風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

アジア紀行ふたたび(上)

2013-08-31 23:34:25 | 永遠の旅人
 月曜日から、シンガポール、マレーシア、インドに出張し、先ほど戻りました。今日は道中の食事編です。
 シンガポールへは正味7時間のフライトなので、朝、いつもの時間に家を出て夜到着するというように、前後の移動を含めると一日仕事になります。そのため、ホテルに着いたときには疲労困憊、チャイナタウンに隣接する絶好のロケーションでしたが、晩飯はホテルのレストランで済ませました。しかし、さすがにシンガポールですね。西洋料理が中心ながらも、地元のラクサもマレー料理もインド料理もタイ料理も取り揃えていて、メニューは豊富です。つい懐かしくなって、インドネシアの(とメニューに書いてありましたが、マレーシアでも人気の)ナシ・ゴレンを食べました。つけ合せがある焼き飯(ナシ=ご飯、ゴレン=炒め物の意)です。以前、バリ島のホテルで食べたナシ・ゴレンの、日本人好みの美味しさが忘れられなくて、あの味を探す、といったところが私にはあります。さて、ここの焼き飯は、味が薄くて、さっぱり味と言うより、それだけなら、さっぱり・・・でしたが、付け合せの半生の目玉焼きを混ぜ、生のトマトやキュウリはともかく、酢のものを混ぜ合わせると、絶妙に美味しく、値段こそホテル相場で屋台の3~5倍はしましたが、とても満足しました。
 昼は、肉骨茶(バクテー)を二度も食べるチャンスがありました。最初はシンガポールで、場所柄でしょうか、鶏がらスープに胡椒を中心とした味付けは、とても美味しいのですが、グローバルを意識した?万人受けするあっさりとした透明スープで、かつてマレーシア・ペナンで食べ慣れた私には、やや物足りない。続いて翌日、マレーシアで食べた肉骨茶は、漢方薬のもとになるハーブと、さまざまな部署の豚肉を煮込んで、どす黒く、これぞ肉骨茶、シンガポールのような洗練さに欠けますし、カロリーも高そうですが、如何にも田舎風のコクがあって、ご飯や油条(揚げパン)にぶっかけて、美味しく頂きました。
 インドでは、スパイシーなカレー・・・と行くべきところでしたが、今回の出張では、最初からどうも胃の調子が良くなかったため、無理しないことにしました。それにしても、昼はマクドナルドのフィレオフィッシュ、夜は日本食と、ゴルフ目当てに遊びに来た日本のオジサン風情です(日本のオジサン、ごめんなさい)。
 朝は、どのホテルでもバッフェで、西洋風のみならず、中華風、マレー風、インド風を取り揃えたメニューは嬉しいですが、かかる状況から、お粥を食べるのがせいぜいで、野菜や果物を中心に健康的な一日を始める・・・という生活でした。スイカ、メロン、パイナップルの定番に加え、マレーシアではパパイヤもあって、果物と言えば日本が一番ですが、熱帯の果物も美味しい。食事は、アジアならではで、味気ない出張でも、食の楽しみがあるのがいいですね。

(参考)
 アジア紀行(上) http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20121215
 アジア紀行(中) http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20121223
 アジア紀行(下) http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20121225
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マラソン・シーズン2年目

2013-08-26 00:59:55 | スポーツ・芸能好き
 内輪受け・自己満足のマラソン談義です。
 東京マラソンのエントリーを受付中です(8月1日~31日)。ご承知の通り、人気は毎年うなぎ上りで、来年は更に狭き門になりそうですが、ダメ元で申し込みました。当選者発表は9月末で、その前に、世間では早々にエントリーを開始し既に締め切っている大会が出始めているため、11月と12月に一回ずつ、ハーフマラソンの大会を申し込みました。つまり、東京マラソンが決まる前に、二度目のシーズンに臨む覚悟をしたことになります。そこで今シーズンのハイライトとして、東京マラソンか青梅マラソン(30キロですが)を候補にすることにしました(どちらも外すかもしれませんが)。
 余談ですが、東京マラソンは定員に比して応募者10倍の難関を抽選で突破する必要があるのに対し、青梅マラソンは先着による定員締切です。世の中の大会は、先着順で定員を締め切る例が多く、日本でのマラソン初心者の私が言うのもなんですが、最近のマラソン・ブームには、ちょっと辟易するくらい、エントリーが大変です。既に申し込んだ2つの大会も、開始時間早々にネットにアクセスしても、なかなか繋がらず、繋がったと思っても画面毎にスタックするなど、なかなか最後まで辿り着けず、苦労しました。どの大会にも先ず間違いなくエントリーできたアメリカが懐かしい。こうした面でも、日本は人口が都心に集中し過ぎて、どんな娯楽にも、恐らく世界中で最もアクセスできる環境にある反面、実際に楽しめるかどうかは別の問題であり、ちょっと余裕のなさを感じてしまいます。
 私にとって実質的に日本で初のシーズンとなった昨シーズンは(実質的に初、という意味は、アメリカから帰国した翌年、ちょろちょろ練習を続けて横浜マラソンなどを走ったことがあるからですが、もう10年以上前のことです)、今年の2月24日で一仕事終えた気分でしたが、週一回の17キロ走は暫く続けました。ズボラな私にしては、特段、レースが控えていたわけでもないのに練習を続けられたのは、上出来でした。しかし気温が上がるにつれて辛くなり、5月の連休以降は10キロを走るのがせいぜいとなり、7月の猛暑を前に、完全に止めてしまいました。ジムに入れば、季節に関係なく安定して練習が続けられることは分かっており、実際に、治安に不安があったアメリカで一年、常夏のマレーシアで半年、ジムに通ったことがありましたが、ここは日本であり、季節の風を感じる心地好さは捨てがたいものがあります。
 そんな昨シーズンを総括グラフ化してみました。10ヶ月間(その間、一ヶ月、体調不良と出張のため中断)の通算走行距離を計算すると僅かに700キロ(マラソンに入れ込んでいないサラリーマンとしては、こんなものか)、その間、参加した最初のハーフマラソンの大会は暑さで苦戦したこともあって2時間40分もかかりましたが、東京マラソンでは2時間8分まで短縮し、ようやく2時間を切るのが見えてきました。また結果として体重は15%減量し、体脂肪率は35%落ちました。週一回の走行距離を5キロから10キロ、さらに17キロ、最終的には24キロと、徐々に伸ばして行ったという事情がありますが、体重は4ヶ月目あたりから目に見えて減り始めていることが分かります。当初、減量が進まないのは、脂肪が減る一方で筋肉がつき始めるのがオフセットされるせいかも知れません。もとより体重を減らすとか体脂肪率を落とすことが目的ではなく、事実としては、結婚してから増えた脂肪を絞り込み、独身時代の体形に近づいているだけのこととも言えますが、こうして見ると、東京マラソンのときは減量途上であり、身体がそれほど出来ていたわけではなかったのかも知れないと思うと、今年のシーズンはもう少し期待できるかも。

(参考)
「マラソン4時間の壁」 http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20130405
「マラソン足」 http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20130302
「東京マラソンへの道(9・終)」 http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20130225
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イチローの自制心

2013-08-24 11:45:23 | スポーツ・芸能好き
 イチローについては、今さら言うことなどありませんが・・・愛工大名電高からオリックスに入団した時はドラフト4位でしたが、3年目の1994年から頭角を現し、7年連続首位打者を獲得、2001年にポスティングシステムでマリナーズに移籍すると、10年連続200安打、2004年には262安打でシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新、2008年に日米通算3000安打に到達、そして一昨日には日米通算4000安打の偉業をまた一つ付け加えました。
 イチローの凄さについては、いろいろな人がいろいろなことを語っています。確かに常人からすれば、いろいろな面でずば抜けて優れているため、いろいろと凄いと思えることがあるのでしょう。そういう意味で、彼のどこが凄いと思うか、その理由を聞くことによって、彼自身のことではなくて、彼のことを語る人自身の信念なり人生観のようなものが見えてくると言う、イチローは不思議な素材です。
 私は、彼の「自制心」を挙げたい。彼が自分に厳しいことは、誰しも認めるところでしょう。平常心。克己心。似たような言葉がすぐに浮かびます。しかし、今、ピッタリくるのは「自制心」。彼のインタビューをつらつら眺めていて、一番印象に残ったのは、記念すべき4000安打の後の記者会見ではなく、さきほど4001本目の安打を放った後で、「(4000本目と)同じように大事な1本です。だって、昨日の1本が(これまでと)変わらないんだから、そりゃ、変わらないでしょ」と言ってのけられることの凄さでした。実は4000安打の時にも同じように「節目の1本も、それ以外の1本も僕には同じヒットだから」と語っていたようですし、「4000安打を打つには、8000回以上の悔しい思いをしてきた。それと常に向き合ってきた」と、常人なら必然にせよ偶然にせようまく行った場面を思い浮かべて自己満足に浸るところを、イチローはそうじゃないんだ、やっぱり違うなあ、と驚いた方が多かったと思います。
 最近、坊主頭になって、愛犬「一弓(いっきゅう)」(弓子夫人との間で仲良く一字ずつ貰ったんですね)の飼い主に相応しく、ちょっと歳食った「一休さん」風情で、外見も益々野球の求道者然として来ましたが、思い出されるのは、かつてのWBCで、あのイチローでも高揚し、「人並みに」はしゃいだ姿でした。そんな「人並み」を意外に思いつつも、微笑ましく見守ったものでした。もとよりイチローと言えども神ではありませんので、彼の「自制心」を称えつつ、彼が語っているところのどこまでが事実でありどこからが願望なのか、興味のあるところで、多分に世間に公言しながら自分を追い込んでいる、つまりはポーカーフェイスを装いながら高みを目指そうとする今は弱い自分を抱えているようにも見受けられますが、もとより知る由もありません。
 そのストイックなまでの「自制心」は、彼自身の言動とともに、彼を評する身近な人の言葉にも接して、思い至ったものでした。オリックス時代に指導した新井宏昌氏(現・広島の打撃コーチ)が次のように語っています(産経新聞の記事を引用)。

(前略)イチローが大リーグで安打を積み重ねることができたのは、パワーに“迎合”しなかったことだ。求めたのは、いかに自分のスピードを生かすかだった。
「そのために体をケアし、体幹を鍛え、体脂肪を増やさない。若いころと同じことをしているぐらいではダメでしょう。でも彼は体形、体脂肪、短距離走のタイムが10年変わらないという。それを維持していることがすごいこと」(後略)

 「水戸黄門」でお馴染みだった由美かおるさんも若い頃から体形が変わらないのは、本人の並外れた努力のお陰とは言え、魔女か妖怪かと思っていましたが、イチローも体形が変わらないとは・・・。更に、

(前略)「よく眼から衰えると言いますが、眼からの情報に体を動かす反応が遅れるんです。だから、脚力が衰えると内野安打は減るのかなと。でも、今季のイチローは内野安打が多い。まだまだそんな心配は取り越し苦労ですね」
今年1月の自主トレーニング。彼の腹筋、背筋の目標は1日1万回。それをこともなげにやってのけた。オリックスの選手や他のスポーツ選手がトレーニングに加わることもあるが、その多くは悲鳴を上げたという。さらに、驚嘆させたのはバットだった。
 「今もずっとスタイルが変わらないという。サイズ、重さ、バランス。それらがデビューしたころからずっと一緒。彼のように20年以上変わっていないのは、すごいと思う。変えなくてもよい、それだけのコンディションを維持しているということでもあるし、自分の打撃に対する自信の表れでもあるのでしょう」(後略)

 この記事ではさらに、変わらないのはプライベートでも同じで、神戸でよく行く店ではいつも同じメニュー、という、イチローらしいとは言えなんとも微笑ましいジョークが続き、イチローが「これは」と思ったことは頑なに守り続ける意思の強さ・・・しかも、美味しいものには目が無くてすぐ目移りしてしまう自分を思うにつけ、愚直なまでの、そういう意味ではちょっと尋常ではない空恐ろしいまでの強さが伝わってきます。同じ記事で、イチローが今シーズンを迎えるにあたって、新井さんのような身近な方に語った言葉の中に、彼の本音、つまり人間イチローの苦悩が垣間見えます。求道者然として近づき難いイチローが、ふと世俗に戻って人間らしさをちらっと見せる、ほっとする瞬間でもあり、こうしたところからも、彼の「自制心」に思いを馳せます。

(前略)「日米通算4千本を、今年のモチベーションとしてやります」。新井氏が今年1月、神戸で食事を共にしたイチローから聞いた言葉だ。
 昨季途中、マリナーズから、レギュラーが確約されていないヤンキースに移籍。「勝たなければならない」チームで「役立つプレー」をすることの意義を、その記録に求めたのだ。(後略)

 長嶋さんは、「けがが少なく、いつもゲームに出ているからこそ達成できた記録であり、コンディションに細心の注意を払っているイチロー選手の努力のたまものでしょう。常にグラウンドにいることは、最高のファンサービスであり、まさにプロ中のプロといえましょう」と核心を衝くコメントを寄せられました。「ベースボール」の本場アメリカでは、「野球」の日本の記録を合算することに、当然のことながらわだかまりがあり、議論もありますが、ヤンキースの同僚ジーターは、「4千安打がたとえリトル・リーグの記録であれ、今回の記録はイチがいかに安定して活躍をしてきたかを物語っている。通常ではとても難しいことなんだ」と、かばってくれたそうです。継続は力なり、などと、その昔、受験生の頃によく聞かされたものですが、とても自分はその言葉に相応しい努力を続けられなかったことを思うと、しかも加齢とともに体力の衰えを痛感する凡人としては、20歳前後から40歳前後まで21年間、まさに衰える一方の時期に、身体能力を落とさずにアンチ・エイジングを実践していることの難しさを思うと、「ベースボール」や「野球」の違いに拘るのは小さなことのようにも思えてきます。
 そんなイチローには、極端に数字が落ちることはないと想定すると、今後2年以内に、大リーグ通算最多の4256安打(あと256本、既にさきほど1本達成)と、メジャー通算3000安打(あと278本)に手が届きます。達成する姿を見たい、と言うより、達成した時のイチローらしい言葉を聞きたいと思います。
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68度目の夏(下)

2013-08-21 00:18:05 | たまに文学・歴史・芸術も
 結論から先に言ってしまうと、最近、中国は尖閣問題を領土問題から歴史問題に格上げし、韓国もまた頻りに歴史認識を問うようになりましたが、これは、かつて戦後レジームからの脱却を謳い、今、過去の植民地支配と侵略に「痛烈な反省とお詫び」を表明した「村山談話」を見直し、ひいては憲法9条を含む憲法改正を目指す安倍政権への牽制に他なりません。中・韓が、安倍総理を戦後歴史のリビジョニスト、戦後秩序への挑戦と見立て、欧米とりわけアメリカを味方に引き入れて、憲法改正を阻止する試みではないかと思うわけです。つまり中・韓は憲法9条改正を恐れているのではないか。私のただの妄想ですが。
 堤堯さんの「昭和の三傑~憲法九条は「救国のトリック」だった~」(集英社文庫、原著は、2004年、集英社インターナショナル刊)を読みました。憲法9条と言えば、第一項に「戦争放棄」を謳い、これ自体は不戦条約(1928年)にも見られ、目新しいものではありませんが、第二項の「戦力放棄」は、あの南原繁(貴族院議員、のち東大総長)氏が「人類ある限り、戦争は歴史の現実だ。この現実を直視して、少なくとも国家の自衛権と兵力を備えるのは当然だ」と主張した(後に、自衛隊の創設には反対して、吉田茂から「曲学阿世の徒」呼ばわりされた)ように驚愕を以て迎えられた、いわくつきの条項です。発案者はGHQ総司令官マッカーサーで、天皇制存続と引き換えに「押し付けた」もの、とするのが定説ですが、堤氏は、幣原喜重郎の発案、いわば“入れ知恵”であり、つまりは9条は「詫び証文」ではなく、早期講和=主権回復のために差し出す「非戦の証文」だったと主張されます。幣原を継いだ吉田茂は、「戦争放棄はマックが言い出した」と示唆し、それを盾にして、特使ダレス国務省顧問(後に国務長官)の執拗な再軍備要求を強く拒み続け、結果として、日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずに済み、軽武装で、経済復興に邁進することが出来ました。その吉田茂はしかし先を見通してこうも述べているそうです。「知恵のない奴はまだ占領されていると思うだろう。知恵のある者は番兵を頼んでいると思えばいい。しかしアメリカが引き揚げると言い出すときが必ず来る。そのときが日米の知恵比べだよ」。更に晩年には「自分の国は自分で守らなくちゃいけません。どうですか、ここらで日本も核武装の一つも考えてみては」と発言して「反動政治家」と叩かれ、「いったん決まったことを変えるのが、これほど難しいとは思わなかった」(「大磯随想」)と、後悔ともつかぬことを呟いているそうです。憲法9条は日米安保と相俟って、日本人の「精神の自立」を失わせた負の遺産だったと批判する声が多いのは事実ですが、それは飽くまで後知恵であり、三傑(鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂)にとって、とりわけ憲法9条二項は、日本の真の自立を目指し、敗戦処理外交を真摯に進める中で使った方便、標題にあるように「救国のトリック」であり(トリックをかけた相手は、言うまでもありません、知恵を授けて花を持たせたように見えたマッカーサー元帥その方です)、後世に改めることを託した「当用の時限立法」だった、というわけです。
 憲法改正を巡っては、「押しつけ」憲法だから(無効とまでは言わないまでも)自分たちの手で改正すべし、と主張する改憲論者がいるように、仮に「押しつけ」でも良いものは良いと開き直る護憲論者もいて、不毛な議論になりがちです。ところが、「押しつけ」ではなく、日本人の発案で、主体的に選択したものだったとすると、憲法9条が日本人の「精神の自立」を失わせた負の遺産だという厳然たる事実は変わらないものの、違った視界が開けてくるような新鮮な驚きを覚えます。何より、当時の「三傑」をはじめとする知性と比べ、戦後60年以上もの長きにわたって、同じ敗戦国ドイツは毎年のように憲法改正して来たのに比べ、我が国は一度も憲法を改正しなかった知的怠慢は明らかであり、アメリカによる金縛りに遭ったと言い訳できず、ひとえに国民の責に帰すべき事由に転化されてしまいます。
 こうして、戦後憲法が、日本人の発案で、主体的に選択したものだったことが分かっていれば、先日、麻生さんが、結局、何が言いたかったのかよく分からない講演の中で、辛うじて、「狂騒の中で」「狂乱の中で」「喧騒の中で」「騒々しい中で」「(憲法改正を)決めてほしくない」という、私たちにもなんとか伝わったメッセージ通りに、もう少しまともに実現できていたかも知れません。
 堤さんの本書は、先の戦争の終結を巡る様々のエピソードが満載で興味深い上に、標題の論証は刺激的で、憲法改正論議に複眼的な視点を与えてくれる好著と思います。
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68度目の夏(中)

2013-08-18 14:09:40 | たまに文学・歴史・芸術も
 堀越二郎さんの著作「零戦~その誕生と栄光の記録~」の中にも、当然のことながら、特攻隊の記述が出て来ます。抑制の利いた短い文章ながら、行間に、零戦の主任設計者としての無念の思いが滲んで、胸に迫ります。

(前略)余りにも力の違う敵と対峙して、退くに退けない立場に立たされた日本武士が従う作法はこれしかあるまいと、私はその痛ましさに心の中で泣いた。ほどなく私は、この神風特攻隊の飛行機として零戦が使われていることを知った。また、何もかも戦争のためという生活に疲れ、絶望的になりかけていた国民を励ますように、「ベールを脱いだ新鋭戦闘機」として、零戦の名が新聞その他に公表されたのは、この直後の(昭和19年)11月23日のことであった。(後略)

 この文章のあと、ある新聞社が「神風特攻隊」という本を出版するので、特攻隊を称える短文を書いて欲しいと頼んだ各界10人に選ばれて、苦悩の末に寄稿される経緯が説明されます。あのご時勢ですから、書くことには制約があります。その一部を紹介しながら、次のような言葉で結んでいます。

(前略)私がこの言葉に秘めた気持ちは、非常に複雑なものであった。その真意は、戦争のためとはいえ、本当に成すべきことを成していれば、あるいは特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないかという疑問だった。(後略)

 手塩にかけて育て、かつては向かうところ敵なしの「名機」と称えられた零戦が、ろくに活躍の場を与えられることなく、パイロットとともにある時は敵艦船に突入し、またある時は海の藻屑となって散って行く姿は、想像するだに哀しいことだったでしょう。アメリカはこの特攻を狂気の沙汰と恐怖したと言われますが、私たち日本人は武士道を知るが故に、僅かながらも理解の範疇にあります。それだけに、堀越二郎さんには、私たち以上に遣り切れない思い、空しさが強かっただろうと思います。日本人としてむざむざと、ただ白旗を挙げて負けるわけにはいかない、特攻はいわば負けるための儀式のようなものだったのではないかと、私は今にして日本人の性(サガ)を哀しく思います。無論、やり場のない憤りはありますが、それを押し殺して、死に向かう者たちが残された者たちに残す、無言ながら強烈なメッセージ性を感じ、良くも悪くも日本人であることの性を哀しく思います。
 ジョージタウン大学のケヴィン・ドーク氏は、中国が日本の政治家の靖国参拝に反対するのは、公式には「軍国主義の復活」を理由に挙げますが、そうではなく、日本人のもつ宗教や信仰の力を恐れているからではないかと述べています(Voice 8月号)。

(前略)中国が反対する真の理由は、信仰の力によって日本人が一つに結束することです。靖国神社の性質についてはさまざまな見方がありますが、神道という信仰には精神的な側面、目に見えないような力があります。そうした力を、一党独裁の中国共産党は恐れているのではないでしょうか。(後略)

 そして、アメリカ国務省が、毎年、世界の宗教について報告書を出しており、宗教弾圧する国の上位にいつも中国が入っていることからも分かる通り、中国には、法輪功やチベット仏教だけでなく、あらゆる宗教を体制の脅威とみなす、「宗教に対する恐怖症(phobia)」があり、唯物史観と無神論を唱える共産主義の思想と関係があると分析されています。
 果たして今の中国にどこまで共産主義思想が残っているのか疑問ですが、少なくともドーク氏の分析は、当のアメリカ人にも当てはまるのではないかと思います。アジアで唯一植民地になることを免れ、開国後50年で当時の先進国のロシアを破って五大国に登りつめ、零戦を産みだす合理性にあふれた科学・技術力を有しながら、特攻を許容する精神主義を併せ持つこと自体、東洋の神秘そのものです。だからこそ、アメリカはGHQの戦後改革の中で日本解体を企図し、国の基本法である憲法を書き換えただけでなく、民族のアイデンティティを育む歴史すらも書換え、さらに当面の統治のために天皇を利用しながら、皇族を昭和天皇の兄弟に限定することによって皇統を危うくせしめたのでしょう。端的に、アメリカは、日本を敵(冷戦時代のソ連や、現代の中国)に渡したくない、しかし自立もさせたくない、ために、今もなお沖縄をはじめ首都圏の空域まで、半占領状態を続けているのでしょう。
 そんなことをつらつら思いながら、15日の靖国参拝の報道、つまり翌16日の各社の社説を読んでみると、複雑な思いに囚われます。最右翼と言ってもよい産経新聞は、「首相が参拝しなかったのは残念だが、春の例大祭への真榊(まさかき)奉納に続いて哀悼の意を表したことは評価したい。首相は第1次政権時に靖国参拝しなかったことを『痛恨の極み』と繰り返し語っている。秋の例大祭には、国の指導者として堂々と参拝してほしい。」と述べました。相変わらず勇ましい。片や最左翼と言ってもよい朝日新聞は、「(安倍首相の参拝)見送りは現実的な判断と言えるだろう。首相が、過去とどう向きあおうとしているか。中韓のみならず、欧米諸国も目を凝らしている。靖国問題だけではない。先に首相が『侵略の定義は定まっていない』と、日本の戦争責任を否定するかのような発言をしたことなどが背景にある。対応を誤れば、国際社会で日本の孤立を招く。そのことを首相は肝に銘じるべきだ」と述べた上、全国紙(朝日・毎日・読売・産経・日経)の中で、唯一、「政府主催の全国戦没者追悼式で、首相の式辞からアジア諸国への加害責任への反省や哀悼の意を示す言葉が、すっぽりと抜け落ちた」ことを批判しました。「気になるのは、式辞からなくなった言葉が、植民地支配と侵略によって『アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた』という95年の村山首相談話の表現と重なることだ。首相はかねて村山談話の見直しに意欲を示している。そうした意図が今回の式辞に表れたとするなら、とうてい容認できるものではない。(中略)歴史から目をそらさず、他国の痛みに想像力を働かせる。こんな態度が、いまの日本政治には求められる」と結んでおり、まるで言い回しを柔らかくした中国・人民日報か環球時報のようです。
 勿論、さまざまな意見を表明できるのは、お隣の中・韓とは比べようもない、自由な社会の証拠であり、有難いことですが、68年を経てなお、あるいは冷戦崩壊後24年またソ連崩壊後22年を経てなお、東アジアだけでなく日本という国内にいわば冷戦状態が続き、国のありように迷いがある上、近隣諸国に利用されかねない状況は、必ずしも好ましいものではありません。次回はこの元凶とも言える憲法9条について書きたいと思います。
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68度目の夏(上)

2013-08-16 02:35:14 | たまに文学・歴史・芸術も
 映画「風立ちぬ」はまだ見ていませんが(暑さですっかり出不精です)、主人公・堀越二郎さんの「零戦~その誕生と栄光の記録~」(角川文庫、原著は1970年3月カッパブックス刊)を読みました。零戦の主任設計者として、限りある資源の中で相反する性能実現の要求を突き付けられながら、苦悩と不屈の精神の末に、世界に冠たる「名機・零戦」に結実していくプロセスが切々と綴られます。その中にこんなくだりがあります。

(前略)技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とは違って、いつも厳しい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事を成し遂げるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破って行くだけの自由な発想が必要なこともまた事実である。(中略)私が零戦をはじめとする飛行機の設計を通じて肝に銘じたことも、与えられた条件の中で、当然考えられるぎりぎりの成果を、どうやったら一歩抜くことが出来るかということを常に考えねばならないということだった。思えば零戦ほど、与えられた条件と、その条件から考えられるぎりぎりの成果の上に一歩踏み出すための努力が、象徴的に表れているものは滅多にないような気がする。(後略)

 描かれているのは、技術者の苦悩と喜び、そしてつまるところは矜持であり、その背後には、「まえがき」にあるように、資源に乏しい我が国が「技術の水準も、それを支える人の数も、まだまだ十分とは言えない。そのような日本にあって、これからの若い世代が、たんに技術界だけでなく、すべての分野で日本の将来をより立派に築いていくために、誇りと勇気と真心をもって努力されることを念願」する思いがあります(念のため、1970年当時のことです)。その神髄は本書を読んで頂くことにして、零戦という、まさに当時の日本を象徴するような存在を産みだした一人の、しかし飛び切り優秀な技術者が横目で眺めた大東亜戦争における日本のありように、ちょっと注目してみたいと思います。
 零戦は、間違いなく世界に冠たる「名機」でした。こんなエピソードが紹介されています。開戦後、オーストラリア、ニュージーランド、ジャワなどに分散していた日本人約3,000名がオーストラリアのキャンプに収容された際、キャンプの監督将校たちは、三菱商事の社員4名に対し、三菱重工と三菱商事の区別をせず、ただ「三菱」という名前だけで、「君たちは、あの強いゼロ・ファイターを製作している三菱の社員だろう」という尊敬の眼差しで接し、敵ながら天晴れだと言わんばかりに、精神的な礼遇をしてくれ、そこには報復的な憎悪感は全く見られなかったそうです。もっとも、開戦当初で、泥沼の戦争の悲惨を味わう前の、やや呑気でお気楽な気分が感じられますし、職業軍人だからこそ分かる世界もあるのでしょう。
 確かに、開戦以来、日・米の量的な差は明白で、量的な劣性を質的な優性で跳ね返す戦法でなんとか凌いでいた日本軍でした。しかし、まさに開戦初期、アリューシャン作戦に参加し無人島に不時着した殆ど無傷の零戦一機をアメリカが入手してから、零戦の運命は変わり始めます。アメリカのパイロットたちは、当初、「退避してよいのは、雷雨に遭ったときと、ゼロに遭ったとき。ゼロとは絶対に一対一の格闘戦をするな」という指令が出されたほど、謎の飛行機と言われた零戦に、飛行試験を含むあらゆる角度からの調査を施し、その長所と短所を完全に知るに至り、率直に零戦の優位を認めたアメリカは、零戦から制空権を奪う新しい戦闘機と、日本国内の生産活動にとどめを刺す戦略爆撃機の完成に技術開発力を集中し、それ以外の中間的な機種を新しく開発するのを中止した形跡が歴然としてたといいます。片や技術マンパワーに劣る日本こそ、挙国一致の重点政策に切り替えるべきだったのに、開戦から二年経っても、航空機開発には、依然、総花主義が行われ、こうした技術政策の不味さが、初めから終わりまで零戦に頼らざるを得ない事態を招き、ひいては日本軍の決定的敗北に拍車をかけていったと見ます。
 そもそも日本は、先進国に比べてエンジンの馬力が常に2~3割少ないにも係らず、飛行機の性能で張り合って行かなければならないため、数々の要求の内から正しい優先順位を見つけ出し、その順位によって飛行機を具体化して行かなければならない運命にありました。例えば防弾は、爆撃機と違って、零戦のような戦闘機では、飛行機の性能とパイロットの腕である程度補うことが出来るため、優先順位が低く、防弾に費やす分だけでも重量を減らして運動性を良くし、攻撃力を増すほうが有利でした。ところが、ある時から、すなわちパイロットの熟練度が低く(名パイロットが失われたせいですが)、しかも量と量とで戦う場面が多くなるにつれて、防弾の必要性が説かれるようになったといいます。
 また、零戦の生産は、終戦の日まで6年間続けられ、三菱、中島両社で合わせて10,425機に達しましたが、終戦前年11月迄は、三菱の工場だけで月産100機を下らなかった生産は、終戦前月には僅か15機がやっとという状態だったそうです。飛行機生産の最大の支障となるのは原料の補給(燃料のガソリンの原料である石油と、機体に使うアルミ合金に欠かせないボーキサイト)であり、敵潜水艦によって南方からの原料の輸送が遮断されるようになったこと、マリアナ陥落後、アメリカの一大基地が出来て、B-29による本格的な本土空襲が始まり、飛行機生産だけでなく、あらゆる活動が不自由になったこと(その後、重要工場も緊急分散発令が出されました)、そして、終戦前年の12月7日、東海地方に死者1千人も出るような大地震が起こり、三菱の工場も一部崩壊し、悪い時には悪いことが重なるものだと述べておられます。
 大東亜戦争において零戦が全てではありませんが、南方戦線では極めて重要な一翼を担い、その趨勢には貴重な教訓が込められているように思います。つまり、今さらながらではありますが、日本は、資源に制約があること、そのロジスティクスが重要であること、そして資源の制約を乗り越える技術力が生命線であること。これらを克服することが国家の存命の基本になければならないように思います。そして世界の潮流として(その時の世界とは欧米を中心とするものですが)平和を希求するのは素直な感情であり、その場合、価値観を同じくする世界と仲良く付き合っていくことが絶対的に必要な条件ですが、地域を眺めると、それとは明らかに異なる価値観を抱き、覇権を目指す隣人がいる現実を見逃すわけには行きません。68度目の終戦記念日あるいは原爆記念日を迎え、戦争は今さら起こって欲しくないですし、原爆のような大量破壊兵器には今もなお憤りを覚えますが、だからと言って、原発やオスプレイ配備に素直に反対することにも抵抗を覚えざるを得ません。そこが東アジアという価値観が違う国が混在する地理の難しさなのでしょう。本当に悩ましい。
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男子ゴルフ世界ランク29位

2013-08-14 21:46:48 | スポーツ・芸能好き
 松山英樹プロが、メジャー最終戦の全米プロゴルフ選手権で19位タイに食い込み、世界ランキング29位に浮上したそうです。弱冠21歳、今年、プロに転向したばかりで、国内ツアー8戦して、1度予選落ちした以外は全てトップ10入りを果たし、優勝2回、2位2回、賞金ランキングは堂々の1位と、圧倒的な強さを見せたばかりでなく、米国ツアーでも6戦して、予選落ちは1度だけ、全米オープン10位タイ、全英オープン6位タイなど、華々しい戦績をおさめました。
 Wikipediaには、「性格は天然ボケ」、「大舞台でも物怖じしない度胸の良さが武器」だとあります。丸山茂樹プロも、松山のメンタル面の強さを高く評価し、「多くの期待を背負って(中略)相当(神経は)図太いですよ。普段はかわいらしい感じの21歳だなって感じがするけど、試合になったらいい意味で、その図太さが表に出てくる」と語りました。東北福祉大の阿部監督は、「普段はどこにでもいるような21歳だし、性格もマイペース。新幹線で財布を忘れるし、相変わらず寝坊も多い。そういう”鈍感力”のようなものの反動で、ティーグラウンドに立てば、勝利をひたすら目指すプロゴルファーの顔になる」と、彼の安定した成績をいわば「鈍感力」にあると語りました。初のメジャータイトルに手が届きながら最後に惜しくも取りこぼした日本プロゴルフ選手権の時の進藤キャディーは、彼が好結果を残せているのは、ダボやトリプルを打っても、日本プロ2日目のように2打罰があっても、常に前を向いていく、松山の高い志を挙げています。ゴルフは実にメンタルなスポーツと言われ、私のような素人で人間も出来ていないと、調子よく始めても、たった一度の池ポチャやOBから大叩きをして立ち直りに時間がかかり、上がったらスコアは変わらないというのが常なわけですが、そんなド素人と比較されるのは迷惑でしょう。彼には、立ち直りの早さと言うよりは、メンタルな部分とおよそ無縁で、タイガー・ウッズのような世界の一流プレイヤーと一緒にラウンドしても、普通のプレイヤーなら彼らから何がしか学ぼうとするところ、彼はどうやったら勝てるかを考えると言って、どうも彼からは「人」の要素が抜け落ち、ゴルフという自然との闘いに淡々と突き進む、無心の強さを感じさせます。
 比較されるとすれば、大学4年でプロになった松山と同学年ながら、一足早い高校1年(16歳3ヶ月24日)の史上最年少でJGTOツアープロとなって以降、史上最年少記録を次々に更新した石川遼プロでしょう。今季、米国ツアー21戦して、予選通過は10回、トップ10は僅かに1回と振るいませんでした。あるTV番組で、石川プロは最近調子が良くないが、と聞かれた丸山プロは、日本であれば強い石川遼は健在だと断言しました。婉曲的な言い方ながら、日本と海外とではレベルが違う、日本では通じても世界では通じない、とりわけ米国ではタダモノではない選手たちと戦わなければならない過酷さを言いたいようでした(もっと言うと、2000年代にPGAツアーに本格参戦し、日本人選手として初めてPGAツアー3勝を挙げた自身の快挙を自慢したいような(笑))。
 明らかに期待は石川から松山に移りつつありますが、松山は今後もこの勢いを継続できるかどうかが課題ですし、石川はPGAツアー本格参戦の今年の屈辱を糧に再起して欲しいと思います(と言いながら、石川のことは、何故か心に響かなかったため、これまでブログにも書きませんでした)。1970年代後半から1980年代にかけて日本のプロ・ゴルフ界をリードした青木・尾崎・中島(所謂AON)は実は同年代ではなく、青木と中島は12歳も離れていました。松山、石川の同学年コンビに、6歳違いの池田勇太あたりも加えて、日本のゴルフ界を盛り上げて行って欲しいと思います(と言いながら、やはり松山に期待したくなります)。
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麻生発言

2013-08-10 18:12:23 | 時事放談
 暑さ続きで、ブログに向き合わないまま時間ばかり過ぎて行きますが、気になるニュースはいくつかありました。その中で、もはや旧聞に属しますが、麻生副総理が、憲法改正論議に関連してナチスを引き合いに出した失言騒動は、政治とメディア報道に関わる普遍的な問題を含んでいそうなので、ちょっと思い出してみたいと思います。
 先ず事実関係の確認から入ります(実は、全文、少なくとも彼の肉声を確認するまではブログに書きたくなかったのでした)。麻生さん発言の全文と思しきものをネットで検索し、また肉声のかなりの部分をYouTubeで聞いて、私なりに確認した内容を参考までに以下に掲載します。ご覧の通り、支離滅裂で分かりにくいのですが、文脈から判断する限り、どうも問題発言があったとは思えません。メディアで報道されている不適切な一節「ワイマール憲法がいつの間にか・・・ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気がつかないで変わったんだ。あの手口に学んだらどうかね」の中の最後の一文は、文章に起こすと平板になって、そのまま読むと誤解するかもしれませんが、ナマの声を聞くと、明らかにトーンが変わって付け足しのように添えられた言葉であり、会場で笑いが起こっていますから、麻生さんらしいブラックがつくジョークで反語的に語られたものであることは明らかでした。
 この発言があった場は、国家基本問題研究所の月例研究会で、主催者兼討論会の司会だった櫻井よしこさんが、当日の様子を語っておられます(産経新聞8月5日)。それによると「日本再建は憲法改正なしにはあり得ない。従って主題は当然、憲法改正だった」し、「月例研究会に麻生副総理の出席を得たことで改正に向けた活発な議論を期待したのは、大勝した自民党は党是である憲法改正を着実に進めるだろうと考えたからだ」ったそうですが、「蓋を開けてみれば氏と私及び国基研の間には少なからぬ考え方の開きがあると感じた。憲法改正を主張してきた私たちに、氏は「自分は左翼」と語り、セミナー開始前から微妙な牽制球を投げた」というのです。そして「『憲法改正なんていう話は熱狂の中に決めてもらっては困ります。ワァワァ騒いでその中で決まったなんていう話は最も危ない』『しつこいようだが(憲法改正を)ウワァーとなった中で、狂騒の中で、狂乱の中で、騒々しい中で決めてほしくない』という具合に、氏は同趣旨の主張を5度、繰り返した」そうです(確かに、数えていませんが、下記の<発言全文>にも何度も出て来ます)。結局、櫻井よしこさんは「憲法改正に後ろ向きの印象を与えた麻生発言だった」と結論づけています。
 こうした主催者側の、またYouTubeで肉声を聴いた私のような部外者の印象に対して、多くのメディアの報道は、明らかに異質なものでした。既にあちらこちらで批判が渦巻いていますが、一部を切り出して文脈を捻じ曲げ、あるいはナチスという言葉だけに反応して反民主主義的とのレッテルを貼った結果が、全世界にあっという間に伝わり、中・韓が便乗するのはもとより、米国のユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・ロサンゼルス)も非難声明を出すに至り、麻生さんは発言撤回を余儀なくされたのでした。誤解をリードしたのは相変わらずの朝日新聞で、天声人語(8月1日)は、「熱狂の中での改憲は危うい、冷静で落ち着いた論議をすべきだという考えなら、わかる。なぜこれほど不穏当な表現を、あえてしなければならないのか。言葉の軽さに驚く。」などと、麻生さんが発言で意図したこととジョークで付け足したことを完全にひっくり返してしまいました。国語力の問題などと揶揄する声もありますが、そうではなく、マスコミは(とりわけ反日を社是とするかのような朝日新聞は)自分が聞きたいようにしか聞かないし、話したいようにしか話さないものだと、思わざるを得ません。従軍慰安婦問題が、もとを辿れば朝日新聞の誤報に始まったのはよく知られるところですが、何の反省もなく、あの世紀の誤報の系列に連なることが繰り返されていると思うと、ちょっと哀れですらあります。
 思い出されるのは、橋下発言との共通性です。人はいちいち原文や全文に当たって確認するほどヒマではなく(私のような酔狂を除いて)、怪しいと訝りつつも報道を聞き流したり、(内容を気に入れば)そのまま鵜呑みにしたりする人が大部分で、いつの間にか世論が形成されて行きます。決して中・韓のように初めから日本を叩こうと手ぐすね引いて待っているわけではない他の外国政府ですらも、文脈から判断すれば弁解の余地ありと仮に認めていたとしても、報道によって一定の世論が形成され、とりわけ橋下発言のときは女性人権団体が、また今回はユダヤ系人権団体が過敏に反応してしまうと、そこに配慮した政治的発言をせざるを得ない世の中であることに、気をつけなければなりません。
 そういう意味でも、麻生さんは、近所に住んで入れば面白いオヤジだと思うでしょうが、政治家としては脇が甘いと言わざるを得ません。参院選前には、安倍総理はじめ周囲からさんざん失言注意報が繰り出されたと言われ、さすがの本人も気を引き締めて緊張していたことでしょうが、選挙が終わった途端、気が緩んで、いつもの失言癖が出てしまったのでしょうか。麻生さんに限らず、脇の甘い政治家と、何かと言葉尻を捉えて足を引っ張ろうとするマスコミが、結果として国益を損なう茶番劇を演じることほど、情けないものはありません。中・韓という、日本を貶めることに生き甲斐を求めるご近所さんがいるのは、嘆かわしくも、価値観を異にする人たちの行うこととして諦めざるを得ませんが、折角、法による支配や自由や民主主義などといった人類の普遍的価値観を共有すると宣言していながら、欧米や東アジアを除くアジアやその他のコミュニティから、白い目で見られかねない事態だけは避けなければならないと、心から憂える次第です。

<発言全文>
 (このカッコ内は要約的なものも含む「全文」と称するものからのコピペ: 護憲と叫んでいれば平和が来ると思っているのは大間違いだし、改憲出来ても世の中、全て円満にと全然違う。改憲は単なる手段だ。目的は国家の安全と安寧と国土、我々の生命、財産の保全、国家の誇り。)
 一番最初に申し上げたように、わーっとなった中で、狂騒の中で、狂乱の中で、騒々しい中で、決めて欲しくない。ちょっと皆さんよく落ち着いて、我々を取り巻く環境はなんなんだと、この状況を良く見て下さいと、いう世論というものの上に、憲法改正は成し遂げるべきなんだと、そうしないと間違ったものになりかねない、ということを思うわけです
 最後に、僕は、今、三分の二という話を、よくでてきますけども、じゃあ伺いますが、ドイツは、ヒトラーは、ありゃ民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーというのは、いかにも軍事力で取ったように思われて、全然違いますよ。ヒトラーは選挙で選ばれたから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違えんでくださいよ、これ。そして彼は、きちんと、ワイマール憲法という、当時、ヨーロッパで最も進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきたんだから。だから常に憲法は良くても、そういったことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないのであって、私どもは憲法はきちんと改正すべきだと言い続けていますけども、その上で、これをどう運営していくかと、これはかかって皆さん方が投票する議員の行動であってみたり、またその人たちのもっている見識であったり、矜持であったり、そういったようなものが最終的に決めてくる。
 (このカッコ内もコピペ: 私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから。それなりに予算で対応しておりますし。事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が。ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。この人たちの方が、よほど、喋っていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。喋っていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。
 しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて。おれたちは作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。そのときに喧々諤々、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。「ちょっと待ってください、違うんじゃないですか」と言うと、「そうか」と。偉い人が「ちょっと待て」と。「しかし、君ね」と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、「そうか、そういう考え方もあるんだな」ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。
 靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。)僕は、この4月28日、忘れもしません、4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからといって、月曜日だったか、靖国神社に連れて行かれたましたよ。それが、私が初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、まあ、結構歳くってからも、毎年1回、必ず行っておりますけれども、そういったような意味で言ったときに、わーわーわーわー騒ぎになったのは、いつからですか、これは。昔は静かに行っておられましたよ。各総理大臣もみな行っておられたんですよ、これは。いつから騒ぎにしたんです。マスコミですよ(拍手)。違いますかね(拍手)。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやあ、と言うんです。憲法は、ある日、気が付いたら、ドイツが、さっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつの間にか変わっていて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気がつかないで変わったんだ。あの手口に学んだらどうかね(笑)。もうちょっと、わーわーわーわー騒がないで、本当にみんな、いい憲法だからといって、それをみんな納得してから、あの憲法変わっているからね。だから是非、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりは全くありませんし、しかし私どもは、重ねて言いますが、喧噪の中で決めないで欲しい。
<了>
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こうのとり

2013-08-06 00:40:34 | 日々の生活
 「こうのとり」という、なんとも微笑ましい名称は、国際宇宙ステーション(ISS)に物資を輸送する無人の宇宙ステーション補給機(H-II Transfer Vehicle、略称: HTV)につけられた愛称です。赤ん坊や幸せといった大切なものを運ぶイメージから命名されたそうですが、見た目は味も素っ気もない、直径4m、全長10m、観光バスが収まるほどの大きさの、円筒形の宇宙船です。昨日、国産大型ロケット「H2B」4号機に搭載されて、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられ、約15分後には正常に分離され予定軌道に投入されました。順調に行けば、5日間ほどで国際宇宙ステーションに到着するそうです。
 どんなものを輸送するのかと言うと、国際宇宙ステーションの運用に必要な配電装置などの交換品のほか、宇宙放射線の影響を調べるために凍結乾燥させたマウスの精子や、子供たちの教育目的で地上と宇宙とで育ち方の違いを調べるアズキの種などの実験材料、11月以降にISSに滞在する若田光一さんと会話実験を行う小型ロボット「KIROBO」、乾燥ラーメンや山菜おこわなどの食料品や水、衣料など、物資は総計6トンにも達するそうです。
 それはともかく、驚くべきは、国際宇宙ステーションが「こうのとり」をどうやって捕獲するのか、というところです。国際宇宙ステーションと言えば、地上約400km上空の熱圏を、秒速約7.7km(時速27,700km)、地球を約90分で1周するほどの高速で飛行しています。「こうのとり」も、国際宇宙ステーションを追って高速飛行し、接近したところを、ロボットアームの手動操作で捉えられ、ドッキングするのだそうです。想像を絶する世界ですね。
 しかし、広大な宇宙で絶妙のコントロールでランデブーを果たす「こうのとり」も、補給が済むと、用途を終えた実験機器や使用後の衣類などを積み込み、大気圏に再突入して燃やされるという、悲しい使い捨ての運命にあります。宇宙航空研究開発機構(JAXA)では、「こうのとり」の運用を通じて、将来のフリーフライヤーや有人輸送の基盤となる技術の蓄積が可能と説明するように、日本の技術力が宇宙の領域でも発揮されつつあるのは喜ばしい限りで、「こうのとり」としては、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、といったところでしょうか。
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世界水泳

2013-08-03 14:21:06 | スポーツ・芸能好き
 バルセロナで水泳の世界選手権が開催され、熱戦が繰り広げられています。これまで、女子では寺川綾さんが50メートルと100メートルの背泳ぎで銅メダル2つ、男子では萩野公介さんが400メートル自由形と200メートル個人メドレーで銀メダル2つを獲得しました。萩野さんに注目しています。
 彼は、高校生で出場した昨年のロンドン五輪400メートル個人メドレーで、フェルプスに競り勝ち、銅メダルを獲得したのが印象的でした。東洋大1年生として出場した、この世界水泳の代表選考を兼ねた4月の日本選手権では、彼自身も尊敬するという入江陵介に200メートル背泳ぎで6冠を阻止されたものの、100メートル背泳ぎ、200&400メートル自由形と200&400メートル個人メドレーの5種目で優勝する圧巻の強さを見せつけました。古くはミュンヘン五輪のマーク・スピッツ、最近では「水の怪物」マイケル・フェルプス(1985年アメリカ生まれ、193センチ、91キロ)やライアン・ロクテ(1984年アメリカ生まれ、188センチ、84キロ)のように、複数種目で活躍する選手が日本でも現れたかと感慨深いものがあります。萩野は、彼らより10歳下で、体格もひと回り小さい(175センチ、70キロ)。それでも、個人6種目にエントリーし、一日に決勝レース2本や、予選と準決勝レース2~3本をこなしながら、これまで5種目全てで決勝に進出し、先ほども触れたように銀メダル2個を獲得する快進撃が続いています。
 それにしても、若いとはいえ、複数種目をこなす体力は大したものです。日本代表をサポートするトレーナーの小沢邦彦氏は、「1本1本のレースで全力を出し切れて、しかも回復が早いという良い質の筋肉を持ってる」「彼の強さを支えているのは、体幹を使った効率のいい泳ぎ」「腕や脚などの細かい筋肉をメーンに使って泳ぐと疲労がたまりやすく、後半の泳ぎに伸びがなくなってしまう。しかし、体の大きな体幹部分を動かして、その力を末端部分に伝える動きができれば、腕や脚の疲労はかなり軽減され、後半にしっかりと力を発揮できる」と言います。また、萩原智子さんも、「水面を滑るように進む彼の泳ぎは、まるでアメンボのように優雅だ」と形容し、彼の泳ぎは「究極のエコ」だと解説されていました。「水泳は、泳ぎの中でどれだけ水の抵抗を減らすかが、大きなポイントになる」、「体が水面によく浮くということは、抵抗の少ない泳ぎができているということ」、では、どうして水面に浮くことができるのかというと、ストロークの際、手が入水しキャッチ(手で水をとらえる動作)する姿勢が、彼の場合、しっかり肩甲骨を広げ、伸びているのにもかかわらず、手―腕―肩の落ち込みが少ないため、水面の高い位置で、手―肩―胴体―足まで一直線に体を保つことができ、水の中を移動するのに一番抵抗が少ない形になっているのだそうです。「その一直線の状態のまま強烈なキックを打つことで、高い推進力が発揮される」というわけです。爆発的なラスト・スパートは、萩野選手の泳ぎが、無駄なエネルギーを使うことがないエコ泳法から生まれていると言えそうです。
 北島康介もそうでしたが、無駄な動きがなく燃費が良い泳ぎというのは、100分の1を争う世界を勝ち抜く一流選手には必須の条件のようですね。水泳だけでなく、体操の内村航平や、ゴルフの松山秀樹など、体格では劣っても技術で十分に世界に伍することが出来ることを実証してくれて、日本人として勇気が出ます。
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