風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

追悼・鳥山明さん

2024-03-12 01:02:01 | たまに文学・歴史・芸術も

 最近の追悼文では、そんなにファンではないのだが…が枕詞になっている。仮に熱烈なファンではなくても、同時代を生き、身近な存在として当たり前に過ぎて、いざ失われると、実は私の冴えない人生に彩りを添える、かけがえのない存在だったことに今更ながら気がつき、たまらない喪失感を覚えるのだ。

 鳥山明さんとは、学生時代に家庭教師のアルバイトをやっていたときに中学生の教え子から「面白いから読んでみて」と10数冊のアラレちゃんコミックスを持ち込まれて、そこは暇な大学生だから、貪り読んで楽しんだのが唯一の接点になる。が、それだけではない。ともすれば心細い海外生活にあって、「ドラゴンボール」は日本と日本人の存在感を示して、ついぞ読むことはなかったけれども、そこにいるだけで心強い、日本人駐在員の心の支えのようなところがあった。

 漫画やアニメが日本のソフトパワーと言われて久しい。マレーシアに住んでいた頃、噂ではなく本当に原作を日本語で読んでみたいからと日本語を勉強する人がいた。インバウンド観光でも聖地巡りは定番になっている。

 特徴的なのは、お隣のKのつくドラマや音楽と比べてみればより明確に分かるのだが、欧米文化に迎合することなく、たとえガラパゴスと揶揄されようと、日本人が好きでやっていることが、欧米やアジアやその他の異文化の人たちから面白いと発見されたことだ。東洋の渡り廊下の先にある奥座敷とも言えるような辺境の島国であればこそなのかもしれないが、「面白い」を追求して、必ずしももの珍しいだけではなく受け入れられることの不思議さ。

 デーブ・スペクターさんが、中野信子さんとの対談の中で、「おもてなし」を意識することの愚を痛烈に批判されていたのが面白かった。日本人らしく、あるがままに振る舞うことにこそ、良さがあり面白さがあるのであって、意識したら台無しだというような趣旨だった。まるで珍獣⁈のようだが、こと文化的なところに関しては、日本人は日本人らしく、日本人の「好き」「面白い」にこだわって存分に突き進むのがよいと思う。

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追悼・寺沢武一さん

2023-09-14 01:52:16 | たまに文学・歴史・芸術も

 漫画家の寺沢武一さんが心筋梗塞のため8日に亡くなっていたことが分かった。享年68。

 代表作は、1977年に「週刊少年ジャンプ」に発表されたデビュー作でもある『コブラ』で、翌78年11月から連載開始された。葉巻を咥え、左腕に「サイコガン」を装着した不死身の男・コブラの活躍を描くSF作品で、私にとって、故モンキー・パンチ氏の『ルパン三世』と並ぶ、漫画界の二大ヒーローである。いずれもアメリカン・コミック・タッチの作画であることが共通している。いずれも主人公は「粋でいなせ」(これはルパン三世に寄せられた形容だったと記憶する)で、寺沢さんご本人は「もともとコブラの声というのはクリント・イーストウッドの山田康雄さんのイメージなんです。だから常に山田さんだったらこうんな風にしゃべるだろうな、というのを意識して書きました」と語っておられ、ここでもルパン三世と共通するものがある(ご存知の通り山田康雄さん=ルパンと言ってもいい)。そして何より、いずれもキャラクター・デザインのモデルになっているのが、1970年代のフランス映画界を代表する、女性に人気のアラン・ドロンに対する、男性に人気のジャン=ポール・ベルモンドである。それが片や一匹狼の宇宙海賊・コブラであり、片や世界を股にかけて活躍する大泥棒・ルパン三世という仕儀なのだ。就職で上京し、横浜の独身寮で暇つぶしに買い求めたデラックス版コミック『コブラ』全10巻完結セット(ジャンプコミックスデラックス、1988年11月1日発売)は、いまだに捨てられない(アマゾンで調べたら、中古本がなんとセットで11,400円~13,980円で出品されている)。同様に、中学生の頃、なけなしの小遣いで買ったコミック『ルパン三世』(双葉社)のオリジナルと「新」併せて三十冊近くも捨てられない(こちらは50年近く前のものだから、もはや骨董品扱いだろう、酔狂としか言いようがない)。

 そうは言っても、メイプル超合金のカズレーザーさんが、コブラに憧れ、コブラに似せて、葉巻は咥えないまでも、金髪と真っ赤を基調とした衣装で通しておられるのには敵わない。かつて出演したテレビ番組で「赤いヒーローって強いし、かっこいいじゃないですか。おれも、かっこよくなりたいっていうのはあるから、赤を着ようと」と告白されたそうで、左腕をサイコガンに改造したいと話すほどだ。いや彼だけではない。「幼い頃、コブラがあまりにも好きすぎて なぜ自分の左腕は抜けないんだろうと 何度も何度も引っ張ってた 本当に大好きな先生が亡くなったことに心が痛む ボクにとってコブラも先生も永遠のヒーローです 心よりご冥福をお祈りします」と綴ったのはGACKTさんである。

 寺沢武一さんの話に戻ると、1998年に人間ドックで悪性の脳腫瘍が判明し、手術を受けたことを公表されていたそうだ。放射線、抗がん剤治療を受けながらも、その後、再発し、二度目の手術で左半身に麻痺が現れたことも公表され、後遺症で車椅子生活を送っておられたようだ。そんな中、既に1980年代初頭からパソコンを使った作画や彩色のパイオニアとして知られ、「デジタル漫画(デジタルコミック)」という名称を生み出された。絵がとにかく精緻でお上手である(だからこそ魅かれる)。「カラー原稿は、背景の隅々にまで手が入れられており、漫画原稿にかかわらず単品のポップアートとしても通用する領域に達しており、海外における評価も高い」(Wikipedia)そうだ。

 今、読み返しても古さを全く感じさせないが、そうは言っても、あの時代に出会えたことに感謝するほかない。ご冥福をお祈りし、合唱。

 

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内藤湖南への道

2023-08-15 20:37:47 | たまに文学・歴史・芸術も

 「綺羅星の如く」つながりで・・・かつて京都学派と呼ばれた京都大学の教授陣がいた。西田幾多郎や波多野精一をはじめとする哲学科が有名だが、狩野直喜や内藤湖南をはじめとする史学科も負けてはおらず、世界に冠たる東洋学の伝統を樹立した。まさに綺羅星の如く・・・である。

 そんな綺羅星の数々が登場する、この表題そのままをタイトルとする書籍を、夏休み前に近所のブックオフで偶々見つけて、夏休みの課題図書にすることに決めた(笑)。こうした浮世離れした本は(と言ってしまうと著者に失礼で、テーマは今日的ではあるのだが)、せわしない日常に細切れに読むよりも、まとまった休みに非日常の雰囲気に浸りながらのんびり一気読みするのがいい。ブックオフでは、たまにこうした稀覯本に出会う。

 著者は、私が敬愛してやまない故・高坂正堯を、まだ助教授時代の若かりし頃に取り立てた元・『中央公論』編集長・粕谷一希である(なお、高坂氏が『現実主義者の平和論』を同誌1963年1月号に寄稿したとき、粕谷氏は編集部次長だった)。Wikipediaによれば、ほかにも永井陽之助、萩原延寿、山崎正和、塩野七生、庄司薫、高橋英夫、白川静などを世に送り出し、2014年に亡くなって、知人67名による追想録が上梓された際には書名に「名伯楽」の尊称を与えられている。本書は、表題通り、支那学の泰斗・内藤湖南(1866-1934)の生家(秋田県十和田湖畔)と生い立ちを訪ね、更に時代を下ってその足跡を辿り、彼を取り巻く(彼の弟子たちである)東洋学を中心とする綺羅星の如き学者たちを訪ねながら、あらためて内藤湖南その人の存在感を確かめる趣向だ。モチーフは、本書刊行時(2011年10月)、既に大国化しつつあった中国の将来を湖南はどう見通していたか見極めるためと、はしがきにある。所謂「京都学派」は哲学だけではなく史学にもあった古き良き時代を、時代の変遷とともに活写し、それは取りも直さず編集者・粕谷氏自身は東大法学部卒だが影響を受けたとされる京都学派の読書遍歴であり精神遍歴の記録でもある。その意味では、皮肉な見方をすれば貴族趣味に過ぎないが、私はそういうのは嫌いではない(微笑)。

 さて、内藤湖南はジャーナリスト出身で、所謂学歴は無いながら異例とも言える京都帝国大学教授に引き立てられたことは周知の通りだが、朝日新聞から京大に転じたのは、夏目漱石が東大から朝日新聞に転じたのとほぼ時を同じくするのだそうで、相互に逆の流れだったのが面白いし、そういう時代だったのかと認識を新たにした。もっとも、ジャーナリストだったとは言え、内藤家は南部藩の支藩桜庭家の家臣で、代々儒者だったことから、漢学の素養は相当あったようだ。ただでさえ幕末・明治の人は当たり前に漢字の読解力が高く、計8回(中には政府・外務省から依頼された調査もあったようだが)中国に旅したときには、高杉晋作がやったように、筆談で中国人と対話したというのも、印象深い。そうは言っても言語は所詮手段であって、要は何を語るか、だ。康有為について人物評を問われて次のように答えている(1899年、一回目の紀行で)。「東京で会ったことがあります。あの人物は、才力は充分だが識見と度量が足りません。態度も重々しさに欠けます。そして世を救おうというのが志であるのに、好んで学義の異同を高く掲げ、人と論争します。失敗しやすい所以です。だいたい(政治上で)事業をなそうとする人が学義に関して偏見を立てるのは禁物です。そうすると自ら勢力を狭め、広くその意見が世に行われないようにすることになります。」 私はもとより康有為を知らないが(笑)、政治にも首を突っ込んだことがある湖南ならではの品定めの透徹した目が光っているように見える。

 それで、綺羅星の如く・・・とは言っても、狩野直喜(1868-1947)、桑原隲蔵(1871-1931、武夫氏の父)、羽田亨(1882-1955)など、実は名前しか知らない人が多い(汗)。西洋史学の鈴木成高(1907-1988)、地理学の小川琢治(1870-1941)、考古学の濱田耕作(1881-1938)も同様だ。本書を読んで驚いたのが、小島祐馬(1881-1966)で、内藤湖南の講義を聴いた学生だったが、後に古代思想を受け持って湖南と同僚になったと知った。私は数年前、偶々、中野の古本屋で『中国の革命思想』(筑摩叢書)を見て、題名に惹かれて衝動買いしたのだったが、氏のそのような系譜は存じ上げなかった。偶然である。

 私にとって馴染み深い学者と言えば、湖南らの次の世代(第二世代)と位置づけられる宮崎市定(1901-1995)で、手元には『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』(平凡社東洋文庫)をはじめ、『アジア史論』(中公クラシックス)、『中国文明論集』(岩波文庫)、『科挙』(中公文庫)、『アジア史概説』(同)、『科挙』(同)、『水滸伝』(同)、『日出づる国と日暮るる処』(同)、『中国に学ぶ』(同)など、新刊・古本を問わず闇雲に買い集める内に9冊を数える。人類学の今西錦司(1902-1992)、中国文学の吉川幸次郎(1904-1980)、田中美知太郎(1902-1985)も年代として見れば同じ第二世代に位置づけられようか。それぞれ少なくとも数冊ずつ書棚(押入れ?)にあり、第一世代と比べれば各段に馴染みがある。そして私が一時期入れあげた『文明の生態史観』の梅棹忠夫(1920-2010)は更に次の世代ということになる(ここまで来ると、同時代を生きた先生という意識が強くなる)。他方、手元にある湖南の著作は、『日本文化史研究(上)/(下)』(講談社学術文庫)と『支那論』(文春学芸ライブラリー)の3冊だけ。名は知られているが、ちょっと遠い存在だった。

 そんな湖南の存在感ということで、本書のポイントを三点、挙げてみる。

 先ず、湖南と言えば、およそ西洋の歴史学では東洋的停滞としか捉えられない中、「宋代から近世として考えるべきである」とするユニークな時代区分論「宋代近世説(唐宋変革論)」を提唱したことで知られる。その後、宮崎市定に引き継がれ、秦漢時代までを上古(古代)、魏晋南北朝隋唐時代を中世、宋以降を近世、アヘン戦争以降を近代とする四時代区分法を中心に、京都学派では中国史の研究が展開された。

 次に、西の湖南と東の津田左右吉の比較論もよく知られるところだ。日本文化の成立と性格について、津田左右吉は、日本文化は本来支那文化とは別個のものであり、一部知識人の間に儒教の影響があったとして、日本人の生活とは全く関係のない代物であると(今となってはある方面の定説とも言える)主張をしたのに対し、湖南は、日本文化は支那文化という母胎から生まれたものであり、日本文化の成立に関連して、支那文化が豆腐のニガリのような役割を果たしたと主張したものだ。どちらの立論も可能なほど微妙な問題であり、どちらでもいいようなものだが(笑)、地政学的に環境決定論としては津田左右吉の言う通りだ(日本は海洋国家たるべき島国であり、大陸国家とは違う)が、環境可能論的に、湖南の文脈で言えば個々の民族を超えた「文化」史的観点(文化の中心は国民の区域を越えて移動するもので、東洋文化の進歩発展から言うと、国民の区別というようなことは小さな問題だとする「文化中心の移動」という考え方)から、中華の周辺文明として受ける影響は小さくなかったようにも思う。

 三点目に、今日は8月15日でもあることから、戦争との関連に触れたい。湖南が亡くなったのは、満州事変の後、支那事変の前で、当然のことながら大東亜戦争を知らないし、中国共産党の革命も知らない。明治人の彼は、欧州列強のアジア侵略に抵抗するために日本の大陸進出とアジア経営を主張し、日清・日露戦争の頃は対露強硬派だったというのは、まさに時代精神であろう。朝鮮半島や中国が、もう少し国家の体を成していれば、全く違う展開になっていたであろうことは想像に難くない(が、だからと言って日本の責任を免れるものではない)。そんな中でも、湖南は、第一次大戦時の対支二十一箇条の要求には批判的だったとされるから、同時代を生きた者として十二分に理性的だったと言うよりも、史学者として支那の国柄を心得ていたということかも知れない。あれ以来、本来は植民地主義のヨーロッパが敵であるはずなのに、日本が中国の敵になってしまった。

 ここで、京都学派に触れる以上、哲学者を中心に、1942年2月から1945年7月まで大東亜戦争のほぼ全期間を通じて、「海軍の一部(米内光政系)の要請と協力を受けて月に一、二度、時局を論じるひそかな会合を重ね」(大橋良介著『京都学派と日本海軍』(PHP新書、2001年)より)、後に戦争責任を問われて、代表的論客四人が京大を追われたことに触れるべきだろう(粕谷氏も取り上げておられるように)。大橋良介氏の著作は、当時、京都大学文学部の副手で、会合の連絡係だった大島康正氏の死後に発見された会合メモ(大島メモ)を読み解き、「海軍と連携しつつ陸軍の戦争方針を是正しようとする、体制内反体制とも言うべき際どい会合だった」(同)ことを明らかにし、四人を弁護するものとなっている。あのとき、「京都学派の狙いは、海軍と組んで陸軍の暴走を食い止めるところにあった」(同)が、「戦争が始まったからには・・・」、国民としてそれに協力すべきだとの義務感から、戦争するからには、“東亜共栄圏の倫理性と世界性”を自覚すべきだし、“総力戦というものの性格を理解しなければならない”と説いたに過ぎない、という。戦後のGHQ史観とも言うべきリベラルな歴史観に染まった私たちに再考を迫る重いテーマである。

 ついでに言うと、概して粕谷氏がサイドストーリーとして語る時代認識、歴史認識には、私としても異論が少ない。中でも、先の戦争は「暴挙であったが、愚挙ではない」とさらっと総括されていることには目を見開かされた。まさに。私たちは、もう少し歴史(先人の知恵と勇気)に対して謙虚であるべきだろう。

 再び湖南に戻って、辛亥革命を同時代に見た湖南は、次のように述懐している。「政体の選択に就いて他国の内政に干渉するといふことは、随分昔の神聖同盟などが欧羅巴にあった時代ならば知らず、今日では余り流行しませぬ。私の考では当分黙って懐手をして見て居る方がよいと思ふ・・・(中略)・・・支那はどうしても大勢の推移する所は如何ともすることの出来ない国柄である。」

 西洋だけでなく東洋でも古代・中世・近世と発展を遂げた(と京都学派は言う)ように、私たちは、中国の内発的発展を信じ、かつ世界史の発展の類似性を信じて、中国の体制のことは中国人民が決めるしかないとして、「当分黙って懐手をして見て居る方がよい」のだろうか。まあそうするしかないだろう。しかし、現代の中国は、歴史的中国と違って、社会統制の手段として現代と将来の科学技術を味方につけている。変革は簡単ではない。また、実体が大国化するとともに態度も所謂大国化し(というのは歴史的中国そのものかも知れない 笑)、大陸国家的な膨張主義を海洋にも推し進める中国に対して、そう悠長に構えておれないところに、現代の私たちの苦悩がある。本来、地政学のテーゼは、大陸国家と海洋国家を同時に達成することは出来ないとするが、中国はそもそも北の大陸と南の海洋から成る両性国家である。ベトナムは南北で何百年もの別々の歴史(インドの影響を受けたものと中国の影響を受けたものと)があり、朝鮮半島も南北さらには南の東西は三韓の時代から何百年もの異なる歴史をもつ別々の国家だったように、中国は性質を異にする南北が便宜的に一つの帝国を成すに過ぎないとも言える。中国という存在は簡単ではない。

 今の中国は、順調な経済発展の末に、自らの異質な行動特性は棚に上げて、総てをアメリカの責任に帰して、西洋的な発展とは逆のギアを入れつつあり、粕谷氏によれば着地点が見えず、私に言わせれば混迷は深まるばかりである。本書の中に、一ヶ所、故・高坂正堯氏の言葉が出て来る。「13億という数は統治可能なんでしょうかね」 実に含蓄ある言葉だ。恐らくこれを受けてのことだろう、粕谷氏は、「共産体制を脱して多党制と言論の自由を制度的に保証する民主国家、民主体制となるほかない」「北京政府は思い切って各地域・民族に大幅な自治権を認め、United Statesにしたほうが全体は安定するように思う」と夢想され、私もそうなることを心から願うが、中国共産党の指導者たち(=現代の皇帝と貴族たち)は権力を失うことを恐れる。歴史的中国そのものだ。湖南は歴史の推移を「発展」ではなく「変遷」として捉えていたそうだが、中国的な「変遷」は、私のような素人には停滞にしか映らない。民主化の経験が全くない中国社会、湖南が言う父老社会の存在(郷党社会における独特の老人支配で、その長は外交問題や愛国心には関心がなく、郷里の安全、家族の繁栄にだけ関心があり、それさえ満たされれば従順に統治者に従うという)を考えれば、ハードルが高い「変遷」である。さて、どうなることやら・・・。

 一つ確かなことは、学問の消長は、国力の消長に連動するということだ。時代とともにある、と言い換えてもよい。京都学派は、日本が第一次大戦後、国際連盟の五大国にのし上がったのと軌を一にするように、あるいは司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」のように、勃興し、大いに自信を持ち、溌剌とした空気が充満した奇跡あるいは幻だったのではないか・・・そんなほろ苦い感傷に浸りながら、少し暑さが和らいだ夏休みに夢を見るとはなしに夢見ている。

 粕谷氏によれば、波多野精一は「未来」と「将来」を区別し、未だ来たらざる時よりも、将に来たらんとする時の方が人間存在にとって貴重であることを説いたそうだ。だからこそ、史学には過去を辿りながら「将来」を描く力があるということだろうと思う。国力衰えたりとは言え、東洋学の伝統がある日本にはなお期待したい。

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山岡鉄舟

2022-05-18 22:28:58 | たまに文学・歴史・芸術も

 連休前のことになるが、新選組局長・近藤勇(1834~68年)が着用した可能性のある甲冑が、富山県高岡市の古刹・国泰寺で見つかった。注目すべきは、寄進したのが幕臣・山岡鉄舟(1836~88年)だったことで、高岡という地との取り合わせが気になった。鎌倉時代の創建とされる国泰寺は、なんと京都の妙心寺や天龍寺などと同格の禅寺なのだそうで、江戸時代には歴代将軍の位牌が安置されるほどの徳川家ゆかりの寺だそうだ。明治天皇の北陸への巡幸に随行した鉄舟は、廃仏毀釈の影響で荒れ果てた国泰寺を見かねて、1万枚以上の書を揮毫して資金を集め、再興を支援したという。彼は、新選組の前身「浪士組」設立に関わったことでも知られる。彼は幸いにも維新政府でも取り立てられたが、薩長史観によれば近藤勇は逆賊だから、頃合いを見計らって、地方(高岡)の由緒ある寺でひっそりと弔ったのではないか・・・というわけだ。

 平穏無事のときには、とりたてて何かするでもなく時は流れる。しかし、歴史の動乱期には人物が炙り出される。困難を乗り切るために、時代が人物を欲するのだ(逆に言うと、人物は、平穏無事の時代には目立たないまま一生を終えるのかも知れない)。その意味で、戦国時代と幕末は、日本における二大動乱期として、それらの時代の歴史小説がことのほか日本人には好まれる。私も、かつては生まれ故郷の英雄・西郷隆盛を慕い、その後、司馬遼太郎の影響で坂本龍馬や新撰組の若者たちの清々しさに感銘を受けたが、最近のマイ・ブームは「幕末三舟」の一人、山岡鉄舟だったのだ。あの坂本龍馬をして、「西郷という奴はわからぬ奴だ。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と言わしめた西郷隆盛をして山岡鉄舟のことを、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わしめた。これを聞くだけで私は心の臓をぐっと掴まれた気分になる(笑)。

 ここで言う天下の偉業とは、江戸無血開城のことだろう。一般には、西郷隆盛が旧・薩摩藩邸(今の港区芝5丁目)で勝海舟と直談判したことが知られ、その会見の記念碑が残るが、実のところ、西郷隆盛は、勝海舟と会う前に山岡鉄舟との談判で殆ど腹を決めていたとされる。その会見の記念碑が静岡駅前、上伝馬町の松崎屋源兵衛宅跡に残る。

 以下、Wikipediaから抜粋する。「慶喜は恭順の意を征討大総督府へ伝えるため、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることが出来ない、と述べ義弟である鉄舟を推薦」した。「山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁勝海舟の邸を訪問」し、「勝は山岡とは初対面だったが、山岡の人物を認め」、「西郷隆盛宛の書を授ける」。山岡は、「駿府の大総督府へ急行し」、大胆にも「官軍が警備する中を『朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る』と大音声で堂々と歩行し」、「下参謀西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求め」、「西郷は山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じ」て、「江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功した」のであった。

 中でも、西郷隆盛から提示された5条件の内の一つ、「将軍慶喜を備前藩に預けること」に抵抗し、「もし島津侯が(慶喜と)同じ立場であったなら、この条件を受け入れないはず」だと反論し、慶喜の身の安全を保証させた。そのため、後に慶喜は「『(慶喜の救済、徳川家の家名存続、江戸無血開城)官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である。』と、慶喜自ら『来国俊』の短刀を鉄舟に与えた」そうだし、徳川家達は「明治15年(1882年)に徳川家存続は山岡鉄舟のお陰として、徳川家家宝である『武藤正宗』の名刀を鉄舟に与えた」そうだ。因みに、「勝海舟は名刀を与えられていない」(いずれもWikipediaより)。

 この連休中に、『命もいらず名もいらず』(山本兼一著、集英社)を読んだ。小説とは言え、若かりし頃の山岡鉄舟の剛直な性格とひたむきさがなんとも微笑ましく、羨ましくもある。「最後のサムライ」と言えば、今なら河合継之助だろうし、西南戦役の史実を振返って西郷隆盛と主張する人もいるだろうが、剣、禅、書のいずれをもよくし(母方の先祖に塚原卜伝がいる)、身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と、当時としては並外れた巨漢で、北辰一刀流の剣術を学び、一刀流小野宗家第9代・小野業雄から道統を受け、自ら一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となり、ソロバン勘定は苦手ながら、高潔な人格で知られ、明治天皇の侍従として教育係を仰せつかるなど、明治新政府でも重用された山岡鉄舟もまた、古き良きサムライの精髄を体現し、「最後のサムライ」に相応しいように思う。

 この小説を読んで、当時の世相に思いを致さないわけには行かなかった。一部のサムライとは言え、自己鍛錬の厳しさと憂国の志の真摯さを見せつけられると、当時、帝国主義が荒れ狂った激動の時代を、アジア諸国の中で唯一、日本が乗り切った理由が分からないではない。逆に、今の私たちにそこまでの真摯さがあるかと問われると、なんだか堕落したように思えて恥ずかしくなる。当時の日本は、人の一生に譬えればまだ青年のように若々しく、世間知らずで、何事にもひたむきで、溢れるばかりの鋭敏な感覚を持っていた。翻って現代の私たちはどうだろう。バブル期にはアメリカを脅かすほどの経済的成功をおさめたが、安全保障は他国(アメリカ)に委ねたまま、ちょうど(第一次と第二次の)戦間期のように、一等国の幻想から抜け切らず、慢心して、ウクライナ危機に直面しても、ドイツに啓発されたのだろう自民党は、防衛予算を対GDP比で2%に引き上げることを提案するまでは良かったが、5年もかかるという緊迫感のなさはちょっと絶望的だ。野党に至っては、護憲(とりわけ憲法9条の死守)の前提として、日本の周辺にたむろするゴロツキのような権威主義国に脅威を感じるのではなく、今なお日本自身の暴走こそが脅威と見做し、その歯止めとする発想が横溢しているのは、もはや救いようのない現実感覚のなさと言うべきであり、自ら政権を担う気がないのだと諦めざるを得ない。

 いざとなったら、政治家はアテにならなくても、私たち庶民は団結するのだろうと信じたい(し、中国は今なおそれを恐れているように見える)。そのために、幕末・維新の志士の緊張感を訪ねるのも悪くないはずだ。

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葬式の名人

2019-10-02 00:02:50 | たまに文学・歴史・芸術も
 大阪府茨木市の市制70周年記念事業の一環として、ふるさと納税とクラウド・ファンディングを活用し、川端康成の母校・大阪府立茨木高等学校(旧制茨木中学)を舞台に、川端康成の複数の作品をモチーフに制作したという、なかなかユニークな映画である。茨木市のホームページには次の様な宣伝文句がある。

(引用)
 茨木が生んだノーベル文学賞作家・川端康成の傑作を原案として、茨木を舞台とした青春群像コメディが制作されました。これは、
 ・茨木市が市制施行70周年であること
 ・文豪・川端康成の作品へのオマージュ
 ・府立茨木高等学校出身で本市ゆかりの映画脚本家
という3つの要素の巡りあわせにより得ることができた、本市のブランドメッセージ「次なる茨木へ。」を展開する絶好のチャンスと考えております。
(引用おわり)

 若くして天涯孤独ということでも川端康成をモチーフにした、両親や祖父のことで葬式慣れした主人公(前田敦子)が、期せずして高校卒業10年後に6人の同級生とともに「同窓会」ならぬ「同葬会」を母校で繰り広げるという、ちょっとシュールなドタバタ・ファンタジーだ。川端康成の作品へのオマージュということで私が気付いたのは、学生時代に読んで衝撃を受けた(!?)「片腕」という耽美的な小説だけだったが、あの小説では肩の丸みを愛でるのではなかったか・・・という意味では物足りないと言うよりも、やや浮世離れしたストーリー展開の中で、取って付けたような“転換”こそ見事と言うべきかも知れない。ほかにも、タイトルの『葬式の名人』をはじめ、『師の棺を肩に』、『バッタと鈴虫』、『十六歳の日記』、『古都』、『少年』、『化粧の天使達』などもモチーフとして使われる場面があるらしく、「ウォーリーを探せ」的な愉しみがありそうだ。
 見たところキャストやスタッフは豪華なのだが、上記も含めて、予算の都合と言うよりも、敢えて8ミリ的な味を狙った手作り感は、見る人によっては安っぽく、逆に凝り過ぎにも見えるというように、評価が分かれそうで、結果として通好みの作品に仕上がっているように思う。とにかく見終わって、なんとも楽しくとも懐かしくとも愛しくともほろ苦くとも不思議ともつかない奇妙な感覚に囚われることだけは間違いない(笑)
 実は私の母校のことなので見に行った次第だが、かれこれ30年以上訪れない間に、改築されて裏門が正門になっていたりして物珍しく、JR(当時は国鉄)で通っていた私には、ロケ地の阪急沿線は殆ど馴染みがなく、という意味で内輪受けにどっぷり浸ることも出来ずに、比較的冷静に見ていたのが、ちょっと寂しくもあった。私にとって懐かしいとすれば、部活帰りに、通称・前店(ゼンテン、正門前の駄菓子屋)でたまに飲むチェリオが美味かったことだが、正門が裏門になってしまったので、潰れてしまったと聞く。
 主役の前田敦子さんは女優さんらしくなった(と、しみじみ)。初めて挑戦したという大阪弁はいまひとつだったが(笑)、幼顔なので、回想シーンのセーラー服姿が良く似合う(笑)
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今ごろ、「君の名は。」

2017-07-22 11:28:51 | たまに文学・歴史・芸術も
 かねがね見たいと思っていた映画「君の名は。」のことは、ほぼ一年が経ち、すっかり忘れかけていたのだが、期せずしてシンガポール行き機内映画の「新作」として登場していることに気が付いた。国内興行ランキングで公開から29週連続でトップ10入りを果たし、興行収入249億円を超える歴史的な大ヒットを記録、第40回日本アカデミー賞ではアニメ作品として初の最優秀脚本賞を受賞・・・といった知名度もさることながら、CMで見せたコマ切れ映像が心に引っ掛かり、それでいて劇場に行きそびれていたものだから、こりゃもうけもの♪と、つい浮かれた気持ちで、しかし昼間の機内で、完全に暗いわけではないから、泣きが入りはしないかと警戒しながら、おそるおそる見始めた。
 人の中身(心)が入れ替わる話だから、今はどちらの方なのか気にしながら、そして最近のアニメらしくテンポよく場面が切り替わるので、ストーリーを追いかけるのに精一杯で、幸か不幸か涙など気にしている暇はない。爽やかな軽めの恋愛モノなので、さほどの感情移入もなく、美しい日本の原風景(飛騨地方の糸守という架空の町だが)や、1200年振りの彗星落下といったエピソード、通勤で使っている中央線や総武線・・・といった舞台装置の数々に気を取られているうちに、映像が実に美しいという強い印象を残して、見終わった。
 よせばいいのに、これで終わらず、帰りの7時間のフライトでも、他に目ぼしい映画がなかったものだから、もう一度、見た。ストーリーは概ね頭に入っているので、安心してそれぞれの場面や言葉のもつ意味あいを楽しむ余裕がある。すると、隅々まで目が行き届き手が込んだ作品なので、ついのめり込んで、不覚にも(否、齢を重ねるごとに涙もろくなるので、不覚でもなんでもなく)ちょっと泣けてしまった。特に二人が初めて会って会話する場面は「黄昏どき」(=「誰そ彼時」「彼は誰時」「逢魔が時」)であるのが、映画のタイトルと通じ合って象徴的で、これを糸守町の方言(?)では「カタワレ時」とも呼ぶという説明が、学校の授業の一つの光景として初めの方に効果的に埋め込まれていて、活きて来る・・・落ちて来た彗星が片割れなのか、二人の存在がそれぞれの片割れなのか・・・。
 その昔、「一粒で二度美味しい」という有名なキャッチフレーズがあったが、ストーリーの大筋を理解している二度目でも細かいところでの発見がある(一度目で発見できないのは情けないが)。一度目、歴史を変えちゃったんだなあ・・・と漠然と引っ掛かっていたが、二度目、それがそもそも作品のモチーフの中核をなす「糸」で、それを取り巻く縦横の細い「糸」が面白おかしくも切ない人間模様を織りなす仕掛けになっていることに気が付く。実際に、象徴としての組み紐に重要な役割が与えられている。キャラクター造形も魅力的で素晴らしい。なにしろ1200年の伝統を守り抜くこと自体が、世界広しと言えども日本以外ではあり得ない事象であり(対抗できるのはバチカンくらいか)、そんな日本の伝統と自然と文化、とりわけ伝統を守ることの神秘が(例えばバチカンの教会の奥の院で行われるのではなく)ごく日常の中に息づき、美しい自然と都会の生活が併存し、登場人物は限りなく優しい、日本のアニメとしてこれ以上のものはないテーマである。ずるいよなあ・・・と思いながらも、日本のアニメの完成度の高さをあらためて思い知らされる、切なく、ほっこりする、温かみのある作品に仕上がっていて、楽しませて頂いた。
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ニオイの魔力

2016-01-14 00:57:08 | たまに文学・歴史・芸術も
 ニオイというのは根源的なものだ。ある霊長類研究者から聞いたところによれば、哺乳類は基本的には夜行性であり、ニオイ(嗅覚)で生きているため、目は見えているのだが解像度は相当低いらしい。ところが人間は夜行性ではなくなって、目が発達し色が見えるようになるとともに、嗅覚は衰えていったという。パトリック・ジュースキントはその小説「香水 ある人殺しの物語」の中で、主人公のグルヌイユの感覚を次のように描写する。

(引用)
人間は目なら閉じられる。壮大なもの、恐ろしいこと、美しいものを前にして、目蓋を閉じられる。耳だってふさげる。美しいメロディーや、耳ざわりな音に応じて、両耳を開け閉めできる。だが匂いばかりは逃れられない。それというのも、匂いは呼吸の兄弟であるからだ。人はすべて臭気とともにやってくる。生きているかぎり、拒むことができない。匂いそのものが人の只中へと入っていく。胸に問いかけて即決で好悪を決める。嫌悪と欲情、愛と憎悪を即座に決めさせる。匂いを支配する者は、人の心を支配する。
(引用おわり)

 この小説は、超人的な嗅覚を持って生まれた(そして本人には何と体臭がない)孤児ジャン・バチスト・グルヌイユの、匂いにまつわる狂気に満ちた生涯を描いた作品である。
 下水道が完備した今どきの日本からは想像もつかないが、そもそも街は臭うものだということを、私はマレーシア・ペナン島に生活してあらためて知った。かつては「東洋の真珠」と謳われたほど美しい、マレー半島にへばりつく小さな島だが、今では生活排水を垂れ流し、海岸はヘドロに覆われ、通りを歩くとゴミの臭いがそこはかとなく漂う、エントロピーの法則を地で行くような放ったらかしの田舎街だ。本書の舞台である18世紀のパリはなおさらだろう。この小説にも、セーヌ川にかかる橋の上の建物で香水を調合しながら、平気でゴミを川に投げ捨てる場面が登場する。考えてみれば、夏目漱石の三四郎だって、上京する列車の窓から弁当の空箱を捨てたではないか。日本だって、つい数十年前までは汚かったし悪臭が漂った。そんな街に、汗臭く脂ぎった人間や、うら若い女性のかぐわしいニオイが行き交う。この小説は様々なニオイに充ち満ちている。
 そして香水である。その昔、谷村新司の歌に登場したゲラン社の香水「Mitsuko」は、クロード・ファレールの小説「ラ・バタイユ」(1909年発表)に登場するヒロイン、ミツコに因むものとは後で知ったが、フランスの香水に東洋の女性の名前が冠せられた、何とも官能的な取り合わせが忘れられず、初めて海外出張したときに免税店でつい買い求めてしまった。さながらかつて日本の宮廷で遊ばれ(薫物合せ)、その後、茶道や華道と同じ頃に作法が整った香道(香あそび)の心境である。またその当時、香水に関する本でココ・シャネルの物語を読み、その芸術的なまでの職人技の奥深い世界に惹かれもした。生前、マリリン・モンローは、夜は何を着て寝るのかと問われて、シャネルの5番と答えたのは有名なエピソードだが、世の男性を大いに惑わせたものだった。やはりニオイは人間の根源に関わるものとして、脳の古層を刺激する魔力があるのだろう。主人公グルヌイユの調合する香水にも、大いに想像力をかきたてられる。
 なお、Wikipediaによると本書は「1985年の刊行以降シュピーゲル紙のベストセラーリストに316週連続で載り続ける記録を打ち立てたほか、46ヶ国語に翻訳され全世界で1500万部を売り上げるベストセラーとなった。1987年度世界幻想文学大賞受賞。2006年にトム・ティクヴァ監督、ベン・ウィショー主演で映画化された」そうだ。日本での映画公開は2007年3月3日ということは、私はその時まさにマレーシアのペナンにいたから、記憶にひっかかっていないわけだ。たまたまブックオフで表題に惹かれて手にした本を読み、映画で見る(私はまだ見ていないが)ニオイの世界は、どこまでも想像力の世界で、もどかしいところがなんとも魅惑的だ。
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アジア再び(2)機内にて続

2015-10-11 22:13:03 | たまに文学・歴史・芸術も
 今回の出張で移動に時間がかかることは分かっていたので、機内では不貞寝を決め込み、シンガポール~メルボルン間では昼間からアルコールをたっぷり仕込んで、子守唄代わりに映画を観始めたところ、つい惹き込まれて最後まで観切ってしまった。
 「駆込み女と駆出し男」という、今年5月に封切られた邦画だ(余談だが、最近、機内の食事は日本食を好むと昨日書いたが、映画も日本語が面倒臭くなくていい)。駆込み寺というテーマ性から、登場人物はワケありで、その人生模様が映画に深みを与えるのだが、さすがに井上ひさし氏の時代小説「東慶寺花だより」が原作とあって、実に面白い。さらに配役も素晴らしい。主演の大泉洋は、とぼけた味が売りだが、その笑いにはペーソスがあって心和ませる。寺に駆込む女性で、じょご役の戸田恵梨香は街娘の役を好演し、お吟役の満島ひかりには凄みがある。井上ひさし氏のセリフ回しの長さも感じさせないテンポの良さと、時に静寂があり、さらに映像が美しく仕上がって、是非、劇場で見たかったと思う。143分という長さを感じさせなかったが、さすがに機内で座り続けて10時間を越えるとお尻は痛い。
 観終わって、あらためてタイトルもお茶らけて見えるが秀逸と思った。以前、宣伝のPV等を見ると、如何にもドタバタ喜劇に思われたものだが、必ずしもそうではない。「夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた江戸時代の離婚制度において」(Wikipedia、以下同)、縁切寺では「夫との離縁を望む妻が駆け込み、寺は夫に内済離縁(示談)を薦め、調停がうまく行かない場合は妻は寺入りとなり足掛け3年(実質満2年)経つと寺法にて離婚が成立する」という。実際のところ、「1866年(慶応2年)東慶寺では月に4件弱の駆込が行われ」、「大部分は寺の調停で内諾離婚になり寺入りせずに済」み、「寺入りする女は年に数件」だったという。この映画では、そんな寺入りする数少ないややこしい事案が取り上げられるわけだが、登場する女性たちは、勿論、無数の泣き寝入りする女性もいたであろう時代背景の中で、憐れむべき存在とは必ずしも捉えられず、苦悩を抱えつつも逞しく、そして美しい。主人公の信次郎は、女たちの聞き取り調査を行う御用宿・柏屋に居候する戯作者志望の医者見習いで、弱気の彼を奮い立たせるのも、やはり女性である。映画からも、そして原作者・井上ひさし氏からも、女性に対する暖かい眼差しを感じるのである。
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ロマンス

2015-09-28 00:44:08 | たまに文学・歴史・芸術も
 久しぶりに映画館で映画を観た。一人ぶらっと映画館、というのは生まれて初めてだったので、ちょっと緊張した。
 映画と言えば、中2の頃から目覚め、なけなしの小遣いで「スクリーン」という月刊誌を購入し、中3の頃からはテレビで年間50本以上観るようになった(受験生のときも)。そのため、1960~70年代の映画にはやたら詳しく、当時はハリウッドと言うよりも、アニュイなフランス映画やマカロニ・ウェスタンなる呼び名のイタリア西部劇もよく観たものだった。最近は海外出張の機内で観るのが相場なのだが、知人に無料招待券を貰ったのが、タナダユキ監督、元AKB48大島優子主演の映画「ロマンス」、岩崎宏美の唄ではない(ちょっと古い)。新宿・武蔵野館という繁華街のビルの3Fにある狭い映画館に行ったら、いつもの機内のイヤホンと違って、映画館の音響の良さには、あらためて、ちょっと感動した。
 映画の方は、映画.comの解説によると、こうなる。「新宿・箱根間を結ぶロマンスカーで、車内販売を担当しているアテンダントの北條鉢子。仕事の成績も常にトップで、今日もつつがなく業務をこなすつもりだったある日、鉢子は怪しい映画プロデューサーの桜庭と出会う。ふとしたきっかけで桜庭に母親からの手紙を読まれてしまった鉢子は、桜庭に背中を押され、何年も会っていない母親を探すため箱根の景勝地を巡る小さな旅に出ることになる。」
 主演の大島優子は、仕事が出来る小田急ロマンスカーのアテンダント役なのだが、役柄、屈折した想いを抱えていて、あれれこんなにブサイクだったっけ?(失礼!)と目を疑った。国民的アイドル・グループのセンターをつとめたのが俄かに信じられないほど、冴えないのである(別にAKB48のファンではない)。箱根の景勝地も、そんな心象風景を映し出すかのように天候が悪い。ところが、そんな「母親探し」の旅は実は「自分探し」の旅であり、いつしか不機嫌な中にも徐々に明るい表情を見せるようになり、最後には最高の笑顔を見せてくれる・・・彼女の演技もなかなか、である。また共演の不審なオッサン役・大倉孝二の、如何にも怪しげだが飄々としたところもいい。彼もまた冥途への旅?が、生きていればいいことあるさ♪という旅になりそうな余韻を残してくれる。
 というわけで、なかなか味わい深い小品に仕上がっている。オリジナル脚本で監督のタナダユキさんもまた、なかなか、である。水野晴郎さんじゃないけど、いやぁ映画って本当にいいもんですねぇ・・・たまには映画館で映画を、と思い出させてくれる映画だった。
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浮世絵の魅力

2014-11-02 22:32:08 | たまに文学・歴史・芸術も
 浮世絵や狩野派・琳派などの所謂「やまと絵」が西洋絵画に影響を与えたことは知られます。それは、世界史上、ほとんど初めてと言ってもいい、日本という東洋の果てで独特の進化を遂げた神秘の島国が、幕末・明治維新の頃に西洋と相まみえた頃に当たり、単なる異国趣味(ジャポネズリー)を超えて、ジャポニズムと呼ばれています。
 きっかけは、フランスの版画家・陶芸家であり画家でもあったフェリックス・ブラックモン(1833~1914)が、摺師ドラートルの工房で輸出磁器の梱包に使われていた「北斎漫画」を見て感動し、やがて入手した後、友達に自慢してまわったのが発端だと言われます(1856~57年頃)。私がシドニーに住んでいた頃、ある美術館でユニークな企画展があり、有名な印象派画家の作品と、彼らにヒントを与えたと言われる浮世絵を並べて展示していたのを見て、確かに影響力が小さくないことは知っていましたが、どれほど大きいものかは想像の外でした。
 最近、城一夫さんの講演で聞いた話を紹介します。
 当時の西洋絵画は、19世紀初頭、ギリシャやローマの美術を規範とする様式的で拡張高い新古典主義と、その反動として19世紀中ばに現れた写実主義に影響されていたようです。新古典主義と言えば、ナポレオンの時代でもあり、ギリシャ神話、騎士道伝説、キリスト教説話、英雄物語などの限定された主題で、男性的で立体的でボリューム感のある絵画が追求されました。シンメトリーの構図、重厚な形態と色彩の表現が重視されました。それに対し、クールベに代表される写実主義は、日常生活や風景、社会的事件を主題に、対象を「見たとおり」に描き、光と影(“影”よりも“陰”の方が正確なような気がしますが)によって対象物の立体感を表現し、遠近法を用いることによって空間を立体的に把握する技法を発達させました。しかし、絵の具を重ね塗りすることで、減法混色(色を表現する方法のひとつで、シアン、マゼンタ、イエローの混合によって色彩を表現する方法で、これら3色は色を重ねるごとに暗くなり、3色を等量で混ぜ合わせると黒色になる)によって、画面から明るさが喪失して行きました。クールベは「陰から描きなさい」とまで言い、写実主義を標榜しながら、実際の明るさが消失したのです。
 こうした状況下でもたらされた日本の浮世絵は、先ずはモチーフが自由でユニークなことで西洋画家に衝撃を与えました。役者絵を主題とした浮世絵は、ロートレックやドガに影響を与え、世紀末のムーランルージュの歌手やダンサーを、また踊り子たちの練習風景を絵にして世に広めました。北斎漫画は、様々な職業の人々や動物の闊達な表現で人々を魅了し、それまでの西洋絵画には少なかった猫などの小動物が主題として登場します。また、富嶽三十六景のように、一つの対象物を時間の推移に応じて、また異なる角度から連続的に描く連作は、それまでの西洋絵画の伝統にないものであり、以後、モネはルーアン聖堂を33点、積藁を25点、睡蓮に至っては200点以上も描き、セザンヌはサン・ヴィクトワール山を87点もものしました。版画家アンリ・リヴィエールに至っては「エッフェル塔三十六景」と数を合わせてもいます。
 次に、むしろモチーフ以上に斬新だったと私が思うのは、カタチを表現する技法です。西洋絵画は「見たとおり」に描くことをテーゼとするがため、光と影(陰)によって対象物の立体感やヴォリュームを表現するのが当たり前で、浮世絵のように、陰影の縁を輪郭線で括り、形を表現するのは革新的なことでした。また西洋絵画は、あるがままの奥行き(背景)を克明に描くことにより空間性を確保するわけですが、「やまと絵」のように背景を描かずに(あるいは金箔を貼って)無地にして、あるいは遠近法を無視して、平面的に描くことにより、却って主題を強調する手法には思いも至りませんでした。クリムトが金を背景に使ったのは、1873年のウィーン万博で琳派(俵屋宗達の「伊勢物語色紙」)を見たからだと言われますし、マネの有名な「笛を吹く少年」は背景を無視し、主題を浮き上がらせたものでした。さらに、西洋絵画は対象物と並行の視点をとることが多く、浮世絵の予想外の視点、たとえば俯瞰的な視点や、一つの画面で多角的な視点から対象物を描く手法は斬新で、やがてそれはピカソに繋がりますし、日本絵画に見られる自由な視点に基づいた非対称(アシンメトリー)な構図によって、画面全体に躍動感と何よりも自然らしさを表現する手法もまた斬新で、スーラの「グランドジャット島の日曜日の午後」やドガの「三人の踊り子」などでは、中心をずらせたり、対象を左右の両端で切ることで却って奥行を感じさせる構造になっています。また色彩にしても、日本絵画には光による陰影がなく、鮮やかな色彩によって一様に塗彩され、ゴッホをはじめとする印象派の画家は、日本は陰影もないほど陽光が降りそそぐ南の国だと勘違いし、日本に憧れたのでした。
 以上、長々と再現しましたが、城一夫さんの解説を聞いて気が付いたのは、私たちにとって当たり前の「漫画」という表現形式、つまり、光や影(陰)ではなく輪郭線で括って形を表現し、独特の空間上の「間」合いや言葉(擬声語や擬態語)を最大限活用し、これらによって限られた四角い空間に躍動感をもたらすのは、日本固有の表現だったという事実でした。北斎漫画あるいは古くは鳥獣戯画がその元祖だと言われる、今、クール・ジャパンの筆頭に挙げられるマンガやアニメに対する海外での人気は、決して不思議でも何でもなく、一世紀以上前のジャポニズムが現代に続いているものだと言えそうです。日本にいる限りにおいてはとても気付きませんが、他の国と比較して認識させられる日本人の感覚の不思議さを思います。
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