風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

青梅への道ふたたび(1)

2015-09-30 02:01:05 | スポーツ・芸能好き
 二週間ほど前に東京マラソンの当選発表があったが、今年も奇跡は起きなかった。競争率11倍というから、もはや落選するのが当たり前で、逆に当選したら儲けものというほどの大会になってしまった。それでは今シーズンをどう過ごすか、いろいろ思案した結果、秋~冬~春先と半年間も走り続ける・・・つまり緊張を続けるのは、いくら頑張ったところでこの歳では難しいという昨年の苦い経験を活かし、11月にフル・マラソンを一度、三月にフル・マラソンをもう一度と、二度のチャンス(山場)を置き、その間、年末年始あたりで息を抜く(食っちゃあ寝る)期間をこっそり?用意することにした。
 しかし、今年のシリーズ・タイトルはいずれかのフル・マラソンではなく、2月の青梅マラソンをターゲットに、「青梅への道ふたたび」。私には珍しく三年連続の挑戦というこだわりようである。一昨年は大雪のため中止、昨年は低血糖による瞳孔散大で十数分歩くハメに陥った因縁の大会へのリベンジの意味を込めてみたが、どうなることやら。今年の青梅は50回記念大会でもある。
 早速、三週間前から今シーズンの練習を始動した。横浜マラソンを走った3月15日以来、実に半年振りともなると、僅か10キロ走っただけでも、太腿の筋肉痛はガチガチで、その後の三日間は歩くのに難渋し、さらに腕振りによる肩凝りも酷い、おまけに背中も凝るという有り様である。走ると言っても、一応、全身運動であることを実感する。走らないと如何に体力が衰えるかも実感する。もはや努力なしには体力を(従い体形を)維持できないお年頃なのだ。哀しい。
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ロマンス

2015-09-28 00:44:08 | たまに文学・歴史・芸術も
 久しぶりに映画館で映画を観た。一人ぶらっと映画館、というのは生まれて初めてだったので、ちょっと緊張した。
 映画と言えば、中2の頃から目覚め、なけなしの小遣いで「スクリーン」という月刊誌を購入し、中3の頃からはテレビで年間50本以上観るようになった(受験生のときも)。そのため、1960~70年代の映画にはやたら詳しく、当時はハリウッドと言うよりも、アニュイなフランス映画やマカロニ・ウェスタンなる呼び名のイタリア西部劇もよく観たものだった。最近は海外出張の機内で観るのが相場なのだが、知人に無料招待券を貰ったのが、タナダユキ監督、元AKB48大島優子主演の映画「ロマンス」、岩崎宏美の唄ではない(ちょっと古い)。新宿・武蔵野館という繁華街のビルの3Fにある狭い映画館に行ったら、いつもの機内のイヤホンと違って、映画館の音響の良さには、あらためて、ちょっと感動した。
 映画の方は、映画.comの解説によると、こうなる。「新宿・箱根間を結ぶロマンスカーで、車内販売を担当しているアテンダントの北條鉢子。仕事の成績も常にトップで、今日もつつがなく業務をこなすつもりだったある日、鉢子は怪しい映画プロデューサーの桜庭と出会う。ふとしたきっかけで桜庭に母親からの手紙を読まれてしまった鉢子は、桜庭に背中を押され、何年も会っていない母親を探すため箱根の景勝地を巡る小さな旅に出ることになる。」
 主演の大島優子は、仕事が出来る小田急ロマンスカーのアテンダント役なのだが、役柄、屈折した想いを抱えていて、あれれこんなにブサイクだったっけ?(失礼!)と目を疑った。国民的アイドル・グループのセンターをつとめたのが俄かに信じられないほど、冴えないのである(別にAKB48のファンではない)。箱根の景勝地も、そんな心象風景を映し出すかのように天候が悪い。ところが、そんな「母親探し」の旅は実は「自分探し」の旅であり、いつしか不機嫌な中にも徐々に明るい表情を見せるようになり、最後には最高の笑顔を見せてくれる・・・彼女の演技もなかなか、である。また共演の不審なオッサン役・大倉孝二の、如何にも怪しげだが飄々としたところもいい。彼もまた冥途への旅?が、生きていればいいことあるさ♪という旅になりそうな余韻を残してくれる。
 というわけで、なかなか味わい深い小品に仕上がっている。オリジナル脚本で監督のタナダユキさんもまた、なかなか、である。水野晴郎さんじゃないけど、いやぁ映画って本当にいいもんですねぇ・・・たまには映画館で映画を、と思い出させてくれる映画だった。
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追悼・川島なお美さん

2015-09-26 00:08:49 | スポーツ・芸能好き
 川島なお美さんの突然の訃報には驚かされた。別に彼女のファンだったわけではなく、実際、彼女がソムリエで「私の体はワインでできているの」みたいなことを口走ったこと以外に彼女のことはよく知らない。ただ、同時代を生きてきた同世代の者として、早過ぎる死は誠に痛ましい。
 個人的なことになるが、私は中学生の頃から、ラジオを聞きながら、だらだらと気紛れに勉強する所謂「ながら族」で、「バチョン」「ヤングタウン」「ヤングリクエスト」「オールナイトニッポン」「歌うヘッドライト」などの深夜放送をよく聞いたものだった。そんな番組の一つ、「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン 」で、彼女を初めて知った。Wikipediaによると、彼女がそのアシスタントだったのは1979年とある。どうやらデビュー直後だったようで、19歳という若さがコロコロと掌からこぼれ落ちるような青山学院大学・学生だった。鶴光を相手に、物怖じすることなく、むしろ垢抜けた、あっけらかんとした話振りで、今思えば、その時に既に青学のイメージが出来上がったと言ってもよいかも知れないし、その後の彼女の生き様をも予感させる・・・つまり最初から彼女らしい芯の強さを感じさせるものだったように思う。彼女が出演した映画もドラマも特に記憶にないので、彼女との接点は後にも先にも殆どそれだけだったと言ってもよい。
 さらにこれも個人的なことになるが、大学受験のとき、彼女が通う青山学院大学ではなく、紺野美沙子さんが通う慶應義塾大学文学部をすべり止め受験しようと願書まで取り寄せたのも(結局受験しなかったが)、彼女との接点(と言うよりはすれ違いと言うべきか)にはならなかった。調べてみると、二人は同い年で(それぞれ1960年11月10日生まれと9月8日生まれ)、どうでもいいことだが、彼女は「フランスの四大ワイン産地から騎士号を授与されている唯一のアーティスト」(Wikipedia)なのに対して、紺野美沙子さんは「日本吟醸酒協会名誉吟の騎士」というのも、何かの因縁だろうか!?
 昨晩、彼女のオフィシャル・ブログを見ると、降板したミュージカル「パルレ~洗濯~」や、11月5日に20年振りに開催する予定だったソロライブ(Birthday Live)や、毎冬恒例だったらしいミュージカル「クリスマス・キャロル」のポスターがまだ掲載されていた。最近、彼女の激ヤセ振りをテレビのニュースで見て、ビックリしたものだったが、一週間前まで舞台に立っていたといい、人の命のあっけなさを、まざまざと見せつけられた思いで、彼女の気持ちは如何ばかりだったろうかと、自分に引きつけてなおのこと胸が締め付けられる思いになる。
 心よりご冥福をお祈りしたい。
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安保法制

2015-09-24 00:22:38 | 時事放談
 安全保障関連法が成立したが、結局、安全保障論議は深まらなかったような空しさが残る。民主党の党首が国会前デモを煽るという、国会での論議をさしおいて何の沙汰かと俄かに目を疑う光景はさておいて、相変わらずの足を引っ張るばかりの国会論戦は、傍目には税金の無駄遣いと思われても仕方ない。野党側にも、まともな問題提起がなかったわけではない。その一つは、安倍内閣は「抑止」ばかりにはやるが、紛争に至らない外交的努力も重要だというような意見である。それはその限りでその通りで、東アジア外交において「抑止」と「対話」の両輪がまさに重要と思う。しかしこの問題提起自体は「抑止」の議論ではない。
 そもそもこの国はどんな安全保障政策をとるのか、どんな国際貢献を目指すのか、といった出発点の議論さえ戦われることなくコンセンサスを得られることもなかった。江戸時代のように国内で自給自足できた時代には鎖国という政策もあり得たが、現代文明の文脈では資源小国で、なるほど一時期自称した加工貿易もすっかり姿を変え、輸出依存(対GDP)は減っているが、エネルギーをはじめ消費財についても今では多くを輸入し、自由な航行と国際流通に頼る日本にとって、地域や世界の安定は生存に不可欠のはずである。世界第三の経済大国でありながら、地域や世界の安全保障をアメリカに依存するとは、何と脆弱な国か・・・というのがあるアメリカの戦略家の見立てであるが、そういった映し鑑の自画像を、日本人自ら冷静に考える必要があるように思う。もし、それに明瞭に反論できるのであれば、一国平和主義を主張するのも構わないと思うが・・・果たしてどうであろうか。
 たとえばペルシャ湾の機雷封鎖に対して掃海艇派遣の事例を時代錯誤だと呼び、首相も撤回したようだが、イラン情勢はどうなるかまだ予断を許さない。想定外を外してしまうと安全保障は成り立たない。野党にしても国会前のデモにしても戦争法案と決めつけているが、それこそ時代錯誤に聞こえる。軍の役割は、戦争を行うよりも、治安維持派遣を通した地域の安定の方に圧倒的にシフトしているのが現実である。
 アメリカは内向きのサイクルに入っている。戦力投射を控える方向にあるのは、何より財政がこれまでの米軍の活動を支え切れないからであるが、ISILに対して空爆はしても、米軍の被害が予想される地上軍の派遣は手控えているのは、イラクやアフガニスタンでの長い戦いに疲弊したアメリカ国民が、これ以上の国民の被害を求めないからで、それは自由・民主主義社会の常であり、日本だけのことではない。その分、当事国の役割が求められることになる。このあたりは、ベトナム戦争からの撤退をスローガンにして当選したニクソン大統領が確かハワイで行った演説に似て、歴史は繰り返すのである。そして当時と今が違うのは、東アジアの戦略環境で、当時、ソ連に対抗するために米国と日本はイデオロギーが違う中国とも手を組んだが、今はその中国が台頭しているのだ。
 オーストラリア・シドニー近郊のストラスフィールド市で、今年8月、中国や韓国系の団体が求めていた従軍慰安婦像の設置計画案を阻止するのに中心的な役割を果たされた山岡鉄秀氏(AJCN代表;Australia-Japan Community Network)の論考が「正論」10月号に掲載されているのを、産経Webでも読むことが出来る(http://www.sankei.com/politics/news/150923/plt1509230001-n1.html)。中・韓反日団体が市長を抱き込み、あの手この手で攻勢を仕掛ける中で、氏は、AJCNという日・豪混成チームを作り、「中・韓反日団体」対「全ての住民」という構図を作り、コミュニティのために戦い、コミュニティのために勝利した、それは飽くまで、反日団体を論破しようとなどせず、良識の輪を広げることに注力したからだ、と総括されている。その結論部分の一節を引用する。

(引用)
 これは民主主義の勝利だろうか? 民主主義とは、自らの権利を守るために、戦う手段を提供するシステムのことだと学んだ。自存自衛の決意無き正義など、フェンスの無い花畑のごとく、踏み荒らされてしまう宿命なのだと痛感した。相手の善意に自らの安全を託していたら、命がいくつあっても足りはしない。それが国際社会の現実なのだ。
(引用おわり)

 安保法制論議の中でも、憲法前文(・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・・)は破綻しているのだから・・・という議論があった。今回の論議に限らず、日本人を分断している安保問題の根源は、この前文をどう捉えるかにかかる、古くて新しいテーマなのだろう。
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中国問題(下)

2015-09-21 09:55:27 | 時事放談
 前回の続きで、中国共産党の統治について書きたい。
 中国において、少数民族や人権派を厳しい弾圧するだけでなく、報道規制やネット規制などを通して国民の知る権利をも制限し(それが現代においてどれほどの効果があるのかよく分からないが)続ける一方、国内雇用を守るため7%成長に固執し、地道に技術を育てるのではなく、サイバー攻撃を仕掛けて、世界中から国防機関や関係省庁の機密情報、防衛産業をはじめとする企業の秘密情報をせっせと窃取し、それでいて大国としての威信を国内に見せつけるかのような(あるいは軍の威信に自己陶酔するかのような)南シナ海での人工島建設など周辺弱小諸国を屁とも思わない強引な対外拡張路線をとり、江沢民が仕掛けた愛国=反日教育を通して民族主義を煽り、国内の求心力を維持しようとする政治手法は尋常ではないのは、今さら言うまでもない。最近でも株価下落局面でのなりふり構わぬPKOは常軌を逸していた。人民元切り下げも世界を混乱させた。経済変調の中、国営企業に手をつけると言っても、相変わらず自由化には背を向けて、集約することによって規模を巨大化して維持する方針のようである。
 よく言われることだが、西欧的な自由民主主義国家では選挙という合法的な革命(言葉の定義上はクーデターと言うべきだろうが)が定期的に実施され、自由な社会という普段は幾分不安定な中でも、常に安定への道を探る仕組みが用意されている。それに対し、政治については何事も密室で決まる中国では、普段は人工的に安定させられた管理社会であるが、民衆の欲望はマグマのように胎動し、いずれ民衆の意向に配慮を怠る政治が度を越すと爆発し、所謂中国式の革命が起こってしまう。それが中国4000年の歴史だ。
 このように、政治においても自由な市場メカニズムを取り入れて、仕組みによってマネージしていく西欧と異なり、中国にあっては、「世界の歴史」=「人類の叡智」に学びつつ、限られた共産党員が、大衆に信を置かず群衆による愚行(!)を回避せんとし、一部ではあれ市場メカニズムを取り入れた社会をコントロールしようとしながら、概ね市場メカニズムで動く国際社会の中で存在感を増しているのだから、あちらこちらで歪みが噴出する異形の社会が現出する。中国共産党はさながら中国と言う国家の人工知能たろうとして、人智を超えた複雑系でそれなりに秩序ある壮大なる市場メカニズムに対抗しようとしているかのようだ。しかし西欧の自由社会では、人工知能などのコンピュータが人間に置き換わることはないというのがコンセンサスだ。
 永遠に成長を続ける経済はないのが「歴史」であり、人類の叡智の限界なのであろう。中国という人口知能は、「歴史」に学ぶ以上、その限界に気づき、何とか克服するべく(あるいはソフトランディングしようと)悪足掻きすることであろう。その中国において2030年近辺に人口問題が深刻化し、そこに近づくにつれ中国の人口は激減する(人口統計が正しければの話であるが)。中国問題そのものが深刻化するのは、まさにこれからの10年の間のことであろう。それまでは膨張を続ける中国と、どう向き合い、どう凌いでいくのか。西欧では高みの見物といった面があるかも知れないが、中国共産党の統治が崩壊するようなことがあれば、日本海を挟んで隣接する日本や地続きの韓国には他人事ではない。
 繰り返すが、これからの10年をどう凌ぐか。安保法制の問題は、防衛という性格上、法整備して今すぐ可能になるものもあれば、装備(カネ)がなければ実現できないものもあり、その意味では10年や20年先の問題に対処するものでもあることだ。しかし心理的に抑止力になるものであるのは間違いない。
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中国問題(上)

2015-09-20 11:42:36 | 時事放談
 前々回のブログ「東芝問題」と韻を踏むタイトルにしたのは、中国問題はまさに東芝と同じガバナンスの問題であることを連想するからである。
 中国経済が減速しているという観測がもっぱらである。ほんの数年前、リーマンショックで疲弊する世界経済を力強く牽引し、習近平が国家主席になった頃は飛ぶ鳥を落とす勢いで、中国が経済(GDP)において米国を抜いて世界トップに躍り出るのは時間の問題(2020年頃?)と見られていた。しかし、もとより世界のためといった大国としての責任の発想はなく、専ら国内向けに7%成長を守り抜くために無理な投資を続けてきた結果、過剰在庫・過剰債務を抱えるに至り、呻吟しているように見える。かつて遼寧省トップの頃の李克強が、中国の統計データはおしなべて信用出来ない中で比較的正直な統計データと呼んだ鉄道貨物や電力消費の推移を見る限り、習近平国家主席になってからの3年弱の間、7%成長を維持できているとはとても信用出来ないのである。もはや高成長を取り繕うことは出来なくなって、その範囲では、習近平国家主席本人が新常態(New Normal)と言わざるを得なくなった。
 これまでの中国経済そのものと言ってもよい、「世界の工場」の名をほしいままにしてきた中国であるが、踊り場にあるのは間違いない。「世界の工場」を脱して、と言うのはとりもなおさず中所得国の罠を脱して、生産性をあげ内需を中心に力強く成長を続けられるか否か、その過渡期に来ているのは衆目の一致するところだ。そして、中国経済の変調は、次のステージへの道筋が定められないまま、これまでの成長を支えてきた諸条件が変化して来たせいである。通商白書2014からこのあたりの事情をデータとして拾ってみる。
 一つは人口ボーナスを喪失しつつあることで、一人っ子政策の影響で高齢化が進み、生産年齢人口は既に2010年にピークを迎えた。一人っ子政策は緩和されたが、今後、日本のような社会保障問題は避けて通れない。そして生産年齢人口の地域別・業種別移動についても変化が生じ、日本の高度成長のように、農村の余剰労働力を沿海部の都市に農民工として供給するシステムが、農村の余剰労働力が枯渇することで破綻しつつあるようであり、都市部の求人倍率は1倍を超える・・・ということは「求人数>求職数」となって久しいのである。それもあって賃金に上昇圧力がかかり、この10年で人件費は4倍になり、日系製造業の作業員の平均月収は、タイやマレーシアとほぼ同水準まで上昇した。人民元レートは、2005年に管理フロート制に移行してから緩やかに上昇し、米ドルに対して3割以上切り上がり、これも輸出競争力に影響する。チャイナ・プラスワンと言われて久しいが、今や現実の問題となっている。実際に日本の対中投資は、尖閣諸島国有化で日中関係が決定的に悪化した2012年第二・四半期で頭打ちで、以降、伸び率マイナスが続いてる。
 そうは言っても、中国が投資ばかりでなく消費市場として拡大していないわけではないのは、爆買を見るまでもなく、明らかであろう。国家資本主義と言って、土地の供給システムは社会主義国のそれで、地方政府が一手に握っているので、日本のような急激な不動産バブル崩壊は起きないだろうと言われている。一人当たりGDPを見ると、IMFの2014年データでは僅かに7600ドル・・・とは、まさに世銀が言う中所得国(国民所得GNIでのことだが約1000~13000ドル弱の範疇)であり、中でも4126米ドルを境とする高中所得国に区分けされるが、ご多分に漏れず地域格差がひどく、省別に見ると、天津16000ドルを筆頭に、北京・上海15000ドル、江蘇12000ドル、浙江・内モンゴル11000ドルのほか、遼寧、広東、福建、山東、吉林は平均以上、その分、内陸は極貧なわけで、まだ成長余力があると言うべきか、高度成長期の日本で田中角栄がやったような分配制度が整備されず社会基盤は脆弱なままと言うべきか、いずれにしても失われた10年や20年と言われる日本とは、経済成長のステージが明確に違うのである。つまり、巷で、とりわけ日本の右派が期待するような、中国経済が破綻するといった悲観的なことにはならなくて、せいぜい7%成長が4~5%程度に巡航速度を落とすだけの話で、中国という国が膨張を止めることにはならないであろう。企業の実務レベルでは、腐敗摘発を恐れる地方政府が大型発注を手控えているだけという声も聞こえてくる。
 しかし中国共産党の統治となると話は別だ。・・・長くなったので続きは次回。
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イチロー通算2000得点

2015-09-15 21:05:45 | スポーツ・芸能好き
 ちょっと時間が経ってしまったが・・・8月25日のパイレーツ戦1回にメジャー通算1万打席に到達した(現役メジャー選手ではアレックス・ロトリゲス、エードリアン・ベルトレに次いで第3位、イチローより短い期間で1万打席に届いたのはピート・ローズの14年目のみ)のに続き、8月31日のブレーブス戦8回、四球で出塁した後にホームに生還し、日米通算2000得点を達成した。
 サッカーはじめ他のスポーツでは「得点王」はメジャーなのに対し、野球ではそれほどでもないと、つい私なんぞは浅薄に思ってしまうのは、たとえ塁に出たとしても、基本的に後続が打ってくれないと本塁を踏めないと思うからで、実際に日本では地味な部類の記録に入ると思うが、アメリカでの評価はそれほど低いわけではないらしい。「メジャーリーグ史上最高のリードオフマン」「盗塁男(Man of Steal)」として知られるリッキー・ヘンダーソン(1979~2003年)は、現役時代、「自分が出塁して盗塁するのは、すべて得点のためにある。自分にとって最大の目標は、タイ・カッブが持つ通算2246得点のメジャー記録を更新することだ」と言い続け、ベーブ・ルースの通算2062四球を破る2190四球(後にバリー・ボンズに破られて歴代2位)を奪うなど、しぶとい出塁率は4割を超え、1406盗塁、シーズン130盗塁(1982年)、通算盗塁王12回はいずれも歴代1位で、ベース間を颯爽と駆け抜け、おまけに通算先頭打者本塁打81本(25年連続で記録)も歴代1位で、ついにタイ・カッブを超える通算2295もの歴代最多得点を達成した。考えてみれば、如何に多くの得点を積み重ねてきたかは、まさに1番バッター、リードオフマンの評価基準に相応しい記録と思う。
 そしてイチローもまた記録に残るリードオフマンとして、金字塔を打ち立てたわけだ。日米通算をメジャー記録に換算すれば歴代8位で、上に居並ぶ7人の面子がまた凄い。リッキー・ヘンダーソン(2295得点)、タイ・カッブ(2246得点)は上に述べた通りだが、バリー・ボンズ(2227得点)、ハンク・アーロン(2174得点)、ベーブ・ルース(2174得点)、ピート・ローズ(2165得点)、ウィリー・メイズ(2062得点)と続く、日本人の私でも知っている往年の名選手たちだ。
 今年、イチローはマーリンズ4番手の外野手として開幕を迎え、いろいろな記録達成が危ぶまれたものだが、度重なる外野手の故障、特に手を骨折して現在も故障者リストにいる主砲スタントンを欠くチームにおいて、当初の予想を遥かに上回る出場機会に恵まれ、走攻守において活躍できたのは、本当にラッキーだった。メジャー3000本安打まで残り69本、日米通算でピート・ローズに並ぶ4256本まで残り47本と、偉大な記録を目前にし、達成しそうな来年もプレー出来る可能性が高まっている(契約更新する価値がある)と報道されるようになった。静かに、しかし熱く見守りたい。
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東芝問題

2015-09-12 10:52:02 | ビジネスパーソンとして
 不適切会計とは東芝流の表現で、実態は不正会計あるいは世間でよく言われる粉飾決算と言うべきなのだろう。当初、名門企業・東芝が・・・と驚きを以て受け止められ、状況が次第に明らかになるにつれて、とても他人事とは思えなくなったサラリーマンが、私も含めて、多かったのではないかと思う。東芝と言えば、かつて冷戦たけなわの頃、関係会社である東芝機械がココム違反事件(共産圏に輸出された工作機械によってソ連の潜水艦技術が進歩し米軍に潜在的な危険を与えたとして日米間の政治問題に発展した事件:Wikipedia)を起こしてアメリカから叩かれ、親会社の東芝会長と社長が辞任する大騒ぎになったことがあった。それ以来であろうか、またしても信頼を大いに失墜する事態となってしまった。
 ようやく今週になって、2015年3月期の有価証券報告書を関東財務局に提出した。本来の提出期限である6月30日から、8月31日更に9月7日と、二度延期される二ヶ月強の遅れとなり、上場廃止という最悪の事態までも噂された。一連の不正会計で、過年度(2009年3月期から2014年4~12月期)の累計修正額は、税引前損益で実に2248億円にのぼり、2016年3月期の業績予想について、「営業面で行政処分や指名停止などについて予見できない」(室町社長)として、公表を見送るハメになった。
 そもそもの発端は、東芝関係者から証券取引等監視委員会に内部通報があったようだ。そして2月に監視委が東芝に開示検査をするに至って、不正が明るみになったという。さすがに義憤に駆られたのか、それにしても、ここに至るまでに随分時間がかかっている。
 その筋の専門家によると、企業が不正会計や粉飾決算を行う動機は2つあると言う。ひとつは赤字や債務超過状態を隠蔽するもので、そうでもしないと銀行融資が止められるとか、建設業であれば公共工事の入札に参加できなくなるなど、企業の死活問題に関わり、中小企業に多く見られるものだ。もうひとつは経営者のメンツや企業の体面、また社内の確執などに関わるもので、前年度より業績を上げるとか、何%成長させるなど、ステークホルダーにコミットしたばかりに、数字を糊塗して格好をつけてしまうものだ。東芝のような大企業は、当然、後者の方だ。
 そして、その原因として、今年7月、第三者委員会がまとめた調査報告書には、利益至上主義や、上司の意向に逆らうことが出来ない企業風土などが挙げられている。社会心理学の世界に、一人で考えれば気が付くことでも、集団だと見落とし、大きな過ちを犯すという概念で、「集団浅慮」という言葉があり、凝集性が高い、言い換えると同質性が高い組織ほど「集団浅慮」に陥るリスクが高まるとされ、東芝はこの状況になっていたのではないかと解説する専門家もいる。これもまた、さもありなんと思う。大袈裟に言ってみれば雨にも負けず風にも夏の暑さにも負けずカイゼンを繰り返しながら一つの畑を一所懸命に耕すといったような農耕民族・日本の社会では、本来は機能・利益集団である一般企業にしても、学校やその他の組織にしても、構成要員である一人ひとりに同質性が高いものだから、良い意味でも悪い意味でも、いつしか地縁・血縁的で運命共同体的な組織になりがちであり、「集団浅慮」にも陥りがちなことだと思う。
 利益至上主義ということでは、東芝の社長がカンパニー社長と面談する「社長月例」と呼ばれる会議などで、実現がとても不可能な業務目標を社員に強要する「チャレンジ」が話題になり、私も含めて、多くの企業人は敏感に反応した。その「チャレンジ」目標は、各カンパニーから各部へ、更に各課へと落とし込まれ、必達目標として個人にのしかかることになるのだという。これは他人事ではない。日本の企業では、多かれ少なかれ見られる日常のごく当たり前の光景である。日本電産の永守さんも、20%アップなどの目標を与えてこそ成長するというようなことを言われていたが、企業人として、販売拡大にせよ経費削減にせよ、敢えて5%ではなく20%レベルの目標を置かないと革新的な発想に至らないことは、人間心理についてのごく当たり前の知恵として、日常、運用している。いわば普通の人間が力を発揮し得る「のびしろ」のところでの話だ。東芝ではそれが一線を超えてしまったのか。
 東芝でも、その「チャレンジ」は、かつては「可能なら頑張ろう」という意味合いだったらしいが、2008年頃から「必達目標」へと変貌し始めたらしい。きっかけは、西田社長が出身母体のパソコン部門に利益の上積みを求めたことだという。その背景に、東芝の収益構造の悪化、すなわち不採算事業が延命され、稼ぐ力が弱まっていたことがあるという説明は、想像に難くない。
 西田社長と言えば、東大卒で重電部門を経てトップに登り詰めるのが伝統の東芝では異色のパソコン事業出身で、しかも中途入社だ。2005年6月に社長に就任すると、「集中と選択」を推し進め、その後の収益拡大に貢献した功労者で、2006年にはWHを54億ドル(当時約6300億円)で買収するなど、とりわけ原子力発電所事業と半導体事業の二つに集中投資してきた。そして2008年と言えば、リーマンショックに伴う金融危機の煽りを受けて世界景気が反転したときで、東芝でもこの年、過去最大の最終赤字3435億円を計上している。その後、2011年3月に発生した福島第一原発事故の結果、成長の柱として期待されていた原発事業に一気に暗雲が立ち込める。収益構造はイビツになり、2015年3月期の営業損益を見ると、NANDフラッシュメモリなどの電子デバイス事業が2166億円の黒字を稼ぐ一方、テレビやパソコン、白モノ家電などのライフスタイル事業は1097億円の赤字という、半導体事業依存体質に陥っていたという。
 西田社長の生い立ちとキャラクターが追い込まれた状況が産んだ悲劇なのだろうか。この異色の社長を盛り立てようと部下が頑張った、これも日本の組織では当たり前の美談だが、それが空回りしてしまったのではないかという話も聞こえてくる。結果として上司の意向に逆らえず不正に手を染めたのか、上司を盛り立てようと(上司の真意はともかく)上司の意向を汲んで阿吽の呼吸で受け入れたばかりに不正に手を染めるに至ったのか。
 デジャヴのようだ。
 戦前の日本の軍国主義の暴走と敗戦に至る悲劇を、リアリティのない「観念論」に求める議論があるが、「観念論」と呼ぶとアカデミックになって、そこにはまだ論理があるような印象を受けるが、端的に「観念論」(=論理)をも超越した「精神論」のせいだと言うべきではないだろうか。こう言うと一気に俗的になってしまうが、数年前、スポーツ界で体罰が社会問題になったのも、悪しき習慣に育まれた、スポーツ科学(論理)を超越した「精神論」のせいではなかったか。大東亜戦争でも、ちょっと戯画化すると、玉砕や特攻を産み出し、天皇陛下万歳を叫んで殉じる神国・日本として、アメリカをして恐懼させ、日本を弱体化させるために、GHQの占領政策で天皇制や神道を憎悪し、歴史観をも変えさせるに至ったのも、日本の組織に良くも悪くも巣食う、個を抑えた集団的な精神性のせいではなかったか。その戯画化した見立てが必ずしも正しいとは思わないし、日本だけに特有の組織の病とも言わない。欧米にだって同様の、あるいは別の組織の病が潜むものであろう(そして、彼らはそれを防ぐシステムを組織に組み込んでいる)。
 東芝問題の本質はまだ良く分からないが、想像力を働かせる内に、今なお同質性の高い日本の社会として、「絆」を誉めそやすのと裏腹に、組織的な弱点を抱え得るものであろうことは記憶してよいと、自戒を込めて思った次第である。そして日本のような組織では、とりわけコンプライアンスは、種々の再発防止策を立てるのはよいとして、組織の文化として深めるまでトップがしつこく声に出し、構成員が腹落ちして納得しないことには行動には表れないものであろうと思う。
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老眼

2015-09-07 01:48:42 | 日々の生活
 どうでもいい話であるが、初めて老眼鏡なるものを手にするに至った。これまでは遠くのものをよりよく見るために眼鏡を使用して来たが(いわゆる近視)、今月から、近くのものをよりよく見るために老眼鏡を着用することにした。両刀使いであって、不便この上ない。
 学生の頃、近視が進んだが、眼鏡を使うのはせいぜい黒板を見るときくらいで、人生の最初の20年間は殆ど裸眼で過ごしていた。しかし社会人になった以上、粗相があってはならないと、近視用の眼鏡を常用するようになった。あれから30年、最近は老眼が進んで・・・と言うことは近点(指を目の前に近づけてみて、一番近くで見えるところ)が徐々に遠くなり、とりわけ薄暗いところや電車の中で新聞や雑誌や本を読むと字がぼやけるために、目を凝らして見ようとして目の周辺が疲れたり、こみ入った漢字を判読するのに時間がかかったりと、だんだん耐え難くなってきた。会社で書類の細かい文字を読む時は、眼鏡を外せばいい。しかしパソコンの画面の場合、裸眼で近づいて見ようとして、姿勢が悪くなって肩が凝ってしまうのである。かつて新入社員の頃、大ボスから、書類の文字が小さいとお小言をよく戴いたもので、今はまさにその大ボスの心境なのだが、30年の年月は、日本の上司・部下の関係を変え、どうでもいい小言は控えることにしている(と言いつつ、昔、上司から字が小さいと言われたものだと、昔話を披露しているので、同じことか)。
 もともと近視だった私が老眼になって老眼鏡をかけると、あらら不思議、30センチから1メートル位までの至近距離がよく見えるようになった。しかし副作用もあって、電車で対面に座るくらい離れた人の顔はぼやけてしまう。視力で言うと0.6位であろうか。裸眼の視力は0.1以下なので、それでも余程マシなのだが、単焦点の老眼鏡は近くの決まった距離を見るためのものであって、それより遠くを見るということは度数の強いメガネをかけるのと同じ原理になり、度が進む原因になりやすいので、してはいけないと言われる。さて、どちらをベースにすべきか。
 こうして、悲しいかな、またひとつ、歳と共に人間の能力が衰える現実を突き付けられるのである。
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抗日戦争勝利の茶番

2015-09-03 22:24:25 | 時事放談
 抗日戦争勝利70周年記念行事のための厳戒態勢で、北京市民は食うものにも困ったらしいが、唯一、北京の空は一時的とは言え「パレード・ブルー」が広がって、市民は喜んだようだ。
 今さら中・韓の挙動不審を真面目に取り上げるのも大人げないし、却って疲れてしまうのだが、今日のパレードに先立ち、習近平国家主席は、昨日の朴槿恵韓国大統領との会談で、「両国人民は日本の植民地化と侵略に抵抗し、民族解放を勝ち取る闘争で団結し、助け合った」と語ったらしい(日経朝刊)。仮面夫婦に相応しい、何ともお目出度い、何とも麗しい話だ。中・韓ともに、自らの統治の正統性を訴える国内向けプロパガンダの、あるいは経歴詐称のファンタジーに酔う、晴れの舞台だったのだろう。実際、「抗日」と言いながら、対日戦争の主役だったアメリカや戦場となった東南アジア諸国(フィリピンやインドネシアなど)の首脳は出席を見送り、アフリカのエチオピアや中南米のキューバやベネズエラなど、日本と戦争をしていない国々の首脳こそが参加しているところが、象徴的である。
 しかし言わずもがなであるが、韓国は抗日戦争を戦ったのではなく、日本とともに中国と戦った、というのが歴史的事実である。そもそも当時、韓国は日本の「植民地」ではなく日本に「併合」されていたのだから、韓国とか朝鮮王朝といった国は存在せず、日本と戦いようがない(戦ったのはごく一部の運動家、いわばテロリスト)。サンフランシスコ講和会議の際、韓国は是非とも連合国の仲間入りを果たしたかったようだが、それは事実ではないと、イギリスやアメリカからあっさり拒絶された。さらに1950年の朝鮮戦争で、もう一度、中国と戦った。二度も戦っておきながら「助け合った」と言ってもらえて、朴槿恵大統領はさぞ喜んだことだろう。まさに仮面夫婦の虚構の蜜月である。
 中国(共産党)もまた、言わずもがなであるが日本と戦ったわけではなく、常に蒋介石の国民党軍の陰に隠れて自らの勢力をひたすら温存していた、というのが歴史的事実で、それは今年2月に既に台湾(国民党)と中国(共産党)の間で論戦があった通りである。台湾・国防部(国防省)の報道官は2月3日の定例記者会見で、中国共産党に対し、「『抗日戦争』の主役は国民党が主導した『中華民国』軍だったという歴史に向き合うべきだ」と呼び掛け、「中国共産党は侵略の歴史の反省を日本に求めるのと同時に、自らも歴史に向き合うべきだ」とも語った(産経Web)のに対し、2月4日付の中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報は、「台湾では共産党の抗日戦争の功績が認められていない」と反発する社説を掲載するばかりか、「(中国)大陸では、国民党の役割を積極的に評価している」などと主張、中国が「抗日戦争勝利」に関する記念活動を実施することに「台湾当局は感謝すべきだ」とまで述べた(同)。盗人猛々しいとはこういうことを言うのだろう。まあいつものことだけど。
 そして今日の式典でも、習近平国家主席は「70年前の今日、中国人民は14年の長きにわたる、想像を絶する艱難辛苦に満ちた闘争を経て、抗日戦争の偉大な勝利を手にした」と語りかけたらしいが、日本に勝ったのはアメリカであって、中国ではなく、日本人は中国に負けたと思っていない。そもそも中国は諸外国との近代戦で一度も勝っていないトラウマを抱えているのだが、おくびにも出さない。「侵略に対する中国人民の抵抗を支援し、助けてくれた外国政府と世界の友人に向けて、謹んで感謝の意を示す」とも語りかけたらしいが、その外国政府は首脳の出席を見合わせたのは、先ほど触れた通り。
 折しも今日の産経Webには、米調査機関ピュー・リサーチ・センターがアジア太平洋地域11ヶ国で実施した、日本、中国、韓国、インドの4ヶ国への好感度調査の結果が報じられていた。結果は言うまでもなく日本を「好意的に見ている」との回答が71%で最高で、中国57%、インド51%、韓国47%と続いたらしい。特徴的なのは、日本への好感度を国別に見た場合に、マレーシアでの84%を筆頭に、ベトナム、フィリピン、オーストラリアなど軒並み80%以上だったのに対し、中国では12%、韓国では25%の低率にとどまっていることで、国際社会の中で中・韓という仮面夫婦の異常さが際立つのだが、これもまあいつものことである。
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