ディゴの花が咲き始めた。春先には新しい芽が出てくるのに、今年はいっこうに芽が出てこない。ディゴは亜熱帯の木、冬の寒さで枯れてしまったのかと思った。昨年までよく芽が吹き出していた部分を見ると枯れている。思い切って鋸で切り落として、たっぷりの水を与え、これで芽吹きがなければこの木は諦めよう、そう思っていた。いつだったかハッキリしないが、真夏のような暑さが続いた頃ではなかったか、根元の方に幾つか緑のニキビのような芽が出てきた。それが今ではこんなにも大きくなった。
沖縄に行った時、そして八重山諸島へ行った時にも、ディゴの花に出会った。いかにも南国の花らしく赤やオレンジが見事だった。我が家のディゴはどこで買ったものなのか、覚えていないけれど、沖縄に行った時に見たディゴの印象が、私に衝動的に買わせたのだと思う。我が家の一番大きな鉢で育ててきたけれど、今、写真を見ると沖縄のものとは違う気がする。我が家のディゴと同じ種類のものは、名古屋の街路樹でも見たし、近くの学校の校庭でも見かけた。つまり、我が家のディゴは路地でも生きられるはず、でも鉢を置いた場所が悪かったのかと思ったが、今年の気候のせいだったようだ。
沖縄は暖かい。寒さで震えることも、飢えることもないのかも知れない。隣近所のつながりも深いから、人も温かい。のんびりと暮らしてこられたから長寿だったのだろう。清国にも薩摩にも敬意を示し、独立を保ってきた。明治以後、日本の領土とされたために、先の大戦では島民の4人に1人が亡くなる残酷な目に遭っている。本土の人々の防波堤となったばかりか、戦後もアメリカ軍の最前戦基地が置かれている。以前のようにのんびりと暮らせないばかりか、食生活が変わって、長寿ではなくなってしまった。
人の運命には計り知れないものがある。沖縄で生まれていなかったなら、広島で生まれていなかったなら、そうではなくても、あの時、ああしなかったなら、そんな思いをすることはいくらでもある。けれどもよく考えてみればそれが人生だ。遺伝子検査でガンになる可能性が分かるという。知りたい人には知る権利があると言うけれど、そんな風に知って、治療をすることが果たしていいのかと私は思う。人には人の運命があるはずだ。運命を受け入れることも人の生き方だと思う。
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