友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

好きなように描けばいい

2010年12月15日 21時47分10秒 | Weblog
 二科名古屋展が昨日から始まっている。2週間くらい開催していたように思っていたが、19日の日曜日までなので今日、行って来た。入り口に最も近いA室に何人かの知り合いの作品があった。そうか、もう重鎮の仲間入りか、そういう年齢になってきたのだと思った。真ん中辺りの部屋にあった、木村拓哉さんの妻の工藤静香さんの作品の前はさすがに人が多い。老夫婦が「これ工藤静香、知ってるでしょう」とダンナに話しかけていた。「うん、知っとる」とダンナが答える。「ほら、あれ、歌手だった、グループで歌っている、えーと、いい男のナンバー1にいつも名前が挙がる、映画にも出てる」とカミさんは言うのだが、キムタムの名前が出てこない。ダンナの方はそんなことはどうでもいいようで、「なかなか上手いな」と作品を褒めていた。

 官展を批判して出発した二科展は自由で想像的な作品が多い。物語性があるといってもよいかもしれない。「私は全然絵が描けない」と口にする人がいるが、二科展を見たならば少しは変わるのではないかと思う。「絵が上手い」といった場合はおおむねそっくりに描けているということだ。学校では、自由な発想で絵を描かせてきたはずだが、世間一般はまだ写実的な絵が上手いと評価されている。「絵が描けない」と言う人は、たとえば花や人物を紙の上に再現することが「絵を描くこと」だと思っているので、似たように描けないと嘆いているのだ。二科展の作品を見たなら、そんな風に似たように描いている作品は数少ないことを知るだろう。

 すると、こうも言う。「絵はメッセージ性がなくてはダメですよね」。そんなことも誰が決めたのだろう。似たように描かなくてはいけないとか、そうでない絵ならばメッセージ性がなくてはならないとか、学校でそういうことを教えてきてしまったのかと思う。絵は好きなように描けばいい。歌を歌うのと同じだ。歌を歌えば楽しくなる。絵も楽しく描けばいい。「でも学校では評価される」と反論されそうだ。教える場では評価が付きまとうけれど、絵の評価は国語や数学のような答えがない。それぞれの先生が評価の基準に従って点数をつけるが、それが絶対に正しい評価ではない。

 だから学校では音楽の評価が1とか2だった人も、歌手になったりしているし、絵が「下手」と言われた人でも画家になっている。絵は構成や色合いや筆遣いやそしてテーマや、いろんな要素が組み合って、「いいね」と人の心を動かす。私自身は写実的なものが好きだから、そうした作品を見ると「ずいぶん手が込んでいるな」とその技術を見てしまう。あるいはシュールな絵が好きだから、テーマに魅せられたりする。作品になってしまったものは誰がどのように感じるかだ。好きか嫌いかが受け止める側の基本だろう。

 「上手い絵を描きたい」ならば、人の評価など気にせずに何枚も描き続けたらいい。だんだんとその人のものができてくる。「好きこそものの上手なれ」と昔から言うが、好きなことならば長続きするだろう。それ以上になろうとするなら、その時に悩めばいい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする