風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

薄れゆくコロナな世界

2023-12-02 09:55:14 | 日々の生活

 一昨日、忘れた頃に、新型コロナ・ワクチンを接種した。自治体がしっかり記録管理してくれていて、もう6回目になるのかと思うと感慨深い。会社の同僚と、無料の案内が来るから、なんとなく受ける状況だと話して、笑いあった。無料ではなくなるときが、コロナな世界の打ち止めなのであろうか・・・。

 最初の5回はなんとなくファイザーで、今回はなんとなく初めてモデルナを打ったら、一日半経ってもまだ上腕部で鈍痛がして、肩を上げ下げするのに難儀する。所謂「モデルナ・アーム」である。一般には接種してから二日後にかけて痛みや発熱などを覚える人が多いらしく、ファイザーと同様、若い人ほど症状が出やすいと言われるので、まあその限りでは人並みに反応してくれてホッとするが、発熱や倦怠感がないことにはやや複雑な心境である(笑)。

 コロナ4年目に入って、朝晩の通勤電車内など混み合うところでこそマスクをするが、そういう人は4割以下、3割程度だろうか。もはやマジョリティではなくなった。オフィスを含めて他ではマスクをしない。最初の頃こそ解放感があったが、当たり前の日常に戻っただけで、マスクを持たずにうっかり外出することが多いし、電車の中でも周囲にマスクをする人に気づいておもむろにマスクを取り出すことが多い。

 振り返れば、コロナ以前には、当たり前の日常をこれほど愛おしく思うことはなかったし、衛生なるものをこれほど気に懸けることもなかったが、そのほろ苦い記憶も薄れつつある。完全巣籠り状態だったのは、当初の二年間だけだったことになる。ただ、人生のどのステージでその二年間を過ごすことになったか、友達との触れあいが楽しい学生時代や、受験や就職活動のような節目など、人によっては小さくない影響があったことだろう。昔話として笑って話せるときが来るとよいと思う。

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中国は国家か?

2023-11-25 20:04:37 | 日々の生活

 今日、久しぶりに神田の古書店街をぶらついて、矢野仁一さん(京都帝国大学名誉教授、1970年没)の本を見つけて衝動買いしてしまった。『大東亜史の構想』(昭和19年、目黒書店)という晩年の作品で、我ながらマニアックで呆れてしまう。

 矢野仁一さんは、かねて『近代支那論』(大正13年、弘文堂書房)で、中国に国境の観念はない、つまり国力が伸長すれば国境も伸長すると主張されて、政治地理学の祖とされるフリードリヒ・ラッツェル(1844~1904年)に近い考えを提示されていて、気になっていた。それが一種の勢力圏の考え方であり、ロシアを見てもわかるように、大陸国家のメンタリティなのだろう。

 あらためてWikipediaで「矢野仁一」を調べてみると、「中国近現代史研究の先駆者の一人であり、戦時期には『中国非国論』を主張して満州国建国を擁護する論陣を張った」とある。なんと大胆なことを・・・とリベラルなことを言う勿れ。中国二千年の歴史を振り返れば、果たして中国は「国」なのか?「地域」なのか?疑問である。近代国民国家の概念を当て嵌めれば、明らかに「国」が継続して来たとは言えず、むしろ「非国」と言われて腑に落ちる。例えば、モンゴル人や満州人が中華の地に「国」を樹立して、それぞれ元朝や清朝を名乗ったのに、日本人が今の華北の地に満州国を樹立して何が違うというのだろうか? 時代が違えば、それが悪いわけではあるまい。勿論、リットン調査団は周知の通りで、彼らはその時の中華民国を(どんなに分裂して国の体を成していなかったにしても)カタチの上で国民党政府の「国」と見做したことだろう。さらに中国共産党は、中華民国の五族共和や満州国の五族協和を真似て、五十五の民族からなる帝国だと強弁し、そうすることで二千年の歴史を遡って中国という「国」がさも連綿と続いて来たかのように装う。しかし学術的には「中国非国論」は十分に成り立ち得る。

 以前、やはり神田の古書店街で、『英国の観た日支関係』(昭和13年、清和書店)という古書を衝動買いして読んだことがある。これは当時のロンドン王室国際問題研究所のレポートを邦訳したもので、私には馴染みのない歴史だったことに些か驚かされた。と言うのは、日支関係が「国民党」と日本の関係だったからだ。今、私たちに馴染みのある戦前・戦中の日支関係は、中国共産党に忖度し、その歴史(正史)を受け容れて、「共産党」と日本の関係に置き換わってしまった。「抗日戦に勝利した」という中国共産党の美しい建国物語が綴られるが、史実は、日本と正面で戦っていたのは飽くまで国民党であって共産党ではなく、共産党は国民党の影に隠れて体力を温存し、日本との戦いで疲弊した国民党が国共内戦に敗れて共産党の世になったのだった。

 もしこのまま台湾が独立してしまうと、国民党政府は中国という国の歴史にならず、結果、中国の歴史は1949年以来74年しかないことになってしまう(国民党政府を含めても1912年から111年にしかならないが)。

 こんなマニアックなことを中国本土でやると、数年前の北海道大学教授のように、今では「反スパイ法」で、確実に拘束されてしまいそうだ。くわばら、くわばら・・・。

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遅れて来た11月

2023-11-13 00:20:41 | 日々の生活

 昨日あたりから冬型の気圧配置によって一気に冷え、慣れない身体に寒さが沁みる辛い週末となった。ようやく遅い11月の到来といった感じだ。昨年までは、11月の声を聞けば、ビジネス・スーツの衣替えをするのが常だったが、今年は二週間近く、夏服のままで過ごし、朝夕の通勤客の中には、ちらほら上着なしの若者もいるほどだった。

 今年は記録的な暑さで、国連事務総長が「地球温暖化の時代は終わり、『地球沸騰化』の時代が到来した(The era of global boiling has arrived.)」と警鐘を鳴らしたことが話題になった。何を大袈裟な、と言おうものなら、きっと欧米の環境活動家から面罵されるのだろう。私はそこに、環境を言いながら人間中心主義的なニオイを嗅ぎ取って、つい胡散臭く思ってしまう。私たち日本人はただ自然を畏敬するが、西洋人にとって自然は神が造ったものであり、その神が死んだと言う人も現れて(言わずと知れたニーチェだ)、その神を人間が引き継いだかのように「神-人間ライン」と自然を対置し、自然を観察対象とするだけでなく介入・征服する対象と見做してさんざん弄んで来て、今頃になって自然が破壊されているとは、昔も今もキリスト教的(ひいてはユダヤ教的)な「神-人間ライン」の相も変らぬ傲慢さが垣間見えて、イカガワシク思うのだ。勿論、地球環境保全に吝かではないし、CO2濃度の上昇が地球温暖化に影響するという予測モデルがノーベル賞を獲るくらいだから、関連がないとは言わないが、地球はそこまでヤワなのか(太陽の影響だってあるだろうに)と拗ねてみたくなるし、自然とともにあった日本人が今、環境後進国などと、西洋人には言われたくないが、まあそれは余談である。

 そんな発言があった7月は特に暑かったようで、過去12万年で最も暑い月だった可能性があるようだ(BBC 11月10日付)。世界各地で高温や山火事などの異常気象・災害が続き、私も小さい話ではあるが、帰宅後に窓を開け放てばエアコンの世話にならなくて済んで来たのに、この夏はたまらず数日だけ生まれて初めて(!)エアコンで部屋を冷やしてから寝入るハメになった。実際に東京都心では「猛暑日」(最高気温35度以上)22回、「真夏日」(同30度以上)90回を観測し、どちらも過去最多だったと、日経・春秋が書いた(10月31日付)。その時点で「夏日」(同25度以上)140回は、最多だった昨年に並んでいたが、11月に入ってからも小春日和ならぬ小夏日和!?があって、過去最多となった。先週火曜日には、東京都心の気温は27.5度と、11月の最高気温を100年ぶりに更新する暑さを記録し、朝、駅まで歩くと汗ばむほどだった。

 こうして「夏日」は実に3月から11月まで(断続的にではあるが)続いたことになる。本来、寒い冬と暑い夏を両極端として、その間の移行期間を春や秋と称して、一年をほぼ四等分して、季節の移り変わりを楽しんで来たが、夏がやたらと長くなり、春と秋が短くなって行くような感覚だ・・・などと、人間は悠長なことを言っていられるが、魚はそうは行かない。温度上昇の影響は、恒温動物のヒトより変温動物の魚の方が5~7倍は大きいと言われ、ヒトはアラスカでも赤道直下でも生活するが、魚は生息できる温度帯が限られ、旬がずれて、全国で地魚が変調を来していると、同じ日の日経(迫真・荒波に向かう漁業)は書いた。

 11月は旧暦そのままに「霜月」などと呼ばれるのは、大袈裟ではなく旧暦が一ヶ月ほど先行していた(すなわち新暦で言う12月頃だった)からで、他にも、(10月=「神無月」に出雲大社に出掛けて不在だった)日本各地の八百万の神々が戻って来る「神来月」「神帰月」(かみきづき)、神様に歌や舞を奉納する「神楽月」(かぐらづき)、「雪待月」(ゆきまちつき)などと呼ばれ、「霜月」も「しもつき」ではなく「そうげつ」と読んで、霜と月の光の情緒を表す呼び方もあるようだ。日本人は実に風雅な日本語で表現豊かに季節の変化や気候を語って来た。いつまでも日本人らしく悠長なことを言い続けたい(そして旬の魚を楽しみたい)ものだと心から思う。

 

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夏の終わりに

2023-09-10 21:46:07 | 日々の生活

 台風一過で、やや暑さが戻ったが、朝晩はもうすっかり秋の気配だ。夏も終わりである。

 夏と言えば、海や山で楽しく遊んだ記憶が(今ではそんな意欲はさして湧かないが 笑)蘇るが、もう一つ、私の妄想が勝手に思い描く心象風景がある。昭和20年8月15日、セミの鳴き声が喧しかったであろう、それだけに松尾芭蕉じゃないけれど静寂さが際立ち、厳粛な「敗戦」の現実を、玉音放送という史上初めて聞く天皇陛下の声を通して受け止めざるを得なかった日のことだ。当時はまだその年末に始まるGHQのラジオ放送を通じた歴史教育による洗脳や、勝者が敗者を一方的に裁くという極東軍事裁判によりナチス・ドイツに準じて日本の軍国主義が否定されるという一種の茶番を知らない、敗戦直後の人たちだ。文字通りの総力戦が終わったという脱力感や開放感があったであろうことは想像に難くないが、その実相は戦後の私たちの想像を遥かに超えている。今に続く戦後日本人の原点である。

 昨年、たまたまブックオフで小野田寛郎・元少尉の『たった一人の30年戦争』(東京新聞)を見つけて、この夏、もう一度、読み返した。日本の敗戦を信じないで30年間、フィリピン・ルバング島で「残置諜者」の任務を黙々とこなし、昭和49年3月、かつての上司の投降命令を口達で受けて、ようやく投降された。「一人ぼっちの・・・」は誇大広告で、昭和47年10月までは戦友の一等兵が(更に言うと、昭和29年5月までもう一人、伍長が)一緒だったのだが、いずれにしてもその苛烈さは、陸軍中野学校のお陰なのか、戦前の教育のせいなのか、本人の資質なのか。帰還後、一年足らずで日本を逃げ出し(とは、ご本人が嫌う言い回しだろうが)、ブラジルに移住されたのは、戦後社会への違和感だったのか。この本を読むと、戦後の平和の中で私たちが見失ったものがあるとすればそれは何なのか、思い当たれるような気がして、つい訪ねてみたくなるのである。

 最も有名なのは、広島・平和記念公園での次のやりとりであろう(同書P14)。

 

(引用はじめ) 同行の陸軍中野学校同期生と無言で公園を歩いた。慰霊碑があった。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」 私は戦友に聞いた。「これはアメリカが書いたものか?」「いや、日本だ」「ウラの意味があるのか?負けるような戦争は二度としないというような・・・」 戦友は黙って首を横に振った。日本は昭和二十年、米英など連合国の前に屈服した。しかし私はいま、人間の誇りまで忘れて経済大国に復興した日本に無条件降伏させられているのだ――と感じた。(引用おわり)

 

 帰国を果たして、そのまま羽田東急ホテルで行われた記者会見では、さながら浦島太郎を取り囲んで寄ってたかって珍しがるジャーナリズムの愚かしさと滑稽さが手に取るようであり、まるで絵に描いたようなチグハグさが微笑ましい(同書P194-196、東京新聞の昭和49年3月13日付朝刊記事がそのまま引用されている)。

 

(引用はじめ) 

――三十年ぶりに故国の土を踏み、肉親と対面した心境は。

 「やはり自然の山や川の姿は、他国のフィリピンと変わりがないように思われますが、皆様方の住んでおられることを脳裏に思い浮かべますと、見えたところから、すぐ降りて行って土を踏みたい気持ちであります」

――人生の最も貴重な時期である三十年間をジャングルの中で暮らしたことについて。

 「(質問者を凝視して暫く考えたあと)若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」

――三十年間、心で思い続けて来たことは。

 「任務の完遂すること以外にはありません」

――両親について考えたことはなかったか。

 「出掛ける時、両親には諦めてもらっていたので、そんなことは考えませんでした」

――日本の敗戦をいつ頃知ったか。また元上官の谷口さんから停戦命令を聞いたときの心境は。

 「敗戦については少佐殿から命令を口達されて初めて確認しました。心境はなんとも言いようのない・・・。(うつむき加減で、力なく言葉が途切れかけたが、再び顔をキッとあげると)新聞などで予備知識を得て、日本が富める国になり、立派なお国になった、その喜びさえあれば戦さの勝敗は問題外です」

――小塚さん(一等兵)の死で山を下りる心境になりましたか。

 「むしろ逆の方向です(ムッとした表情)。復讐心の方が大きくなりました。二十七、八年も一緒にいたのに、“露よりもろき人の身は”と言うものの、倒れたときの悔しさと言ったらありませんよ(唇を震わせ、絶句)。男の性質、本性と申しますか、自然の感情として誰だって復讐心の方が大きくなるんじゃないですか」(引用おわり)

 

 私たちは、勝てそうにない戦争をなぜ仕掛けた!?と教え込まれているが、次のようなくだりもある(同書P36)。三十年という年月をものともしなかった所以であろうか。洗脳と呼ぶのは簡単だが、狂気の中とは言え、京都学派の哲学科の教授たちだって、いったん始まった以上は国民として協力し、「共栄圏の論理」「世界史の哲学」を真面目に論じる真摯さがあったことを忘れることが出来ない。

 

(引用はじめ) 私は陸軍中野学校で「大東亜共栄圏完成には百年戦争が必要だ」と教え込まれてきた。陸軍参謀本部内の一部には開戦当初から「これは勝てる戦争ではない」という見方もあった。勝てない戦争なら、負けないように戦えばいい。アメリカは民主主義の国だ。戦争がいつ果てるともない泥沼状態と化し、兵が死に、国民生活が疲弊すれば、アメリカ世論は反戦、厭戦に傾く。日本はそれを計算し、降伏でなく条件講和に持ち込む戦略だ、と考えていた。(引用おわり)

 

 小野田さんには、別の本でゴーストライターだった作家の批判的な声もあるようだ。その方は、小野田さんが「戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、1974年に至るまで密林を出なかったのは『片意地な性格』に加え『島民の復讐』をおそれたことが原因であると主張している」(Wikipedia)そうだ。それだけのために、三十年という年月は重過ぎないだろうか。その息子さんは、「冷酷で猜疑心の強い人だった」(同)と述べている。確かに、小野田さんには、かつて父親に反抗ばかりしていたとは言え、三十年ぶりに帰還して、タラップを下りて、「目の前に年老いた父と母がいた。(おやじもおふくろも年をとったなあ)と思っただけで、何の感激もなかった。私はこの三十年間、肉親の夢を見たことは一度もなかった。戦場では故郷や肉親の話はタブーだった。肉親の話をすると、なぜか不運がやって来た」(同書P194)とは、尋常ならざるものがある。しかし、「出征するとき死を決意した」(同書P216)ともある。「覚悟した」のではなく、「決意した」のである。否定的ではない前向きなニュアンスには、やはり戦後の私たちには想像できない世界がある。私が懇意にして頂いている自衛隊の元・幹部は、小野田さんに直接お会いしたことがあるそうで、とても純粋な方だと振り返っておられた。そう言われると、分からないではない。三十年という年月には、愚直な、では済まされない苛烈さがある。

 同書は、東京新聞の「戦後50年企画」として同紙上に連載されたコラムを一冊の本に纏めたものだ。帰還から既に二十年が経っており、回顧録の常で、自己正当化し、また美化している部分もあるかも知れない。所詮は小野田さんという個人の戦争経験であり、自己主張である。それは今年93歳になる私の父と同様に、所詮は大きな戦争というパズル絵のごく小さな一つの断片を示すものでしかない。それでも、敗戦という時代の大転換を挟んで、玉手箱を開けて時代をワープした浦島太郎が覚えた違和感には、傾聴すべきものがあるように思う。

 引用したい箇所は一杯あるが、小野田さんが帰郷したときの思いにはドキリとさせられ、最後に引用する(P209-210)。

 

(引用はじめ) 四月三日、私は三十年ぶりに故郷へ帰る。新大阪からバスで和歌山に向かう沿道は人の波で埋まっていた。手を振る人々にまじって、地面にひざまずき両手を合わせているおばあさんの姿が目に入った。かつて我が子を戦場に送り出した方だろう。息子さんは亡くなられたのだろうか。私は涙が止まらなかった。歓迎の人々に頭を下げ、手を振って応えながら、私は胸が息苦しかった。(なぜ生きて帰った私だけがこんなに歓迎されるのか。戦争で死んだ仲間はどうなのか。私は遅まきながらも国家の恩恵を受けた。だが、死んだ仲間は非道な戦争の加害者のように社会から疎んじられている。戦友たちは国家と悠久の大義を信じて死んだのだ)(引用おわり)

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福島原発処理水のその後

2023-09-03 23:54:09 | 日々の生活

 前回ブログから一週間、中国からの嫌がらせは相変わらずだが、いろいろ異なる様相も見えて来た。

 基本的には内政に問題を抱える中国共産党が、人民の不満の矛先を外(日本)に向け、不満のガス抜きをしているのだろうとの見方が大勢を占める。少なくとも、2012年の反日暴動のときのように、当局が制御できないレベルではない限り、また、中国共産党の統治に批判が向けられない限りは、迷惑行為を取り締まることなく放置するのだろう。他方で、迷惑電話をかける人の素性はさまざまで、「愛国心に駆られた」人もいないわけではないが、「暇つぶし」「刺激が欲しかった」といった若者もいるようで(8月31日付 読売新聞)、東大の阿古智子教授は、「SNS上に電話をする様子を掲載して『目立ちたい』『閲覧数を増やして利益を得たい』といった人たちが中心だろう。中国では日本をおもしろおかしく批判すると、注目を集めやすい傾向にある。反日教育で日本に批判的な感情を持つ人や、処理水の海洋放出に憤りを感じて電話した人もいるだろうが、わずかだろう。」と言われる(同)。

 中国共産党による出鱈目な対応は、いつかは馬脚を現すもので、所謂「ブーメラン」として報じられ始めた。中国で塩の買い占めが起こっているほか、日本産だけでなく自国産の海産物を避ける動きがあって、漁業関係者の中には頭を抱える人も出て来たようだ。台湾メディアによると、カナダ・ヨーク大学の沈栄琴准教授は「中国人は海産物を検査するためにガイガーカウンターを購入した。その結果、放射能汚染は検出されなかった。一方、中国の建築資材は概して過剰な放射能汚染の問題を抱えており、それが発覚した。中国の建築物における放射能汚染の状況が珍しいものではないことが示されてしまった」と語り、中国の不動産問題に拍車をかける可能性がある。香港では、日系大手回転ずしチェーン店に連日行列ができていると報じられ(8月31日付 共同通信)、一部では日本食離れも起きているが、冷静な対応が目立っているようだ。

 王青さんによると、日本は民主国家であり、政府に対しての抗議やデモが許されていて、自由に発言できるが、ほとんどの中国の国民はそれを知らずにいるため、限定的とは言え日本の抗議行動の動画を見れば、「日本人全員が反対している」と読み取ってしまうのだそうだ(2023/09/01 ダイヤモンド・オンライン)。同じく、王青さんによると、国外にいる中国人のコミュニティーでは、最近、次のような書き込みが流行っているらしい。「貧乏人は、日本をののしり、抗議する。食塩を買いだめ、海鮮を食べないようにする。金持ちは移民するために国内の財産の処理に没頭する。日本に行き、海鮮料理に舌鼓を打つ。さて、あなたはどっちだ?」

 まさに、前回でも言ったように、狂騒曲のレベルだ。全体主義と言っても、中国政府と中国社会と、決して一枚岩ではない。

 他方、日本の農水相は中国の反応を「まったく想定していなかった」と発言して、恐らく習近平を大いに喜ばせただろうし、「汚染水」とつい漏らして、自ら風評被害を煽るかの如くで、各方面から叩かれた。緊張感がなさ過ぎる。前回ブログで「情報戦」と言ったが、日本のお国柄は余りにナイーブで、オメデタ過ぎる。

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福島原発処理水の海洋放出

2023-08-27 15:16:03 | 日々の生活

 ようやく廃炉への一歩が踏み出された。

 私は毎日、紙ベースの日経新聞を読んでいるので、私の世界観、とりわけ世の中の出来事の重みづけは、日経の記事としての取り上げ方の軽重に大いに影響を受け、多少なりとも歪んでいると自覚している(笑)。その目で週末、ネットのニュース・サイトを見ると、大変なことになっていることに今さらながら驚く(だからと言って、記事の多さや特定国の声の大きさが客観的な世界情勢を表すものとは限らないのは言うまでもない)。さながら“狂騒曲”だ。

 中国や、韓国野党や市民運動家、世界の環境活動家といった、いつもお騒がせな方々が政治問題化しているのだ。

 科学的な理解は進んで来ているように見受けられる。環境保護活動団体グリーンピースは、より優れた処理技術が発明されるまで、水をタンクに貯留するよう求めているそうだ。彼らのように心に余裕がある人たち、私のように日々の暮らしに汲々とする庶民と違って、何の憂いもなく将来世代や未来の地球に完全なる重きを置いて論じるほど懐が深い人たちは、先送りできるかも知れない(現実問題として自らに迫らない限りは、などと言ってしまうと険があるが)。しかし理想は理想として尊重しつつ、現実に対処しなければならない人たち(政治家を筆頭に)は、現在の科学に依拠するほかない。福島原発のメルトダウンで問題となったのは、科学そのものではなく、人手を介することで生まれた人災だった。

 韓国野党「共に民主党」の李在明代表は「核汚染水の放出は『第2の太平洋戦争』として記録されるだろう」などと日本批判のトーンを強め、尹政権を「環境災害のもう一方の主犯だ」と攻撃したそうだ(東京新聞)。つまりは毎度の政権批判を目的とする日本批判である。

 上海の国際漁業博覧会で行われたマグロの解体ショーでは、急遽、日本産からオーストラリア産マグロに切り替えられたそうだ。中国政府が日本産水産物の全面禁輸を発表した直後にもかかわらず、責任者は「代替品を確保している。問題ない」と余裕を見せた(東京新聞)というが、「日本産のほうが大トロが多く、脂が乗っておいしい。一部顧客から注文はあるが、手に入らない」と明かしたそうだ(同)。

 海外のシンクタンクの研究者は「今回の出来事は、日中関係悪化の原因というよりも、日中関係悪化による症状だ」と述べたそうだ(BBC)。確かに、24日の当日、福島県や周辺地域の水産物に課していた禁輸措置を日本全土に拡大したのに続き、日本産水産物の加工や調理、販売を禁じる措置を打ち出し、更に官製デモを思わせるような、中国発(国番号86-)の抗議電話が、海洋放出とは無関係な日本の個人や団体に対して相次いでいる事態は、嫌がらせにしても度が過ぎる。

 しかし、最近のように日中関係が悪化していない40年前にも、政治問題化し外交カードを手にしようとする、似たような動きは起きていた。言わずと知れた第一次教科書問題(1982年)で、私は子供心に、「えげつないなあ」と、いや、これは中国や韓国だけではなく、日本の大手メディアにも向けた不信感として刻み込まれたものだった(苦笑)。日本史の教科書検定において、中国華北に対する“侵略”から“進出”へと書き改めさせたと、朝日新聞をはじめとする大手紙が書き立て、中国や韓国まで介入して外交問題化したもので、後に、渡部昇一氏によってメディアの誤報だったことが明らかになったにもかかわらず、教科書を記述する際、近隣諸国に配慮するという旨の所謂「近隣諸国条項」が生まれた。明らかな内政干渉だが、こうした日本発の自業自得とも言える外交事案は、後に靖国参拝を巡っても起きた。

 世界は今、西の米国と権威主義の中国を代表とする体制間競争の真っ只中にある。その中国は、コロナ禍でのロックダウン以来、人民の体制批判が燻る中、長年の無理がたたって経済に変調を来しており、世界中のエコノミストが注視する。中国共産党としては、人民の注意を外に向け、華夷秩序の伝統に則って、自らの道徳的優位を、環境保護や人民の安全第一を掲げる中国と、世界の環境汚染の日本を対比することによって、アピールしたい衝動に駆られていることだろう。西を代表するアメリカ社会の分断や、西に属しながらも安定した日本の社会の分断は、明らかに中国にとって利益であり、自らの権威主義体制の相対的な優位に繋がると信じていることだろう。中国がここぞとばかりに仕掛けているのは戦争、具体的には情報戦であり世論戦である。日本人は戦争などもうコリゴリだと思っているが、中国共産党は自らの進退を賭けた“闘争”だと認識しているに違いない。

 中国の税関当局は、日本産水産物の禁輸措置を発表した際、「中国政府は人民至上を一貫して堅持しており、必要なあらゆる措置を取り食品の安全と人々の健康を守る」(新華社)と言い放ったそうで、さすが人民の命を守るため(と称して、その実、共産党のメンツを守るために)ロックダウンしただけのことはある。そういうことであれば、尖閣海域にも中国の漁船を近づけないことだろう。その言行一致に大いに期待したいものだ。

 軽口はこれくらいにして・・・日本人は重い十字架を背負ってしまった。福島原発の敷地内にところ狭しと並ぶ巨大な貯蔵タンクは1000基を超え、放出に要する期間は実に30年と想定される。少子高齢化の日本には耐えがたい負担である。石油ショックに伴う狂乱物価やトイレットペーパーに殺到した騒動を記憶する者として、一連の原発絡みの問題を東京電力や経産省だけの責任に帰せるわけには行かないし(彼らの監督責任が重いのは事実だが)、資源小国日本のエネルギー安全保障の観点から今のところは原発不要とも言い切れない。福島原発事故の際、週刊文春が一度報じて沙汰止みとなったのはフェイクだったのか、いや程度の差は別にして相当の放射線を、1960~70年代に行われた中国の原爆実験による放射線まみれの黄砂飛来とともに浴びていた関西出身者として、今さら、かの国を責めるつもりはないし、今、ピンピンしているからと言って放射線被害を軽視するつもりもない。

 私たちに出来ることは、これまで以上に魚を食して漁業関係者を大いに盛り立てることだろう。そして、今まさに行われている“闘争”(戦争とは言わないにしても)に負けないために大切なことは、IAEAやWHOや主要国をはじめとする理性ある国際社会とともに歩むことであろう。何よりナチス・ドイツのゲッベルスばりに「嘘も100回言えば本当になる」(正確に直訳すると『もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう』ということらしいが)と言わんばかりのかの国によって着せられた環境汚染国の汚名を晴らすために、環境への影響がないことを透明性を以て公表し、不幸にも事故を起こしたにしても、なお安全・安心な日本の面目躍如としたいものだ。

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全仏オープン

2023-06-19 23:21:01 | 日々の生活

 (二週間以上寝かせてしまった原稿で、もはや旧聞に属するが)全仏オープンで最も話題をさらったのは、加藤未唯選手の失格問題だったのではなかろうか。活躍した多くの選手にも、主催者にも、全く不本意な状況だったであろう。加藤選手の提訴が大会側に却下されたことを受けて、獲得するはずだった賞金額の寄付を募る活動が海外でスタートしたという。

 女子ダブルス3回戦第2セットの途中、加藤選手が相手コートに返したボールがボールガールに当たってしまい、いったん警告と判断されながら、対戦相手からの猛抗議を受けて裁定が覆り、危険行為と見做されて失格処分となった、あれである。どこが危険行為か? と訝しく思うが、他の種目にも出場出来ない可能性があったところ、主催者側の配慮で、混合ダブルスには出場でき、失意の思いをバネに優勝を勝ち取った。見事と言うほかない。さらに翌日、手土産を持ってボールガールを見舞うという、WBCの佐々木朗希投手を思わせる美談で盛り上がった。

 敢えて相手選手のスポーツマンシップ欠如は問うまい。危険行為と言っても、故意か故意でないかは判断のポイントではないらしいので、ルール上は問題ないようだ。しかし、かつて憎らしいほど強かった(大相撲で言えばかつての北の湖のような、と言ってしまうのは言い過ぎか・・・一応、最大の敬意である 微笑)マルチナ・ナブラチロワさんは「ルール変更が必要。映像で検証も出来たはず」と私見を述べ、プロ選手協会も「不当な判定」と加藤選手を擁護する声明を出すなど、大きな波紋を呼んだ。当の選手だけでなく、せっかく試合を見に来た人をもガッカリさせるようなルールは、やはり見直しを期待したい。

 話は変わるが、かつて「ルール・ベースのリベラルな国際秩序」などと言って、今では「自由で開かれたインド太平洋」にすっかり取って代わられた印象だが、言わば中国を牽制する(包囲するとまでは言わない)外交上の標語があった。ジョン・アイケンベリー氏によれば、戦後に成立したアメリカを中心とした開放的で制度化された協調的な国際秩序のことだという。それを意識したのかどうか、その後、中国はやたら「法治」を言い出すようになった。

 中国が、特に国の安全や利益擁護を目的とした法律を整備し始めたのは、習近平氏が国家主席になった2013年以降のことである。香港の民主化運動弾圧で有名になった「国家安全法」の本国版は2015年7月の制定だが、実は1993年制定のもともとの「国家安全法」を今話題の「反スパイ法」として改定(2014年11月)したことに伴い、新たに制定したものだ。2015年12月には「反テロリズム法」を、2016年4月には「国外NGO 国内活動管理法」なる法律を制定した。後者はロシアが2012年に「NGO法」改正により取締り強化したことに倣ったものと思われる。ここで言うNGOは、東欧のカラー革命やアラブの春で暗躍したと噂される、アメリカ政府の財政資金が投入されて民主主義を推進する特定NGOを意識したのだろう。体制転覆に繋がりかねないものとして警戒したものだ。そして、2016年11月に「サイバーセキュリティ法」が、2017年6月には、学生だろうが勤労者だろうが、海外留学していようが海外駐在していようが、中国人や中国企業である限り、政府の情報活動に協力させることで悪名高い「国家情報法」が制定された。いずれも概ね国家の安全を目的としている。

 もとより中国で法治と言っても、欧米で法が支配する法治(Rule of Law)ではなく、憲法の上に中国共産党が君臨し、中国共産党が法を使って支配するという意味での法治(Rule by Law)である。日本のように、憲法をはじめとして民主主義的な手続きによって法をアップデートして手段として安全を維持するのではなく、憲法そのものを守ることが第一義のような、手段と目的が倒錯するのもどうかと思うが、独裁政権のもとで法を操りながら、法治というグローバルスタンダードにさも従っているかのように装い、つまるところ独裁と同義なのだから、堪ったものではない。

 かつて、息子の命名にあたって、使えない漢字を使って届け出て、後に却下され、当時、届け出たボストン総領事館の担当官に、漢字という文化を縛るとは酷い法だと思わずボヤいたら、悪法も法だと開き直られてしまった。Law Maker側の人間に言われたくないものだ(まあ、徒らに読めない漢字が人名として横行するとすれば、名付けられた本人にとっても気の毒ではあるのだが)。法治(Rule of Law)なのだから、法なるもの(あるいは全仏オープンのルールにしても)、多少、時代に後れるにしても、余程、心してアップ・トゥ・デイトを保って人心が離れることがないようにして貰いたいものだと思う。

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5月8日

2023-05-13 21:26:07 | 日々の生活

 この日は、暫くは記憶に留められるエポック・メイキングな日になることだろう。新型コロナウイルスの変異株は、感染症法上の分類が「5類」となり、それで感染力や重症化のリスクが上がった変異株が出ない保証はないし、尾身茂さんのような専門家は、「波の高さはともかく、第9波が来ることを想定した方がよい」と言われ、警戒を続けるよう求めておられるのはよく分かるが、世の中は変わった。

 8日付の朝日新聞は、街行く人でマスクを外す人の比率が4割近いと伝え、その後も、私の乏しい経験からも、もはやマスクを外す人が目立つようになった気がする。隔世の感がある。オフィスでも、即日、執務フロアからも食堂からも会議室からもアクリル板パーティションが取り外された(食堂の密を避けるための時差昼休みは継続中だが)。象徴的な動きを、恐らく会社としても率先したいのだろう。

 思えば3年前、突然の原則在宅勤務が宣言されて、先が見通せない状況の中で、どのような条件が揃えばコロナ禍が収束したと言えるのかという、当時としては途方もない儚い夢でしかないような議論があった。それは世間がコロナウイルスを恐れなくなったときだと述べた方がおられたのは、まさに慧眼で、もう一つ付け加えれば、同調圧力が強い日本人社会の動きは遠慮がちで、「5類」に分類されたことをキッカケに、待っていましたとばかりに世間の動きが変わったことからすれば、「宣言」のような象徴的な号令が必要なのだと、あらためて思った。

 私は・・・と言えば、当初2年間はほぼ9割方、在宅勤務していたが、この一年はほぼ9割方、出社し、運動不足解消のための強制的な散歩ではなく、出退勤途上の街をそぞろ歩く楽しさを取り戻していた。最近は職場の同僚と合意の上で、喋るとき以外はマスクを外していた。ほぼ時を同じくして、外出時もマスクを外していた(花粉症の季節は、逆行してマスクを着用したが)。季節は移ろい、今あらためて解放感に浸っている。マスクを外して、人の表情を読めることが、なんだか懐かしくも嬉しくもある。

 こうした個人的な経験はともかくとして、社会としてはどうだろうか。甚だ気になるところである。尾身さんはインタビューに次のように答えておられる(5月8日付 東京新聞)。

「2009年の新型インフルエンザの流行で、いろいろなことを学んだ。次のパンデミックに備えようと、関係者が時間を費やして議論して提言書を国に出した。その中では、PCR検査体制や保健所機能、医療体制の強化、国と専門家の関係のあり方などコロナで課題が指摘された問題の多くについて具体的な提言が書かれていた。これは私の個人的な考えだが、その後、政権交代や(東日本大震災などの)自然災害などがあり、政府は集中的にこれを実行することができなかった。」

「重症急性呼吸器症候群(SARS)や新型インフルエンザなどの時も大変だったが、これだけの大変な思いをしたのは少なくとも私の人生ではなかった。100年に1度の感染症だったといえる。一言で言えば、感染症という危機に対応する準備が不足していた。これだけの経験をしたのだから、やはり次の感染症の流行に備える上では、新型インフルの時のように提言はまとめたものの実行されないということを繰り返してはならない。今こそ第三者も含めて政治、行政そして専門家集団が何を(文書として)書き、言い、したか、事実ベースでの検証が求められる。」

 しかし、水に流すことが得意な日本人は、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのだろうか。島国で、地震・雷・火事・台風以外に深刻な(例えばパンデミックだけでなく異民族の侵略のような)脅威に直面する経験に乏しい、良くも悪くも人が好い日本人を自覚する私としては、「大変だったね」と言いながら、このまま日本人らしく流されるのだろうか。

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戦争ごっこ

2022-11-06 12:37:08 | 日々の生活

 ロシアのウクライナ戦争は泥沼と言ってもよいのだろう。これから物理的にはウクライナの地は泥沼ではなくなるのだが・・・さすがに8ヶ月を超えて、ロシアのような経済力でよくもまあ続くものだと感心していたが、とうとう部分的動員をかけ、数少ない悪友の北朝鮮やイランから砲弾や武器を導入し、公然と発電所などの一般インフラを(すなわち非戦闘員の日常生活を)攻撃するようになったのを見ると、相当、苦しくなって来たようだ。10日ほど前のプーチン演説では、世界は第二次世界大戦後で「恐らく最も危険な」10年間に直面していると警告したそうだ(10/28付BBC)。こういうのを盗っ人猛々しいと言うのだろう。プーチンによれば、ロシアは常に清廉潔白で、ウクライナ戦争にしても世界的な食糧危機にしても、全て西側のせいで、ロシアを核で脅し、同盟国に対してロシアに背を向けさせようとしているのだそうだ。お隣の大国と同じで、情報統制をして自国民の離心や叛乱を抑えるのに必死と見える。振り返れば「アラブの春」や、旧ソ連圏の「カラー革命」(2003年グルジア「バラ革命」、2004年ウクライナ「オレンジ革命」、2005年キルギスタン「チューリップ革命」)、そして2014年ウクライナ政変(マイダン革命)など、全て西側が「非線形戦争」を仕掛けていると思い込む被害妄想(いや、西側が資金援助、抵抗運動のノウハウ伝授、宣伝技術のコンサルティングなどをしていたのは事実のようだが)に囚われたプーチンは、我々とは次元の異なるパラレル・ワールドを生きているようで、停戦交渉のような接点が見えない無力感に囚われる(プーチンだけでなく習近平や金正恩にもそれに近いものを感じる)。

 日本でも、防衛論議が静かに進行している。隔世の感があるが、かかるご時世で、子供の頃、「戦争ごっこ」をしていたのだと思い出すことがある。

 小学校高学年の頃、「クチク」と呼び慣わす鬼ごっこがあった。二手に分かれ、陣地を決めて、「ホンカン」(実は今となっては正確な呼び名の記憶がないので、とりあえず「ホンカン」としておく)1名、「キチ」数名、「スイ」数名という役割分担のもと、「ホンカン」は「キチ」にタッチすると捕獲でき、「キチ」は同様に「スイ」を捕獲でき、「スイ」は同様に「ホンカン」を捕獲できるという、ジャンケンの三すくみの原理で、敵を捕獲したり、敵の網をかいくぐって敵陣地に捕獲された味方を助けたりして、優勢を保ちながら、敵「ホンカン」を捕獲した時点、あるいは「ホンカン」を捕まえるべき敵の「スイ」を全員捕獲した時点で勝ちとなる遊びである。

 後年、オトナになってから、「クチク」はもしかしたら「駆逐(艦)」、「スイ」は「水兵」のことを意味するのではないかと察して、つい最近、ググってみたら、Wikipediaには「水雷艦長」の名称で、「第二次世界大戦前から昭和40年代に入った頃まで男の子の間で盛んに遊ばれた」とある。「ホンカン」は「本艦または母艦」、「キチ」は訛っているが「駆逐艦」、「スイ」は「水雷艇」を意味するようで、一隻の「本艦または母艦」を複数の「駆逐艦」と「水雷艇」が守る艦隊構成で戦うわけだ。誰から教わったのか、どのように全国規模で子供たちの間に広まったのか、定かではない。このあたりは「こっくりさん」のように、(つのだじろうさんの)漫画で広まったのか、ラジオが媒介したのだろうか。かつては国内だけでなく、吉林やハルビンの日本人学校でも遊ばれていたようで、地域によって呼び名にもバリエーションがあるようだ。

 小学生の鬼ごっこと言えば、「盗っ人と探偵」という、二手に分かれたシンプルな追い掛けっこが思い浮かぶ。これは関西方面の呼び名で、関東方面では「どろけい(泥棒と警察の意か)」と呼ばれる(さらに地方によって別の呼び名があるかも知れない)、男の子も女の子も一緒になって遊べる「警察ごっこ」だ。「くちく」は何故、「男の子の間で遊ばれた」(Wikipedia)のかと言うと、「戦争ごっこ」だからというわけではなく、つばのある帽子を使うからだと思う(女の子の帽子につばはなかった)。「ホンカン」はつばを前に向け、「キチ」は横に、「スイ」は後ろに向けて、見た目で区別する。今どきの教育委員会あたりは、「戦争ごっこ」なんぞ物騒な遊びだと目くじらを立てそうだが、本人たちはお構いなし、そもそも意味を理解することなく、ただ「盗っ人と探偵」よりも複雑で面白さが数倍化するので、夢中になったのだった。

 因みに、三すくみの原理及びその応用は日本人の発明なのだそうだ(高島俊男氏)。例えばジャンケンは、江戸から明治期の日本で生まれ、「20世紀に入ると、日本の海外発展や、柔道などの日本武道の世界的普及、日本産のサブカルチャー(漫画、アニメ、コンピュータゲームなど)の隆盛に伴って、急速に世界中に拡がった」(Wikipedia)そうだ。南アメリカのボリビアでは「Yan  Ken  Po」、フィリピンでは「Jack  and  Poy」などと、日本の掛け声そのままである。これは標準語(東京弁?)が元になったもので、大阪では「いんじゃんほい」と言った。

 さて、「クチク」に話を戻すと、私の子供たちの世代ではすっかり見かけなくなっていたが、「遊び方の重要な小道具となった前つばのある帽子を男の子がかぶらなくなるのに合わせたかのように廃れた」(Wikipedia)とある。夏場はともかく、冬場を中心に、誰かが「クチクしよ~」と叫ぶと、それまでばらばらに遊んでいた男の子たちが即座に10人以上集まって、元気に運動場を駆け回ったものだった。昭和な光景とも言える。

 その昔、関西の深夜番組で、「アホ」「バカ」という言葉がどのように全国に分布するのかを調べる企画があった。それによると、京都を中心に、「あほ」が地方に行くに従って「ばか」に変わっていく様子が、柳田国男の「方言周圏論」(一般に方言というものは時代に応じて京都で使われていた語形が地方に向かって同心円状に伝播していった結果として形成されたものなのではないかとする)を実証する結論だったように記憶する。「クチク」についても、どの時代(横軸)にどこ(縦軸)で遊ばれていたか分布図を作れば、いつからどこからどのように広まって行ったかが分かるように思うが、令和の時代に、そんなヒマなことをする人はいないだろう。

 プーチンの戦争は、昭和どころか19世紀に引き戻すかのような時代錯誤な残酷さを見せ、心が痛む。「クチク」のように、「戦争ごっこ」をそれと気づかせないような世相になって欲しいものだと思う。

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ムクゲ

2022-08-30 01:40:26 | 日々の生活

 漢字では「木槿」と書く。中国が原産の、落葉広葉樹の低木で、観賞用に栽培され、日本では既に平安時代初期には植えられていたそうだ。Wikipediaによれば、花持ちが悪いため花展には向かず、あまり一般的な花材ではないが、毎日生け替えて使うことで風情が出る、とある。さらに茶道では、茶人・千宗旦(利休の孫)が好んだこともあり、花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている、とある。韓国では国花になるほど人々に馴染みのようだ。

 添付は、会社の敷地内に可憐な花を咲かせていたのが目に留まり、写真に収めたものだが、期せずして、故・山本兼一さんの『利休にたずねよ』を読んでいると、象徴的に(たとえば高麗茶碗とともに)「木槿」が配されているのを、感慨深く思った。

 山本兼一さんと言えば、以前、このブログで、山岡鉄舟の生涯を描いた『命もいらず名もいらず』を取り上げた。その後、『オリビアを聴きながら』風に言えば、「私らしく一日を終えたい夜」に寝入る前15分の読書の友として(笑)、『火天の城』に惹き込まれた。続いて、遅まきながら読んだ『利休にたずねよ』の何が凄いって、巻末の浅田次郎さんとの対談の中で、利休はこれまでいくつもの作品が出ていて書き尽くされている感があるし、茶の湯を通じてカリスマ的な存在としてキャラクターのイメージが固定されているので、小説にするのは難しいし度胸がいると言われたのに対し、山本さんは、利休について書けると感じたのは、博物館で利休の真塗りの真っ黒な水指を見たときだと答えておられることだ。すごく柔らかくて、艶っぽく感じたんです、と。侘び・寂びの世界に「艶っぽさ」を見て取るのは主観の問題だが、その感性が素晴らしい。かつて、マレーシア駐在時に、マーケティング責任者のシンガポール人が、商品(モノ)を評価するのにsexyという言葉を使ったことに感嘆したことがあった(流行言葉だったのか、その後、公式の場で不用意にsexyという言葉を使って叩かれた政治家がいたが、半分、同情している)。日本語に訳せば、「艶っぽい」と言えなくもない。痩せても枯れても、どこかに「艶っぽさ」があるのは、もとより自分は遠く及ばないにしても、人として憧れである。

 俳句では秋の季語だそうだ。一週間前に撮影したときから、俄かに秋らしくなったが、写真でも既に秋の気配が感じられる。振り返れば短かったような夏の終わりに。

 

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