友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ウワサ

2017年01月07日 18時38分51秒 | Weblog

 偶然は意外に起きるものだ。日赤の循環器科の受付になんとなく覚えのある男がいた。話し方で同じ街に住む昔の知り合いと分かった。相変わらず背広姿で、受付の女性にペコペコ頭を下げている。「久しぶりだねー」と声をかけると先程とは打って変わり、「正月早々、葬式続きだギャー」と言う。年末に街中で交通事故があり、2人が亡くなったが「隣りの家だ」と言う。その葬式の最中に重体だった人も亡くなり、葬儀が続いたというのだ。

 このところ立て続けに近くで交通事故死が発生している。「それだけじゃーないぜ」と人の名を挙げ、「あいつはもうアカンぜ」と捲し立てる。情報ツウというか、昔から人のウワサをよく知っていた。人の裏事情に詳しい人はどこにでもいる。人は他人の不幸が好きなのかも知れないが、テレビで大金持ちの生活を特集していたから、他人の不幸ばかりが好きなわけではないようだ。

 年末年始はテレビばかり見ていた。以前はみんながやって来たからテレビを見る余裕はなかった。だから「今年は紅白を観る」と言うカミさんに付き合った。久しぶりに紅白を観てガッカリした。全くのバラエティー番組ではないか。NHKは国民から料金を取って運営しているのに、どうして民放と同じことをする必要があるのだろう。NHKも電話や郵便と同様に、株式会社にして民営化した方がいい。

 そうすれば株を売って国家財政に寄与できる。公営放送の必要性など存在しない。もし、このまま公営を続けるなら、民放とは全く違う路線を行って欲しい。NHKはお金がジャブジャブあるから無駄な番組を作り過ぎる。新聞もテレビも人々への影響力はすこぶる大きい。ナチスの宣伝相のゲッペルスは「ウソも百回言えば真実になる」と言ったけれど、人は手を変え品を変え、同じことを何度も見聞きしていると「そうだ」と思うようになる。

 私はまた脇腹が痛むので、自分に「痛いのは幻想だ」と言い聞かせてみる。「痛いと思うのは脳であって、脇腹ではない」「脳で感じなければ脇腹に痛みはない」「人は痛みを感じなければ痛くない」‥等々。

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定期検診

2017年01月06日 18時13分02秒 | Weblog

 2.3日前から脇腹が痛む。正確に言えば、2・3週間前から右の脇腹が痛かった。昼間はあまり感じなかったけれど、就寝になると痛むのだ。それが昨夜は、左右の脇腹に加えて真ん中辺りも痛い。今日は日赤での定期検診である。カミさんは「診察の時に話したら」と言うが、そんな話ができる診察ではない。診断結果の封筒に看護師から渡され、「かかりつけの病院に出してください」と言われるだけだ。

 それでなくても循環器科はいつも混んでいて、私の前に座っていた老人は妻らしき人に「いったい何時間待たされるんだ」と怒っていた。70代の後半から80代と思うけれど、もし、私が先に呼ばれたなら代わってあげようと思っていると、呼び出しがあった。私の診察は3分もかからないが、その人が出てきたのは10分近かった。循環器科だけでなくまだ他にも診察を受けなければならない様子だった。

 もうそんなに活躍することもないし、これから先を期待されることもないだろうから、診察を待たされたところでどうってことはないはずだから、されるがままでよいではないかと、私は思う。景気が悪いのは、老人が増え、消費が伸びないからと指摘する学者がいるがその通りだろう。年金生活になってみると、ただ支出を増やさないようにするしかない。人口の多い年金生活者が消費を控えているのだから、景気が上向きにならないのは当然だ。

 昨日のニュースで、医学会が高齢者の定義を見直すべきだと提言していた。人数の多い団塊世代が75歳になるまではもっと働いてもらい、そうすることで年金の支給開始を伸ばそうという魂胆だろう。「1憶総活躍社会」は、老人も女性もみんな死ぬまで働けということ。みんなで支え合って社会は成り立ってきたのだから、社会の仕組みが変化するのは仕方がない。安らかに死を迎えられる社会であって欲しい。

 「不死」の研究が進んでいるそうだ。1%の富裕層が「不死」になったら、ますます栄華を極めるだろうが、社会の最下層で「不死」になったら、ロボットのように働くことになるのだろう。神の前で全ての人が平等でないような「不死」は、きっと別の「罠」なのかも知れない。

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ゴッホとゴーギャン

2017年01月05日 17時48分26秒 | Weblog

 県美術館で『ゴッホとゴーギャン展』を観てきた。多分、日本でふたりを比べるとゴッホの方が人気があるだろうが、私はゴッホよりもゴーギャンの方が好きだ。ゴッホが好まれるのは情熱的な画風とともに、壮絶な生き方にあるように思う。ゴッホの絵は凄いテクニックを駆使したものではないから、自分でも描けそうな、そんなところが人気なのかも知れない。小学生に無料券が配られているようで、たくさんの子どもたちが来ていた。

 写真が生まれる前、絵は記録の意味があったから写実的で職人の仕事だった。社会の変化、王制が打倒され市民が生活を楽しむようになると、絵の果たす役割も変わった。徒弟制度の職人ではなく、個人が好きで絵を描くようになったのは、素人の絵が売れるようになったからだ。ゴッホもゴーギャンもそんな時代、19世紀の後半の人だ。

 ゴッホは理想家というより夢想家だと思う。新しい時代の中で芸術家たちの共同生活を目指した。南仏の美しい街で芸術論を交わし、作品について批評し合い、切磋琢磨していく、そんな理想郷をゴッホは夢見ていた。巨人軍の王選手は長嶋選手に憧れていたそうだが、「試合が終わっても一緒にいる」気はなく、「早く解放されたい」と思っていたと言う。どんなに立派な相手でも四六時中縛られるのでは息が詰まるだろう。ゴーギャンが共同生活の解消を提案すると、ゴッホは自らの左耳を切り落とした。

 夫婦でも求め過ぎれば負担になる。相手を自分の理想の形に押し込めようとすれば逃げたくなる。社交的なカミさんと無口なダンナの夫婦がいる。カミさんは知人も多くいろんな付き合いにダンナを引っ張り出している。ダンナのエライところは、カミさんに逆らわないが決して自分を見失わない、自分の価値観や生き方を持っているところだ。この夫婦を見ていると、「なるほど」と思えてくる。

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おみくじ

2017年01月04日 18時06分37秒 | Weblog

 生まれて初めて『おみくじ』を引いた。第70番、末吉だった。「どうも周囲の人たちと波長が合わず苛立つ気分の日々が続く運気です。ここで積極的な動きに出ても、かえって後悔を残す結果を招くだけ。自我をできるだけ抑えて、周囲の動きに合わせることが必要です。当分は『事なかれ主義』を守り、身の周りの平和を大切にすれば活路が開けます」とあった。

 神様は私のことを本当によくご存じで、私が気になっていることをずばりと言い当て、どうすべきかも教示してくださった。私としては常に気配りしているつもりだったのに、時々、我田引水というか、唯我独尊というか、思わず知らず自分の考えを押し付けてしまっているようだ。長女が私を指して、「あの人は確信犯だから、言っても無駄」とダンナと言い合っている。

 傍若無人であったり、自己中心であったり、そんなことのないように心配りしているつもりだったが、『おみくじ』を通して神様は諫めてくださった。昨日は、我が家に私の親族が集まって新年会だった。最初のご挨拶はするけれど、あとはしゃしゃり出ず、できるだけ皆さんに気持ちよく過ごしてもらうように努めた。この宴会で一番しゃべるのは私の妹のダンナで、昨日も彼が一番座を盛り上げてくれた。

 彼からすれば、私は恵まれた家庭で育ちながら身勝手な生き方をしてカミさんに厄介になっている男に見えるようで、「カミさんに感謝してるの?」と言う。姉の娘が「あんたも感謝しなきゃ―」とチャチャを入れると、「私はズ~と感謝しとる」と言い、夫婦の存在や相手への接し方が話題になった。求め過ぎれば負担になるし、求めなければ疎遠になる。その微妙さは夫婦にしか計れない。

 元日から穏やかで温かな日が続いている。友だちから、「ブログが更新されていないからどうしたのかなと思っていた」と言われた。元日に年賀状を載せた時に、「2日と3日は休みます」と書かなかったためだ。また、「年賀状を頂いたけど、何も書いてなかった」と書いた年賀状が届いた。ひとり一人書いたつもりだったのに、ボケてる。そんな間抜けですが、今年もよろしくお付き合いください。コメント、お待ちしています。

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明けましておめでとうございます

2017年01月01日 00時01分24秒 | Weblog

 

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。これが今年の年賀状です。

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