の関係者に、生前の被害者のことを聞きまわる不思議な青年・渡来健也(ワタライケンヤ)。

『死ねばいいのに』
と言われて、心に潜む闇を突き破られうろたえる関係者達。
みなさん、とても不幸なのだ。
不幸をみんな外的要因に見出そうとする関係者達。
自分を正当化しつつも、その壁は、ケンヤによって脆くも崩されていく。
このあたり・・・不愉快な話なのに、何故だか、一瞬、爽やかな風が吹くような気がしている。

このカンジ・・・何処かで・・・と思ったのだけれど、京極堂さんの著書の『巷説百物語』の主人公・御行の又市さんっぽい。
彼が現代に蘇ったら、ケンヤのようなイメージになるのでは・・・。

『・・・つっうか・・・。俺、あんまりちゃんと育ってねぇから、口の利き方とか知らないし。何怒ってんすか・・・。・・・ンなもん・・・・云々。』
ケンヤの語ることばは、こんなカンジで、現代の若者のしゃべりことばのようだけれど、活字になるとなんだか不思議なカンジがする。
そんな得体の知れないケンヤに、大人たちは、翻弄される。

ケンヤが生成した謎を、たぶん、誰も、解くことができない・・・。

そこは、深くて暗い闇の領域・・・。

『――死ねばいいのに。』

猫の目のように、気紛れよ・・・

2010-05-17 21:03:26 | Weblog
風爽やかな季節は、続く・・・。


5月の誕生石は、エメラルド。
済みきった空を渡る風のような緑色。

・・・かといって、石自体が、無傷で、透き通っているのかというと、そうでもなくて、インクルージョン(内包物)をもったものがほとんど。
時間とともに、風化するようです。

私は、エメラルドは、もっていないのだけれど、あの四角いエメレラルド・カットを施したリングは、和服や帯止めなんかによく似合いそうだと思っています。
随分と大人なカンジのする宝石だと思うし。

エメラルドを多く産出するのは、やはり東南アジアなのだろうと思いますが、タイや、ミャンマーといった地域。
タイは、いま政治的に混乱しているようで、社内では、渡航禁止の通達もあったようです。

タイ・・・といえば、シャム猫・・・。
スレンダーなボディに、サファイアのような綺麗な瞳をもつ猫達。
野生的なのに優雅・・・。

ウチの駄猫と、同じ種族か・・・と思われるくらいですが、猫の目って、宝石みたいで、それだけで神秘的です。
(因みにウチの駄猫は、三毛猫で、目は、緑がかった黄色でした)

猫の瞳には、金・銀・ブルー・左右の色の違うオッド・アイ、黄色に緑?ってカンジですかね?
エメラルド・グリーンの瞳をもつ猫というのは、実物は、みたことないですが・・・。

ヨーロッパ系の方には、綺麗なグリーンの瞳を持つ方がいらっしゃいますね。

金髪碧眼は、おおけれど、黒髪に緑の瞳ってのは、少女マンガに多かったような・・・。

因みに、今日の御題の『猫の目のように、気紛れよ・・・』は、『黒猫のタンゴ』から・・・。

昭和も遠くなったなぁ・・・。

『日本史 有名人の臨終図鑑:篠田達明・著』 ~ご臨終です・・・。

2010-05-16 21:04:17 | Weblog
風の気持ちよい季節・・・。


タイトルの通り、日本史上の有名人の臨終を、自らがお医者さんであり、作家である篠田達明さんが、カルテを書き込み、死に至っての病歴・家族構成・所見等をまとめた興味深い読み物となっています。

これは、以前に、山田風太郎さんが、『人間臨終図鑑』を書かれていたけれども、山田風太郎さんもお医者さんだったし、医療に関わるにひとにとって、避けることのできないのがひとの最後なのでしょう。

この『日本史 有名人の臨終図鑑』は、日本史上の有名人ということになっていますので、一応、記録の残っているひとに限られるのですが・・・(当然か・・・記録がなければ、書けないし・・・)。

読み方としては、パラパラ捲って、興味のある人物をフォーカスするもよし、索引から引っ張るもよし、真面目に最初から飛ばさず読むもよし・・・(私は、最初から、真面目に読むタイプです・・・)。

お亡くなりになられた年齢順に、纏められています。

高齢になれば、なるほど、あちこちに、不快な症状が出てくるようで、やっぱ、トシはとりたくないな・・・というのが正直な感想。

世の中には、実際、どのくらいの病気があるのか・・・。
病気と認定してくれるのがお医者さんだから、自分で、認定してはいけないのかもしれませんが、どんなに健康なひとでも、なにかひとつくらいは、疾患がありそう。
それが、命取りになるのか、単なる思い過ごしか・・・そのへんの判断は、素人には、難しいかもしれませんが・・・。

どうせ、死んでしまうのならば、どうして生まれてくることを避けることができないのかなぁ・・・。

こんなに病気があるのに、どうして、ひとは、健康な状態が、真っ当な状態だと思い込みたがるのか不思議です。

健康のためなら、死んでもいい・・・そんな冗談とも本気ともつかないことが、平然と言われているということは、やはり、みなさん、どこか不健康なんでしょうかね?

健康を意識するには、どこか悪いところがないと自覚できませんしね。

ご臨終で、幸せになるひと・・・
死んでも死に切れない人・・・

ひとの幸せは、死んでみないとわからないのかも・・・???

『冥談:京極夏彦・著』~ふとした日常のすきまに・・・~

2010-05-14 21:01:36 | Weblog
明るい晴れのような・・・くもりのような・・・。

読書は、続くよ・・・。

京極先生の著作は、ハズレが少ない。
読んで、後悔した・・・ということが、私には、ほとんどござません。

この力量は、物凄い。
たぶん・・・神懸かり・・・。

好みの問題かとも思うけれど、少なくとも、ワタシには、小説の神様だと思っております。

以前は、文庫版にして、厚さ50mmをゆうに越える長編小説が、本屋さんの棚に並んだ光景は、他の作家さんが、50冊くらい???入りそうなところ、京極先生のご本は、10冊前後でもう一杯・・・だったりして、
(場所とるよな・・・)
なんて思いながら、
(もう、買ってよんじゃったらから、いいんだけどさ・・・)
と言う事で、棚の前から撤退。
もっとも、最近では、ネットの本屋さんしか利用していないのだけれど。
最近、近眼の度が進み、本屋さんの棚から希望の書物を探すのが、もう大変で、大変で。
時間も無駄だし・・・。疲れるし・・・。たぶん、お探しの本は、ここには、ない・・・。

閑話休題・・・。
『冥談』は、この世とあの世?の境界線にいる人達の物語。
境界線は、曖昧で、ふとしたはずみで、いとも簡単にあの世に届いてしまう。
それ程、簡単にあちら側へ行ける人達も存在するようです。
そんな人達の短いけれど、幽玄な、そして、悲しく、儚い・・・物語のいくつか・・・。
時代もだいたい、このあたりですね・・・とオボロげながら、わかるカンジ。
相当昔・・・でもないけれども、そう最近・・・という訳でもなくて・・・。
曖昧・・・。
曖昧さのもつ柔らかく、優美で、そして脆さ・・・。
その曖昧さは、あの世のことを語るには、あまりにも不確かだけれど・・・そういう言葉では、表現できないイメージを京極先生の筆は、描写をしていくようで・・・。

あの世とは・・・冥界・・・。
冥界と現世を行きつ、戻りつしながら、展開していく8つの物語。

静かな静かな恐怖・・・。なんか・・・怖い・・・。

明日、この世界に紛れ込んでしまうかもしれない危険を孕みながら・・・。

五月闇(拙ブログ2010年4月29日をご参照下さい)のこの季節・・・この本は、丁度よろしいかと・・・。

『伯林蝋人形館:皆川博子・著』~美しさと退廃に揺られて・・・~

2010-05-13 21:01:57 | Weblog
朝から快晴。


連休は、ひたすら読書。まさに読書三昧・・・ああ・・・極楽!夜明けまで読書。
その分、昼間寝てたけど・・・。
やはり、昼夜が逆転か・・・。会社の仕事が辛い・・・。

・・・で、本日は、 『伯林蝋人形館(ベルリンろうにんぎょうかん)』
幻想と現実と美と醜と・・・。
皆川先生お得意の湿性感と退廃と幻想と美しさ・・・そんな物語である。

アントゥール・フォン・フェルナウ・・・この物語の主軸となる登場人物ですが、元プロイセン貴族で仕官だったこの美青年。
皆川先生は、美青年の描写がとてもお上手だ。
美しい・・・退廃的な・・・破滅的な美青年・・・。
青年というよりは、青年なんだけれど、少年というか・・・。

この美青年を軸に、この青年と相似形の詩人・ヨハン・アイスラーの登場によって、物語は、複雑な退廃と美しさの度合いを深めて行く・・・。

・・・1920年台のドイツで・・・。
第一次世界大戦敗退後の荒廃したドイツに台頭するヒトラーの影。

この物語、最初は、読む人を迷路に迷い込ませるように、錯綜した関係を見せ始めるのだけれど。

どれが、現実で、どれがマヤカシなのか・・・。
自分を見失って行くような不思議な感覚を体験する。

追うもの、追われるもの、求めるもの、求められるもの・・・そして、美の対極にありながら、完全な美を所有するツェツィリエによって完成されるある実験。
ラストでは、交錯したはずの糸が、解きほぐされて、
ああ・・・そうだったのか・・・と・・・。

あらすじを書くことが非常に、難しい物語なので、ご興味を持たれた方は、ご一読を・・・。

でも、くれぐれも迷って、物語の中で、迷子になりませんよう・・・。

リアルとフィクションの狭間を、存分に楽しめる不思議な一冊。

『負ける!やめる!あきらめる!:P.ピアソール・著』②~ロージーの話~

2010-05-12 21:02:13 | Weblog
朝方は、雨。そして曇りがちだけれど、晴れ間もあったり、忙しい空。

昨日の続き。

この本は、いま巷で流行の『ポジティブ・シンキング』だとか、『引き寄せの法則(・・・これは、ちょっと違うかも?)』といった自己啓発本に、真っ向勝負を挑んだ本である。

悪性リンパ腫で、死の宣告をうけた著者が、ポジティブになって、病から生還しようと試みれば、試みるほどに、心が深く落ち込んで行くといった体験を語っている。

ポジティブ(肯定的)に物事を考えることが苦手なタイプのひとに、ポジティブになれ・・・って言ってみたところで、それは、無理な話だと思う。
・・・実際、私自身も、
『強く念じれば、希望は叶う・・・』
といった類の本を、何冊か真剣に読んでいた・・・しかし、希望は、一切叶わず、悪い局面に落ち込んで行くだけだった。
・・・もともと、ネガティブ(否定的)な性格だしさ・・・。

だったら、勝とうなんて思わないほうがいいみたいだし。

さて、この本の中に、著者のピアソール教授が入院していた病院に、ロージーという看護助手の女性の記述がある。この話を読んだとき、涙が出てきた。

ロージーは、看護助手だから、安い賃金で、汚い仕事をやらなければならない。
患者さんの吐瀉物や排泄の後始末・・・やっかいな仕事を、ロージーは、陽気にこなしていた。
病室の清掃が終わると必ずこう尋ねる。
『ロージーが出て行く前に、あなたにしてあげられることは、あるかしら?』
特に、用事がなければ、彼女は、軽く会釈をしたあと、ちょっと黙り込む。そしておもむろにこう囁くのだ。
『神様の祝福がありますように。また明日ね。』
ピアソール教授は、彼女に尋ねた
どうして自分の仕事をこれ程までに、愛せるのか?
『この仕事は、ロージーにとっては、遊びみたいなものよ。彼女は、これをやるために生まれてきたの。ロージーがやることをやらないとお医者や看護師の仕事もうまくいかない。ロージーは、自分のやり方で病気を治しているし、そうすることが大好きなの。』

・・・神の領域である・・・と私は、思う。

たいていのひとは、生きるために働かなければならない。だが、そのせいで、ロージーのように天職を果たす感覚が薄れ、面倒な事だと思ったり、キャリアを追求することが第一目的となる。
仕事の見返りには、外来的なものと内在的なものがある。外来的な見返りとは、金銭や地位といったもの。そして、ロージーが得ていたのは、自分以外の人にとっては、なくてはならない価値ある勤めを果たしたことで得られる達成感である・・・と著者は、書く。

『負ける!やめる!あきらめる!:P・ピアソール・著』~魂の失業~

2010-05-11 20:04:32 | Weblog
雨・・・一日中、降ったり、やんだり・・・。


去年の3月から、派遣先の解雇の通達がいつ来るのだろうか・・・とそんな事ばかり考えていた。
今のところ、来月末までの契約で、これから更新なのか打切りなのかとヘビの生殺し状態がまた暫く続くのだけれども。
・・・もういい加減、自分から辞めてしまおうかとも思う。
私の前の席の『あのひと』を見るたびにそう思う。
この6週間というもの、連休を挟んで、まともに1週間(5日間)出社した週は、わずか1回。
しかも、異動してきた直後だけ。
よく解雇にならないよなぁ・・・。
私は、真面目に休まず、勤務しても先の雇用の保証はないのだし。

最近わかったことだけれど、真面目に仕事するヒトほど、報われないというか・・・。

出社しないでも、仕事が溜まるわけでなし、ただ来ていればいいのか・・・ラクでいいよな・・・。
それで、最低ながらも給料貰えて、雇用は、確保されてるし。

・・・とも、思ったのだけれど。

もしかしたら、『あのひと』は、魂が失業しているのかもしれない。
意地悪なワタシは、ここで、声を大にして叫ぶ(もちろん、心の中でだけれども・・・)。
『でも、助けてなんてやるもんか・・・。励ましたりなんてもう絶対しない・・・。自分のことは、自分で、責任もちなよ・・・。みんなそうしているんだから。アンタだけ特別じゃないよ!』

・・・ただ、仕方が無く、つまらない仕事に従事して・・・。
達成感も充実感もなく、ただ、あの金額をもらうためだけに、出社して、そしてイヤになると休む・・・。

魂の失業・・・これは、今日の御題ポール・ピアソール教授の『負ける!やめる!あきらめる!』という本に記載されていた。

仕事を解雇されたときの打撃は、魂のレベルにまで達するという・・・。
解雇でなくても、つまらなくやりがいのない仕事に従事させられ、心が虚しく、朝になると頭痛と吐き気で、会社に来ることができないという『あのひと』は、実際の解雇と同じ・・・魂が失業してしまっていうのかもしれない・・・。休んでばかりだから、会社としても重要な仕事は、任せることができないでいるのだろうけれど。

生活のためにやる仕事でも、その瞬間を味わいつくそう・・・自らが、悪性リンパ腫で、死の宣告を受けた著者が、病を経て、語る文体には、一度人生をあきらめたひとの強さが、にじみ出ているような気がする。

私の薄氷をふむような3ヵ月更新も、もしかしたら、味わい尽くすことができるのではないだろうか・・・これもまた、明日仕事をしていると、不満やグチやら、『あのひと』ととの待遇の差を比較して、惨めになるのだろうけれども・・・。