風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

2024回顧③民主主義

2025-01-04 20:44:47 | 日々の生活

 私たちは「民主主義の後退期(a period of democratic backsliding)」にあると、フランシス・フクヤマ氏が元旦の日経新聞で述べていた。確かにあの民主主義の殿堂とも言うべきアメリカでトランプ党と化した共和党が大統領府と議会を乗っ取り(所謂トリプル・レッド)、トランプ氏は忠誠を尽くすお友達で周囲を固めてしまった。一期目とは異なり、二期目は意のままに政策を推し進めそうな気配である。かたやヨーロッパではひたひたと極右が台頭している。韓国では民主化して日が浅いとは言え党派争いには目を覆うべきものがある。しかし、私たちは民主主義(ドクトリンではないのだから本来は「民主制」と呼ぶべきもの)に期待し過ぎているのではないだろうか。

 かつてプラトンは国制を①名誉支配制、②寡頭制、③民主制、④僭主独裁制の四つに分類し、この順番で古代ギリシアの国制は推移したと述べた。名誉支配制とは所謂「哲人王」による王制で、豊かな知と徳を備えた人々を守護者とする。彼らは「決して自分のための利益を考えることも命じることもなく、支配される側のもの、自分の仕事が働きかける対象であるものの利益になる事柄をこそ考察し命令する」存在である。そのような守護者の中から一人だけ傑出した人物が現れる場合は王制、複数である場合が優秀者支配(=貴族制)で、プラトンはこれらこそ最善の国制とした。しかし支配者たちはやがて殖財に邁進し、寡頭制に転じる。更にそんな富や権力を独占する支配者に対する反発から民主制に転じる。民主制は、自由で平等な市民による相互支配の体制であり、アリストテレスは端的に「順繰りに支配し、支配される」と形容した。しかしそのような「最高度の自由からは最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくる」とプラトンは喝破した。僭主独裁制である(以上、君塚直隆著『貴族とは何か』参照)。もとよりアテネをはじめとする民主制は直接民主制であって現代の間接民主制とは似て非なるものではある(私たちの間接民主制はもはや民衆が選ぶ貴族制と化しているかもしれない 笑)。何しろアテネでは、投票は党派性を生むとして、籤引きこそ民主的と見做したのだ(私たちは中間団体としての政党=党派性の様々な塊を甘んじて受け入れている)。なんと素朴で手作り感のある社会だろう(私たちは政治に余り関わりたくなさそうだ)。この直接民主制を成り立たせるためには、古代ギリシア史家の伊藤貞夫氏によれば、一般市民が感情や目の前の利益に惑わされぬ冷静さと大局観を持つこと、更には彼ら市民の意向を集約し、時には的確な指針を示して、一国の向かうべき行く手を誤らせぬ政治指導者に恵まれることが必要条件となる。現代の間接民主制においても概ね同様の「関心」を持つことが必要で、それを失うと醜悪な全体主義に転じることは、私たちはその後の20世紀の歴史から学んだはずだ。

 プラトンに学んだアリストテレスは、政治制度を人数によって三通りに、また共通の利益に目を向けるか否かでそれぞれ二通りに、計六通りに分けて見せた。一人による支配(王制、僭主制)、少数による支配(貴族制、寡頭制)、多数による支配(国制または共和制、民主制)である。ここから読み取れるのは、人数による違いには本質的な意味がなく、人数の違いで分けた制度はそれぞれに両義的であり、中でも民主制はネガティブに捉えられていた、ということだ。プラトンもアリストテレスも、貴族制こそ理想としたのは、かの敬愛して止まないソクラテスを死に追いやったのは民主制のせいだと考えたからだろう。実際に久しく近代に至るまで民主制の評判はよろしくなかった。アメリカでさえ建国当初は民主制に懐疑的で、ローマ的な共和制を志向したとされる。それほどまでに、現代の私たちがつい当たり前だと思ってしまう民主制を成り立たせるのは如何に難しいかの証でもあろう。

 こうして民主制そのものへの過剰な期待を拭い去った上で、民主制を成り立たせる規模感、あるいは単位のことを思わないわけには行かない。本来の民主制は、多数派が支配すると言うよりも、市民に一定の同質性があり、生じる差異については協議し妥協して解決できる寛容な社会である必要があるようだ。古代ギリシアや中世イタリアの諸都市は、まさにそのような規模感だっただろうし、かのルソーも、まさかフランスのような国家レベルで民主制が成り立つ(革命が起こる)とは考えていなかったようだ。その急進性に危うさを覚えたエドマンド・バークは『省察』を書いて警鐘を鳴らした。フランスの貴族だったアレクシス・ド・トクヴィルは、1830年代にアメリカを訪れて、民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」と断じた(と言いつつも、ローカル・コミュニティには手作り感のある民主制が息づいていることは見抜いていた)。フランス革命が挫折した後、西欧で国民国家が誕生するまでには経済的に余裕ができて社会的に成熟する必要があった。

 そうすると、社会が分断するアメリカや更にその上を行くほどに分極化する韓国で政治が荒れるのは、民主制そのものに内在する道理なのだろうと思う。他方、中国やロシアのように多民族を抱える帝国が、国家をまとめるために民主制を実践できずに強権に向かうのもまた道理なのだろうと思う。だからと言って権威主義を認めるつもりはなく、いずれ最適レベルに分裂して行くしかないと希望的に観測している(笑)。実際に第一次世界大戦では四つの帝国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシア)が崩壊し、その余波は今もなお続いていて、第二次世界大戦後の体制に不満を持つリビジョニストたるロシアや中国という残された帝国が民主化に抗うのは当然として、強権化し却って不安定化しつつあって分裂しかねないとは皮肉な話だ。

 いや、権威主義国のことはひとまず措く。選挙イヤーと言われた昨年、アメリカや日本をはじめとする多くの国々で政権与党が敗北を喫したのは、生活を直撃するインフレなどの経済的な一過性の要因が大きく作用したのは事実だが、冷戦崩壊以降の新自由主義のもとで格差が拡大する中、中東情勢が不安定化して移民が拡散したり、中国という異形の大国が政治・経済的に台頭したりして、いずれの異質性へも嫌悪感や排他性が強まり、SNSのエコーチェンバー効果が手伝って、社会の寛容性が失われつつあることが底流にあるように思われる。SNSはツールでしかないが、トランプ氏暗殺未遂事件に象徴されるように、同質性の高い集団の中ではますます結束が高まった(他方、異質な集団への影響は皆無に等しかった)。国際社会では権威主義国が民主主義国から離れて行き、自由でオープンな民主主義社会に付け込んで分断を煽っていると言われる。

 社会が分断を深めつつあるのは日本も同じで、迎合するポピュリズムには苦々しく思い、既存の政党やメディアが信頼を失い、石丸現象のように特定個人に期待が集まる風潮には危うさを覚える。現代を20世紀前半の戦間期に比定しようとする向きがあるが、ワイマール体制下で多元主義への幻滅や、勃興する左翼(今で言うならwokeなリベラル)への嫌悪が広がり、ベルサイユ体制がもたらした経済危機や世界恐慌(今で言うならリーマン・ショックやコロナ禍やウクライナ戦争)で疲弊する中で、既存の政党は危機に適切に対処できずに、また既存メディアは世論を適切に喚起・誘導できずに、いずれもが支持を失い、各陣営が自分たちにしか通じない特定の思想や価値観を増幅させ、世論が分断されて、ナチスのようなポピュリズム政党に流されていった状況には留意すべきだろう。

 国制は人数に関わらず、と言ってみたものの、やはり今となっては法の支配に基づく民主制こそ個人の自由を担保できる制度だと思うからだ。しかしその民主制を成り立たせるのは人であり社会なのである。

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2024回顧②戦争

2025-01-01 09:47:07 | 日々の生活

 ウクライナ戦争が始まってから間もなく丸三年になろうとしている。世界のどこかで戦争があると実感する生活が当たり前になってしまった。さすがにロシアやウクライナ界隈では戦争疲れや厭戦気分が漏れ伝わる。最近で言えば(と言っても70年以上前のことだが)、朝鮮戦争が丸三年とひと月で休戦協定に至った。大統領に就任すれば24時間以内に戦争を終わらせると豪語したトランプ氏の登場で局面打開できるだろうか。

 ウクライナ戦争を通して多くの人が様々な教訓を再確認したことだろう。

 まさか21世紀の現代に19世紀的戦争が行われることになろうとは思ってもみなかった。しかも第一次世界大戦当時の塹壕戦が展開される上空に遠隔操作ドローンが飛び交うハイブリッドの様相である。民主的平和論が本当かどうか分からないが、現代にあっては戦争へのハードルが高い民主国家と違って、独裁国家においては少人数で(場合によっては一人で)意思決定される恐ろしさがある(その意味で最近、習近平に権力集中する中国で人民解放軍筋から集団指導体制を称える論説が出始めているのは注目される)。そして戦争は始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。しかも戦争は、戦争法規というものがありながら、いともたやすく破られて悲惨である。長期戦になれば砲弾などの物量がモノを言う。戦争ではロジスティクスが重要と言われ続けて来たが、あらためて実感された。中でもサプライチェーンに関心が集まる。アメリカで今、造船が注目されるのは、ウクライナ戦争やコロナ禍と無縁ではないだろう。最近でこそ世界の工場とは言われなくなった中国の(米国に対して比較優位にある)製造能力は、いざ戦争が勃発したときには脅威となるからだ。また、プーチンの継戦の「意志」は変えられないとしても「能力」を削ぐために矢継ぎ早に幅広く経済制裁を科して来て、三年近く経ってなお、ロシアがへこたれないでいることには驚くべきものがある。中国から電子機器を、イランからドローンを、北朝鮮から砲弾や歩兵を調達しているからとされ、グローバル経済にあって、特に価値に囚われることなく米露いずるからも経済的恩恵を引き出そうとする新興国がいれば制裁は破られる。逆に、世界経済に組み込まれた資源大国を制裁したことでエネルギー危機が勃発し、世界の景気を悪化させ、選挙イヤーと言われた昨年の選挙戦では各国で軒並み与党が敗れる波乱が続いた。米国のような特定の社会だけでなく世界も民主主義国家と権威主義国家とに分断され、窮屈になった。最近になってようやくウクライナにロシア領攻撃が許されつつあるが、日本が国是とする専守防衛では心許ないことがはっきりした。そして、核戦争をチラつかせるプーチンの脅迫に弱腰のバイデン大統領や西欧諸国を見ていると、力に対して力で対抗するしかないという現実が突きつけられる。やはり、戦争は始めるべきではないのだ。敵基地攻撃能力を保有してでも、外交を駆使し、相手の意志を拒否的に徹底抑止しなければならない。

 シリア・アサド政権が崩壊したのは、ウクライナ戦争と中東紛争の余波と言えるであろう。ロシアがウクライナ戦争に足を取られ、ヒズボラやイランがイスラエルによって壊滅的な打撃を受けて、シリア・アサド政権を助ける余力がなく、言わばシリア内に権力の空白を見てとった反体制派が進軍し、シリア軍はあっけなく瓦解した。

 そして何より、私たちは経験の中でしか物事を見ることが出来ないことが分かる。だからこそ読書したり映画やドラマや漫画を見たりしてなんとか想像力の翼を広げようとするのだが、それでも実体験には及ばない。戦争を遠くからではあるが同時代的に眺めていて、歴史を学び歴史的視野で物事を捉える重要性を思い知った。マーク・トウェインが言ったとされる「歴史は繰り返さないが韻を踏む」(History doesn’t repeat itself, but it often rhymes.)が人口に膾炙したことにはワケがある。

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2024回顧 ①AI

2024-12-31 11:51:50 | 日々の生活

 ここ数年のAIの進歩は凄まじい。所詮、人間が理解する世界はたかが知れていて、人類の知の資産を乗り超えて、想定外の発見がなされるのではないかと期待する声もあるが、人類には果たしてどんな未来が待ち受けているのか、私のようなボンクラな文系人間でもシンギュラリティのことを薄っすらと不安に思わないわけにはいかない。当面は、軍事を取り巻く環境でAIの活用が広がることが懸念される。社会不安に極度に神経質な中国では、人手に頼らずにAIを軍事転用する動きが活発化していて戦争へのハードルが下がる(低烈度の紛争が頻発する)のではないかと気になるし、そもそもウクライナ戦争では北朝鮮が実戦経験を積むことに警戒が広がったように、ウクライナや中東で新兵器の見本市のように実戦投入されて開発が加速されているし、旧式兵器在庫をここぞとばかりに一掃するロシアや北朝鮮で兵器が刷新される未来には大いに不安がある。やはり戦争はやってはいけないのだ。かつて軍事技術が民生転用された事例は、弾道計算のためのコンピュータや衛星通信やGPSから、缶詰や電子レンジのマイクロウェーブに至るまで枚挙にいとまがないが、最近はその逆でAIや量子といった民生技術を軍事が取り込む事例が増え、今、戦争が現に行われている中で大盛況という、技術が進歩するとしても余り嬉しくない状況にある。また、身近なところでも、偽情報・誤情報・怪情報に溢れ、中国やロシアやイランや北朝鮮といった新・悪の枢軸とも言われる権威主義国家にとって、自由でオープンな民主主義社会は付け入る隙だらけで、益々社会の分断が進みそうである。

 今年、通勤途上で読む本の中で(ということは持ち運びの点でも読み易さの点でも軽めのものになる)、AI関連でいくつか面白いものに出合った。

 一つは『AIにはできない』(栗原聡著、角川新書)。キリスト教の影響を強く受ける西欧では神に次ぐ人間存在を重く見るがために道具としてのAIにこだわるのに対し、鉄腕アトムやドラえもんを生み出した日本人こそ将来登場する自律型AIと共生する時代をリードできるのではないかとか、自律型AIは日本的な「おもてなし」を目指すべきではないかなど、AI開発で後れをとって閉塞感を覚える私のような日本人には心地よい話があって、明るくなれる(笑)。何より「サイモンのアリ」の話から説き起こされる「群知能」や「スケーリング則」の話が面白い。今はまだ何となくジョージ・オーウェルの『十九八四年』のような巨大AI(コンピュータ)を思い浮かべてしまうが、いずれAIも様々に組み合わさってシステム化されていくことは、コンピュータ業界の発展を見ずとも、自然に受け止められる。AIと共生するためには、初等教育では情報教育よりも社会的動物としての人間らしさを学ぶことの方が重要という指摘は、あらためてAIを開発し社会実装していく上では人間や社会を理解することの方が重要であることを意味し、私自身もこれからAIとどのように付き合っていくのか、自分はどうあるべきなのかと、考えさせられる。

 もう一つは『AIを生んだ100のSF』(大澤博隆ほか監修、ハヤカワ新書)。SFと言っても私は星新一くらいしか完読していないが、日本人なら誰もが鉄腕アトムやドラえもんやコブラなどに身近に接していて、様々な分野の様々な世代の専門家が、育った時代毎に見たTVアニメや映画や小説などのSF体験を語るのは、なかなかに興味深い。その中で、松尾豊・東大教授の対談が印象に残った。以下抜粋;

(引用はじめ)よく、「AIで仕事がなくなる」と言われますけど、なくなるわけないじゃんと思っています。人間の仕事が生産に寄与している、という思い上がりはもうやめた方がよくて、農業や資源採掘をやってる人なんてほとんどいないわけですよ。それでも、たとえば数社のビールメーカーがシェアを奪い合ったりしているわけです。ビールは十分うまいのに、新商品のなんとかビールとか冬のビールとかを発表して、売上が上がったとか下がったとか、勝った負けたとか言っている。それを大真面目に、何万人・何十万人がやっているわけですよ。結局、人間には「味方を集めて敵と戦う」という習性があって、それが面白いんです。人間は社会的動物だから、味方を定義して、敵と戦うことによって脳の報酬系が出て、それが好きなんですね。人間とはそういうもので、AIがいくら発展しようが、味方を作って敵と戦うんだけど、そこにおいては人間同士の相対的な優劣が重要で。相対的に優れていると認められる人が上にのぼっていくし、そうじゃない人が失脚することになる。(それはある種のゲームですね、の合いの手に)そうなんです。味方を作って敵と戦う、ということをやっているだけ。それが結局「仕事」なんですね。そう思うと、仕事なくなるわけないじゃないですか。そういう意味では、人間は進化的なものに縛られ過ぎていますよね。進化的な報酬系と感情に縛られている。(引用おわり)

 ビジネスに携わっていると、日本では一つの業界に企業数が多過ぎて、日本というコップの中の争いで疲弊して、世界に打って出る余力がない、なんて恨み節の自己批判をするが、結局、ヒトは競争が好きで止められないのだ。「味方を集めて敵と戦う」のが好きだからこそ、団体スポーツや果てはオリンピックのような疑似戦争を編みだして戦争回避する努力も見せてきた。その反動で共産主義を夢見たこともあった。AIを研究することは詰まり人間(の脳)や社会(の仕組み)を研究することであって、そのAI研究の最前線におられる方がさらりと述べておられる皮肉とも言える毒がやんわりと心に突き刺さる。

 AIはいずれ感情表現できるようになるとも言われる。脳のメカニズムは物理現象として解明されつつあり、いずれ機械(システム)で再現出来るかもしれない。しかし、人間は全てを記憶するわけではなく、水に流すという美徳もある。事象の重みづけによって記憶に強弱があり、一人ひとりに固有の人格が形成される。逆に、こうした重みづけを与える(栗原聡さんの言葉を借りれば、目的を与える)ことによって、AIにも人格もどきが生まれるのだろうか。宇宙海賊コブラの相棒である女性型アーマロイド・レディのように。確かに私のスマホは良くも悪くも私の好みに最適化してしまっている。そうすれば、欲も生まれるのだろうか。興味が尽きない。

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秋の気配

2024-09-25 05:52:54 | 日々の生活

 つい先週まで、帰宅してエアコンをつけて部屋を冷やしてから眠りについていたのがウソのように、一気に秋になった。9月後半なのだから、遅過ぎたと言うべきかもしれない。近年、春と秋が短くなり、この一年を振り返っても、寒い冬が明けると暖かいのを通り越して暑くなり、昨日の今日で、窓を開け放ってタオル一枚で大の字になって寝ていた次の日には窓を閉めて毛布を引っ張り出して包まって寝る始末だ。

 だから実態は秋の気配と言うより本格的な秋の訪れなのだが、夏の祭りのような熱気が冷める微妙な季節に忘れられない楽曲がある。オフコースの『秋の気配』だ。1977年8月5日のリリースで、その時はこのバンドのことをまだよく知らなかった。2年後に『さよなら』が大ヒットし、切ないメロディと伸びのある歌声に惹かれた。大学時代に腰掛け程度に在籍した軽音サークルに、オフコースのコピーバンドがいて、ボーカルは小田和正さんばりに高音の伸びがあって誰をも驚かせたが、私はそれよりもおとなし目の女の子がドラムスをダイナミックに叩く姿に惹かれて、オフコースを聴くようになった。それでもその頃はまだ『秋の気配』に辿り着いていない。

 その後、就職で東京に出て、高校の同窓会があるというので帰省して久しぶりに再会したある女の子が、好きな曲だと言って『秋の気配』を挙げて、歌詞に出てくる「港が見下ろせる小高い公園」をわざわざ訪れたことがあると笑った。なんだ、近くまで来ていたんだ、水くさい。私も行ったことがある港の見える丘公園からは、名前の通りに、貨物船がゆっくりと行き交う、なんでもない港が見えるのだが、彼女は違う風景を見ていたのだろうか。地味な曲だが、ハーモニーとアコースティック・ギターの音色の美しさを極限まで引き出し、移ろいゆく恋心を切なく唄うこの曲に、何故、今まで気がつかなかったのだろう。そのときの彼女の照れ笑いと結びついて、リリースから随分と時を経て、忘れられない曲になった。

 音の記憶は、今もなお鮮明に胸をざわつかせるのだから、不思議だ。

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終戦から79年

2024-08-16 20:03:42 | 日々の生活

 パリ五輪の熱戦を終えて帰国直後に開かれた会見で、今やりたいことは何かと聞かれた早田ひな選手は、「アンパンミュージアムに、ちょっとポーチを作りに行きたい」と、地元の福岡の施設を取り上げてほっこりさせたのに続けて、「あとは、鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、そして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることというのが、当たり前じゃないというのを感じてみたいなと思って、行ってみたいなと思っています」と、意外な場所を挙げたのが話題になった。

 早速、好意的な反応がある一方で、早田選手がアカウントを開設したばかりの中国weiboには否定的なコメントが殺到し、人民日報系のスポーツチャイナや中国新聞社はSNSで、早田選手をフォローしていたパリ五輪の二人の中国人メダリストがフォローを外したことを伝えた。一種の(いかにも中国的な)ポピュリズム的な反応に、中国の言論空間の息苦しさをあらためて感じ、中国人メダリストを気の毒に思う。ついでながら、かの国では、石川佳純さんと張本智和選手がテレビ番組の企画でパリ五輪前に渋谷区の東郷神社を必勝祈願に訪れていたニュースまで掘り起こされ、物議を醸した。一種のゲーム感覚であろうが、党の方針に沿うとは言え、このような言論統制は、党にとって諸刃の剣で、時として行動を制約することになりかねない非生産的なことなのだが、懲りることはないようだ。

 日本でもステレオタイプな反応が見られた。社会学者の古市憲寿氏は、「特攻があったから今の日本が幸せで平和だっていうのは違う」とした上で、〝悲劇的な話〟として終わらせずに、二度と特攻のようなものが起こらない社会づくりや平和について考える必要があると訴えたそうだ。早田ひなさんを批判する趣旨ではなく、「特攻隊の話題が出てくるたび、都合良くその歴史を美化する人を批判してるんです」と言い訳される通り、自らのイデオロギー的な主張を伝えたいだけで、話は噛み合っていない。これも、個人の趣味とは言え、別の意味で窮屈な言論空間と言えなくもない。

 もっと素直に反応できないものか。知覧特攻平和会館の受け止め方を拾ってみよう。「早田選手の発言でより多くの皆様に当会館のことを知っていただく機会をいただき大変ありがたい」「特攻の史実を知っていただき」「生きていることのありがたさや、命の尊さ、平和のありがたさを感じていただければ幸い」。

 知覧は私の生まれ故郷の隣町で、万世特攻平和祈念館に至っては地元の施設なのだが、三歳のときに上阪し、(本籍は残したまま)40年も離れたままで、両施設のことは心に思うばかりである。素直に、静かに、訪れたいと思う。

 あの(玉音放送の)日も、蝉は喧しかったのだろうか。

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受験勉強と学びの違い

2024-05-26 08:55:38 | 日々の生活

 十日程前の池上彰さんの大岡山通信(日経朝刊)は、「大型連休が明けて学生がキャンパスに帰ってきました」との書き出しで、新入生に向けて、「大事なことは、良き問いを立て、答えを求めて自ら学ぶという姿勢」だと、受験勉強からの脱皮を勧めておられた。これ自体は陳腐ではあるものの、その通りだろう。高校までは「授業」と呼んで、授けられるものを有り難く受けていたが、大学では「講義」と呼んで、自ら学ぶことが大切だと言って、講義をサボって遊ぶ口実にしていたのを懐かしく思い出す。あの頃、しっかり主体的に勉強していたら人生は変わっていただろう(笑)。

 大岡山通信に戻ると、しかし、その前提にはやや違和感がある。「君たちは小学校のころから、先生が何か問題を出すと、先生が求めている正解は何かをいち早く察知して答えることを繰り返してきたのでしょう。要するに忖度力です。ある意味で、求められている答えを忖度する力を高めることが受験競争に打ち勝つ手段でもあったのです」と言われるのもステレオタイプで、しかし、それだけではないはずだ。勿論、点数を確実に稼ぐには、問題文を読み込み何を求められているかをいち早く察知し的確に「答え」を纏め、採点者の心を捉えなければならない。それはその通りだが、それは後半分でしかない。前半分は、そもそも何が出題されるかを、池上さんの言葉を借りるならば「忖度」する。それを中途半端にやれば、ヤマが当たったとか外れたということになるが、普通に試験に備える場合は、定期考査と大学受験ではやや違うとは言え、教師視点で何が「問題」として出題されそうか忖度し、あるいは赤本に当たって大学の出題傾向を「忖度」して重点的に対策を練る。いずれも所詮は「忖度」には違いないが、試験(教師)が求めるものを先回りする努力をしていた。何が重要か、流れを、ポイントを、掴むことには長けていなければならなかった。こうした受験という狭い世界から自由になった解放感を、あの季節の眩いばかりの明るさとともに懐かしく思い出す。ようやく自分が好きなことに目が向けられる。そして私は長い五月病を患った(笑)。

 社会に出れば、大岡山通信にあるように「世界はどうあるべきか、日本はどうあるべきか、そして私はどうあるべきなのかという問いを立ててみる。その力が求められてくる」と言われる。「忖度」に慣れ親しんだ私たちには必ずしも苦手なことではなく、求められているものを探そうとして、そこからはスティーブ・ジョブズは出てこないなどと世間ではステレオタイプに批判される。しかし日本にだってソニーやニンテンドーが活躍したことがあったし、小さい企業の中にはいろいろ面白い取り組みをしているところがある。GAFAMが出て来ない日本に足りないのは、(中国という意識的に巨大を求めて力で圧倒する経済が現れた今)リスクを取って大規模に先行投資する実行力ではないだろうか(かつて半導体投資で後れをとったように)。構想力では負けていないのではないだろうか。そして、巨大を求めても勝てそうにない日本は別の戦い方を探さなければならないのではないだろうか。

 大岡山通信は、「自分の未来や幸福のために良き問いを立てるということは人間にしかできないこと」「技術とはあくまでも、情報を集め、考えるための道具に過ぎない」として、AI時代を生き抜く指針を与え、「考える力とは生きる力に通じるかもしれません。学生生活を大事に過ごしてほしいと思います」と締めておられる。分かりやすく伝えることを信条とされる氏の本領発揮と言え、その通りだと思う。AIは身近に欠かせないものとなるだろうが、まだ稚拙なAIを評価する感性が、またAIが進化してもAIを超える人間自身の感性が評価されるのは間違いないのであって、その感性は学びの中でこそ磨かれる。そこに老若男女の関わりはない、ということを、まだ限りない未来が広がる新入生ばかりでなく、定年を迎えて初めて自由の身になる方々へのハナムケの言葉にしたいと思う。なんだか他人事のようだが(笑)

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かくも奥深い言葉なるもの

2024-05-10 21:30:24 | 日々の生活

 今日の日経夕刊「あすへの話題」で、作家の小池真理子さんが「かくも奥深く、生々しく」と題して、安易に言葉を略し(カスハラなど)、変容させて面白がり、みんなと同じことを口にしていれば無難に過ごせる(小説をコンテンツ、作家をクリエイターと呼ばせる出版社があるらしいし、持続可能と言わずにサステナブルというカタカナ語が通用する)、というような風潮を戒めておられた。ウラジーミル・ナボコフが、ロシア革命を機にヨーロッパに、更にアメリカに亡命し、英語という異国の言葉で執筆した小説の数々が文学史に残るものになったという例を引きながら、言葉は「かくも奥深く、生々しく」あるもので、「夥しい数の言葉を駆使して初めて、人間という不可解な生きもの、社会の営みを表現することができる」と言うわけだ。

 結論はその通りだろう。言葉は生き物とは言え、乱れるのは見苦しいし、字数に制限があるXで意図をきっちり伝えられるかと言うと、とてもそんな自信はない。とりわけ日本語は、四季折々の変化と、時に厳しく対峙し、時に暖かく包んでくれる豊かな自然のお陰で、類いまれに豊かな言語で、アメリカ国務省外交官養成局の外国語習得難易度ランキングによると、習得に最も時間がかかるカテゴリー5(他にはアラビア語、中国語、韓国語)の中でも、更にアスタリスクが付いて最高難度の栄誉⁉︎に浴しているらしい。ウラジーミル・ナボコフも、ロシア語を使えば確実なところ、アメリカ人に伝えたいばかりに英語で言葉を尽くして血の滲む努力をされたであろうことは想像に難くない。言語は文化そのものだからだ。

 他方で現実問題として、単語レベルでは話が違って来るようにも思う。例えば外国で生まれた、日本にはかつてなかったような概念を、無理に既存の日本語を探して訳として当て嵌めることには疑問なしとしない。受験英語の如く「サステナブル=持続可能」という等式が頭にあるからこそ意味を理解するのであって、初めてこの概念に接する人が「持続可能な社会」と聞いてsustainという英単語が持つ「持続的に支える」というようなニュアンスをイメージできるとは思えない。外国語と日本語は、受験英語のように1対1対応させるとおかしなことになりかねないのであって、むしろ原語のまま使う方がよほどスッキリすることが往々にしてあると思う。それを、無理に漢字をひねくり回して翻訳した昔の西洋の哲学書が読み難いことは、この上もなかった。

 逆もまた真で、日本で生まれた如何にも日本的な概念が日本以外の地で上手く翻訳できなくて、トヨタの経営で有名になった「改善」ともまた違う「カイゼン」活動は、結局、「kaizen」としか表現のしようがないし、「もったいない」という日本らしい感覚は「What a waste!」とか「too good to waste」ではなく「mottainai」としか表現のしようがないのである。

 そんなことを言いながら、普段、「reasonableだね」とか「それじゃあjustify出来ないよ」とか「identifyする」などと、別にイキがっているわけではなく言い慣れているだけなのだが、今なお帰国したばかりの西洋かぶれのイヤミなオヤジのように英単語を散りばめて恥じることのない自分を自己正当化するのであった(!)。

 これも、シルクロードの終着点で、文化の吹き溜まりのような日本ならではの発想だろうか。

 それにしても、コラムのタイトルは遊び心に溢れて大胆ではないか(笑)

 

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ギャンブル依存症

2024-04-17 21:27:31 | 日々の生活

 ギャンブル依存症は病気だと頭では理解していたつもりだったが、甘かったようだ。水原一平容疑者が違法賭博を始めた2021年9月から2年余りの間に1万9千回、負けは実に4千万ドル(約62億円)に達し、大谷翔平の銀行口座から1千6百万ドル(約25億円)を盗んでいたことが判明した。新庄剛志もかつて22億円を騙し取られたという話が飛び出して、野球選手の金銭感覚には驚かされるし、一平容疑者は狙われたのだろうが、桁が違い過ぎて俄かに想像を絶する。

 東洋経済の記事によると、ギャンブル依存症(病的賭博)は医学的には脳の機能異常(刺激を受ける脳内報酬系の回路が鈍感になっているため、より強い刺激を求め、行動をコントロール出来なくなる)と考えられ、WHOも精神障害と認定しているそうだ。その特徴は、興奮を求めて掛金が増えて行く、止めようとしても上手く行かない、ギャンブルしないと落ち着かない、負けたお金をギャンブルで取り返そうとする、ギャンブルのことで嘘をついたり借金をしたりする、と、まるで今回の一平容疑者の陥った状況を代弁しているかのようだ。そんな依存症の疑いがある人が日本に3.6%もいるというから驚く。学生時代の40人クラスに1人はいた計算になる。しかもアメリカやフランスはその二分の一から三分の一というから、更に驚く。一体、日本人って…

 借金の肩代わりや尻拭いはイネーブラーと言われ、依存症がより深刻になる可能性が高いから、避けるべきで、寧ろ本人には「底つき体験」をさせることの方が真の手助けになるという。落ちるところまで落ちないと、「回復したい」「治療を受けたい」と思うようにはならない、と。翔平に25億円もの借金が出来た一平容疑者も、かくあって欲しいと思わざるを得ない。

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サクラ咲く

2024-04-14 22:50:26 | 日々の生活

 花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき、と自らの半生を花に託して詠ったのは林芙美子だった。桜島に石碑がある。確かに先週末は満開だった桜は、この季節の気紛れな雨風に晒されて、今週末は葉桜に変わった。花にとっては過酷な季節である。

 だからであろう。咲き始めの可憐さ、咲き誇る華麗さ、散り際の潔さは、日本人の美意識を体現して、日本人にこよなく愛されて来た。

 そして、いのち短し、恋せよ乙女、とも歌われた(ゴンドラの唄)。紅き唇褪せぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に、明日の月日はないものを、と。人にもそんな季節があることを思い起こさせるかのように、この春もまた、桜は咲いてくれた。桜を眺めながら、人は何を思うのだろう。桜が愛される所以である。

 上の写真は先週末のもの。

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甲辰の年明け

2024-01-01 21:21:36 | 日々の生活

 穏やかなお正月である。最近、年賀状は控えめにしているとは言え、貰いっ放しでは申し訳なくて投函しに戸外に出ると、澄み渡った青空にきーんと張り詰めたような空気が清新な感じがして心地よい。

 近所の神社に出向くと、午後の時間帯でも、人々が行列をなしているのに怖気づいて、心の中でお祈りだけして、そそくさと踵を返した。その足でヨーカドーに向かうと、元日から初売り、軒を借りるドトールまで満員御礼の大賑わいで、商魂逞しいのだが、初詣以外にさしたる行事も顧みなくなったいまどきの私たちには、ヨーカドーさまさまである。なにはともあれ、コロナ禍以前に戻ったような活気が嬉しい。

 今年は干支で言えば甲辰の年だ。その筋の方によると、「春の日差しが、あまねく成長を助く年」になるそうだ。「春の暖かい日差しが大地すべてのものに平等に降り注ぎ、急速な成長と変化を誘う年」になりそうで、「すべてのものに平等に降り注ぐということは、これまで陰になっていた部分にも日が当たり、報われ、大きな成長を遂げるといったことが期待できる。逆に、自分にとって隠しておきたい部分にも日が当たり、大きな変化が起きる可能性もある」ということだ。

 ある中国人の古老(但し日本在住)に言わせると、「前回の甲辰(1964年)は、『二つの地獄の合間』の一年だった」そうだ。1958年に始まる大躍進と、1966年に始まる文化大革命を、二つの地獄と譬えていらっしゃる。さて、今年の中国はどうだろう。年末に読んだ福島香織さんのコラムが思い出される。「中国が『世界の頭脳』なのは今だけ、習近平の『反知性主義』で凋落が始まる」という、ちょっとセンセーショナルな、しかし隣人の不幸を喜びたい日本人の心をくすぐるタイトルだが(笑)、よく読むと納得させられる。私は、かつて清朝皇帝が西洋の使者を前に「学ぶものは何もない」とつれない対応をした史実を思い出した。自由や民主主義や選挙制度のような西洋的価値観を大学で教えなくなり、習近平思想を呪文のように唱えさせる現代の中華帝国は、文化大革命に先祖返りしつつあるかのようだし、経済安全保障のために諸外国に頼らない内循環という名の内向き志向を強める経済は、体の良い現代版「海禁」政策のようでもある。こうした唯我独尊は中華帝国が繁栄を謳歌したときに陥りやすい宿痾のように思う。

 日本はというと、新暦以降で言うと、1904年に日露戦争が始まり、1964年に東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催された。前者は、『坂の上の雲』の登り龍とは言え、極東の小国(アジア人)が白人の文明大国に挑むという、なんとも無謀な、まさに秋山真之が言ったような「皇国の興廃この一戦にあり」の一大事であったし、後者は、それまでの苦節の時代を経た日本が成長を実感する象徴的な出来事であり、いずれも時代の画期と言えよう。今年の日本はどうだろうか。

 その筋の方の話に戻ると、陰陽五行で「甲」と「辰」の関係は、「『木の陽』が重なる『比和』と呼ばれる組み合せで、同じ気が重なると、その気は最も盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなるという関係性である」ということだ。こういう話は、良いところは素直に受け止めて、前向きに、悪いところは頭の片隅にとどめて、ちょっと警戒するのがよい。「光が及ぶのは自身を中心とした身近な範囲に限られる。身の程を超えてしまうと光が届かないため、分不相応な野心を実らせるのは困難を極めそうである。春の日差しの中、自身を見つめなおし、足元をしっかりと踏み締めていくことで道が開き、それこそが後に大望を叶える鍵となることだろう」ともいう。確かに凡人は身の程をわきまえて一気に多くを望まないのが賢明なのだろう。中国で、辰(龍)は人々の暮らしを豊かにする水神として祀られるとともに、絶大な力を持つ龍は歴代の皇帝の(富や権力の)象徴とされ、「なんでも鑑定団」によると、5本の爪を持つ龍は皇帝の身の回りにのみ描かれることが許されていた。辰(龍)にあやかり、些かなりとも上昇の気運を願いたいものである。

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