友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

思いやりって何だ

2007年06月25日 23時58分57秒 | Weblog
 最近、よく聞く言葉に「思いやり」がある。私は子どもたちに「人には優しく、自分には厳しく」と言い聞かせてきた。「思いやり」を持ちなさいということも同じ意味合いだと思っている。選挙で、立候補者が「思いやりのある社会こそが大切」と訴えているのを聞いた。この選挙では、他の立候補者も「思いやりのある子どもが育つ社会に致しましょう」と演説していた。現在の社会は「思いやり」に欠けていると二人の立候補者は考えて、そう訴えることが多くの共感を呼ぶと判断しているのだろう。

 今朝、中日新聞を読んでいたら、『くらしの作文』のコーナーに、62歳の父親が結婚した息子に贈る言葉が載っていた。その最後は「人生の荒波も乗り越えてほしい。そして、他人を思いやる一人の人間として、二人で羽ばたいていってほしい」と結んであった。人生で一番大切なものは、「他人への思いやり」であることは多くの人が認めるところだ。逆説的に言えば、多くの人が「思いやり」を求めているということでもある。

 電車の中で、席を譲ることももちろん「思いやり」である。席を譲る人が、本当はもう少し座っていたかったのに席を譲るなら、それを私は「思いやり」だと思う。けれども、席に座る気がなかった者が席を譲るのを「思いやり」だとは思えない。車を運転していて、出会い頭に「どうぞ、お先に」というのも「思いやり」ではあるが、それくらいのことを「思いやり」だと思っては欲しくない。

 「思いやり」には自己犠牲が伴うものだと私は思っている。自己犠牲を伴わない「思いやり」はマナーと言ってよいのではないか。自己犠牲という言い方はオーバーかもしれないが、「思いやり」にはそれくらいの覚悟が必要だ。自分の取り分を削ってでも人に与えられることができなければ、「思いやり」とはいえないのではないか。資本主義社会は理屈で作られたわけではなく、人の歴史の積み重ねで作り上げられた社会だ。民主主義はその副産物だ。だから、これが最終地点でもなければ、最高のものでもない。

 現在の社会で、多くの人が「思いやり」を大切にしようと言うことは、社会が持つ欠陥を補うものと考えているからだろう。多くのものを持つものは、持たないものに分けなくてはならない。たとえ自分の取り分が少なくなろうと、進んでそうしなくてはならない。相手の気持ちを考えなさいというなら、その思いをさらに積極的な行動に移すことだと思う。たとえそのためにわが身がボロボロになろうともそうすることが、「思いやり」というものだ。自己犠牲を伴わない「思いやり」はマナーでしかない。
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