姉は脳の血管にいくつも小さな血栓があり、たまたまその位置が悪かったのか、意識不明になってリハビリ病院から総合病院へ2月8日に転送された。見舞いに行った時は顔面蒼白で意識はなく、いよいよ最後かと思った。手術は出来ず薬の投与だけであったが、3週間経てほぼ元の状態に回復したので、2月28日にリハビリ病院へ戻った。6日に見舞いに行くと随分とリハビリを頑張っていた。
「もうすぐ退院するでね」と言う。「うん、頑張ってね」と答えたが、ひとりでは暮らすことは出来ない。病院を出てもどこかの介護施設で世話になるわけだが、その現実を受け止めることが出来るか、心配になる。姪っ子が姉の部屋を整理していて見つけた、姉が私の誕生日のために書いた手紙を見せてくれた。姉の還暦か古稀の祝いかを行なった返礼で、「百合の花の香りが部屋いっぱいに立ちこもり色どりもきれい、すてきで見る度に幸せでした。(略)これからは人生の分別盛りにかかり、人の心を思いやる事の出来るやさしい人間に成長していける時期だと思いますので頑張って下さい」とあった。
姉はこの手紙をなぜ投函しなかったのだろう。書いたものの時期を逸してしまったのだろうか。姉とは15年も歳が違うので、私が姉を知った時は既に嫁にいった「オバサン」だった。小学生になってからはよく姉の家に遊びに行き、姉のダンナに相撲を教えてもらった。「ケンカは先手必勝だ」と教わった。「相手に考えさせる時間を与えるな」と言っていたから、予科練にでも行っていたのか、予科練に憧れていた少年だったのだろう。
何が原因なのか知らないが、私が高校生の時に離婚してしまった。私は小学生の時、子ども用の自転車に乗って、姉のダンナの実家があった碧南まで行ったことがある。昭和20年代だから舗装された道はなく、海沿いに行けば着くだろうと思って出かけた。実家には中学生の弟がいて、その子が読んでいた雑誌に差別のことが書かれていた。私はそれを読んで、強い衝撃を受けた。