友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

尊敬できる人

2007年06月30日 23時43分29秒 | Weblog
 私がいろいろうるさく言うので、孫娘に「おせっかいはダサイ」ときっぱりと言われてしまった。私が言っていることは普通のことで、たとえば「食事の後はすぐ歯磨きをしなさい」とか「座っていても食事の用意はできません。何か手伝うことは?と聞くのが普通でしょう」とか「おはようございますとか、こんにちはとかが言えない人は人間じゃーないです」といった類のことばかりだ。

 しかし、娘たちもそうだったが、こうした普通のこともしつこく強要すれば当然反発が生まれてくる。そればかりか、彼女たちがやる前に、あるいは言う前に、口に出せば、当然なことながら「おせっかいはダサイ」ということになる。その人のためになると思って言うこともやることも、実は受け取り手次第であるということが長い間私はわからなかった。人を責めることはあっても自分に落ち度があるとは思っていなかったのだ。

 私の人生の中で出会った女性で、この女性には参ったと思う人がいる。この女性と仕事をしたいと思い、次女を出産したばかりの産室に彼女を訪ねてお願いした。彼女の存在があって始めて、私の地域新聞は実効性のあるものとなった。大学教授の妻である彼女は夫とは別の大学で溌剌と働いている。私を海外旅行に初めて連れ出してくれたのも彼女だ。アメリカに初めて連れて行ってくれたのも彼女である。私にとって彼女は誠に大きな存在で、これは彼女の夫や私の妻にも理解できない、私自身にも何と言っていいのかわからない、不可思議で特別な関係といっていい。

 もし、この世に男と女の関係以外の人の関係が成り立つならば、彼女とはそうした超越した関係だとずっと思っていた。私がメールで「あなたはどう思いますか」と彼女に尋ねたところ、私の友だちである彼女の夫から「あなたという言い方はやめていただきたい」とメールが届いてビックリした。私は女性を「あなた」と呼んでしまうが、それをイヤだと受け止める人もいる。イヤだと思われるようなことは決してしてはならないのに、それに気がつかなかった自分を責めた。

 彼女の言葉でもっとも印象的だったのは「尊敬できる人を友人に、尊敬できて愛することができる人を夫に」である。そのことを孫娘に話したら、「尊敬できる人よりも私よりも成績の悪い人の方がいい」と言う。現実の生活を知らない孫娘はまだ人の価値というか、パートナーとなるべき人の価値がわかっていないようだ。一緒に作っていくのか、それとも自分が思い描く絵の中に添えるのか、生きていくということがどういう展開となるのか、まあそのうち彼女も理解する日が来るであろうと思っている。

 孫娘がポツリと「パパとママはどうだったんかなあー」と言う。それもまた、彼女がいつか理解する日が来るんじゃあないか。夫でも妻でも、相手を尊敬でき、しかもいとおしく思えることが一番大事だろう。孫娘がそんな相手にいつ出会うのか、楽しみでもあり気がかりでもある。
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