思い違いはよくある。ああ、これも年齢のせいなのかなと思うけれど、私たちのような高年齢者になると勝手に思い込むために行き違うことが多い。「明後日の午前9時半ごろです」と伝えたはずなのに、「明日は9時半でよかったですか?」と聞かれる。「いいえ、明後日の火曜日の午前9時30分です」と言い直さなくてはならない。今日も「どうなっている?」と言うので、「8時半にそちらへ行こうかと言ったけれど、あなたが現地集合でいいと言われましたよ」と答えると、「そうか、そうか」と言われる。やはり、現地集合ではなく、リーダーの家の方が間違いなかったのかと今更ながらそう思う。
待ち合わせとか、持っていくものとか、お互いに話し合ってきたことが間違ってしまうことはよくある。自分としてはこう思っていた、けれども相手はきっとこうだろうと気を遣って考え過ぎて、違うことをやってしまう。そういうことはよくある。下世話な話だけれど、女性から「あなたのいいようにしていいわよ」と言われ、かえってどうしていいか分からず悩んでしまったという話を聞いたことがある。あるいは女性から「入った?」と聞かれて萎んでしまったという笑い話のような話だけれど、男として私にはよくわかる気がした。相手のことを考えて、気遣って言っているのだけれど、受け取る側からすれば全く違うことがあるのだ。
「外交とは武器を用いない戦争である」と古くから言われている。外交の基本は「隙を見せれば突く、退けば押す、というのは人間関係では不徳義であろうが、国家間や民族間においてはむしろ常套である」であり、「国際関係とは今日でもなおエスノセントリズム(自民族中心主義)が第一義であり、友好や善隣や友愛は第一義を促すための手段に過ぎない」と。人間関係では相手を思い、相手の気持ちを考え、わざわざ来てもらうよりも現地集合の方がいいと判断するが、国際社会ではわざわざ来るなと言うのは何か弱みがあるからだと考えてしまう。逆に現地集合だよと言えば、それではいったい誰が器具を運ぶのか、我々に見せたくないものがあるのではないのか、そんな余分な憶測が生まれてしまう。
よく知った仲間なら、「ごめん、ごめん、思い違いをしていた」ですむけれど、よく知っているはずの男女の仲なら、どうしてそんな思い違いが生まれるのだろうかと疑心暗鬼に陥り、「私のことが嫌いになったのではないか」「好きな人ができたのか」などと考えもしなかったことを考えるようになる。人と人の間でも互いに理解しあうことは難しいのだから、組織と組織、あるいは国と国のような間柄では、適当な距離を置いておくなどということは無理な話なのかもしれない。
親子の間でも、兄弟の間でも、親族の間でも、理解し合うということは本当は無理なことなのかもしれない。完全な一致を求めれば、夫婦であっても、恋人同士であっても、血を分けた親子や兄弟であっても無理だろう。完全に理解しあうことはできない、あるいは思い違いは必ず起きる、そう思うことができれば人は楽に生きられる。自分でも自分のことがよくわからないし、自分を理解している以上に相手のことを理解しているつもりでいても、決してそれは完璧ではない。だから、その溝を埋めようとする。それが相手への愛だろう。愛することはそういう不条理への信頼だと思う。
待ち合わせとか、持っていくものとか、お互いに話し合ってきたことが間違ってしまうことはよくある。自分としてはこう思っていた、けれども相手はきっとこうだろうと気を遣って考え過ぎて、違うことをやってしまう。そういうことはよくある。下世話な話だけれど、女性から「あなたのいいようにしていいわよ」と言われ、かえってどうしていいか分からず悩んでしまったという話を聞いたことがある。あるいは女性から「入った?」と聞かれて萎んでしまったという笑い話のような話だけれど、男として私にはよくわかる気がした。相手のことを考えて、気遣って言っているのだけれど、受け取る側からすれば全く違うことがあるのだ。
「外交とは武器を用いない戦争である」と古くから言われている。外交の基本は「隙を見せれば突く、退けば押す、というのは人間関係では不徳義であろうが、国家間や民族間においてはむしろ常套である」であり、「国際関係とは今日でもなおエスノセントリズム(自民族中心主義)が第一義であり、友好や善隣や友愛は第一義を促すための手段に過ぎない」と。人間関係では相手を思い、相手の気持ちを考え、わざわざ来てもらうよりも現地集合の方がいいと判断するが、国際社会ではわざわざ来るなと言うのは何か弱みがあるからだと考えてしまう。逆に現地集合だよと言えば、それではいったい誰が器具を運ぶのか、我々に見せたくないものがあるのではないのか、そんな余分な憶測が生まれてしまう。
よく知った仲間なら、「ごめん、ごめん、思い違いをしていた」ですむけれど、よく知っているはずの男女の仲なら、どうしてそんな思い違いが生まれるのだろうかと疑心暗鬼に陥り、「私のことが嫌いになったのではないか」「好きな人ができたのか」などと考えもしなかったことを考えるようになる。人と人の間でも互いに理解しあうことは難しいのだから、組織と組織、あるいは国と国のような間柄では、適当な距離を置いておくなどということは無理な話なのかもしれない。
親子の間でも、兄弟の間でも、親族の間でも、理解し合うということは本当は無理なことなのかもしれない。完全な一致を求めれば、夫婦であっても、恋人同士であっても、血を分けた親子や兄弟であっても無理だろう。完全に理解しあうことはできない、あるいは思い違いは必ず起きる、そう思うことができれば人は楽に生きられる。自分でも自分のことがよくわからないし、自分を理解している以上に相手のことを理解しているつもりでいても、決してそれは完璧ではない。だから、その溝を埋めようとする。それが相手への愛だろう。愛することはそういう不条理への信頼だと思う。