風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

九月の風

2023-09-30 18:43:11 | スポーツ・芸能好き

 9月末なのに猛暑日を記録するほどの地域がある一方、東京界隈は虫の音が優しく響いて(と、雑音に感じないのが日本人らしさ)、すっかり秋の気配。

 夏の歌と言えば、サザンオールスターズ(の「真夏の果実」)やTUBE(の「あー夏休み」)、更に遡れば井上陽水(の「少年時代」)が浮かぶワンパターンの旧世代だが、夏の盛りを過ぎて秋風が心地よいこの時分、華やいだ夏の暑さを懐かしむ九月には忘れられない曲がある。

 竹内まりあの「September」(1979年)や、Earth, Wind & Fireにも同じタイトルのダンス・ミュージックがあるが(1978年、もっともクリスマスに9月を懐かしむという趣向らしい)、私にとってはラテン・ジャズ、ラテン・フュージョンのピアニスト・松岡直也の「九月の風」(1982年)が忘れられない。同名のベスト・アルバムは、オリコンチャート第2位、半年間30位以内にチャートインするなど、インストゥルメンタル・ミュージック界では珍しいヒット作となった(Wikipedia)。

 松岡直也と言っても、もはや知る人は少ないだろう。中森明菜の楽曲の中ではちょっとユニークな「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」の作・編曲を手掛けたことがあるし、わたせせいぞう作『ハートカクテル』(日テレ)の音楽を担当したこともあり、珍しいところではプロレスラー・藤波辰巳(現・辰爾)の入場テーマ曲「Rock Me Dragon」を作曲したこともある。学生時代、長距離ドライブでBGMに松岡直也を流したら、クラシック好きの友人から「軽いな」の一言。当時、ジャズに傾いていた私は仕方なくWeather Reportに代えると、その友人曰く「これはまだマシやな」。そりゃクラシックの重厚さと比べれば軽いのかも知れないが、音楽の良し悪しは別であろう。松岡直也さんはラテンに傾倒されていたとは言え、底抜けに明るいだけではない、日本人の心に響く叙情がある。

 サザンオールスターズにも同名タイトルの曲(1993年)があるが、サザンには歌詞に「九月の風」が登場する、隠れた!?名曲がある。「I’ll Never Fall in Love Again」(1983年)で、当時の私の傷心を癒してくれた(笑)という意味で思い出深い。九月はとげとげしい暑さが和らいで曖昧な秋へと移ろい、宴が終わった侘しさが心に沁みて浮かれ気分が名残り惜しくもあり、落ち着いた季節へと向かう静けさが心を優しく逆撫でする。

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今年のプロ野球

2023-09-26 01:23:27 | スポーツ・芸能好き

 巨人の自力でのCS進出が消滅した。Aクラス入りを狙うという低い目標設定は屈辱的で、今年も巨人は弱かった。ここ数日で朝晩はすっかり秋めいてきたが、私の心の中はずっと以前から秋風が吹き晒している(笑)

 坂本は復帰すれば存在感が大きく、三塁コンバート後は更に調子を上げてきたが、菅野は復帰後も調子がピリッとしない。若手の台頭がいまひとつ安定しない中で、一年を通してベテランが力を発揮できなかったのが、今の巨人の弱さだろう。若手の実力者も期待通りの働きが見られなかった。クローザーの大勢はWBCのジンクス?で、調子が上がらないままだったし、岡本も見掛けはHRキングが確実だが、41本塁打にしては93打点と物足りないのは、本人だけのせいではなく1・2番が固定せず安定しなかったせいでもあるが、仮にチャンスが巡って来ても得点圏打率.241では4番としての迫力に欠ける。チーム本塁打数はリーグ断トツで、本塁打を畳み掛ける大味の試合は出来ても、1点が遠い試合が多かった印象がある。

 巨人は過去、二年連続でBクラスになったことが一度だけある(2005年の堀内監督が5位、引き継いだ原監督が翌2006年に4位)そうだが、原監督は、我慢して若返りを図って来たとは言え、このまま浮上しなければ、昨季の4位に続いて同一監督で二年連続Bクラスという球団史上初の汚点を残すことになるという。このチーム事情からすれば本望なのかも知れないが・・・

 そんな傷心の私を癒してくれたのは、今年も、海の向こうの大谷翔平だった。WBCの活躍のあと、2年連続の開幕投手など、投打でフル回転したメジャー6年目は、しかし、レギュラーシーズン25試合を残したところで打ち止めとなった。数字を並べてみれば、あらためて目を見張るものがある。特に打者として135試合に出場し、497打数151安打、打率.304、44本塁打、95打点、20盗塁、三年連続規定打席に到達し、初のシーズン3割をマークした。OPSに至っては現時点で両リーグトップの1.066である。投手としては23試合132イニングを投げ、10勝5敗、防御率3.14、167奪三振、WHIP1.06、被打率.184と決して悪くはなく、大リーグ史上初の「2年連続2桁勝利&2桁本塁打」「10勝&40HR」を達成したが、規定投球回到達には30イニング足りなかった。選手の貢献度を表す指標「WAR」では、両リーグトップの「10.0」をマークし、ア・リーグでは2位のシーガー(レンジャーズ)に3もの差を付けて断トツだ。チームとしては、地区優勝・プレーオフ進出の可能性は完全消滅し、ア・リーグ西地区4位も確定している。ジ・アスレチックの記者は「野球界のために、これがオオタニとエ軍の決別であることを願う」と題する記事で、「エ軍は彼をだめにした。勝ち越しシーズンを一度も経験させられなかった。彼にはもっといい場所が相応しい」と書いた。確かに感覚的には今年15勝くらいしていてもおかしくないほどの活躍だったと思う。

 暗転したのは8月23日(日本時間24日)のことだった。投手として先発したが、右肘に異変を訴えて2回途中で緊急降板し、試合後の検査で、右肘内側側副靱帯損傷と診断された。その後、打者に専念していたが、9月4日(同5日)の本拠地・オリオールズ戦前に行った屋外でのフリー打撃で右脇腹に張りを訴えた後、11試合連続で欠場し、15日(同16日)の試合序盤に大谷がロッカーを整理したことが話題になった。翌16日(同17日)に15日間のIL(負傷者リスト)入りが発表され、大谷の夢のようなシーズンが終わった。16-17日(同17-18日)はパーカー姿でベンチに登場し、戦況を見つめる姿が明るく朗らかに見えるのが却って痛々しかった。この日からの敵地での遠征には帯同せず、19日(同20日)に手術を受けて無事成功したようだ。

 身体はひと回りもふた回りも大きくなったが、あの超人的な活躍は、想像する以上に身体への負担が大きいのだろう。慶友整形外科病院(群馬県館林市)の古島弘三・副院長は次のように述べておられる。彼の溢れる才能はさすがの彼の身体能力をも超えている、あるいは身体が受け止め切れないと言うべきなのだろうか。

(引用はじめ)

 今回はいろんな要素が重なって故障が起きたと思う。

 まず、ほぼ毎日出場する中で蓄積した疲労が大きい。投手でなく野手で出場しても、バットにボールが当たる瞬間にグリップを握って力が入る。練習でも負荷はかかるから、疲労が回復しないまま積み重なる悪循環になっていたのではないか。

 多投していたスイーパーを含むスライダー系の球種にも原因があるとみている。他の球種と比べて前腕の内側に負担がかかりやすい。直球も球速160キロ台を計測するだけに、他の投手よりも負荷はかかりやすい。

 肘全体にかかる力のうち、骨が2割、筋肉が3割、靱帯が5割くらいで支えているとされている。疲労によって筋肉の力が弱まれば、その分靱帯に負担がかかる。元々柔軟性があり、体の使い方が上手な大谷選手でなければ、もっと早くに痛めていただろう。

(引用おわり)

 実は、遡ること20日前の8月3日(同4日)の試合で、右腕と指の痙攣により4回でマウンドを降りると、試合終了直前、ベンチに座っていた大谷は、茫然としたまま瞬きを繰り返し、その目は潤んで、今にも涙がこぼれ落ちそうなのをこらえていたそうだ。その感傷的な様子がSNSにアップされると、“大谷が泣いた”と話題になったという。本人は既にこのとき、思うところがあったのかも知れない。

 ここに来ての大谷ロスは大きいが、二年振りのMVPと日本人初の本塁打王に期待したい。

 巨人の話に戻ると、それでも後半には辛うじて先発投手で山崎伊織、野手で門脇や秋広など、期待の芽が出て来た。浅野という若武者も元気一杯。二度あることは三度あるのではなく、三度目の正直となることを(私の心の平穏のためにも 笑)切に願う。

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中国流の脅威

2023-09-17 15:27:11 | 時事放談

 欧州委員長フォンデアライエン氏は、世界のEV市場が「巨額の国家補助金で価格が人為的に低く抑えられた中国製EVで溢れている」と批判し、「我々の市場を歪めている」と主張したそうだ(13日付時事)。EV化を先導し炭素税導入をチラつかせて日本の自動車メーカー(特にハイブリッド車)を牽制して来たEUが今度は何を言い出すか・・・とも思うが(苦笑)、中国の非道はご指摘の通りで、今に始まったものではない。中国を忖度してきたEUもようやく重い腰をあげたかという印象である。

 今から5年前、2018年の『通商白書』は、中国の鉄鋼産業において引き起こった過剰生産能力問題に関して、過去15年間の経緯と問題の要因について事例検証を行っている。中国の鉄鋼産業でWTO加盟を契機に投資が急速に拡大し、結果として設備が余剰となったのは、「主に地方政府所管の国有企業への過大な融資・政府補助等が要因であると考えられる」と結論づけた。融資については、「多くは大型商業銀行や政策性銀行、株式商業性銀行の地方支店で(中略)時に地元企業への融資判断が甘くなりやすい」点が指摘され、「市況と逆行した銀行による過大かつ低利な融資が関係していることが示唆される」とともに、企業への政府補助金の交付元は地方政府が大半を占め「事実上企業の赤字補填および低収益性の企業の延命措置となったことが示唆される」、としている。

 経産省の検証はデータをもとにしたマクロなもので、肌感覚からはちょっと遠い。当時、巷ではミクロに、国営企業だから市況に関わらず、すなわち需給を慮ることなく従業員に給与を支払い続けるために操業を続け、在庫をためて叩き売らざるを得なくなって、世界を大混乱に陥れた、と非難された。これが国家資本主義かと、嘆息したものだ。

 先の『白書』は、「中国中央政府は2000年代から中国鉄鋼産業の過剰生産能力を問題視していた」とも述べている。では何をしたかと言うと、「2005年には国務院『鉄鋼産業開発政策』において、鉄鋼産業の構造調整の必要性が唱えられ、小規模施設の廃棄等が指示されている。また2013年には『深刻な生産能力過剰問題の解消に向けた指導意見』において設備の新規建設の禁止及び削減目標の設定が行われる等、数多に及ぶ生産能力調整政策を実施した」のだそうだ。なんだかまどろっこしいが、これが国家資本主義の実相である。

 また、『白書』は、中国の鉄鋼産業で生じた過剰生産能力問題は、今後は他産業においても生じる可能性があるとして、集積回路産業を挙げているが、太陽光パネルに関しては現実化し、中国以外の競合メーカーが淘汰されてしまった。

 かつて中国が「世界の工場」としてもてはやされ、日本やアメリカやドイツをはじめとする外資が挙って進出し、安い労働力を使って安い製品を世界中に輸出し、世界を潤す一方、それぞれの国内産業の空洞化を招いたのは自業自得で、世界の市況は外資によってそれなりにコントロール出来ていた。ところが豊かになった中国が自律的に自国の経済運営を考え、「中所得国の罠」を抜け出すべく、2015年に「中国製造2025」などと言い始めて、国策として先端技術の国産化を目指すようになると、融資や補助金によって、世界の特定産業に歪みをもたらすようになった。華為には8兆円もの開発費が補助金交付されたと言われ、14億人の国内市場で量産効果をあげて、世界に打って出る頃には、世界の通信機器メーカーに太刀打ち出来るところはなかった。

 カナダを代表する通信機器メーカーだったノーテル・ネットワークスのサーバーがハッキングされ、大量の顧客情報や技術情報が流出したのは2004年のことだった。その後、2009年までにノーテルは経営破綻するが、同社の情報がどこに流れたのか定かではない。確かなのは、結果として華為が衰退するノーテルから大口顧客を奪い、5G移動通信ネットワークをリードする開発人材約20名を引き抜いたという事実である(以上は、2020年7月6日付Bloomberg)。ノーテルは華為のその後の飛躍の跳躍台に使われた可能性があり、その後のカナダの中国との確執もそこに(one of themかも知れないが)根差している可能性がある。

 中国がせいぜい数千万人規模の中・小国家であれば、その国家資本主義的な経済運営が世界経済に整合的ではなくても、影響は限られる。しかし14億人と言えば、EUの3倍近く、平均的な国家規模で言えばゆうに20~30ヶ国に相当し、そんな超大国の国営企業は世界的に見れば独禁法違反と言うべきで(笑)、それを誰も言い出さないのが不思議でならない。その国際経済と整合的ではない経済運営は、原則として自由であるべき経済秩序を脅かし、今や、その教科書的な存在だったアメリカでさえもインフレ抑制法など中国寄りの政策で対抗せざるを得ない始末である。

 欧州委員長の発言を受けて、中国共産党系の環球時報は社説で、「中国の新エネルギー車はドイツで最近開かれた国際自動車ショーで輝きを放ち、羨望や嫉妬の声さえ聞かれたが、われわれは欧州の反応がこれほど『行き過ぎ』たものになるとは予想していなかった」と指摘、「公正な競争を通じて市場を勝ち取る自信と勇気が欧州に欠けているのであれば、EV産業で競争力を確立することは不可能だ」と言い放った(9月15日付ロイター)。中国は、と言うより中国共産党は、プロパガンダを得意とし、福島原発処理水の海洋放出で見られたように、行動はいざ知らず、ウソを拡散して恥じることがない。国際社会にとって整合的ではなく如何に迷惑かを思い知らせるには、アメリカのように体力があるなら対抗措置をとって対立をエスカレートさせるのも結構だが、EUや、また今はまだ中間財を中国に輸出して中国経済のアキレス腱を握る日本などはCPTPP加盟問題で厳しく審査するなど、中国の行動変容を求めて地道に力強く働きかけて行くしかない。

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追悼・寺沢武一さん

2023-09-14 01:52:16 | たまに文学・歴史・芸術も

 漫画家の寺沢武一さんが心筋梗塞のため8日に亡くなっていたことが分かった。享年68。

 代表作は、1977年に「週刊少年ジャンプ」に発表されたデビュー作でもある『コブラ』で、翌78年11月から連載開始された。葉巻を咥え、左腕に「サイコガン」を装着した不死身の男・コブラの活躍を描くSF作品で、私にとって、故モンキー・パンチ氏の『ルパン三世』と並ぶ、漫画界の二大ヒーローである。いずれもアメリカン・コミック・タッチの作画であることが共通している。いずれも主人公は「粋でいなせ」(これはルパン三世に寄せられた形容だったと記憶する)で、寺沢さんご本人は「もともとコブラの声というのはクリント・イーストウッドの山田康雄さんのイメージなんです。だから常に山田さんだったらこうんな風にしゃべるだろうな、というのを意識して書きました」と語っておられ、ここでもルパン三世と共通するものがある(ご存知の通り山田康雄さん=ルパンと言ってもいい)。そして何より、いずれもキャラクター・デザインのモデルになっているのが、1970年代のフランス映画界を代表する、女性に人気のアラン・ドロンに対する、男性に人気のジャン=ポール・ベルモンドである。それが片や一匹狼の宇宙海賊・コブラであり、片や世界を股にかけて活躍する大泥棒・ルパン三世という仕儀なのだ。就職で上京し、横浜の独身寮で暇つぶしに買い求めたデラックス版コミック『コブラ』全10巻完結セット(ジャンプコミックスデラックス、1988年11月1日発売)は、いまだに捨てられない(アマゾンで調べたら、中古本がなんとセットで11,400円~13,980円で出品されている)。同様に、中学生の頃、なけなしの小遣いで買ったコミック『ルパン三世』(双葉社)のオリジナルと「新」併せて三十冊近くも捨てられない(こちらは50年近く前のものだから、もはや骨董品扱いだろう、酔狂としか言いようがない)。

 そうは言っても、メイプル超合金のカズレーザーさんが、コブラに憧れ、コブラに似せて、葉巻は咥えないまでも、金髪と真っ赤を基調とした衣装で通しておられるのには敵わない。かつて出演したテレビ番組で「赤いヒーローって強いし、かっこいいじゃないですか。おれも、かっこよくなりたいっていうのはあるから、赤を着ようと」と告白されたそうで、左腕をサイコガンに改造したいと話すほどだ。いや彼だけではない。「幼い頃、コブラがあまりにも好きすぎて なぜ自分の左腕は抜けないんだろうと 何度も何度も引っ張ってた 本当に大好きな先生が亡くなったことに心が痛む ボクにとってコブラも先生も永遠のヒーローです 心よりご冥福をお祈りします」と綴ったのはGACKTさんである。

 寺沢武一さんの話に戻ると、1998年に人間ドックで悪性の脳腫瘍が判明し、手術を受けたことを公表されていたそうだ。放射線、抗がん剤治療を受けながらも、その後、再発し、二度目の手術で左半身に麻痺が現れたことも公表され、後遺症で車椅子生活を送っておられたようだ。そんな中、既に1980年代初頭からパソコンを使った作画や彩色のパイオニアとして知られ、「デジタル漫画(デジタルコミック)」という名称を生み出された。絵がとにかく精緻でお上手である(だからこそ魅かれる)。「カラー原稿は、背景の隅々にまで手が入れられており、漫画原稿にかかわらず単品のポップアートとしても通用する領域に達しており、海外における評価も高い」(Wikipedia)そうだ。

 今、読み返しても古さを全く感じさせないが、そうは言っても、あの時代に出会えたことに感謝するほかない。ご冥福をお祈りし、合唱。

 

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夏の終わりに

2023-09-10 21:46:07 | 日々の生活

 台風一過で、やや暑さが戻ったが、朝晩はもうすっかり秋の気配だ。夏も終わりである。

 夏と言えば、海や山で楽しく遊んだ記憶が(今ではそんな意欲はさして湧かないが 笑)蘇るが、もう一つ、私の妄想が勝手に思い描く心象風景がある。昭和20年8月15日、セミの鳴き声が喧しかったであろう、それだけに松尾芭蕉じゃないけれど静寂さが際立ち、厳粛な「敗戦」の現実を、玉音放送という史上初めて聞く天皇陛下の声を通して受け止めざるを得なかった日のことだ。当時はまだその年末に始まるGHQのラジオ放送を通じた歴史教育による洗脳や、勝者が敗者を一方的に裁くという極東軍事裁判によりナチス・ドイツに準じて日本の軍国主義が否定されるという一種の茶番を知らない、敗戦直後の人たちだ。文字通りの総力戦が終わったという脱力感や開放感があったであろうことは想像に難くないが、その実相は戦後の私たちの想像を遥かに超えている。今に続く戦後日本人の原点である。

 昨年、たまたまブックオフで小野田寛郎・元少尉の『たった一人の30年戦争』(東京新聞)を見つけて、この夏、もう一度、読み返した。日本の敗戦を信じないで30年間、フィリピン・ルバング島で「残置諜者」の任務を黙々とこなし、昭和49年3月、かつての上司の投降命令を口達で受けて、ようやく投降された。「一人ぼっちの・・・」は誇大広告で、昭和47年10月までは戦友の一等兵が(更に言うと、昭和29年5月までもう一人、伍長が)一緒だったのだが、いずれにしてもその苛烈さは、陸軍中野学校のお陰なのか、戦前の教育のせいなのか、本人の資質なのか。帰還後、一年足らずで日本を逃げ出し(とは、ご本人が嫌う言い回しだろうが)、ブラジルに移住されたのは、戦後社会への違和感だったのか。この本を読むと、戦後の平和の中で私たちが見失ったものがあるとすればそれは何なのか、思い当たれるような気がして、つい訪ねてみたくなるのである。

 最も有名なのは、広島・平和記念公園での次のやりとりであろう(同書P14)。

 

(引用はじめ) 同行の陸軍中野学校同期生と無言で公園を歩いた。慰霊碑があった。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」 私は戦友に聞いた。「これはアメリカが書いたものか?」「いや、日本だ」「ウラの意味があるのか?負けるような戦争は二度としないというような・・・」 戦友は黙って首を横に振った。日本は昭和二十年、米英など連合国の前に屈服した。しかし私はいま、人間の誇りまで忘れて経済大国に復興した日本に無条件降伏させられているのだ――と感じた。(引用おわり)

 

 帰国を果たして、そのまま羽田東急ホテルで行われた記者会見では、さながら浦島太郎を取り囲んで寄ってたかって珍しがるジャーナリズムの愚かしさと滑稽さが手に取るようであり、まるで絵に描いたようなチグハグさが微笑ましい(同書P194-196、東京新聞の昭和49年3月13日付朝刊記事がそのまま引用されている)。

 

(引用はじめ) 

――三十年ぶりに故国の土を踏み、肉親と対面した心境は。

 「やはり自然の山や川の姿は、他国のフィリピンと変わりがないように思われますが、皆様方の住んでおられることを脳裏に思い浮かべますと、見えたところから、すぐ降りて行って土を踏みたい気持ちであります」

――人生の最も貴重な時期である三十年間をジャングルの中で暮らしたことについて。

 「(質問者を凝視して暫く考えたあと)若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」

――三十年間、心で思い続けて来たことは。

 「任務の完遂すること以外にはありません」

――両親について考えたことはなかったか。

 「出掛ける時、両親には諦めてもらっていたので、そんなことは考えませんでした」

――日本の敗戦をいつ頃知ったか。また元上官の谷口さんから停戦命令を聞いたときの心境は。

 「敗戦については少佐殿から命令を口達されて初めて確認しました。心境はなんとも言いようのない・・・。(うつむき加減で、力なく言葉が途切れかけたが、再び顔をキッとあげると)新聞などで予備知識を得て、日本が富める国になり、立派なお国になった、その喜びさえあれば戦さの勝敗は問題外です」

――小塚さん(一等兵)の死で山を下りる心境になりましたか。

 「むしろ逆の方向です(ムッとした表情)。復讐心の方が大きくなりました。二十七、八年も一緒にいたのに、“露よりもろき人の身は”と言うものの、倒れたときの悔しさと言ったらありませんよ(唇を震わせ、絶句)。男の性質、本性と申しますか、自然の感情として誰だって復讐心の方が大きくなるんじゃないですか」(引用おわり)

 

 私たちは、勝てそうにない戦争をなぜ仕掛けた!?と教え込まれているが、次のようなくだりもある(同書P36)。三十年という年月をものともしなかった所以であろうか。洗脳と呼ぶのは簡単だが、狂気の中とは言え、京都学派の哲学科の教授たちだって、いったん始まった以上は国民として協力し、「共栄圏の論理」「世界史の哲学」を真面目に論じる真摯さがあったことを忘れることが出来ない。

 

(引用はじめ) 私は陸軍中野学校で「大東亜共栄圏完成には百年戦争が必要だ」と教え込まれてきた。陸軍参謀本部内の一部には開戦当初から「これは勝てる戦争ではない」という見方もあった。勝てない戦争なら、負けないように戦えばいい。アメリカは民主主義の国だ。戦争がいつ果てるともない泥沼状態と化し、兵が死に、国民生活が疲弊すれば、アメリカ世論は反戦、厭戦に傾く。日本はそれを計算し、降伏でなく条件講和に持ち込む戦略だ、と考えていた。(引用おわり)

 

 小野田さんには、別の本でゴーストライターだった作家の批判的な声もあるようだ。その方は、小野田さんが「戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、1974年に至るまで密林を出なかったのは『片意地な性格』に加え『島民の復讐』をおそれたことが原因であると主張している」(Wikipedia)そうだ。それだけのために、三十年という年月は重過ぎないだろうか。その息子さんは、「冷酷で猜疑心の強い人だった」(同)と述べている。確かに、小野田さんには、かつて父親に反抗ばかりしていたとは言え、三十年ぶりに帰還して、タラップを下りて、「目の前に年老いた父と母がいた。(おやじもおふくろも年をとったなあ)と思っただけで、何の感激もなかった。私はこの三十年間、肉親の夢を見たことは一度もなかった。戦場では故郷や肉親の話はタブーだった。肉親の話をすると、なぜか不運がやって来た」(同書P194)とは、尋常ならざるものがある。しかし、「出征するとき死を決意した」(同書P216)ともある。「覚悟した」のではなく、「決意した」のである。否定的ではない前向きなニュアンスには、やはり戦後の私たちには想像できない世界がある。私が懇意にして頂いている自衛隊の元・幹部は、小野田さんに直接お会いしたことがあるそうで、とても純粋な方だと振り返っておられた。そう言われると、分からないではない。三十年という年月には、愚直な、では済まされない苛烈さがある。

 同書は、東京新聞の「戦後50年企画」として同紙上に連載されたコラムを一冊の本に纏めたものだ。帰還から既に二十年が経っており、回顧録の常で、自己正当化し、また美化している部分もあるかも知れない。所詮は小野田さんという個人の戦争経験であり、自己主張である。それは今年93歳になる私の父と同様に、所詮は大きな戦争というパズル絵のごく小さな一つの断片を示すものでしかない。それでも、敗戦という時代の大転換を挟んで、玉手箱を開けて時代をワープした浦島太郎が覚えた違和感には、傾聴すべきものがあるように思う。

 引用したい箇所は一杯あるが、小野田さんが帰郷したときの思いにはドキリとさせられ、最後に引用する(P209-210)。

 

(引用はじめ) 四月三日、私は三十年ぶりに故郷へ帰る。新大阪からバスで和歌山に向かう沿道は人の波で埋まっていた。手を振る人々にまじって、地面にひざまずき両手を合わせているおばあさんの姿が目に入った。かつて我が子を戦場に送り出した方だろう。息子さんは亡くなられたのだろうか。私は涙が止まらなかった。歓迎の人々に頭を下げ、手を振って応えながら、私は胸が息苦しかった。(なぜ生きて帰った私だけがこんなに歓迎されるのか。戦争で死んだ仲間はどうなのか。私は遅まきながらも国家の恩恵を受けた。だが、死んだ仲間は非道な戦争の加害者のように社会から疎んじられている。戦友たちは国家と悠久の大義を信じて死んだのだ)(引用おわり)

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福島原発処理水のその後

2023-09-03 23:54:09 | 日々の生活

 前回ブログから一週間、中国からの嫌がらせは相変わらずだが、いろいろ異なる様相も見えて来た。

 基本的には内政に問題を抱える中国共産党が、人民の不満の矛先を外(日本)に向け、不満のガス抜きをしているのだろうとの見方が大勢を占める。少なくとも、2012年の反日暴動のときのように、当局が制御できないレベルではない限り、また、中国共産党の統治に批判が向けられない限りは、迷惑行為を取り締まることなく放置するのだろう。他方で、迷惑電話をかける人の素性はさまざまで、「愛国心に駆られた」人もいないわけではないが、「暇つぶし」「刺激が欲しかった」といった若者もいるようで(8月31日付 読売新聞)、東大の阿古智子教授は、「SNS上に電話をする様子を掲載して『目立ちたい』『閲覧数を増やして利益を得たい』といった人たちが中心だろう。中国では日本をおもしろおかしく批判すると、注目を集めやすい傾向にある。反日教育で日本に批判的な感情を持つ人や、処理水の海洋放出に憤りを感じて電話した人もいるだろうが、わずかだろう。」と言われる(同)。

 中国共産党による出鱈目な対応は、いつかは馬脚を現すもので、所謂「ブーメラン」として報じられ始めた。中国で塩の買い占めが起こっているほか、日本産だけでなく自国産の海産物を避ける動きがあって、漁業関係者の中には頭を抱える人も出て来たようだ。台湾メディアによると、カナダ・ヨーク大学の沈栄琴准教授は「中国人は海産物を検査するためにガイガーカウンターを購入した。その結果、放射能汚染は検出されなかった。一方、中国の建築資材は概して過剰な放射能汚染の問題を抱えており、それが発覚した。中国の建築物における放射能汚染の状況が珍しいものではないことが示されてしまった」と語り、中国の不動産問題に拍車をかける可能性がある。香港では、日系大手回転ずしチェーン店に連日行列ができていると報じられ(8月31日付 共同通信)、一部では日本食離れも起きているが、冷静な対応が目立っているようだ。

 王青さんによると、日本は民主国家であり、政府に対しての抗議やデモが許されていて、自由に発言できるが、ほとんどの中国の国民はそれを知らずにいるため、限定的とは言え日本の抗議行動の動画を見れば、「日本人全員が反対している」と読み取ってしまうのだそうだ(2023/09/01 ダイヤモンド・オンライン)。同じく、王青さんによると、国外にいる中国人のコミュニティーでは、最近、次のような書き込みが流行っているらしい。「貧乏人は、日本をののしり、抗議する。食塩を買いだめ、海鮮を食べないようにする。金持ちは移民するために国内の財産の処理に没頭する。日本に行き、海鮮料理に舌鼓を打つ。さて、あなたはどっちだ?」

 まさに、前回でも言ったように、狂騒曲のレベルだ。全体主義と言っても、中国政府と中国社会と、決して一枚岩ではない。

 他方、日本の農水相は中国の反応を「まったく想定していなかった」と発言して、恐らく習近平を大いに喜ばせただろうし、「汚染水」とつい漏らして、自ら風評被害を煽るかの如くで、各方面から叩かれた。緊張感がなさ過ぎる。前回ブログで「情報戦」と言ったが、日本のお国柄は余りにナイーブで、オメデタ過ぎる。

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