昨日の朝日新聞の『生活相談』を読んで、なるほどと納得させられた。相談内容は「話し方が威圧的であったり、何かあるとキレ気味に言い返したりしてトラブルを起こすことがあります。どうすれば良くなるでしょうか?」というものであった。回答者の創作家、明川哲也さんの答えは誠に明快だった。ちょっと長くなるけれど、ここに引用しておく。
「威圧的だったり、キレ気味に言い返したりしてトラブルを起こすのなら、威 圧的じゃなかったり、キレ気味に言い返したりしなければいいだけではないでし ょうか。はい、おしまい。短気なものですいません。でも、これじゃあんまりで すから、ちょっと補足説明をしますね。
人は何のために生きるかということに関して、たくさんの人がたくさんのこと を言っています。幸せになるために。生きる意味を知るために。愛するために。 子孫を作るために。色々です。だから考えれば考えるほど、何のためにという問 いかけは難しくなります。
でも、人は何のために生きないのかということなら、そう難しくはありませ ん。たとえばボクは、大きな家を買うためにいきません。近頃はやりの細身のス ーツを着るために生きません。株価の上げ下げに一喜一憂するために生きませ ん。いばる人になるために生きません。武器を持ち、誰かを殺すために生きませ ん。
(略)生きることの意味を考えると難しくなる。でも少なくとも、威圧的にな ったり、キレ気味になったりするために生きているのではない。だとすれば頭に 血が上った時は、アヘッとでも笑って、私はこのために生きないきっぱりやり過 ごすべきです」
そうなのかと、この若い創作家に教えられた。何のために自分は生きているのか、その答えが欲しくて、結論ばかりを求めていた。確かに彼が言うように、愛するためとか生きる意味を知るためとか、答えを追い求めてきた。「発想の転換」をしてみればいいという彼の指摘に、なるほどそういう考え方もあったのかと納得した。自分が大切と思えないことには血道をあげない、それでよいのだと思う。
折りしも、大和塾の機関誌の発行に向けていただいた原稿の中に、「風 疎竹に来る 風 過ぎて竹に声を留めず」についての一文があった。この一句は中国の『菜根譚』にあり、この句に続けて「雁、寒潬を渡る。雁去りて潬に影を留めず。故に君子事きたりて心始めて現る。事去りて心随って空し」とある。寄稿者は言う。「事が済んだら何時までもくよくよしないこと」「これが私たち高齢者の生き方ではないか」と。
「威圧的だったり、キレ気味に言い返したりしてトラブルを起こすのなら、威 圧的じゃなかったり、キレ気味に言い返したりしなければいいだけではないでし ょうか。はい、おしまい。短気なものですいません。でも、これじゃあんまりで すから、ちょっと補足説明をしますね。
人は何のために生きるかということに関して、たくさんの人がたくさんのこと を言っています。幸せになるために。生きる意味を知るために。愛するために。 子孫を作るために。色々です。だから考えれば考えるほど、何のためにという問 いかけは難しくなります。
でも、人は何のために生きないのかということなら、そう難しくはありませ ん。たとえばボクは、大きな家を買うためにいきません。近頃はやりの細身のス ーツを着るために生きません。株価の上げ下げに一喜一憂するために生きませ ん。いばる人になるために生きません。武器を持ち、誰かを殺すために生きませ ん。
(略)生きることの意味を考えると難しくなる。でも少なくとも、威圧的にな ったり、キレ気味になったりするために生きているのではない。だとすれば頭に 血が上った時は、アヘッとでも笑って、私はこのために生きないきっぱりやり過 ごすべきです」
そうなのかと、この若い創作家に教えられた。何のために自分は生きているのか、その答えが欲しくて、結論ばかりを求めていた。確かに彼が言うように、愛するためとか生きる意味を知るためとか、答えを追い求めてきた。「発想の転換」をしてみればいいという彼の指摘に、なるほどそういう考え方もあったのかと納得した。自分が大切と思えないことには血道をあげない、それでよいのだと思う。
折りしも、大和塾の機関誌の発行に向けていただいた原稿の中に、「風 疎竹に来る 風 過ぎて竹に声を留めず」についての一文があった。この一句は中国の『菜根譚』にあり、この句に続けて「雁、寒潬を渡る。雁去りて潬に影を留めず。故に君子事きたりて心始めて現る。事去りて心随って空し」とある。寄稿者は言う。「事が済んだら何時までもくよくよしないこと」「これが私たち高齢者の生き方ではないか」と。