「綺羅星の如く」つながりで・・・かつて京都学派と呼ばれた京都大学の教授陣がいた。西田幾多郎や波多野精一をはじめとする哲学科が有名だが、狩野直喜や内藤湖南をはじめとする史学科も負けてはおらず、世界に冠たる東洋学の伝統を樹立した。まさに綺羅星の如く・・・である。
そんな綺羅星の数々が登場する、この表題そのままをタイトルとする書籍を、夏休み前に近所のブックオフで偶々見つけて、夏休みの課題図書にすることに決めた(笑)。こうした浮世離れした本は(と言ってしまうと著者に失礼で、テーマは今日的ではあるのだが)、せわしない日常に細切れに読むよりも、まとまった休みに非日常の雰囲気に浸りながらのんびり一気読みするのがいい。ブックオフでは、たまにこうした稀覯本に出会う。
著者は、私が敬愛してやまない故・高坂正堯を、まだ助教授時代の若かりし頃に取り立てた元・『中央公論』編集長・粕谷一希である(なお、高坂氏が『現実主義者の平和論』を同誌1963年1月号に寄稿したとき、粕谷氏は編集部次長だった)。Wikipediaによれば、ほかにも永井陽之助、萩原延寿、山崎正和、塩野七生、庄司薫、高橋英夫、白川静などを世に送り出し、2014年に亡くなって、知人67名による追想録が上梓された際には書名に「名伯楽」の尊称を与えられている。本書は、表題通り、支那学の泰斗・内藤湖南(1866-1934)の生家(秋田県十和田湖畔)と生い立ちを訪ね、更に時代を下ってその足跡を辿り、彼を取り巻く(彼の弟子たちである)東洋学を中心とする綺羅星の如き学者たちを訪ねながら、あらためて内藤湖南その人の存在感を確かめる趣向だ。モチーフは、本書刊行時(2011年10月)、既に大国化しつつあった中国の将来を湖南はどう見通していたか見極めるためと、はしがきにある。所謂「京都学派」は哲学だけではなく史学にもあった古き良き時代を、時代の変遷とともに活写し、それは取りも直さず編集者・粕谷氏自身は東大法学部卒だが影響を受けたとされる京都学派の読書遍歴であり精神遍歴の記録でもある。その意味では、皮肉な見方をすれば貴族趣味に過ぎないが、私はそういうのは嫌いではない(微笑)。
さて、内藤湖南はジャーナリスト出身で、所謂学歴は無いながら異例とも言える京都帝国大学教授に引き立てられたことは周知の通りだが、朝日新聞から京大に転じたのは、夏目漱石が東大から朝日新聞に転じたのとほぼ時を同じくするのだそうで、相互に逆の流れだったのが面白いし、そういう時代だったのかと認識を新たにした。もっとも、ジャーナリストだったとは言え、内藤家は南部藩の支藩桜庭家の家臣で、代々儒者だったことから、漢学の素養は相当あったようだ。ただでさえ幕末・明治の人は当たり前に漢字の読解力が高く、計8回(中には政府・外務省から依頼された調査もあったようだが)中国に旅したときには、高杉晋作がやったように、筆談で中国人と対話したというのも、印象深い。そうは言っても言語は所詮手段であって、要は何を語るか、だ。康有為について人物評を問われて次のように答えている(1899年、一回目の紀行で)。「東京で会ったことがあります。あの人物は、才力は充分だが識見と度量が足りません。態度も重々しさに欠けます。そして世を救おうというのが志であるのに、好んで学義の異同を高く掲げ、人と論争します。失敗しやすい所以です。だいたい(政治上で)事業をなそうとする人が学義に関して偏見を立てるのは禁物です。そうすると自ら勢力を狭め、広くその意見が世に行われないようにすることになります。」 私はもとより康有為を知らないが(笑)、政治にも首を突っ込んだことがある湖南ならではの品定めの透徹した目が光っているように見える。
それで、綺羅星の如く・・・とは言っても、狩野直喜(1868-1947)、桑原隲蔵(1871-1931、武夫氏の父)、羽田亨(1882-1955)など、実は名前しか知らない人が多い(汗)。西洋史学の鈴木成高(1907-1988)、地理学の小川琢治(1870-1941)、考古学の濱田耕作(1881-1938)も同様だ。本書を読んで驚いたのが、小島祐馬(1881-1966)で、内藤湖南の講義を聴いた学生だったが、後に古代思想を受け持って湖南と同僚になったと知った。私は数年前、偶々、中野の古本屋で『中国の革命思想』(筑摩叢書)を見て、題名に惹かれて衝動買いしたのだったが、氏のそのような系譜は存じ上げなかった。偶然である。
私にとって馴染み深い学者と言えば、湖南らの次の世代(第二世代)と位置づけられる宮崎市定(1901-1995)で、手元には『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』(平凡社東洋文庫)をはじめ、『アジア史論』(中公クラシックス)、『中国文明論集』(岩波文庫)、『科挙』(中公文庫)、『アジア史概説』(同)、『科挙』(同)、『水滸伝』(同)、『日出づる国と日暮るる処』(同)、『中国に学ぶ』(同)など、新刊・古本を問わず闇雲に買い集める内に9冊を数える。人類学の今西錦司(1902-1992)、中国文学の吉川幸次郎(1904-1980)、田中美知太郎(1902-1985)も年代として見れば同じ第二世代に位置づけられようか。それぞれ少なくとも数冊ずつ書棚(押入れ?)にあり、第一世代と比べれば各段に馴染みがある。そして私が一時期入れあげた『文明の生態史観』の梅棹忠夫(1920-2010)は更に次の世代ということになる(ここまで来ると、同時代を生きた先生という意識が強くなる)。他方、手元にある湖南の著作は、『日本文化史研究(上)/(下)』(講談社学術文庫)と『支那論』(文春学芸ライブラリー)の3冊だけ。名は知られているが、ちょっと遠い存在だった。
そんな湖南の存在感ということで、本書のポイントを三点、挙げてみる。
先ず、湖南と言えば、およそ西洋の歴史学では東洋的停滞としか捉えられない中、「宋代から近世として考えるべきである」とするユニークな時代区分論「宋代近世説(唐宋変革論)」を提唱したことで知られる。その後、宮崎市定に引き継がれ、秦漢時代までを上古(古代)、魏晋南北朝隋唐時代を中世、宋以降を近世、アヘン戦争以降を近代とする四時代区分法を中心に、京都学派では中国史の研究が展開された。
次に、西の湖南と東の津田左右吉の比較論もよく知られるところだ。日本文化の成立と性格について、津田左右吉は、日本文化は本来支那文化とは別個のものであり、一部知識人の間に儒教の影響があったとして、日本人の生活とは全く関係のない代物であると(今となってはある方面の定説とも言える)主張をしたのに対し、湖南は、日本文化は支那文化という母胎から生まれたものであり、日本文化の成立に関連して、支那文化が豆腐のニガリのような役割を果たしたと主張したものだ。どちらの立論も可能なほど微妙な問題であり、どちらでもいいようなものだが(笑)、地政学的に環境決定論としては津田左右吉の言う通りだ(日本は海洋国家たるべき島国であり、大陸国家とは違う)が、環境可能論的に、湖南の文脈で言えば個々の民族を超えた「文化」史的観点(文化の中心は国民の区域を越えて移動するもので、東洋文化の進歩発展から言うと、国民の区別というようなことは小さな問題だとする「文化中心の移動」という考え方)から、中華の周辺文明として受ける影響は小さくなかったようにも思う。
三点目に、今日は8月15日でもあることから、戦争との関連に触れたい。湖南が亡くなったのは、満州事変の後、支那事変の前で、当然のことながら大東亜戦争を知らないし、中国共産党の革命も知らない。明治人の彼は、欧州列強のアジア侵略に抵抗するために日本の大陸進出とアジア経営を主張し、日清・日露戦争の頃は対露強硬派だったというのは、まさに時代精神であろう。朝鮮半島や中国が、もう少し国家の体を成していれば、全く違う展開になっていたであろうことは想像に難くない(が、だからと言って日本の責任を免れるものではない)。そんな中でも、湖南は、第一次大戦時の対支二十一箇条の要求には批判的だったとされるから、同時代を生きた者として十二分に理性的だったと言うよりも、史学者として支那の国柄を心得ていたということかも知れない。あれ以来、本来は植民地主義のヨーロッパが敵であるはずなのに、日本が中国の敵になってしまった。
ここで、京都学派に触れる以上、哲学者を中心に、1942年2月から1945年7月まで大東亜戦争のほぼ全期間を通じて、「海軍の一部(米内光政系)の要請と協力を受けて月に一、二度、時局を論じるひそかな会合を重ね」(大橋良介著『京都学派と日本海軍』(PHP新書、2001年)より)、後に戦争責任を問われて、代表的論客四人が京大を追われたことに触れるべきだろう(粕谷氏も取り上げておられるように)。大橋良介氏の著作は、当時、京都大学文学部の副手で、会合の連絡係だった大島康正氏の死後に発見された会合メモ(大島メモ)を読み解き、「海軍と連携しつつ陸軍の戦争方針を是正しようとする、体制内反体制とも言うべき際どい会合だった」(同)ことを明らかにし、四人を弁護するものとなっている。あのとき、「京都学派の狙いは、海軍と組んで陸軍の暴走を食い止めるところにあった」(同)が、「戦争が始まったからには・・・」、国民としてそれに協力すべきだとの義務感から、戦争するからには、“東亜共栄圏の倫理性と世界性”を自覚すべきだし、“総力戦というものの性格を理解しなければならない”と説いたに過ぎない、という。戦後のGHQ史観とも言うべきリベラルな歴史観に染まった私たちに再考を迫る重いテーマである。
ついでに言うと、概して粕谷氏がサイドストーリーとして語る時代認識、歴史認識には、私としても異論が少ない。中でも、先の戦争は「暴挙であったが、愚挙ではない」とさらっと総括されていることには目を見開かされた。まさに。私たちは、もう少し歴史(先人の知恵と勇気)に対して謙虚であるべきだろう。
再び湖南に戻って、辛亥革命を同時代に見た湖南は、次のように述懐している。「政体の選択に就いて他国の内政に干渉するといふことは、随分昔の神聖同盟などが欧羅巴にあった時代ならば知らず、今日では余り流行しませぬ。私の考では当分黙って懐手をして見て居る方がよいと思ふ・・・(中略)・・・支那はどうしても大勢の推移する所は如何ともすることの出来ない国柄である。」
西洋だけでなく東洋でも古代・中世・近世と発展を遂げた(と京都学派は言う)ように、私たちは、中国の内発的発展を信じ、かつ世界史の発展の類似性を信じて、中国の体制のことは中国人民が決めるしかないとして、「当分黙って懐手をして見て居る方がよい」のだろうか。まあそうするしかないだろう。しかし、現代の中国は、歴史的中国と違って、社会統制の手段として現代と将来の科学技術を味方につけている。変革は簡単ではない。また、実体が大国化するとともに態度も所謂大国化し(というのは歴史的中国そのものかも知れない 笑)、大陸国家的な膨張主義を海洋にも推し進める中国に対して、そう悠長に構えておれないところに、現代の私たちの苦悩がある。本来、地政学のテーゼは、大陸国家と海洋国家を同時に達成することは出来ないとするが、中国はそもそも北の大陸と南の海洋から成る両性国家である。ベトナムは南北で何百年もの別々の歴史(インドの影響を受けたものと中国の影響を受けたものと)があり、朝鮮半島も南北さらには南の東西は三韓の時代から何百年もの異なる歴史をもつ別々の国家だったように、中国は性質を異にする南北が便宜的に一つの帝国を成すに過ぎないとも言える。中国という存在は簡単ではない。
今の中国は、順調な経済発展の末に、自らの異質な行動特性は棚に上げて、総てをアメリカの責任に帰して、西洋的な発展とは逆のギアを入れつつあり、粕谷氏によれば着地点が見えず、私に言わせれば混迷は深まるばかりである。本書の中に、一ヶ所、故・高坂正堯氏の言葉が出て来る。「13億という数は統治可能なんでしょうかね」 実に含蓄ある言葉だ。恐らくこれを受けてのことだろう、粕谷氏は、「共産体制を脱して多党制と言論の自由を制度的に保証する民主国家、民主体制となるほかない」「北京政府は思い切って各地域・民族に大幅な自治権を認め、United Statesにしたほうが全体は安定するように思う」と夢想され、私もそうなることを心から願うが、中国共産党の指導者たち(=現代の皇帝と貴族たち)は権力を失うことを恐れる。歴史的中国そのものだ。湖南は歴史の推移を「発展」ではなく「変遷」として捉えていたそうだが、中国的な「変遷」は、私のような素人には停滞にしか映らない。民主化の経験が全くない中国社会、湖南が言う父老社会の存在(郷党社会における独特の老人支配で、その長は外交問題や愛国心には関心がなく、郷里の安全、家族の繁栄にだけ関心があり、それさえ満たされれば従順に統治者に従うという)を考えれば、ハードルが高い「変遷」である。さて、どうなることやら・・・。
一つ確かなことは、学問の消長は、国力の消長に連動するということだ。時代とともにある、と言い換えてもよい。京都学派は、日本が第一次大戦後、国際連盟の五大国にのし上がったのと軌を一にするように、あるいは司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」のように、勃興し、大いに自信を持ち、溌剌とした空気が充満した奇跡あるいは幻だったのではないか・・・そんなほろ苦い感傷に浸りながら、少し暑さが和らいだ夏休みに夢を見るとはなしに夢見ている。
粕谷氏によれば、波多野精一は「未来」と「将来」を区別し、未だ来たらざる時よりも、将に来たらんとする時の方が人間存在にとって貴重であることを説いたそうだ。だからこそ、史学には過去を辿りながら「将来」を描く力があるということだろうと思う。国力衰えたりとは言え、東洋学の伝統がある日本にはなお期待したい。