風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

帰郷・ペナン編(中)

2014-12-31 23:45:04 | 永遠の旅人
 ペナン二日目は、朝からQueensbay Mallに出かけました。私たちがかつて生活していた頃、日本のイオンが入るというので鳴物入りで開業したペナン島・東海岸随一の大型ショッピング・コンプレックスで、当時のまま、相変わらずの繁盛振りです。ここでの狙いはBordersというアメリカ系の書店で、小学校6年間を内外のインターナショナル・スクールやシドニーのローカル・スクールで過ごした下の子が10冊ほど英語の本を買い込むのにつき合わされました。
 午後には、Midlandsという、開業して数十年は経っていようかという、鄙びたショッピング・センターを訪れました。ここは地元民だけではなく、安い所謂オートクチュールの店があるので、海外からの駐在員の奥様方に根強い人気がありましたし、パソコンの周辺機器やパソコン用ソフト・映画・ゲームなどの海賊版DVDやCDを売る店が二十ほども軒を連ねて、観光客にも人気の隠れた買い物スポットでした。しかし当時からGurney Plazaにどんどん客を奪われて斜陽化しつつあったのですが、今では店の9割方にシャッターが下りていて、当時の勢いはおろか、もはやショッピング・センターの体をなしているとは言えません。当時から時限的にシャッターが下りて、当局の査察を逃れていたもので、私も一時間ばかり閉じ込められたことがありましたが、今はRENTの張り紙がそこかしこに見えて恒常的のようです。そんな中、海賊版DVDを扱う店が辛うじて数軒ばかり残っていたので、覗いて見ると、当時、1枚8リンギッ(240円、屋台のラーメン8食分)していたハリウッド映画DVDが、10年近く経った今、5リンギッで売られていて、過当競争の結果なのかも知れませんが、豊かになる一方のペナン社会で陰のような存在は、益々居場所が狭くなっていくようです。こうした店では、個々の商品に値札はなく、ブルーレイだと1枚いくらなどと壁に張り紙がしてあって、観光客と分かると、つり銭を言わないと呉れないところなどは、今も健在です。
 二日目の夕食は、ペナン島ジョージタウンの街のレストランで三本の指に数えられると我が家が自信を以てお勧めできる内のひとつ、イタリア料理レストランBella Italiaに行きました。驚いたことに、かつてバツー・フェリンギという島の西北のはずれの保養地の支店で呼び込みをやっていたバングラディッシュ系かミャンマー系のおじさんが、ここ本店でフロア・マネージャー然と振舞っていて、当時と変わらぬお気に入りのオーダーを入れようと、スパゲッティと言いかけるとボンゴレと答え、ピザと言いかけるとポロと答えてくれて、記憶力の良さというより今なおワン・パターンであることに、お互いに思わず破顔一笑したのでした。
 その後、土産物を買いに、Gurney Plaza地下一階のCold Storageに行きました。かつて食料品スーパーとして重宝し、毎週のように買い出しに来たもので、土産物もここで調達するのが常でした。ペナン土産としてお勧めは、COCONというブランドのマンゴー・プリン(12個で10リンギッ前後)と、cocoalandというブランドのマンゴー・グミ(5リンギッ弱)で、日本人の知人に評判が良くて、しかも経済的です。なお、近所の日本食料品店MEIJIYAがなくなって(後でネットで調べたら引っ越しただけのようですが)、日本人駐在員家族やセカンド・ライフの年配の方々はさぞ困っているかと思っていたら、Cold Storageの一角に日本食材コーナーがあって、日本の調味料や海苔やカップ麺や菓子類が所狭しと並んで、ごく普通に売られているのに驚きました。
 私たちがかつて住んでいたガーニー・ドライブ沿いには今も高層マンションの建設が続き、街は少しずつ表情を変えています。2008年の統一地方選挙の際、ペナン州では期せずして野党が勝ったため、計画されていたペナン第二ブリッジに予算がつかなくなるなど、中央の与党からイジワルされたものでしたが、第二ブリッジは、無事、開通している上、高速道路を走っていると第一・第二ブリッジ並べて渋滞何分などの表示があるため早い方を選べることが出来て、なかなか便利ではありませんか。Gurney PlazaやGurney Paragonの駐車場では、個々のパーキング・ロットにセンサーがつけられ、各フロアに何台分のオープン・スペースがあるか表示されるので、これもまた便利ではありませんか。そんなペナンの愛すべき人たちは概して人が好くて、オッケー、オッケー・ラーなどといい加減で、それはただ周囲を察することに乏しいだけなのが実態でもあるのですが、それでいて多民族社会の故か生きるために抜け目ないところも多分にあって、私たち日本人にとって油断ならないところもあるのは、日本以外の土地では当たり前なのでしょう。
 いつしか心は当時に飛んで、ひとしきり遊んで、ホテルに戻ると、ただの観光客だという現実に引き戻されるのでした。名残り惜しみつつ、ペナンを後にしたのですが、旅は、満喫するよりちょっと物足りないくらいが良いようです。
 上の写真は、歴史的建造物も取り込んで、発展を続けるペナンのショッピング・モール(Gurney Paragon)。背後に聳え立つのは高層マンション。
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帰郷・ペナン編(上)

2014-12-31 01:58:19 | 永遠の旅人
 「第二の故郷」などという言い方もするので、かつて住み慣れた土地を再訪するのを「帰郷」と称することもまた許されるでしょうか。一日早く有給休暇をとって、かつて3年暮らしたマレーシア・ペナン島のジョージタウンに家族揃って遊びに行って来ました。
 このところ子供たちの受験が続いたので、旅行や遊びなどの自粛疲れで、何をするでもない、4泊5日のちょっと豪華な旅・・・と期待したのですが大間違い。旅慣れている方はお分かりの通り、ペナンまで直行便がないため、シンガポール経由となり、シンガポールまでの往復がそれぞれ1日仕事となる上、乗継ぎフライトがうまく繋がらず、シンガポールで行き帰りにそれぞれ半日過ごすことになって、結果としてペナン滞在は僅かに丸2日間だけの慌ただしい日程です。振り返ると、ペナンを離れたのはリーマンショックのちょっと前の2008年7月のこと、かれこれ6年半振りの訪問です。発展するアジアということでの変わったところ、しかし土着文化が根強くて良くも悪くも変わらないところ、それぞれにいろいろあって、とても興味深い旅となりました。
 国際空港とは名ばかりで相変わらずしょぼいペナンの空港に降り立つと、なんとも言えないまったりとしたニオイが鼻をつきます。これは開発独裁の人工的な都市国家・シンガポールでは感じることはない、田舎の空港ならではの土地のニオイです。かつて民主化前後の台湾では香(こう)と干し肉のニオイに包まれたものでしたが、ここペナンの場合は肉や香辛料が混ざった懐かしい屋台のニオイでしょうか。このニオイに出迎えられただけで、ああ帰って来たなあ・・・とホッとした気持ちになります。
 ペナン島にしてもジョージタウンにしても、さほど大きな島でも街でもありませんが、かつて生活していたときのように車で移動することを想定し、レンタカーを借りることにしました。カウンターで予約確認のメール・コピーを差し出すと、マレー人の人の好さそうなお兄ちゃんはメールのある箇所を指さし、ここで70リンギッ(2500円位)支払えと言います。クレジットカードにチャージされる金額ばかり気になって、気が付きませんでしたが、確かにカウンターで支払えと書いてある。お兄ちゃんはその70リンギッをそそくさと自分の財布に仕舞いました。あれれ・・・なんじゃこりゃ。因みに、二日後、レンタカーを返却するとき、既に月曜日の朝11時近くになっていたにもかかわらず、カウンターには誰も見当たらなくて、隣のカウンターの人に声をかけると、いつ来るか分からないよ、という生返事。とてもレンタカー会社の社員とは思えないようないい加減な対応に、あの70リンギッはエージェントとしての彼個人の取り分だったのかも知れないと、何とも怪しげないい加減なところもまたペナンらしいと、つい合点してしまいます。
 運転し始めると、車線をふらふらはみ出すいい加減な走りや、交差点での強引な割り込み、そして突然右側から追い越しをかけるバイクに驚かされるのもまたペナンらしくて、血が騒ぎます(なお、マレーシアは植民地支配されたイギリスに倣い、日本と同じ右ハンドル)。かつてペナンに生活していた頃、蜂の子のように群がるバイクに往生し、私なりにいくつか運転原則を打ち立てたのを思い出しました。急な車線変更は要注意、急な加速・減速も要注意、日本人気質丸出しで譲っていては馬鹿を見る、の三点です。まあ、謙譲の美徳は、世界広しと言えども日本人だけに見られる資質と考えるべきでしょう。それにしても、日本車が増えたように感じたのは気のせいではないのでしょう。マレーシア建国の祖とも言うべきマハティール首相(当時)は、二十年余りの在任中、日本の高度成長を見習うルック・イースト政策を掲げ、その一つとして、国産のProtonやPeroduaなどの自動車産業を立ち上げたことで有名です。しかし、品質の悪さは否めず、それでも国産車保護のため税的優遇政策をとり続け、日本車をはじめとする外車は高嶺の花と位置づけられていました。独断と偏見を許されるならば、貧しいマレー人はバイク、ちょっと豊かになると国産車、金持ちの華人は日本車やドイツ・イタリア車を乗り回しますが、そこまで行かない華人は韓国車、といったような見えない厳然たる序列があったように思います。そんな中で日本車が増えた気がしたのは、豊かな人が増えたということか。
 ホテルにチェックインした後、早速、かつて通い慣れたショッピング・モールであるGurney Plazaに行こうとして、Gurney Paragon Mallなる大規模ショッピング・コンプレックスに辿りついて、てっきり買収されて再開発されたのかと勘違いしたのですが、そうではなく、新たに造成されたものと分かりました。それほどに偉容を誇り、アジアの中核的都市であるクアラルンプールやバンコクやジャカルタやマニラに見るような、アジア的と言うより華僑的と言うべきかも知れません、豪華絢爛な造りにあらためて目を見張り、ついにアジア的な開発独裁の波がペナン島にも押し寄せたのかと、感慨深いものがありました。値段も、ブランド物はグローバル共通かと思わせるほど、貧しいマレーシアとは思えない値付けで、驚かされました。豊かな人が増えているのは間違いありません。そして、かつて誰もが・・・つまり地元民の憧れだけでなく海外駐在員の生活必需の場として訪れていたGurney Plazaが健在だったのを知って嬉しくなったのも束の間、今やすっかり色褪せ、地元民の憩いの場に堕しているかのように見えたのが、時代の流れを感じ、ちょっと寂しくもありました。しかし、当時と変わらない、お気に入りのF.O.S.(Factory Outlet Store)や地元の百貨店Parksonがあって、安心して買い物が出来る使い勝手の良さが掛けがえのないものであったことは言うまでもありません。
 夕食は、ペナン島ジョージタウンの街のレストランで三本の指に数えられると我が家が自信を以てお勧めできる韓国料理の店Seoul Gardenに行きました(Gurney Plaza やQueensbay Mallに入っているチェーン展開している店とは異なります、念のため)。そして、当時のままにママさんに出迎えられたことに感動しました。当時、それこそ毎月二・三度は訪れて、子供たちが同じインターナショナル・スクールに通っていたご縁もあって、顔馴染みだったのですが、子供たちは成長して見違えても、私たちはちょっと皺や白髪や体重が増えたり髪が薄くなったりして歳を重ねただけでそれほど変わることはないせいでしょうか、なんとも懐かしい気分に浸ることが出来ました。そんな気分とともに、この店のカルビ・タンやユッケ・ジャンなどのスープ物は昔のまま、実に美味くて堪能しました。
 ペナン二日目のことは、稿をあらためます。
 上の写真はGurney Plaza(但し裏玄関)。
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横浜マラソンへの道(4)

2014-12-25 00:29:06 | スポーツ・芸能好き
 マラソン番外編です。
 昨日の足立フレンドリーマラソンでは、僅かながらも着ぐるみで走る人がいて、それ以上に時節柄サンタクロースやトナカイの衣装で走る人もいて、さすがに昨日の陽気では暑かったようですが、実に楽しい気分にさせて、大会を盛り上げてくれました。もっとも、着ぐるみを着るような人は、普通に走ることにはもはや飽き足らないのでしょう、もともと走りに自信がある人が多いのか、あるいはタイツにサポーターまでつけて走る気だけは満々な私が情けないだけなのか、彼ら・彼女らについて行くのすらなかなか大変で、置いてきぼりを食らうことはザラにあります。
 また、その一環と言えなくもない、地元の消防士さん10名ほどが、名誉ナンバーの一桁台のゼッケンをつけて、健脚振りもさることながら、これまた暑かろうに消防士の格好そのままで駆け抜けておられたのには、沿道からもランナーからも惜しみない拍手や感嘆の声が挙がり、彩りを添えた形となりました。
 それにしても、参加者6000人弱のごく普通の、どちらかと言うとちょっとローカルな大会でも、楽しみつつ走る人が増えて来ていることには、隔世の感があります。15年以上前、アメリカの市民マラソン大会に何度か参加したことがありますが、真面目に走る人もいればお茶らけて仮装する人もいて、沿道で応援するにしても、健気に水やキャンディーやレモン片などあれこれ差し入れてくれる人もいれば大音響で歌って踊って楽しむ人もいて、歴史と伝統に乏しい彼の国ならではの、何でもお祭り騒ぎにしてしまう陽気さと言ってしまえばそれまでですが、人生を愉しむ余裕あるいは成熟と言うべきか、遊び心に溢れて、堅いことは言わない大らかな大陸気質には大いに感心したものでした。ところが帰国して参加した日本のマラソン大会と言えば、そのレベルの高さとともに、日本の「xxx道」よろしく、修行僧のように、はたまた自己実現?のために真摯に走る人が殆どで、アメリカとは雰囲気が違うことに戸惑ったものでした。しかし、先鞭は東京マラソンでしょう。数倍から今では10倍にも達する難関をくぐり抜け、出場出来るだけで儲けもの、参加することに意義がある大会となり、海外のマラソン大会の模様が日本にも広まるにつれて、参加することを思い思いに自然に楽しむようになったように見受けられます。
 三月の横浜マラソンでは、私のようなヘタレが着ぐるみでも着ようものなら悲惨なことになりそうですが、着ぐるみとは言わないまでも、何か目立つことが出来ないものか、実は秘かに思案中です。
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横浜マラソンへの道(3)

2014-12-23 22:44:32 | スポーツ・芸能好き
 今日、足立フレンドリーマラソンのハーフの部を走って来ました。北千住駅から徒歩20分、千住新橋のたもとにある高砂野球場をスタートし、荒川河川敷の左岸を鹿浜橋から中川水門までを往復する21.0975キロは、高低差の乏しいフラットなコースで、素人にも走りやすく、今年から日本陸連公認コースになりました。前半は汗をかくほどの好天に恵まれ、汗が引いた後もそれほど冷え込むことはなく、また最後の5キロの向かい風は気持ちを萎えさせるほどのこともなく、気力を持続し、走り抜けることが出来ました。
 個人的には、昨年より一ヶ月早く、週一ジョガーを返上して、禁じ手である週二回ジョギングをするようになりました。週一と週二とでは意外に大きく違います。一週間のブランクがあると、言わば忘れた頃に走ることになるため、足の筋肉はすっかりリラックスしてしまい、折角の練習が殆ど台無しになってしまうのですが、週二回にして、走ったことを忘れない内に走るようにすると、足の筋肉はくつろいではいけないと奮い立ち、足の緊張感をそれなりに維持することが出来るのです。こうして、この一ヶ月で少しずつマラソン足が出来つつあり、先月のレースから8分短縮し、1時間54分でゴールすることが出来ました。
 マラソン足が出来つつある・・・と言いながら、左足裏にマメをつくってしまいました。前回の反省に立ち、予め専用ジェルでコーティングをするだけでなく、靴紐を締め上げて隙間を極力少なくしたにも関わらず、効果がなかったということは、走りに揺らぎがあるのか、いずれにしても、勝負靴のアシックス・ターサーは、どうやら1サイズ大きくて、フル・マラソンには耐えられそうにない・・・と結論づけざるを得ません。一つの悩みどころです。
 さてハーフ・マラソンは来月にもう一つレースが控えます。しかし、飽くまで3月の横浜マラソンが目標であり、マラソン足を作ると言って、走り込むのは当然にしても、スピード練習をしなければ、これ以上、ハーフの記録は伸び悩むような気がします。それほどハーフ・マラソンにはスピードが必要であり、スピードを磨かないことには記録が伸びないレベルまで来つつあるのを感じるからです。だからと言って、スピード練習がマラソンに役立つのか。勿論、練習には距離走や速度走(だんだん速度を上げるビルドアップ走など)のバリエーションをつけた方がよいという人がいます。定点観測ポイントに過ぎないはずのハーフ・マラソンのレースで記録を狙いたくなる誘惑・・・もう一つの、ちょっと悩みどころではあります。
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総選挙

2014-12-17 02:22:44 | 時事放談
 前回までのブログで香港と台湾を取り上げ、選挙は民意を政治に反映する重要なプロセスだと今さらのように当たり前のことを言ってみた手前、日曜日の総選挙では清き一票を投じましたが、今回の衆議院解散・総選挙ほど情熱が失せてしまったことはありませんでした。かつては、選挙になると懲りもせず愚にもつかない床屋談義を、政策も政局も含めてあれこれ繰り広げたものでしたが、今回、ブログに選挙のことを書いたのは、一ヶ月前、アジア出張の雑感を綴ったときの前置きで、日本を離れている間に起こったことで驚いたことの一つに、衆議院解散・総選挙が既成事実化されていたことを挙げたのが唯一のものでした。実際に、自民党あるいは与党圧勝の前評判通り、そして報道各社の情勢調査が有権者の投票行動に影響を与える「アナウンスメント効果」、具体的には圧勝と報道されたときには多少の揺り戻しがある「アンダードッグ効果」まで、まさに想定通りの「自公勝利 3分の2維持」(昨日の日経一面見出し)に終わり、何のサプライズもありませんでした。
 選挙の低調ぶりは投票率に表れます。投票日当日、日本海側を中心に厳しい寒波に見舞われたとは言え、これまで最低だった前回(2012年)を6.66%ポイントも下回る52.66%で、過去最低を更新しました。鶏が先か卵が先か、私たち国民の無関心があったればこそ、政治は民度を反映するものとは言え、敢えて政治を面白くできない政治家の責任を問いたい、与党と野党とを問わず全ての政治家の反省を促したいと思います。ビジネスの世界ではKPI(Key Performance Indicator)を業績評価に使うことがありますので、政治家の評価指標として投票率を採用して、連動して給与を大幅に下げてしまいたい誘惑に駆られます。
 議員給与を下げて欲しくなかったら、もっと議員定数を削減したらいい。小泉や小沢の名前を冠したチルドレン、そして前回、自民党の地滑り的勝利で当選した新人議員100人は、その後どうなったのでしょうか。しかし事は新人だけでなく、そもそも投票したい候補者や政党が見当たらない状況は酷くなる一方です。今回、安倍さん本人を応援したい気持ちはやまやまでしたが、安倍さんを支えるべき自民党の面々は、いつの間にか慢心してしまって、安倍さんを支えようとする意欲やフットワークの良さが感じられず、安倍さん人気にあやかっているだけのように見え、そんな旧態依然とした自民党に飽き足らない、所謂「無党派層」にとって、これまで受け皿となってきた「第三極」勢力のうちでも、まだまともな部類に入っていたはずの維新は分裂し信任を失ってすっかり色褪せ、みんなの党は瓦解し、行き場を失って虚空を彷徨うハメに陥ったのでした。共産党と公明党はタナボタだったかも知れませんが、積極的支持ではない点、くれぐれも勘違いしないで下さいね。
 このあたりを突き詰めていくと、自民党の慢心もさることながら、あらためて野党の不甲斐なさを思います。野党の選挙態勢が整う前に解散・総選挙に踏み切った安倍さんの思惑通り・・・などと取り沙汰されたものですが、どうもそれだけとは思えません。政策論議の不毛は目を覆うばかりだからです。消費増税、集団的自衛権、特定秘密保護法、原発再稼働、子供手当などなど、それぞれに議論があるのは分かりますので、個別政策に焦点を合わせるのも結構ですが、先ほどのKPIで言えば、その上位やそのまた上位にあるレベル、つまり課題レベルや理念レベルの議論を尽くして欲しいとも思います。拡大する社会保障費にどう対処すべきかという課題の中では消費増税は施策の一つに過ぎませんし、東アジアで台頭する中国の前に、日本国の安全保障をどう維持し、更には地域的安定にどう貢献するかという議論抜きに集団的自衛権の議論はあり得ませんし、アメリカをはじめとする同盟国との安全保障の枠組みの中で特定秘密保護を位置づけた上でこそ国民の知る権利の議論に繋がるわけですし、国のエネルギー政策の中で原発再稼働を現実的に議論して欲しいですし、少子化対策を幅広く議論して欲しいと思います。月曜夜の報道ステーションは、安倍政権を攻撃する話題に事欠いて、沖縄での自民敗北ばかり責めたてていましたが、沖縄の基地問題は地元の意向を無視して強引に進めていいとは言いませんが、国の安全保障レベルの問題であるということは、地方自治と対等に議論するわけには行かないテーマだと思います。そういう意味でメディアは偏向的に議論を矮小化しないで欲しいと思いますし、国民もまた、大きいテーマであっても、もう少し現実的に、政治家任せにしないで当事者意識をもって考える必要があるように思います。
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香港と台湾(下)

2014-12-14 15:51:40 | 日々の生活
 前回に続き、今回は台湾の動きを振り返ります。
 先月29日、台湾の22県市の首長と地方議員を選ぶ所謂「統一地方選挙」が実施され、2016年の総統選挙の前哨戦としても位置付けられて注目されました。結果は、ご存知の通り、野党の民進党が6から13にポストを増やしたのに対し、与党・国民党の馬政権は15から6に減らし、歴史的敗北を喫したと言われました。とりわけ肝心の6つの直轄市の市長選挙で、国民党は、台北・桃園・台中のそれぞれの市長ポストを失っただけでなく、台北市長選挙では、国民党名誉主席・連戦の息子・連勝文氏が、台北大学付属病院の元外科医で無所属新人の柯文哲氏に敗れるという失態をもたらしました。連家は祖父の代から国民党を支えてきた政治の名門で、相当の隠し資産も噂され、ドラ息子・連勝文氏は国民党内の人望が高くないとも言われますし、馬英九総統とは犬猿の中で、党内から十分な支援が得られなかったとも言われますが、台北はいわば「首都」であり、国民党の牙城だっただけに、衝撃は小さくありませんでした。今回の敗北が馬英九政権への不信任が原因であったことは間違いなく、馬氏は責任をとって国民党主席を辞任しました。
 振り返りますと、今年3月、馬英九政権が強引に進めようとした中国との経済関係強化を警戒した学生たちによって「ひまわり運動」が湧き起こり、民衆の支持を得て、両岸サービス貿易協定の立法院通過が阻止されました。8月には、行政院大陸委員会の元副主任が、機密漏洩の咎で刑事告発されました。元副主任は、中国にスパイとしてリクルートされたとの噂があり、中・台の両岸関係が行き詰まったところに、追い討ちをかけるように、9月末に香港で民主化運動が湧き起こりました。連日のように報道される、学生を中心とした抗議行動は、台湾民衆に親近感を催したでしょうし、中国政府の意を受けた香港政庁によって強制排除されるに及んで、台湾民衆の心はますます中国から離れたことでしょう。
 しかし、台湾の人々の対中スタンスは、香港と同様(そして前回触れたように、香港だけでなく東南アジアやヨーロッパ諸国、果てはアメリカまで似たようなものと思うのですが)、単純なものではないようです。ジャーナリストの野嶋剛氏は、選挙の夜、ある台湾政府高官の女性から寄せられたメッセージを引用し、単なる反中のために国民党を負けさせたわけではないことを再認識されました。「外国の人たちは、これで台湾は反中になったなんて単純に思わないで欲しい。私たちの投票の主な動機は反中じゃないの。反馬(反馬英九)なのよ。でも、台湾に選挙があって本当に良かったとも思う。台湾の将来を決めるのに、人民が主役になれるということが証明されたわけだから。これこそが老共(中国共産党)がいちばん恐れていることなのよ」。
 野嶋氏によれば、「人気の著しい低迷が続いていた馬英九政権にとって『対中関係の改善』はほぼ唯一、世論調査でも7~8割の人々が『評価する』と回答する項目である。台湾経済の対中依存度は日本の比ではない。中国は台湾企業の生産現場であり、市場であり、『飯の種』だ。そんな中国とケンカばかりしている民進党を嫌ったからこそ、2008年の総統選で台湾の有権者は馬総統を選んだ」のだというわけです。他方で「台湾の人々が無条件に中国を歓迎していると考えたら、それは間違いだ。中国の一党独裁政治体制への恐怖感、言論や人権弾圧への嫌悪感、中国経済に飲み込まれてしまう不安感。これらは台湾社会に根強く広がっている。何より、中国と台湾は60年以上に及んだ分断の末、中国は台湾の人々にとって『他者』になり、一方で『中国は台湾の一部』として将来の『統一』を求める中国とは、あくまで未来へのビジョンを共有していない」というわけです。福島香織さんはこう言います。「台湾の若者の政治意識の背景には中国に対する危機感が切実にある。それは中国が台湾に向けてミサイルを配置しているという危機感であり、中国資本に牛耳られた大企業スポンサーのせいで、メディア上に中国批判言論がなくなったという危機感であり、GDPは増えても若者の雇用が増えない中国依存経済への危機感である」と。
 実際に、台湾の人々は、同じ時期に民主化し同じように製造業を中心に経済成長を遂げてきた韓国をライバル視していて、中韓FTA(自由貿易協定)が決まったことで焦りを感じたビジネス関係者が多いと伝えられます。その韓国は、JETROの統計によると、輸出入に占める中国の比率はそれぞれ26.1%と16.1%に達し(2013年)、片や台湾はそれぞれ26.8%と15.1%(2012年)と、年度は違うものの、中国の存在感は似たような規模で両者の前に増しつつあることが分かります。韓国は、こうして経済的には中国に依存し、一方で安全保障面はアメリカに依存する、一種のねじれた関係にあって(台湾もそれに近いものがありますが)、微妙な舵取りを続ける中、最近とみに中国の磁場に引き寄せられ、アメリカから恫喝ともとれるような忠告を受けたことは、このブログでも触れました。
 それぞれに置かれた戦略環境によって状況は異なるわけですが、台湾では、民意を反映する選挙制度が機能し、中国に引き寄せられ過ぎることなく、つかず離れずの微妙な関係に再び戻しました。ちょっと古いですが、Wikipediaによると、2009年12月の「天下雑誌」による民族帰属意識調査では、「台湾人であり中国人ではない」と答えたのは62%(台湾人であり中国人でもある=22%、中国人であり台湾人ではない=8%)で、年齢を18~29歳に限ると、「台湾人であり中国人ではない」と答えたのは75%(同15%、10%)に達したそうで、「国民党独裁時代に教育を受けた世代において中国人意識が相対的に高く、20代、それから10代と年齢が下がるにつれて台湾人意識が圧倒的に高くなっている」と結んでいます。他の調査でも同様の傾向があり、「台湾指標」の去年8月発表の調査でも、「台湾人」と呼ばれることを好むのが82.3%、「中国人」と呼ばれることを好むのは6.5%に過ぎなかったといいます。このあたりが背景として今回の「ひまわり運動」から「統一地方選挙」までの結果に如実に表れたと言えます。この点で、既に中国の一部になった香港は微妙ですが、香港中文大学のコミュニケーション・民意調査センターが11月10日に発表した世論調査結果によると、自らを「中国人」と考えている香港人の比率は、香港返還時点の1997年調査では32.1%ありましたが、「雨傘革命」後のこの時点では僅か8.9%だったそうです。CEPAなどによって中国経済との一体化が進んでいるにも関わらず、香港人は「中国人としてのアイデンティティ」よりも「香港人としてのアイデンティティ」をむしろ強めていると言えます。香港の世代間でどのような差が出るのか、興味深いところではあります。
 こうした状況を、中国共産党政府は苦々しい思いで見ていることでしょう。台湾では、習近平国家主席が進めようとする「一国二制度」の枠組みを使った台湾の「平和統一」は明らかに遠のいたように見えます。香港は既に「一国二制度」の枠組みに組み込まれ、事実上、中国に呑み込まれるかどうかの瀬戸際でどうにか踏ん張っている。ポイントは民意を映す選挙制度のありようと言えそうです。中国共産党政府は、改めて欧米式の選挙制度を憎み、検閲・言論統制と警察・公安の実力行使による一党独裁維持に自信を深めたことでしょう。経済的な相互依存関係が深まるという、冷戦時代とは全く異なる文脈の中で、中国という異形の大国が台頭するとき、香港と台湾という立場の異なる国・地域はどのような対応を迫られるのか、implicationsは少なくなかったと思います。今回は登場しなかった新疆ウィグルやチベットは一連の出来事をどのように見たのか。激変が予想され、中国ウォッチャーならずとも目が離せません。
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香港と台湾(上)

2014-12-08 23:39:57 | 日々の生活
 香港や台湾で、中国に対する世界の立ち位置を見る上で、とても興味深い動きがありました。今日は、先ずは香港の動きを追ってみたいと思います。
 香港で、選挙制度の民主化を求める学生や民主派議員が中心街を占拠した抗議行動は、世界のメディアから「雨傘革命」と呼ばれ、彼ら自身は「占領中環」(オキュパイ・セントラル、占中)をスローガンに今も頑張っています。それは3年近く前の2011年9月、アメリカで金融機関救済や富裕層優遇を批判して始まった抗議行動「ウォール街を占拠せよ」(オキュパイ・ウォールストリート)を文字っているのは間違いありません。そして、まさにそのウォール街占拠の大規模な運動そのものが開始後二ヶ月ほどで沈静化してしまった(Wikipedia)ように、香港の抗議行動も既に二ヶ月を過ぎ、地元民(とりわけ事業者や投資家)の反発が予想以上に広がり、当局が強制排除に動き出したことにより、下火に向かいつつあります。
 やはり街頭を長期にわたり占拠するのは難しいということでしょう。かつてゲバラはゲリラ活動の要諦として世論の支持を挙げていましたが、まさに民衆の後ろ盾を失った民主化要求など、香港政府さらには北京政府にとっては、痛くも痒くもないことでしょう。
 日経ビジネス香港支局特派員の池田信太朗さんは、今回のデモを、終わったものとして振り返るには時機尚早だと断りつつ、「政治」闘争であると同時にすぐれて「経済」闘争でもあったと思うと述べておられます。デモ期間中、デモ隊に「なぜこの場にいるのか」「何を勝ち取ろうとして闘争するのか」尋ねると、彼らはもちろん「民主主義」や「普通選挙」を答えに挙げるのですが、重ねて「なぜ民主主義が必要なのか」「なぜ普通選挙を実現したいのか」を尋ねると、その答えは経済問題に帰着するのだそうです。曰く、家賃が高騰して生活が困窮している、就職先がない、そして一部企業や資産家だけが経済成長を謳歌し、貧富の差が拡大している。
 このあたりを池田信太朗さんは、「香港人の対中意識の変化」に至るまで、次のように解説されます。1997年7月、中国に返還された後、香港経済は、同年のアジア通貨危機や2003年のSARS流行により、深刻な打撃を受けるのですが、その苦境を救ったのは他ならぬ中国でした。香港と中国との間で、事実上のFTA(自由貿易協定)である「経済緊密化協定(CEPA)」が2004年に施行されると、折からの中国経済の高成長と相俟って、香港経済は息を吹き返します。CEPAはその後何度も更新され、その度に香港と中国本土との経済的な結びつきは強化され、中国本土の旺盛な消費は、香港製品を関税なしに受け入れるとともに、中国からは大量の観光客や投資が香港市場に流れ込み、ついには、副作用とも言えるほどに、香港経済の中国経済への依存をもたらし、却って香港の地価は香港人が購入できないほどの高値を付け、中国本土からの観光客のために物価は高騰し、香港全体が巨大な商業施設と化して、接客業では求人が伸び失業率が押し下げられたものの、香港に立地する外資企業に、中国本土で生まれ欧米の大学で留学経験を積んだ若者までは押し寄せるようになり、結果としてサービス産業以外の選択肢が狭められているのが現実で、所得格差の大きさを示すジニ係数は、返還直前の0.483から、2011年には0.537まで悪化し、格差は拡大する一方なのだそうです。つまり、マクロでの香港経済成長の恩恵を、香港人の大多数は享受出来ておらず、むしろ安定した経済生活は破壊され、香港中文大学のコミュニケーション・民意調査センターが11月10日に発表した世論調査によると、自らを「中国人」と考える香港人の比率は、香港返還時点の32.1%から8.9%に急落し、中国本土との経済の一体化は進んだにも関わらず、香港人は「中国人としてのアイデンティティ」をむしろ喪失しつつある、もっと率直に言えば「自分を中国人だと言いたくない」という対中嫌悪の感情が強まっているというのです。
 興味深いのは、その間、香港経済は相対的に対中での優位性を失い、GDPでは、2009年には上海に、2011年には北京に抜かれ、2015年には天津にも抜かれると見る専門家もいるそうです。こうした香港の相対的な地位の低下が、中国政府の香港に対する姿勢をやや乱暴なものにしているような印象を受けると言います。そして、「反中意識」の高まりが、香港人をして、マナーの悪い本土客を「イナゴ」と呼んで蔑視するような風潮に繋がるとともに、中国本土側にも、中国人を差別するとは許せない、香港だけ特別扱いする必要はない、と反発する感情が芽生えているというのです。
 なるほど、このように説明されると、民主化要求のデモに繋がった行政長官選挙問題はただのきっかけに過ぎなかったのかも知れません。池田信太朗さんはこう結論づけられます。「民主主義の進展こそが香港のアイデンティティーを取り戻す道だ」という論理にすべてを賭けられる理想主義者はデモに走り、「民主主義によって生活が好転するとは思えない」と考える現実主義者はデモに反対した、と。
 結局、香港は、巨大なブラックホールのような中国経済に呑みこまれてしまうのでしょうか。
 柯隆さんは、中国社会について、農民は奴隷のような存在だが、奴隷社会ではない、王様のような特権階級がいるが、封建社会ではない、社会主義と自称しているが、平等ではないため社会主義ではない、資本家がいるが、資本主義ではない、まるで「四不像」(シフゾウ)のようだと譬えました。四不像とは、中国に生息するシカの一種で、しかし、シカのような角をもちながらシカでない、ウシのような蹄をもちながらウシでない、ウマのような顔をもちながらウマでない、ロバのような尾をもちながらロバでない、このように四つの動物に似た特徴をもちながら、そのいずれとも異なるために「四不像(中国音:スープシャン)」と呼ばれる(Wikipedia)のだそうです。
 今の中国共産党政権は、もはやイデオロギーに関心などありません。いや、そもそも統治の用具でしかなかったのでしょう。彼らが関心を示すとすれば、共産党の王朝支配を続けること、そのことに尽きるのであって、そのためにはイデオロギーを振りかざしもし、はたまたイデオロギーで食っていけないとなれば、いくら主義主張に反しようが改革開放に舵を切り、経済的な余裕や自由が政治的な圧力を強めることが懸念されれば、すかさず、愛国教育によって外に敵をつくるとともに、軍事費だけでなく公安・警察にも全力を注ぎ、かつて西欧諸国に踏みにじられた屈辱を払拭して誇るべき「歴史」を取り戻し、中国の(地域)覇権を確立して、中華帝国の「夢」という名のもとにナショナリズムを煽るなど、硬軟織り交ぜて国家としての統一を目指して汲々としていることは明らかです。問題は、高度に成長を続ける中国経済が直面する所謂「中所得国の罠」を乗り越え、安定した社会を築くことが出来るかどうか、そういう意味で、問題は政治ではなく経済化しています。そして、この経済(超)大国化する中国への立ち位置を巡る問題は、ひとり香港だけではなく、また次回触れる台湾だけでもなく、東南アジア諸国や、遠くドイツなどのヨーロッパ諸国にも、さらにはアメリカにも言えることで、私たちは、明らかに近代文明社会とは異質の政治・社会構造をもつ中国という国にどう対処していけばいいのでしょうか。中国共産党の支配など、明日にでも崩壊しかねないと言い捨てるのは簡単ですが、清朝末期の歴史を振り返れば、なかなかしぶとく、まだ10年や20年は先のことかも知れないのです。
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高倉健さんと中国

2014-12-03 00:12:14 | 日々の生活
 中国事情通の方々のコラムやエッセイを読むと、高倉健さんの訃報が中国で予想以上の反響を呼んでいることに、彼ら彼女らも驚いた・・・といったような反応が多かったようです。
 たとえば、中国版ツイッター微博には「さよなら、杜丘(健さんの中国での通り名)」と哀悼コメント(それらのコメントにはロウソクのマークがつけられていたそうです)が殺到し、反日デモの参加者がペンキや卵を投げつけていた在北京・日本大使館には、ファンだけでなく人気俳優の孫淳や作家の王斌(「単騎、千里を走る」をプロデュース)の両氏連名の供花まで贈られていたのはほんの序の口で、いつもは口さがない外交部報道官は定例記者会見で「高倉健先生は中国人民がよく知る日本のアーチストであり、中日文化交流促進のために重要で積極的な貢献を果たした」と異例の哀悼コメントを出し、新華社も中国新聞社も健さんへの敬意と惜別の念を込めた追悼記事を掲載し、国営の中央テレビは18日夜に25分間にわたり健さんを惜しむ特集を放送したそうです(福島香織さん、姫田小夏さん、柯隆さん等による)。APECで僅かながら歩み寄りを見せたとはいえ、全く心を許していない中国にしては、異例の反応ではありませんか。
 既にご存知と思いますが、「杜丘」というのは、映画「追捕」(邦題「君よ憤怒の河を渡れ」、佐藤純彌監督)で健さんが演じた主人公・検事の名前です。西村寿行氏の小説をもとに大映が映画化し、1976年に封切られたサスペンス・アクション映画で、日本ではどちらかと言うとB級と見なされているようですが、文革後の1979年に中国全土で外国映画として初めて上映されるや、大変な人気を博したそうです。ひとつには、それまで中国で銀幕のヒーローと言えば革命劇の聖人君子然とした革命家ばかりで、日本人と言えば抗日戦争映画の卑劣な日本鬼子のイメージばかりでしたので、突如、現れた「追捕」の血の通った人間くさいヒーロー「杜丘冬人」は、日本人男性のイメージを一新しただけでなく、男性に対する中国人女性の審美眼まで変えたと言われます。中国の若い女性は、誰もが健さんのお嫁さんになりたいと思い、「杜丘」ファッションは一世を風靡したそうです。また、謹直な愛情演技しかない国産映画に慣らされた若者たちに、「杜丘」役の健さんと「真由子」役の中野良子さんの大胆な愛情表現は衝撃だったようです。そして、何より、強盗容疑を着せられ連行された東京地検・検事がそれを振り切り逃亡するというストーリーが、多くの人々が無実の罪を着せられ迫害された文革の時代状況に重なり、追っ手である公的組織から逃げ回るだけでなく反撃に出る主人公と、それを助ける女性、という「役人との闘い」のシチュエーションに、観衆は大いに共感し、溜飲を下げもし、人を騙し傷つけ合ってきた時代を経て、他人を尊重し礼節を守るという美徳に憧れを感じた・・・などと解説されます。
 健さんは、中国を訪れると、いろいろな人から「杜丘」と呼ばれたそうで、これこそ文化の力であり、「ソフトパワー」であると、中国事情通の方々は、故人の人徳とともに、称えます。日中の政治関係が冷え込んでいる今だからこそ強調したい側面でもあります。私もそれに異論を唱えるつもりはありませんし、健さんが中国でも高く評価されることは、この上もなく晴れがましい。が、余計な一言をつい加えたくなります。つまり、中国政府をあげての健さん賛歌に見えるのは、大日本帝国軍人や現代の(安倍をはじめとする)極右・ナショナリストがいくら憎くとも、中国(共産党)は、健さんの偉大さや文化的貢献には敬意を払う「大人(ダーレン)」の風格をもつものであり、歴史や領土問題における日本の誤った認識がなければ、お互いを尊重し正常な外交関係を築くことが出来るのだと言わんばかりの、中国政府の「当てこすり」です。決して故人を貶める意図など毛頭ないのでしょうが、この期に及んで(中国人民の素直な哀悼の気持ちと比較して)中国政府の浅はかな計算が透けて見えて、ちょっと哀しくなりましたが、まあ私の考え過ぎでしょう。
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