友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

衣食は足りても礼節を知るには至らないようだ

2021年01月21日 17時08分49秒 | Weblog

 96歳の女性からバレンタインチョコレートが届いた。事前に電話があり、「1つの箱の中に、2つずつ入っているから、一緒に来たお友だちのところへ届けて」と言うので、今朝、彼女のところへ持って行った。仕事の無い私たちは巣ごもり生活だから、人に会えるとつい長話になってしまう。

 96歳の女性も、亡くなった叔母も、終戦を迎えた時は20歳前後で、良妻賢母の指針が吹っ飛んでしまい、着るものもそうだが、全く新しい時代に放り込まれ、「モダンガール」になってしまった。明治生まれの私の母親とは比べものにならない、自由な価値観を自然と身につけていった。ちょっと気取ってスカートをはき、ハイヒールで街を歩くようになった。

 家に籠って家事や育児にいそしむ女性は多かっただろうが、中には進んで働く女となり、カフェに出入りするようにもなった。電電公社に勤めた96歳の女性も、「栄で知らない人がいない」と言われるような女性だった。「女が外で働く」ことに抵抗があった男たちも、収入が増えたから喜んだことだろう。

 時代はいつも、何かを分岐点に変わっていく。世界一の国だったアメリカも、今は衰退の途にある。生産品が売れなければ、利益は出ない。品物は溢れているし、品物自体が変わってきた。トランプさんを支持した人たちは、働けなくなった白人労働者が多いという。景気がよくなれば働く場が確保されるという思いが、熱烈なトランプ支持になっているようだ。

 昔の人は、「衣食足りて礼節を知る」と言ったが、衣食は満たされていてもなかなか礼節を知るには至らないみたいだ。目先の損得ばかりに囚われていては、人の融和は生まれない。バイデン政権がどんな歩みをするのか見守りたい。

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みんな老けたなあー

2021年01月20日 17時12分02秒 | Weblog

 このところ葬儀が続いたからか、「死」について考えてみた。生きていれば、嫌なこともあるが楽しいこともある。けれど、「死」は「無」でしかない。葬儀の時は、故人についていろいろ思い起こすのに、しばらくすれば忘れてしまう。故人はもう存在しなくなる。

 叔母の葬儀に参列して、亡くなった日が誕生日の1日前だったので、従妹は「もう1日生きてくれたら、93歳の誕生日を祝えたのに」と言う。可愛い曾孫が3人、会葬者にひょっこんと頭を下げていたから、家庭の中もほんわかと暖かかったことだろう。

 叔母は信心深くて、曹洞宗本山の永平寺で5日間の「修行」に参加したそうだ。会場には全国の寺を回って集めた御朱印帳も並べられていた。婦人会だけでなく、俳句の会にも所属して句集も出していた。祖父は文芸に興味など無い人だと思うが、祖母は映画や歌舞伎が好きだったから、父も叔母も祖母の血を受けていたのかも知れない。

 葬儀の参列者で分かる人は、もうひとりの叔母の子である従妹弟のふたりしかいなかった。亡くなった叔母の子どもたちやその配偶者とその親族、叔母が所属していた俳句の会の人、役職の人などが多かった。歳を重ねるということは、そういうことなのだとよく解った。

 従妹が「もっといいことで会いたいね」と言う。もう、そんな機会は無いだろう。「ボクは子どもたちに『葬儀はしなくていい』と言ってある。ハガキは送るから、そう思っていて」と笑って言う。久しぶりに会った従妹弟たちを見間違うことは無かったが、その老けようにビックリした。と言うことは、あの子たちも私を見てそう思っているのか。

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従妹弟たちに会えるが、分かるか不安

2021年01月18日 16時25分17秒 | Weblog

 昨日、従妹から電話があった。あの子の声を聞いたのは、何十年ぶりだろう。我が家は材木屋で、父には3人の妹がいた。電話は2番目の妹の娘で、1番下の叔母が亡くなったという知らせだった。正月前の餅つきは我が家の倉庫で行われ、叔母たちも総出で手伝ったりしていた。

 盆と正月は叔母や叔父らが我が家に集まり、酒を酌み交わしていた。子どもたちも集まって来るから、私がその面倒をみていた。電話をかけてきたあの子は、我が家に来た時、私と一緒に風呂に入ると言い出して祖母を困らせた。

 小学校を卒業した頃からか、祖母が亡くなった時からか、覚えが無いが従妹弟たちが我が家に来ることは無くなった。それぞれが大きくなるにつれ、音信も途絶えてしまった。亡くなった叔母さんのところの娘は、私と同じ中学校だったが学年は離れていたので全く知らなかった。

 私が高校生の時か、大学生になっていたか忘れたが、中学の担任が従妹の名前を挙げて、「あの子は中学校一の美人だ」と褒めてくれた。叔母の嫁ぎ先は病院だったが、叔父は市役所に勤めていた。墓じまいの時に、叔母の家を訪ねたが病院は無かった。

 叔母は市の婦人会の会長を務めたこともあったから、意外に積極的な女性だったのかも知れない。全く突然の死だったようだ。明日の夜は通夜式で、告別式は明後日に行われる。久しぶりにというか、65年ぶりくらいに従妹弟たちに会えるが、分かるだろうかと不安だ。

 いつの間にか私は、我が家の男性の中で一番長生きになってしまった。こんな巡り合わせになるとは不思議な気がする。明日はブログを休みます。

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小5の孫娘は「星座図鑑が欲しい」

2021年01月17日 17時09分42秒 | Weblog

 小5の孫娘からカミさんのところに、「星座図鑑が欲しい」と写真付きでメールが送られてきた。「じゃー今から本屋へ行こう」と誘うが、「アマゾンで買って欲しいみたい」と同意しない。星座図鑑ならどれでも同じだと思うけれど、「指定してきたのだから」と上の孫娘に、「アマゾンで買ってやって」と連絡していた。

 せっかく外へ出られる機会だったのに、またしても今日も一日家に缶詰だ。カミさんは毎日コロナ報道をチェックしている。ニュースが無い時間は、貯めてあった録画を再生して観ている。あんなに毎日、感染者数を見ていて気分は落ち込まないのだろうか。新聞の市町村別の感染者数を見ていて、「どこどこよりウチの市は5人も増えた」と嘆いている。

 それにしてもマンガばかり見ていると思っていた小5の孫娘が、図鑑が欲しいとはかなりの成長だと勝手に思い込む。「クラスで『赤毛のアン』が流行っている」と言っていたから、NHKのDVDを通販で買って持って行ったが、あのDVDは観たのだろうか。子どもの頃に興味を抱いたものは、案外続くと思うので何でも与えたい。

 長女がまだ4歳か5歳の頃、友だちがピアノを習い始めたので、「私も習う」と言い出した。団地住まいだったからピアノを置く場所が無い。私はヴァイオリンが弾きたかったこともあり、娘に「ヴァイオリンは誰もやっていないから格好いいぞ」と話した。けれど、自分が教えられないのに、「やりなさい」と強要するのは無理があった。それでも娘たちは嫌々ながらでも高校生まで続けてくれたから、親孝行なのかも知れない。

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1月生まれは美人が多い

2021年01月16日 17時14分10秒 | Weblog

 緊急事態宣言から1週間、コロナ感染者はなかなか減っていかない。『特ダネ』のキャスターが、「いったい私たちは何を伝えているのだろうか?」と自問していた。「何を決めても従わない人が10%はいる」と慰める人いる。強い規制を求める人がいれば、反対する人もいる。

 「エホバの証人」の人が、「神の王国が近づいている」と言う。永遠の命など私は欲しくないし、正義しか存在しない社会は息苦しい気がする。死の近いことを感じた老人が、最後の恋がしたいとか、最後に女の裸が見たいとか、そういう不純が残っている方がいい。

 三島由紀夫は身長が165センチほどだったという。レーニンも同じくらいだった。小男ながら演説が上手かった。それに、仲間内で論争するとレーニンに勝てる相手はいなかった。品のいい言い方というより、口汚く罵倒したらしい。レーニンには同志の妻と、同志の愛人がいた。

 組織の頂点に立つと、その地位を維持するために努力をするのは人の常だ。連合赤軍の事件でも、殺害されていったのは底辺の人たちだ。働きに出かける人は非難されないが、午後8時以降も飲食店を開いている人は非難される。コロナ太りになっても家に居るのは良くて、ジムなどに出かけるのは後ろめたい。

 1月生まれは美人が多いと言えば、「統計が出ているのか?」と切り返す。私が愛した人が1月生まれだからだが、それでは「エビデンスが無いことを言うな」となる。情緒が無いというか、ユーモアに欠けるというか、乾燥しきった冬の空気が支配している。バカなことを言って大笑いして、いや、それよりも年寄りは、真剣に最後の恋に身を焦がす方が良いのかも知れない。

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おみくじを引いたら大吉だった

2021年01月15日 17時30分02秒 | Weblog

 コロナ禍で初詣に行くことを躊躇していた。神社へお参りに行くのは、信仰心というより、行わないと落ち着かない行事なのだ。小正月までには行こうと思っていたので、午後からカミさんと国府宮神社へ出かけた。午後にお参りするような不届きな人はいないだろうと思っていたが、行ってみたら意外に人が多い。

 古いお札を返して、拝殿に手を合わせる。国府宮神社では2月の裸祭りに向けた準備をしていた。裸祭りは中止だが、神事を止めることは出来ないからだろう。コロナ禍であらゆるものが中止になった。私たちの街の同じ歳生まれの集まりもどうするか、検討しなくてはならないが、そもそもそうした場を持つことが難しくなっている。

 どこかの宮司が「初詣はいつまでにすればよいか」と問われ、「年内であれば、初めてのお参りが初詣ですから」と答えていたが、なるほどだ。コロナが急速に収まることは無いだろうから、どう判断するかは各自ということなのだ。政府も知事や市長も、繰り返し「大変な時期」と述べるばかりで、何をどうするかは1人ひとりが判断してと言っている。

 緊急事態宣言が遅いとか、菅首相は発信力がないとか、人は他人のことにはとてもウルサイ。国民民主党にいたっては、「罰則を設けて取り締まれ」と主張している。不安や不満が、強いリーダと強い縛りを求めている。1人ひとりが気を付ける以外無いのに、どうしてそんなに「みんなで」と強調するのか。みんな一緒なら怖くないとでも思っているのだろうか。

 おみくじを引いたら大吉だった。「事は順序よく運んでいく。大きな希望がかなう時」とある。神様、本当にありがとうございます。バンザーイ!!

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曾孫の笑顔がとっても可愛い

2021年01月14日 17時52分51秒 | Weblog

 孫娘が10月25日に生んだ曾孫を連れて遊びに来た。1カ月ほど実家にいて帰る時に比べると随分と大きくなっている。我が家は女の子ばかりだったから、曾孫が男の子で嬉しいのに、どう扱ったらよいのか戸惑ってしまう。

 ところが家に迎え入れてみると、心配など全く無用だった。孫娘はすっかりお母さんになっていた。孫娘は小さい時からマンションの向かいの部屋で暮らしていた。母親が看護師だから夜勤もあり、昼間の時間は我が家で過ごすことが多かった。中学の頃、私ひとりでは入れないモスバーガーへ孫娘を誘って出かけていた。

 孫娘は母親の姿を見ていたから、「看護師にはなりたくない」と言っていたのに、いつの間にか母親と同じ道へ進んでいた。子ども好きだから小児科は合っているが、今日の曾孫の抱き方を見ていても堂々たるものだ。

 私が曾孫に話し掛けたり、抱っこしてやると、どういう訳かよく笑う。まだ、どこまで分かっているのか知らないが、余りにも嬉しそうな表情をするので、カミさんが「あなたの声がいいのかな。次女のところの娘も、あなたに抱かれるとよく笑ったものね」と嫉妬する。

 孫娘はジジババの家が、実家とも違ってくつろげるのか、よく話し、よく笑い、リラックスできたようだ。気を遣わなくてもいい場所があることで、一息出来たのだろう。私たちにとっても、曾孫の笑顔は宝物を与えられたようだった。私は土産と孫娘の大きなカバンを持って、駐車場まで送って行った。

 今度はいつ会えるのだろう。子育ての時は全く余裕が無かったが、孫の時はちょっと客観的にみられるようになった。曾孫は更に、私たちの方が癒される。こうして人間は順繰りに子育てをしてきたのだろう。風邪引かすなよ!

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96歳の女性を訪ねて

2021年01月13日 18時37分14秒 | Weblog

 気になっていた96歳の女性の家に行って来た。ひとりでは手に負えないし、カミさんは仕事で行けないというので、一番助けになる友だちと一緒に出掛けた。会ってみたら元気そうだったが、普通に歩けないようでしんどい様子だった。けれど、口はすこぶる達者で、2時に伺ったのに帰りは5時だった。

 何がそんなに話すことがあるのかと思うほど、次から次へと豊富な話題で喋り捲る。しっかり聞いていれば脈絡が違うのではと思えるかも知れないが、そんな疑問を挟む余地など全くない。自分の祖父の話から父親と母親が出会った話など、延々と続く歴史にただ感心するばかりだ。よく覚えていると思うくらい昔話が続くかと思うと、現代に戻り、話題の人の一部始終になっていく。

 大正13年生まれだが、話が堂々巡りの時もあるけれど、昔のことはよく覚えていて分析も明確だ。私が最初に出会ったのは地域新聞を始めた時で、お店のカミさんを紹介する『奥さん、こんにちは』の第1号に登場してもらった。1985年の創刊だから彼女は61歳だったが、余り変わった感じはしなかった。むしろ溌溂としてきれいになっている。

 一緒に訪ねてくれた友だちがこの時、インタビューして記事を書いてくれたのだから、本当に長い付き合いだ。いつも彼女には助けてもらってばかりで申し訳ない。私と付き合ったことからすっかり地域に根づき、地域にとって必要な人になっている。彼女の性格や感覚、知識や判断が、行政には貴重なのだと思う。

 コロナ禍でこの地域も緊急事態宣言に組み込まれた。これからどうなっていくのかさっぱり分からないけれど、新しい時代に突入しているのだろう。社会のシステムや価値観が大きく変わっていくだろう。エホバの証人の人も、金を寄付したいと電話してくる人も、「世の末」を口にする。確かにそうなることだろうが、だから何?と私は思ってしまう。

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卒業生がふたり遊びに来てくれた

2021年01月12日 17時09分44秒 | Weblog

 昭和46年の卒業生が2人、昼から遊びに来てくれた。ふたりとも命に係わる病気をしている。ひとりは消防団の活動の後、急に頭がフラッとしたことは覚えているが、次に気が付いた時は病院のベッドにいたそうだ。脳出血で後遺症は残るが、いたって元気でリハビリのためにボウリングに精を出している。「緊急事態宣言になるとボウリングが出来ない」と零す。

 もうひとりは昨年夏に、右目に血液が流れない病気になり失明した。彼とは縁が深く、私が高校の教師になった年に入学した生徒だが、馴染めずに留年したので、初めてクラス担任となった私のクラスの生徒となった。私が意識した訳でもなかったのに、気が合ったのか、仲良しになった。私と年齢が近いこともあり、彼にとっては兄貴みたいだったのだろう。

 私が下宿していたアパートに、私よりも先に帰っていて、書棚の本を読んでいた。私も彼の家に遊びに行き、彼が集めたマンガを見せてもらった。結婚した時は仲人を、新婚の富士裾野市の会社の社宅へ家族4人で押し掛けたり、彼の友だちが持っていた信州のペンションへも招待されて出かけた。私の娘たちは、卒業生というより、年下の友だちだと思っていたのかも知れない。

 そんな彼が今、高校時代から会社員となり、独立して頑張った体験などを思い出して書いていると言う。「パソコンで?」と聞くと、「レポート用紙」と答える。原稿を知人にコピーして送ったところ、「読めん」と返事が来たとも話す。彼の字は決してきれいではないから、「そりゃー読めんだろう。パソコンは修正も効くし、どこから書いても保存も出来るぞ」と言ってしまってから、目が片方見えないから打つのは大変だと気付いた。

 「原稿をパソコンで打ってくれる人を見つけないとな」と言うと、「女子大生でいい子がいたんだけど」と答える。ひとり暮らしの老人と付き合ってくれる女性が見つかりますようにと祈る。きっと彼の生きる力にもなってくれるはずだ。

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死ぬまでと決まっている

2021年01月11日 17時07分33秒 | Weblog

 三島由紀夫が割腹自殺を遂げたのは長女が生まれた年で、日に日に成長する様子を愉しんでいたので、多くのニュースの1つでしかなかった。大人がまるで軍服を着て、ごっこ遊びをしているとしか思えなかった。彼が何をしたかったのか、どうしてそうなったのか、考えることもなかった。

 むしろ東大をはじめとする、全国の大学で起きていた全共闘運動が、何を切り拓くのかに関心があった。警察官だった義父がテレビの山本義隆を見て、「こいつは本物だな」と言っていたことをよく覚えている。しかし、全共闘運動は内ゲバを繰り返し終息していった。

 三島由紀夫はなぜ東大全共闘との討論の場に出向いたのか、そこで何がやり取りされたのか、ドキュメンタリー映画を観たいと思う。昨年は没後50年ということで、三島由紀夫の文字が新聞や雑誌に溢れていた。『芸術新潮』12月号は、「21世紀のための三島由紀夫入門」だった。『金閣寺』と『仮面の告白』を読んでみたい衝動に駆られた。

 『金閣寺』を読んでみると、文章の難解さや読めない漢字に悩まされたが、どういう訳かどんどん読めた。けれど、4日のブログにも書いたが、引き込まれていくので怖くなって中断し、一息置かないと進めなかった。主人公の狂気が自分に乗り移ってくるというか、ひょっとしたら自分も彼と同じ体質ではないかと不安になった。

 こんな歳になって、青年と同じように、現実と理想、正気と狂気、清貧と欲望、そんな矛盾に振り回されるとは思わなかった。老人になれば、泰然自若とした確固たる信念に辿り着けると思っていた。神はいつまで試練を与えるのだろう。「死ぬまでと決まっているじゃーないか」と先輩に叱られそうだ。

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