友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

三島の節子と江國の美弥子の違い

2010年12月13日 23時49分58秒 | Weblog
 カミさんは今日、誕生日会の友だちとゴルフに出かけた。午後からは雨になるという最悪のコディションなのに、ゴルフをやる人たちはどうしてこんな日でもするのだろう。根が怠け者の私にはとても理解できないのだが、そんなにも身体を動かすことは気持ちがいいことなのだろうか。それにしても今日は雨降りである。岐阜県は雪になっているかも知れない。カミさんは朝早くから、持っていくものを揃えていた。「じゃー、行ってくるね」と出かけていったけれど、よく見たら、帽子が2つ残っている。雨降りを見越してどちらにしようか迷ったのだろうと思い、急いで持って行ったけれどもう出発した後だった。

 次女夫婦が茨城へ帰るというので、新幹線の駅まで送っていった。次女のダンナが昨日行なわれた茨城県議選について質問してきた。民主党は現状維持だったけれど、「それは敗北だと言っているよ」と話すと、誰それは当選したのだろうかと聞いてくる。よく聞くと公明党の人のようなので、「組織から出ている人なら当選しているでしょう」と答える。会社が推薦している候補者なら絶対に当選していると話す。次女のダンナが不思議そうな顔をするので、「市町村議会議員はともかく、県議会議員ならば組織が推薦している人は必ず当選するよ」と答える。

 次女のダンナは「民主党政権はもう終わりですよね」と言う。「多分そうなるだろうけれど、民主党に次の候補者がいないことが問題だね」と話す。じゃあー、自民党に代わりの候補者がいるかと言えば、そういう人材が見当たらない。民主党の中で、菅さん代わる人がいるかとなるとこれも微妙だ。そうであるなれば、当面は現状維持で行くしかない。たとえ、正岡子規が病床にあって吐血していたとしても、時代はかまわずに進んでいくようなものだ。正岡子規と秋山兄弟はドラマで描かれたように親しかったのだろうか。松山出身の友だちにぜひ聞いてみたいと思う。

 三島由紀夫の『美徳のよろめき』と江国香織の『真昼なのに昏い部屋』の主人公は似ているようで違うし、時代も30年ほど経ているのに三島の描いた夫人の方が現在に近いように思うのはどうしてなのだろう。『美徳のよろめき』の主人公の節子は官能の天賦に恵まれていたけれど、上流階級の子女にふさわしい教養と優雅さを備えていた。節子は夫も子どものいるのだけれど、恋を夢想していた。その相手は私から見ればプレイボーイだけれど、節子には白馬の王子であったし、彼は王子にふさわしい振る舞いだった。

 節子は結局、プレイボーイと別れ、これまでどおりの生活を取り戻す。これに対して『真昼なのに昏い部屋』の美弥子は日常のことをキチンとこなす普通の主婦だ。その美弥子は結婚した夫と別れてしまうが、だからといって自分を変えた男を追うこともなく、新しい時を生きようとする。三島由紀夫という作家の作品を他に読んだことがないのでよくわからないけれど、男と女のありようについて、彼はかなり先を行っていたのかもしれないなと思った。その彼がなぜ、自衛隊基地で割腹自殺をしなければならなかったのか、不思議な気がする。

 三島由紀夫が女を知らなかったとは思えない。三島由紀夫は自分の身体を愛したようにSEXそのものも愛したように思うけれど、彼には死ぬことの方がSEX以上に意味があったのだろう。
コメント
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