風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ムクゲ

2022-08-30 01:40:26 | 日々の生活

 漢字では「木槿」と書く。中国が原産の、落葉広葉樹の低木で、観賞用に栽培され、日本では既に平安時代初期には植えられていたそうだ。Wikipediaによれば、花持ちが悪いため花展には向かず、あまり一般的な花材ではないが、毎日生け替えて使うことで風情が出る、とある。さらに茶道では、茶人・千宗旦(利休の孫)が好んだこともあり、花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている、とある。韓国では国花になるほど人々に馴染みのようだ。

 添付は、会社の敷地内に可憐な花を咲かせていたのが目に留まり、写真に収めたものだが、期せずして、故・山本兼一さんの『利休にたずねよ』を読んでいると、象徴的に(たとえば高麗茶碗とともに)「木槿」が配されているのを、感慨深く思った。

 山本兼一さんと言えば、以前、このブログで、山岡鉄舟の生涯を描いた『命もいらず名もいらず』を取り上げた。その後、『オリビアを聴きながら』風に言えば、「私らしく一日を終えたい夜」に寝入る前15分の読書の友として(笑)、『火天の城』に惹き込まれた。続いて、遅まきながら読んだ『利休にたずねよ』の何が凄いって、巻末の浅田次郎さんとの対談の中で、利休はこれまでいくつもの作品が出ていて書き尽くされている感があるし、茶の湯を通じてカリスマ的な存在としてキャラクターのイメージが固定されているので、小説にするのは難しいし度胸がいると言われたのに対し、山本さんは、利休について書けると感じたのは、博物館で利休の真塗りの真っ黒な水指を見たときだと答えておられることだ。すごく柔らかくて、艶っぽく感じたんです、と。侘び・寂びの世界に「艶っぽさ」を見て取るのは主観の問題だが、その感性が素晴らしい。かつて、マレーシア駐在時に、マーケティング責任者のシンガポール人が、商品(モノ)を評価するのにsexyという言葉を使ったことに感嘆したことがあった(流行言葉だったのか、その後、公式の場で不用意にsexyという言葉を使って叩かれた政治家がいたが、半分、同情している)。日本語に訳せば、「艶っぽい」と言えなくもない。痩せても枯れても、どこかに「艶っぽさ」があるのは、もとより自分は遠く及ばないにしても、人として憧れである。

 俳句では秋の季語だそうだ。一週間前に撮影したときから、俄かに秋らしくなったが、写真でも既に秋の気配が感じられる。振り返れば短かったような夏の終わりに。

 

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政治と旧・統一教会の闇

2022-08-20 22:37:42 | 時事放談

 何かと旧・統一教会バッシングが喧しい。

 私も、かれこれ40年近く前、初々しい新入生として、「原理研」という統一教会系の反共団体があるから気を付けろと、やかましく言われたものだった。聖書を研究するという、一見、真面目な人達の集まりのように見え、実際に学内で話しかけられた時には、可愛らしい女性だったものだから、暇つぶしに話だけでも聞いてみるかと思ったりもしたが(笑)、結局、断った。同じ頃、小学生時代の親しい友人に久しぶりに会って、誘われて断り切れずに創価学会関係者の話を聞いたことがある。とある家に連れ込まれ、ぐるりとオジサンたちに囲まれて説教され、池田大作氏を神と崇めるかのようなビデオを見せられて、閉口したものだった。いや、旧・統一教会にしろ、創価学会にしろ、末端の方々の健気な思いを否定するつもりはない。

 閑話休題。民主主義社会の政治は、弱小野党の方々が言われるように、庶民の常識が通じることが大事だと思う一方、今は古代ギリシアの素朴な(今となっては田舎の)ポリスではなく、近代産業文明が高度に発達した社会である以上、政治家にはそれなりの専門性が求められると言うべきである。だからこそ私たちは選挙を通して代表者に政治を負託する。しかし、どうも弱小野党の方々は、古代ギリシアのポリスのような素朴な民主政治を求めておられるように見えて、違和感がある。古代ギリシアにあっては、「選挙」のような党派性を排除し、誰彼となく差別のない「クジ引き」で執政を選ぶことこそ民主的だと言われたのだから、現代との違いは歴然とするではないか。

 何が言いたいかと言うと、政治は、庶民感覚から離れて成り立たないのは言うまでもないが、だからと言って、全て庶民感覚で裁けるわけでもない、ということだ。典型的なのが、安全保障や防衛である。庶民感覚から言えば、核兵器は廃止すべきだと思うし、ヒロシマやナガサキの悲劇を二度と繰り返すべきではないと心から願うが、他方、現実の政治に立ち戻ると、日本はアメリカの核の傘に守られており、核を恫喝の手段としかねない中国や北朝鮮に囲まれて、日本政府として核兵器廃止条約に単純に賛同できるものではないこともまた理解できる。また、サクラを見る会で、安倍首相(当時)は私物化したとさんざん批判されたし、そういう側面は多分にあったと思うが、だからと言って、さすがにベテランの政治家として、違法行為をそう易々と犯すわけではなく、全日空ホテル側にも政治家と付き合うオトナの判断があったことだろう。庶民感覚では「アヤシイ」という印象は残るが、恐らく法的に問題はなかったはずだ(実際に野党は攻め切れなかった)。モリ・カケに続き、そんな「アヤシイ」が積み重なって、一部の庶民感覚では許されないという「アベガー」に代表される生理的反応が生まれた(勿論、他方で私のようなへそ曲がりの庶民感覚も一部にはしぶとく残る)。

 そうした文脈から、政治(とりわけ自民党)と旧・統一教会のずぶずぶの関係をジャーナリスティックに騒ぐのを、庶民感覚としては真に受けて眉をひそめたくなる一方、もう一人の私は信用しない。公明党の創価学会と同じように、所詮はお互いに利用し合うドライな関係だろうと冷ややかに割り切って見るからだ。政治にとって、創価学会にしろ旧・統一教会にしろ、宗教的な装いはあるが、所詮は選挙の「票」として頼りにするだけであろう。創価学会や旧・統一教会にとって、政治は権威付けや宣伝効果以外の何物でもないだろうと想像する。それ以上のものでも、それ以下のものでもなく、だから世間の喧噪を白々しく思う。実態は分からない。もっとも反社会性には別の考慮が必要だが。

 以下は余談である。

 知人から、茂木誠さんのYouTube動画を紹介してもらった(*)。

 茂木さんは動画で、旧・統一教会はシャーマニズムの残滓として、シャーマニズムが何故、日本では廃れて(実は真言密教に取り込まれた)、でも韓国では生き残っているのか(実はキリスト教が受容した)という興味深い問題を提起される。私から補足するとすれば、日本人は極めて「現実主義的だから」だと思う。それは何故かというと、日本人が「自然と対峙してきたから」であり、かつ異民族と接触することなく、「人を信用する社会だから」ということになる。

 私は30年以上の社会人生活の殆ど全てを海外とのやりとりに費やして来た。そうは言っても、数えてみたら、海外生活9年、訪れた国は20数ヶ国程度、往来は100回足らずで、中東・アフリカ・中南米には足を踏み入れておらず、偏りがあって限られたものだが、それでも一つ、教訓として残すとすれば、海外にあっては「油断ならない」ということだ。逆に言うと、日本は安心して暮らして行ける社会だということでもある。これが私なりの生理的な実感である。

 ある外国人がパソコンを電車内に置き忘れて見つかったので驚いた、という有名な話がある。私も、実際に酔っぱらった帰宅途上の電車内で携帯電話を落としたことに気づかず、後日、見つかって感謝したことがある。最近、タリーズで、スマホをテーブルに置いて席取りする若者を見て、びっくりした。たまたまネットで見かけた記事によると、外国人も同じように驚いているようだ。これが日本ではなければ、スマホは盗まれてオシマイだから、当然だろう。私が海外で「油断ならない」ということとの裏腹の、安心できる社会の所以であろう。

 これらの事象を説明するために言えることは、日本という島国が、殆ど全く異民族と接触することがなかったから、ということになる。言いようによっては「お人好し」、仮に赤の他人であってもお互いを信じる習性が育って来た。東日本大震災などの大災害では、アメリカのハリケーンなどの大災害のときと異なり、世界が驚嘆したように、人々の間で略奪が(殆ど全く)起こらず、整然と配給を受けたことに表れている。ほぼ単一民族だから、という言い古されたことでもあろう。

 さらに、日本人は、「地震・雷・火事・台風」という自然災害と対峙して来た。これらは人智によって避けられるものではないため、結果として日本人に典型的な「諦観」を生んだのだろうと思われる。ある時までは、呪術、シャーマニズムなどに依存したのだろうが、文明の進展とともに、人々は「現実」として受け止め、尋常ならざる世界から離れて行ったのではないか、と。

 自然災害に典型的に見られるように「運命」として受けとめる、とは、潔い立場に繋がる(しかし、これは現実の国際社会にあっては明らかにマイナスである)。つまり、島国の日本人にとって脅威とは「自然(災害)」であって「人(異民族)」ではなかったということだ。他方、大陸国家にあっては「人(異民族)」こそ災厄であって、これは日本人とは対照的である。

 また、韓国には中産階級が存在しなかったとの説明があった。重要な指摘であろう。これは、日本が韓国を併合し、西欧の植民地政策と異なり、国内の延長として投資し(実際に、当時、韓国を所管したのは内政を司る省庁であって、植民地政策などはなかったと言ってよいし、より正確には、1919年の三・一独立運動以降は、さすがの日本も武断政治から文治政策に転換した)、急速な近代化をなし遂げるための基盤を築き上げ、更に戦後「償い」としての日本の経済支援により、「漢江の奇跡」と呼ばれる上からの高度成長を成し遂げたことによる弊害ではないかと思われる。日本のように、一見、欧米の刺激を受けて上からの近代化を迫られたように見えるが、実は江戸時代を通して資本を蓄積し、市民社会を成熟させ、エコな発展を遂げていたのとは対照的だ。これは、韓国にとって、ある意味で悲劇であって、同情できる余地があるのかも知れない。結局、韓国では人為的な成長によって近代化を成し遂げた一方、社会基盤的にはシャーマニズムのような前近代的な風習が色濃く残った、ということではないかと思う。

 そんな韓国にあっては、後れて来た愛国心を自制できるまで、もうしばらく成熟するのを待つしかないと思う一方(というのは実は中国も似たようなところがあるのだが)、中国が大国化し、「人」に揉まれて来た(という意味ではヨーロッパ的でもある)習性からすれば、ピュアな(という意味ではまさに神道的な)日本人が中国と対峙するのは容易ではない。日本では例外的とも言える戦国時代のような権謀術数的な対応が求められることだろう。そういう政治家がいるのか・・・安倍氏亡きあと、甚だ心許なく思うところだ(なお、念のために申し上げると、安倍氏は日本人らしくピュアでありながら、現実主義的で、国際社会にあっても「人たらし」で外国人を惹きつける天性の政治家だった、ということであって、大陸的には当たり前な「人が悪い」ということではない)。

(*) https://www.youtube.com/watch?v=RE4iP8vRSJM

    https://www.youtube.com/watch?v=SHDoIqFHhh8

    https://www.youtube.com/watch?v=LgDgFz5LcGc

    https://www.youtube.com/watch?v=ELlEdigQr5g

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オリビアを聴きながら

2022-08-13 13:21:49 | スポーツ・芸能好き

 「オリビアを聴きながら」は、尾崎亜美が作詞・作曲し、後には躍動的な杏里がしっとりと歌ったデビュー・シングルで、数えたら、かれこれ44年も前のことになる(信じられない・・・)。発売当時はオリコン・チャートで最高65位とパッとしなかったようだが、その後、多くの人に歌い継がれ、愛されている名曲だ。ここで歌いこまれたオリビア(・ニュートン=ジョン)が亡くなった。享年73。

 「オリビアを聴きながら」では、私らしく一日を終えたい夜に、眠り誘うジャスミン茶を飲みながら、オリビアを聴くのだが、私はメランコリックに当時の雰囲気に浸りつつ、日本酒をちびちび舐めながら、聴く。私が彼女を知ったのはラジオの「ながら族」だった中・高生の頃で、「カントリー・ロード」のようなカントリー調から現代風の「ジョリーン」や更にはディスコ調の「フィジカル」へと移り変わる躍動感を目の当たりにした。その変化を象徴するようなミュージカル映画『グリース』に出演したことから、月刊誌『スクリーン』にもしばしば登場し、歌声といい笑顔といい、妖精のような愛らしさに魅せられたものだった(今でこそYouTubeで当たり前に動画を見ることが出来るが、当時は音と静止画が中心だった)。「歌姫」と言えば、私の世代では聖子ちゃんや明菜が浮かぶが、一足先に洋楽において「歌姫」の原型イメージを植え付けた存在だった。

 死因は明らかにされていないが、1992年に乳がんの宣告を受けた後、繰り返し再発し、2017年からステージ4の状態で、脊髄に転移していると診断されていたそうだ。このあたりの事情は知らなかった。そのため、財団を設立し、がん治療の啓発活動や環境問題に取り組んでいたらしい。欧米の成功者らしいところだが、その華やかな前半生と、社会的名士としての後半生のストーリーが、今となっては涙を誘う。オーストラリアでは国葬が執り行われるというニュースが流れて来た。さもありなん。

 1970年代(から80年代初め)という、古き良き時代の話だ。今、動画で見る初代「歌姫」にあらためて魅せられながら、当時の時代風潮と相俟って、私たちの青春時代と重なるような、明るい歌声と若々しくきらめく躍動感は、私たちの記憶に永遠に生き続けることを思う。ご冥福をお祈りし、合唱。

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次元大介、死す

2022-08-10 01:27:24 | スポーツ・芸能好き

 「ルパン三世」の次元大介役を務めた声優の小林清志さんが7月30日に肺炎のため亡くなっていたことが判明した。享年89。

 小林さんは、1971年のテレビアニメシリーズ放送開始から50年にわたって次元役を演じて来られたが、昨年10月放映の「ルパン三世 PART6」の第一話「EPISODE 0 ―時代―」を最後に降板され、後任の大塚明夫氏(父上の大塚周夫氏は、初代・石川五ェ門役の声優)に引き継がれていた。その時、次のようなメッセージを残されている。「次元はそんじょそこらの悪党とは違うぞ。江戸のイキというもんだ。変な話だが、次元は江戸っ子だ。明夫ちゃん、これは難しいぞ。雰囲気はJAZZにも似ているんだ。最後にこれまで応援してくれた人たちにお礼を申し上げる。ありがとうございました。ルパン。俺はそろそろずらかるぜ。あばよ」

 「ルパン三世」は私にとって特別な存在である。小学校6年の時の担任の教師が「ルパン三世」の大ファンで、私は見ていなかったが、授業中の雑談で屡々語られたものだから、気になっていた。中学生になって、本屋でたまたま見つけたコミックを生まれて初めて買って読んでみると、これが滅法面白い。劇画のタッチは凡そ日本人らしくなく軽妙洒脱で、内容は凡そ子供向きではなくニヒルでセクシー。結局、小遣いをはたいて10数冊のシリーズを買うほどに熱中した。コミックでは「粋でいなせな大泥棒」と銘打たれたルパン三世は、テレビ・アニメでは明るく憎めないコメディー・キャラで、世界を股にかけて活躍する大泥棒となって、私にとっては忘れられない「大阪万国博覧会」と「日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行」という30分の紀行番組と並んで、私の目を世界に見開かせてくれた。10数年前のマレーシア駐在時、ペナン島のとある鄙びたショッピングモールで買い求めた海賊版DVD(テレビ・アニメ第2シリーズ(1977~80年))は、日本語の番組に飢えていた私たち家族を大いに慰めてくれた。

 小林さん演じる次元大介は単なる脇役ではない。五ェ門とともにルパン三世の両脇を固める相棒であり、「ルパン三世」は、彼らの足を引っ張る峰不二子を加えて、際立つキャラの4人が揃ってこその「ルパン・ファミリー」の物語だ。

 私に馴染みの“ほぼ”オリジナルの「ルパン・ファミリー」声優陣は代替わりし、ルパン三世役の山田康雄さんは1995年3月19日(享年62)に、銭形警部役の納谷悟朗さんは2013年 3月5日(享年83)に、石川五ェ門役の井上真樹夫さんは2019年11月29日(享年80)に鬼籍に入られ、残るは紅一点・峰不二子役の増山江威子さん(1936年生まれ)だけになった。生みの親、モンキー・パンチさんも2019年4月11日に亡くなっている(享年81)。私自身もいい歳なのだから、これも世の習い、しかし声の記憶は今も生々しく耳に残る。なんと素敵な商売だろう。そして作品としての「ルパン三世」もまた、「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」と同様、代替わりしつつ、国民的アニメとして長く愛され続けることだろう。

 長年にわたるご活躍に感謝し、ご冥福をお祈りしつつ、合掌。

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