今朝、カミさんと次女が長い間、ラインで話していた。私は傍で聞いていたが、次女の思いとカミさんが言うことが、うまくかみ合っていかないようだった。発端は私が、不用品買取業者に来訪を許したことにある。
詐欺にかかったらどうしようとの心配が、勝手に大きく膨らんで、私が酷い目に遭うのではないかという話になっていったようだ。みんなが心配してくれるのは有難いが、そんな心配になるほどボケているのかと恥ずかしくなる。
次女は「夏休みにはそちらへ行くけど、それまでにお姉ちゃんとよく話し合っておいて」とカミさんに言うのだが、「話し合っているわよ」とカミさんは答えるばかりで、長女が何を悩んでいるのか、次女が何を心配しているのか、察してはいないようだ。
私は、吉川トリコさんの『余命一年、男をかう』を思い浮べる。主人公は確かに金で男を買い、飼う。男がペットのように、自分に尽くしてくれればいい、そう思ったはずだ。男も買われたのだから、主人が気持ちよく過ごせるようにと尽くす。
人はひとりでは生きていけない。けれど、人の思いを百パーセント理解することも出来ない。一生懸命になればなるほど、微妙な食い違いが生まれてしまう。だからこそ、会話が必要なのだが、すれ違うとますます難しくなる。
娘たちは老いていく親を思うが、それぞれに生活があり家庭があるから、出来ることに限界もある。親はそれは理解しているつもりでいるが、つもりでしかないのかも知れない。まあー、なるようになっていくさと、私が思っていることが一番ダメなのかも知れない。
中学からの友だちが、「みんなで、また集まりたいねと言ってるぞ」と電話してきた。地域新聞を発行していた時に手伝ってもらった友だちが、「みんなに会いたいね」と電話をくれた。気の置けない友だちと、気を遣わないおしゃべりは楽しい。
みんな、そんな時間が欲しいのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます