カミさんの叔母夫婦のところへ年末の挨拶に行ってきた。叔母は80歳、そのダンナは82歳になるが、ふたりとも元気だ。元気だけれど、叔母は膝に水が溜まり痛くて歩けなかったのが、今は少しよくなったそうだ。ダンナの方は「どこも悪いところはない」と言うくらい元気で、冬なのに「下着とシャツだけで過ごしている」と言う。ニンニクの丸薬を毎日3錠飲んでいるので、「風邪を引いたことがない」と言われる。次男坊夫婦と一緒に暮らしているが、1階と2階で住み分け、互いに干渉しないで生活しているそうだ。
叔母もそのダンナも本当に歳を取らない。何十年も前から話し方も話題もしぐさも少しも変わらないように思う。叔母が「私は料理が下手で、(ダンナが)自分が気に入ったものを買ってくるし、嫁がいなければ息子が料理を作ってくれる」と話す。しかし若い頃は、カミさんらが叔母の家に下宿していた時代もあり、なかなかハイカラな料理を食べさせてもらったと聞いたことがある。私の姉は夫婦と同世代だけれど、生活スタイルを見ているとよく似ている。戦後の何もない時に結婚し、新しい生活はどんどんと変わっていった。叔母のダンナは地方の名家の出身であるけれど、ボンボン育ちで他人の世話を惜しまない。叔母は小町と言われたほどの美女だが、今もその面影が充分残っている。
叔母たちが結婚したころは、新生日本が歩き出した頃だから毎日が充実していたことであろう。そういう私たちも今から思えば恵まれた世代であった。同級生たちは会社員としてあるいは公務員として最高の地位に着き、今は余生をエンジョイして自分の人生を豊かなものと受け止めている。私たちは誰もがそこそこの生活を手に入れた。それで私たちはよかったけれど、私たちが育てた子どもたちは今や社会の中堅となって支えている。けれども、無差別殺人を犯したり、わが子を放り出したり、様々な社会問題の火種を提供する世代になっている。
小中学校で一番困る親が私たちの子ども世代であるようだ。「権利は主張するけれど、自分の責任は全く取らない」と言われている。社会的な自己を考えない自分勝手な世代である。社会全体よりも自分に、私たちは重きをおいてきたのだろう。組織の中の一員として猛烈に働きながら、矛盾する自己を捜し求めてきた。子育てにおいても、「オマエの好きなように生きればいいよ」と言いながらも、「よい成績を取らなければ社会で活躍できないよ」と子どもに矛盾したものを要求してきた。
私の周りを見ても、結婚しない子どもらが実に多い。親である私たちは、結婚して欲しいと思いながらも別に結婚だけが幸せではないし、時には結婚が不幸になることだってあるから、決して急ぐことはないと思っている。自分たちが若かった時はあれだけ結婚に憧れていたのに、結婚生活を何十年と重ねてくると、それほど大きな意味も価値もなかったかもしれないなどと考えるようになる。それが子どもに空気感染のように伝わるのではないだろうか。
意味があるか、価値があるか、本来なら自分たちがその答えを出さなくてはならない。人の世は難しいけれど、自分を恥ずかしながらさらけ出して見せる以外にはない。
叔母もそのダンナも本当に歳を取らない。何十年も前から話し方も話題もしぐさも少しも変わらないように思う。叔母が「私は料理が下手で、(ダンナが)自分が気に入ったものを買ってくるし、嫁がいなければ息子が料理を作ってくれる」と話す。しかし若い頃は、カミさんらが叔母の家に下宿していた時代もあり、なかなかハイカラな料理を食べさせてもらったと聞いたことがある。私の姉は夫婦と同世代だけれど、生活スタイルを見ているとよく似ている。戦後の何もない時に結婚し、新しい生活はどんどんと変わっていった。叔母のダンナは地方の名家の出身であるけれど、ボンボン育ちで他人の世話を惜しまない。叔母は小町と言われたほどの美女だが、今もその面影が充分残っている。
叔母たちが結婚したころは、新生日本が歩き出した頃だから毎日が充実していたことであろう。そういう私たちも今から思えば恵まれた世代であった。同級生たちは会社員としてあるいは公務員として最高の地位に着き、今は余生をエンジョイして自分の人生を豊かなものと受け止めている。私たちは誰もがそこそこの生活を手に入れた。それで私たちはよかったけれど、私たちが育てた子どもたちは今や社会の中堅となって支えている。けれども、無差別殺人を犯したり、わが子を放り出したり、様々な社会問題の火種を提供する世代になっている。
小中学校で一番困る親が私たちの子ども世代であるようだ。「権利は主張するけれど、自分の責任は全く取らない」と言われている。社会的な自己を考えない自分勝手な世代である。社会全体よりも自分に、私たちは重きをおいてきたのだろう。組織の中の一員として猛烈に働きながら、矛盾する自己を捜し求めてきた。子育てにおいても、「オマエの好きなように生きればいいよ」と言いながらも、「よい成績を取らなければ社会で活躍できないよ」と子どもに矛盾したものを要求してきた。
私の周りを見ても、結婚しない子どもらが実に多い。親である私たちは、結婚して欲しいと思いながらも別に結婚だけが幸せではないし、時には結婚が不幸になることだってあるから、決して急ぐことはないと思っている。自分たちが若かった時はあれだけ結婚に憧れていたのに、結婚生活を何十年と重ねてくると、それほど大きな意味も価値もなかったかもしれないなどと考えるようになる。それが子どもに空気感染のように伝わるのではないだろうか。
意味があるか、価値があるか、本来なら自分たちがその答えを出さなくてはならない。人の世は難しいけれど、自分を恥ずかしながらさらけ出して見せる以外にはない。