友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

残念無念

2007年06月27日 21時30分19秒 | Weblog
 孫娘は中学1年生。ただ今はじめての1学期試験を迎えている。中間試験では学年で何位という良い成績を取った。この成績は私もカミさんも孫娘の母親もその妹に当たる叔母も、要するに我が家の家族の中では誰も取ったことのない成績である。そんな話を77歳になった姉にしたところ、「私は取っていたわよ」と言われてしまった。

 姉はしっかり勉強をしてきたようだが、私はいつも逃げていた。試験があるからと勉強しだしたのは高校生になってからだったように思う。高校に入って、初めての国語の試験でトップだったことがつまずきの原因だった。私の高校は地域の中学校から優秀な成績の者がやってくる。それなのに、ナンだ、たいしたことないではないか、そう思ってしまった。けれども、高校での最初の中間試験の結果はさんざんなものだった。これまで一度も経験したことのない屈辱的な結果だった。と言いながら、実は何も覚えていない。

 こんな馬鹿な連中を相手にしながら、全く太刀打ちできない自分をなんとかしようと考えなかった。勉強が好きな者には勉強させておけばよい。自分は勉強よりも、社会の仕組みや人生の意義に関心がある。みんなは勉強勉強と言うけれども、そもそも高校は何のためにあるのか。大学試験に合格することだけが高校の目的であるなら、予備校と変らない。私は予備校に来たわけではなく、人生の意義とか人を好きになることとか、ヘルマン・ヘッセや伊藤左千夫の青春を夢見ていたので、試験勉強は通ればいい、つまりは赤座布団でなければそれでよいと決めていた。

 今、孫娘の勉強振りを見ていると、自分も彼女のように真面目に勉強に精を出していたならもう少し違う人生を歩いていただろうと思う。そんなことを言うとまたまた次女に怒られそうだが、やはり自分が選択してきた道ではあるが、別の選択をすれば当然だけれど別の人生があったはずだ。けれど、じゃー別な人生を歩いただろうかと考えると、やはりどこまでいっても自分は自分だろうなと思う。『国家の品格』を書いた藤原正彦さんが、「もっとも、いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです」と書いているが、誠にそのとおりであろう。

 人はわかっていてもなかなか自分を見直すことは難しいようだ。でもきっとそれができる人は大きく羽ばたくことができる人なのだろう。気付くのが遅かった。残念無念であるが、これが私の人生である。
コメント
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