コロナ禍でも子どもたちは元気に遊んでいる。大声を上げ、勢いよく走り回る。きっといつの時代でも、子どもはこんな風に遊び回ってきたのだろう。小学校を卒業し、中学生になった頃から、子ども染みた振る舞いから遠ざかっていく。それが大人になるということなのだろう。
先日、中国の青年たちの現状が報道されていた。先進国の多くは学歴社会だが、中国は極端なほどの学歴社会だそうだ。みんなが平等に試験を受けて、成績の良い者が入学できるシステムだから、合格を目指してみんなが努力する。
良い大学に入れば、良い職場が待っている。生涯が決まる訳だから、自分だけでなく家族や親族までもが受験生に期待する。共産党政権の中国は、日本のバブル経済の時のように造れば儲かるから、人々は残業は当たり前で、なりふり構わず働いてGDPを引き上げている。
その中国で青年たちに「寝そべり現象」が起きているという。何も求めない。家も車も買わない。結婚もしない。消費は生きていくための最低限に止める。1日2食、体力を消耗しないように寝そべっている。そんな青年が増えてきているそうだ。
日本でも韓国でもフランスでも、多くを望まない青年が生まれた。将来に希望が見えないのだ。人は希望の無い世界では無気力になる他ない。白井聡氏の著書『武器としての「資本論」』が蘇る。「生産力を爆発的に上昇させ、かつての人類には想像すらできなかったような物質的な豊かさをもたらしながら、その只中に貧しさをつくり出す」(P282)。ぜひ、お読みください。
白井聡氏の著作はまだ読んだことがありませんので、どのような考え方で書かれたのかわかりませんが、確かに新自由主義下において、おのれの価値観や魂が枠内(資本の論理)に囚われて、そこから抜け出すことができず「将来に希望を失ってしまっている人」はたくさんいるのでしょう。そして将来に希望を見いだすことができず、悲観して自殺する若者も多いとも言われています。
昔、「三無主義」と言われた時代において「存在証明」だけは忘れずに生きてきた世代ですが、「生ききる」と言う意味から考えると何かしらもったいないような気がします。(生き方の価値観は人によって様々だと思いますが…)。
資本の論理に内包されつつも、いろいろな方法でその枠を打ち破り、「人間らしく生ききる」ことができる社会。これが将来求められる社会のあり方かなと思います。
それには今日一日を精一杯生きていくことが「希望の光」につながっていく。これからの新しい社会をつくるべく若い人たちにエールを送りたいです(大きなお世話と言われるかもしれませんが…笑)。