今朝、夢を見ていた。いや、考え事をしていたのかも知れない。100歳になったら、誰でも安楽死を選べる権利を与える「安楽死法」が、2030年に国会で承認されたという夢だ。安楽死を強制するものではなく、あくまでも個人が権利として選択できるという法律である。
病院であるいは焼き場で、100歳であることを証明するものを見せれば、特別な部屋に通され、薬を渡される。それを飲めばすぐに死ぬことが出来る。葬儀などを行い、直ちに火葬される。薬が他人に渡ったり、悪用されることの無いように、充分な管理が必要となる。
あくまでも安楽死を望む人のための権利の法案なので、100歳になったからと強制することは出来ない。どうしてこんな夢など見たんだろうと思った。私も来年の4月には80歳になる。どういう訳かまだ元気に生きている。先輩たちも80半ばになるが、いたって元気だ。
世の中、こうした元気な年寄りで溢れている。けれど、元気な人ばかりではない。病院のベッドで寝たっきりの人もいる。病院は治療するところなので、ある期間を過ぎると、それなりの施設に送られる。そんな施設がどんどん増えている。看護師も介護士も、高くない給料で重労働を強いられる。
100歳になったら、安楽死を選ぶ権利が与えられてもいいのではないか。そんな日頃の思いが夢になったのだろう。おかげで早起きして新聞の広告を見て、アッしまったと気付いた。昨日のブログで、「広末涼子」を「末広涼子」と書き間違えていたのだ。私の記憶などこんなものだ。
今日は甲子園大会も無く、薄い雲が被ってはいるが風も無く、そんなに暑くも無い。明日は準々決勝の4試合が行われるので、一番見応えがある。安楽死を望む年寄りの私には楽しみな一日である。
「自死遺族の集会に通ってみた時期、精神分析、育児や創作を通して自分と向き合い続けたこの10年で学んだこといろいろ。
死に正しいも正しくないも自然も不自然もない。
何かをすると決めた人間がそれを実行するのを周りがいつまでも阻止するのはほぼ不可能。
今知ってることをまだ知らなかった時を振り返って「ああしていれば」「なぜ気づかなかった」と自分を責めるのはまだ手放す準備ができていないから。
人が何を感じてどんな思いでいたか、行動の動機やその正当さなんて、本人以外にはわからない。わかりたいと思うのも、わからなくて苦しむのも他者のエゴ。「理解できないと受け入れられない」は勘違い(恋人に別れを切り出されて理由と説明をやたら要求するひと的な、一種のパニック状態)で、「受け入れる」は理解しきれない事象に対してすること。理解できないと理解すること。
人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける。
参考になるって思う人が一人でもいたら書いてよかった。みなさん良い一日を👩🏻🏫♡」
以上
人の「死に方」はいろいろで、他人が口を挟むことはできません。ただ「死」を常に意識して日々を生きることは、これからの人生を豊かにするかもしれません。
二番目の方のコメントのように
早く…と思うなら医者や病院に行かず手術もしなければ良い、と思ってしまいます。治療するってことは私もそうだけどまだ「生きたい」「人生楽しみたい」と思ってるからなんで。
将来への不安の裏返しとも言えます。
安楽死の法律なんてSFの世界じゃあるまいしできるわけない、臓器提供の意思表示の様に延命治療は一切しない意思表示ができるようになるのが精一杯。
訳のわからない理由で他人を殺傷するより、私は死にたいと選択出来る方がよっぽど良い。他人に迷惑かけずに済むし。