人間は不思議だ。
自分ひとりでは生きていけない。それなら人をもっと頼りにしてよいはずだ。もっと人を愛してもよいはずである。それがどうしてできないのだろう。なぜ、恨んだり、妬んだり、嫌ったり、殺してやるとまで思うのだろう。
私は、どうも必要以上におせっかいをしてしまうようだ。先日も名古屋市の中区役所の前を歩いていたら、老夫婦に声をかけられた。後になって、たくさんの人が歩いていたのに声をかけられたのは、声をかけられやすい何かが私にあるのかと考えた。老夫婦の夫人の方は片目が悪いようだった。夫の方は、夫人に手を引かれて、足取りはおぼつかなかった。「オアシスのバス停はどう行けばいいのですか」と夫人は言う。口で言ってもまた困るだろうと思い、「一緒に行きましょう」と連れて行った。
また、孫のクラスの男の子に手紙を出した。もうすぐ卒業である。クラスで一番かわいいと思う男の子だが、いつもじっとしていることができない。保育園の頃はそれがよけいにかわいかったけれど、小6ともなると、先生もたぶん親も許せない。ちょっかいを出しては叱られ、さらにちょっかいを出すということの繰り返しだ。「わたしは、あなたのファンです。あなたはジャニーズのスターになれると思っています。中学では音楽と体育はスターになる絶好の勉強の機会です。これからのスターは英語が話せることも大事なので、この3科目はしっかり勉強して、必ずテレビに出てください。楽しみにしています」。そんな内容の手紙を書いた。
また、私たちも歳をとったので、友人の中にも病気になった友だちがいる。それはとても気になる。しかし気になっていることを伝え過ぎれば、彼もまた病気を気にし過ぎることになるだろう。さらりと、しかしできる限り打ち克って欲しいと伝えたい。そんなことを飲みながら話していたら、相手が「(友人とわたしは)特別な関係なのか」と言う。そんなひがんだようない言い方をせずに、「一緒に見舞いに行ってやろうよ」とでも言って欲しかった。同じ学校で同じ時間を過ごした仲間である。気にして当然だと私は思うし、度が過ぎるわけでもないと思う。
私はまだ、生かされているし、人のことが心配できる。私には人類を幸せにすることはできないが、せめて自分が見える範囲の人たちが幸せになれるようにと思う。自分のささやかなおせっかいが役に立つならばと思う。
自分ひとりでは生きていけない。それなら人をもっと頼りにしてよいはずだ。もっと人を愛してもよいはずである。それがどうしてできないのだろう。なぜ、恨んだり、妬んだり、嫌ったり、殺してやるとまで思うのだろう。
私は、どうも必要以上におせっかいをしてしまうようだ。先日も名古屋市の中区役所の前を歩いていたら、老夫婦に声をかけられた。後になって、たくさんの人が歩いていたのに声をかけられたのは、声をかけられやすい何かが私にあるのかと考えた。老夫婦の夫人の方は片目が悪いようだった。夫の方は、夫人に手を引かれて、足取りはおぼつかなかった。「オアシスのバス停はどう行けばいいのですか」と夫人は言う。口で言ってもまた困るだろうと思い、「一緒に行きましょう」と連れて行った。
また、孫のクラスの男の子に手紙を出した。もうすぐ卒業である。クラスで一番かわいいと思う男の子だが、いつもじっとしていることができない。保育園の頃はそれがよけいにかわいかったけれど、小6ともなると、先生もたぶん親も許せない。ちょっかいを出しては叱られ、さらにちょっかいを出すということの繰り返しだ。「わたしは、あなたのファンです。あなたはジャニーズのスターになれると思っています。中学では音楽と体育はスターになる絶好の勉強の機会です。これからのスターは英語が話せることも大事なので、この3科目はしっかり勉強して、必ずテレビに出てください。楽しみにしています」。そんな内容の手紙を書いた。
また、私たちも歳をとったので、友人の中にも病気になった友だちがいる。それはとても気になる。しかし気になっていることを伝え過ぎれば、彼もまた病気を気にし過ぎることになるだろう。さらりと、しかしできる限り打ち克って欲しいと伝えたい。そんなことを飲みながら話していたら、相手が「(友人とわたしは)特別な関係なのか」と言う。そんなひがんだようない言い方をせずに、「一緒に見舞いに行ってやろうよ」とでも言って欲しかった。同じ学校で同じ時間を過ごした仲間である。気にして当然だと私は思うし、度が過ぎるわけでもないと思う。
私はまだ、生かされているし、人のことが心配できる。私には人類を幸せにすることはできないが、せめて自分が見える範囲の人たちが幸せになれるようにと思う。自分のささやかなおせっかいが役に立つならばと思う。