ベビーシッターに預けた子どもが殺された。どうしてそんなことが起きてしまったのか、故意だったのか事故だったのか、いつか明らかにされていくのだろう。ベビーシッターの若い男についていろいろと報道され、男への反感は強まるばかりだ。同時に、「ベビーシッターに何日も子どもを預けた」と、子どもの母親に対する非難の声も上がっている。彼女がどういう人で、なぜベビーシッターを頼まなければならなかったのか、おおよその想像はできる。
母親は横浜市に住んでいる。横浜市は「待機児童ゼロ」を全国に先駆けて実現した自治体のはずだ。けれども母親は公共の施設に子どもを預けることが出来なかったのか、あるいはしなかった。保育園はどんなに朝早くても7時から、夜は遅くても9時までしか預からないだろう。夜間、働く仕事の人には頼るところがないのだ。そういう社会を創っておきながら、「夜間に子どもを預けるなんて」と非難できるだろうか。
私が議員だった時、保育園や学童保育の時間延長を提案した。実際に学童保育の現場にもお願いに回った。担当者から、「子どもたちが可哀相だと思わないのですか」と言われた。子どもが母親や父親と一緒にいることが出来る社会にすることが望ましい。けれども現実は、延長保育を必要としている人がいる。現実に対応しながら理想の社会へと近づけていくしかない。子どもを預けてまで働くという非難じみた気持ちがなくならない限り理想の社会は生まれない。
国連安全保障理事会で、ロシア大使が「独立の根拠とする住民投票はクリミアの自決権に基づいており、国連憲章に合致する」と言うと、アメリカの女性大使が「トルストイやチェーホフを超える創作だ」と皮肉り、「財産を盗んだからといって、その財産権まで盗人が得たわけではない」と批判した。ロシア大使は「屈辱だ」と応酬したが、アメリカの文豪ヘミングウェイかスタインベッグを引き合いに出してやり合って欲しかった。
非難できても現実は解決しない。目的が正しければ手段はどうでもよいと言う人がいるけれど、手段こそ重要だと思う。目的に向かう過程がいいかげんでよい結果が生まれるはずが無い。国連のアメリカ大使もロシア大使も文豪たちの作品を読んでいるのだろうか。明日は子どもたちが集まるので、ブログは休みます。