友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人は現わすことで人になった

2010年12月04日 22時56分30秒 | Weblog
 「新市が誕生するのだから、市民にふさわしい市民のための“塾”を造りたい」と、相談を受けて出来上がったのが、『市民による市民のための勉強会・大和塾』である。その第1回の市民講座は平成18年12月だから、ゆっくりではあるが4年間続けることが出来た。今日は第19回目の市民講座だった。講師を引き受けてくださったのは、玄玄書作院の久保田関山さんで、演題は「書の楽しむ」である。書というと、何だか読めないような字ばかりでつまらないように感じていたが話はとても面白かった。

 久保田さんは「自分を無にして、見たままを感じて欲しい」と言う。ああでもない、こうでもない、そんな先入観を捨て感じたままでいいと言うのだが、なかなかそうはいかない。それでも文字が読めなかったなら、上にあるいは横に、空間つまり白地があるのはどういう意味なのだろうと、作者の意図を考えてみる。そうすると作品の全体像が見えてくると話す。「展覧会に出かけたら、まず遠くから部屋全体を見回してみる。するとなぜか気になる作品があるはずだ」「近づいて作品を見るのではなく、額があれば額から、作品のマット、そういうものを含めて全体を見て欲しい」。

 絵画展でも、作品の一つひとつをじっくり見る方法もあるけれど、まず全体を眺め、気に入った作品から鑑賞するが、書展も同じだというわけだ。もちろん、作品の見方に作法はないし、絶対的な方法もない。自分流でいいわけだけれど、せっかく作品展に来たのだから、どの作品に心惹かれるか確かめてみるのもムダではないと思う。それにしても、わけの分からないような字を書いて、これがいいのだと見せ付けられても合点がいくものではない。作品として展示されたからには、後は鑑賞者の勝手である。

 見る側が「心惹かれるもの」はよい作品であるし、「こんなものは好きになれない」作品はつまらない作品である。世間一般の常識がどうであろうと、鑑賞者がいいと思えばそれでよい。芸術はすべてそうだと私は思うけれど、同時にまた、ちょっと解説してもらっただけで見方が全く変わることもある。つまらないと思ったものが実によく見えることだってある。子どもの頃には見向きもしなかった作品が、大人になるにしたがって好きな作品に変わることもある。自分の見方が一面的であったり、作者の意図が理解できなかったり、そうした点が年齢を重ねるとともに取り除かれる場合も生まれてくる。

 人間は何かしら現わそうとするが、それだけ人間は、人間とのつながりの中で生きているのだろう。現わす行為は、モノを造る行為と比較すれば無駄なように見える。食べるものを作ったりする方がはるかに現実的で有益だ。それでも人間は現わす行為を止めたことがない。コミュニケーションの基本となった言葉はリズムやメロディーから生まれたという説もあるそうだ。言葉よりも先に音楽があったというのは面白いが、人間は現わすことで人間となってきたのだと思う。

 さて、明日はNPO「おたすけ」の忘年会で知多へ1泊で出かけ、明後日は大和塾の忘年会である。そこで日・月曜日の2日間は休みます。
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