朝からの雨、ぼんやりと読書で一日を過ごす。書店に入った時、気になった新書版の2冊を交互に読み始めた。島田裕巳氏の『性と宗教』と森田朗氏の『左翼商売』。島田氏は1953年、森田氏は1960年生まれだから、まだ60代の若い評論家だ。
読み始めたばかりだから軽々しいことは言えないが、島田氏は学術的であるのに対し森田氏は軽量な感じがする。宗教と性には子どもの頃から関心があったが、どんな風に結びついているのか知りたかった。
時の権力というか体制に反抗的だった私は、森田氏が書いているように、よく理解も出来なかったのに左翼知識人の著書を買い集めて積読していた。完読した本が無いからいつか分かると思っていたのだろう。
戦後の新しい時代の中、戦前の人たちと違って私たちには戸惑いが無かった。国民主権というのでみんなが投票場へ出かけて行ったことや、大企業でストライキが続行され、我が家の前の道で奥にあった重役の家を赤旗を振った人々が取り囲んで声を上げていたことは覚えている。
高校生になり生徒指導部が「生徒規則に従え」と言うので、「規則は誰が作ったのか」と聞くと、「君たちのためのものだ」と言う。なら「生徒が決めればいいではないですか」と反抗した。自分たちが納得できないのに、「君たちのため」とは理不尽だった。
民主主義はみんなで決める手立てなのに、そうでは無いことが多い。理不尽が理不尽なまま通用している。どうして変えることは出来ないのか。戦争になればみんな死ぬのに、少なくとも犠牲者が多く生まれるのに、どうして「戦力の強化」を主張するのだろう。
そんなことを考えてもどうにもならないだろうに、「左翼老人」はいつまでもこだわるのだ。いやきっと、そんな老人はもう数少ない。一日一日、生きていられれば儲けものなのだから。
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