風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

六十五回目の夏(4)責任論

2010-09-29 01:16:30 | たまに文学・歴史・芸術も
 秋になっても、まだ六十五回目の夏を追いかけます(このテーマは、余程気合いを入れないと、なかなか筆が、否、タイピングが進みません)。
 さて、戦争観の難しさは、つまるところ戦争責任論に収斂し、戦争責任論は、実はそれ自体にそれほどの意味があるとは私には思えないのですが、喉に突き刺さった小骨のように、どちらかと言うと誰にとっても致命的では毛頭ないにせよ気に障る存在ではないでしょうか。とりわけ左派にとっては、昭和天皇が東京裁判とその場で追及されるべき戦争責任を逃れ得たことが気に食わない、そもそも天皇制(左派の用語をそのまま使用)の存在そのものが気に食わないのだから当然のことです。そんな左派の立場をさりげなく主張したのが「昭和天皇の終戦史」(吉田裕著)です。
 本書では、昭和天皇を輔弼する国務大臣と違って、タテマエ上は国務に関する権限を有しない側近を中心とする宮中グループ(侍従長や内大臣だけでなく、元老や重臣を含む)の存在を一つの有力な政治勢力として再認識し、国体護持と、昭和天皇の戦争責任を回避するための行動動を取ったことを、克明に描写します。そして1990年に発見され話題を呼んだ「昭和天皇独白録」を、単なる回顧談ではなく、東京裁判対策を強く意識しながら、直接的にはGHQに対して、天皇に戦争責任がないことを論証するために作成された政治的文書(弁明の書)であったと位置づけます。前者は、確かにそういう面があったかも知れませんが、後者についてはちょっと疑わしい。
 筆者によると、その頃のGHQ関係者の証言を辿ってみると、1946年1月25日に、マッカーサー元帥がアイゼンハワー陸軍参謀総長に宛てた極秘電の中で、終戦時までの昭和天皇の国事への関わり方は大部分が受動的なものであり、輔弼者の進言に機械的に応じるだけのものであったと述べ、既に昭和天皇の免責の方針を固めていたことが知られていますが、3月6日に重臣の米内光政と会見したボナ・フェラーズ准将は、昭和天皇を戦犯者として処罰すべしとする国際世論をかわし、日本でも共産主義革命を企図するソ連の動きを封じるため(昭和天皇を訴追すると、広く日本国内に混乱を招来しかねないこと、即ちソ連にとって有利な状態が現出しかねないことが懸念されました)、昭和天皇に責任がないことを日本側に立証して欲しいと述べています。そして参謀第二部長だったウィロビー少将の回顧録では、昭和天皇の考えを文書化することに成功したことを伝えると共に、「独白録」の一部が引用されているそうですし、その英文版が勝田龍夫氏によってペン州ゲティスバーグ・カレッジ図書館で発見されたそうです(しかし前掲書では詳細に触れられていません)。
 確かに「昭和天皇独白録」(寺崎英成編著)では、国際連盟脱退や満州事変といった重要事件に触れられず、張作霖事件に始まり終戦で終わるというように、東京裁判が対象とする時期に合致していること、また元来、臣下を批判しない公平無私なお方であるとの建前を取って来られた昭和天皇が、比較的自由に人物評を語っておられること、そこには、1945年9月に昭和天皇とマッカーサー元帥との会見で伝えられた「私に責任がある」といったトーンがまるで見られず、結果として責任を他に転嫁していると見えなくもないこと等、前掲書の筆者の言わんとするところも分からなくはありません。しかし虚心坦懐に「独白録」を読むと、基本的には昭和天皇が率直に語るお人柄が偲ばれます。筆者によれば、昭和天皇を守るために、全てを陸軍とりわけ東条英機の責に帰そうと、GHQと宮中グループは共謀したと説明されるのですが、そのわりに「独白録」における昭和天皇の東条英機評は必ずしも悪いわけではありませんし、昭和天皇自ら責任を回避しようと言い訳がましいところを見せることもなく、むしろ当時のご自身の思い通りにならない関係者の態度への苛立ちの色が見て取れるほどです。
 こうして見ると、「独白録」を、東京裁判対策を強く意識しながら、直接的にはGHQに対して、天皇に戦争責任がないことを論証するために作成された政治的文書(弁明の書)だったとまで積極的に意味を付与するのはやはり言い過ぎで、もう少し緩やかに、仮に東京裁判対策を意識したにしても、当時、既に軍や政界や宮中関係者の日記や手記が公開され始めている中、昭和天皇の立場を守る意図から、昭和天皇にお願いして先ずは事実関係を自由に語って頂いたと見る方が自然ではないか、その中から、側近の手によって内容を取捨選択して翻訳され、GHQに対する弁明に使われた部分があったかも知れませんが、それは最初から意図したのではなく(繰り返しますが、もし意図したとするには昭和天皇の語り口は余りに「自由」かつ「率直」です)飽くまで派生的なものだったと言うべきではないかと思うのです。それが、今も昔も、凡そ天皇と呼ばれる権威者(権力者ではない)を取り巻く環境でしょう。
 さてそれでは「独白録」はともかくとして、依然、戦前の昭和天皇の戦争責任を否定することは出来ないのではないか、という問題は残ります。昭和天皇は、立憲君主として、内閣や陸海軍が一致して決定した事項に対しては、たとえ異論があったとしても従うことを原則とし、あくまで政府や軍の決定した最終案を裁可の段階ではそのまま受け入れていたのはよく知られるところですが、裁可に至る「内奏」の段階では、積極的に自己の意思を表明したり主務責任者に説明を求めるという、所謂「ご下問」の形で、自己の意思を間接的に表示することが少なくなかったと言われるからです。果たして実態はどうだったのか。こればかりは今となっては分かりません。左派の論調は、実質的な昭和天皇の権力をなんとしてでも認めようとするわけですが、私自身は歴史上の天皇がそうであったように権威はあっても権力はなく、関係者の証言をもとにしても昭和天皇が絶対君主であったとする証拠は乏しく、説得力がないと言うべきです。むしろ、軍や政界の関係者が立憲君主としての昭和天皇を神輿に担ぎ、悪い言い方をすると利用して、裏を返せば昭和天皇としては自らの思い通りにならなかったというのが、「独白録」にはしなくも表れた昭和天皇の偽ざる思いであり、日本の伝統的な権力構造の姿として自然ではないかと思います。
 そんな戦争責任ある・なしの責任論自体に大した意味があるとは思わず、むしろそれが問題ですらあると思うは、責任論と言う時に、先の戦争が邪悪なものだったというアプリオリの評価が前提としてあるから、あるいは対となって受け入れられているからです。先の戦争が悲惨な戦争であり、愚かな戦争だったことは間違いありませんが、邪悪と見なす所謂東京裁判史観を前提としたかのような責任論には与したくありません(今日のところは、邪悪だったか否かの私自身の価値判断は留保します)。さらに、左派の人たちの論理で問題だと思うのは、歴史における共産主義者の暗躍を意図的に看過していることでしょう。東京裁判が長引いたからこそ、ソ連の共産主義に対する警戒心が高まり、東京裁判の行方に影響を与えたのではなく、既に戦前に防共協定が結ばれ、満州事変の真相究明のために派遣されたリットン調査団はその報告書の中で、中国共産党がソ連と組んで国民政府に取って代わるかもしれない可能性を指摘しており、アメリカですら1933年までソ連を国家承認せず、ハルノートを起草した財務次官ハリー・D・ホワイトはソ連のスパイだったことや、こうした共産主義者(そう呼んで差し障りがあるなら先進国において新しい革命論を引っ提げ、ニューディール政策を支えたフランクフルト学派の人たちと言い換えてもよい)がGHQの中に入り込み、伝統的な日本を破壊する視点から対日占領政策の立案に携わっていたことが、冷戦の崩壊とともに流出した資料によっても明らかにされつつあります。
 こうして責任論は純粋な学術論争ではなくイデオロギー論争になりがちなのが難しいところであり、戦争観を曇らせる元凶でもあります。
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京都

2010-09-28 02:34:07 | 永遠の旅人
 昨日の続きです。法要は西本願寺で行われました。JR京都駅とは目と鼻の先、歩いて15分かからない近さです。ところがホテルが駅の南側にあって、足腰が弱った母を伴って駅を越えるのが面倒だったため、タクシーを拾いました。そのタクシーの運ちゃんとの会話です。
 私「西本願寺までお願いします」
 運「えっ(と絶句)、ええんでっか・・・歩いてもすぐでっせ」
 私「歩くと、ちょっとあるでしょう」
 運「お西さんまでやったら、メーターで800mですわな」
と言って、やおら走り始めました。近過ぎて乗車拒否するというよりも、田舎モンが来たと思って、後で文句言われないように位置関係を確認したといった風情です。そして西本願寺と呼ばないでわざわざ「お西さん」と言い直す。八坂神社ではなく「祇園さん」と言い、天皇陛下などとよそよそしく呼ばずに「天皇はん」と親しく呼びかける。それが地元・京都人のプライドなのでしょう。
 運「駅の北口に出ればバスが出てて、どれに乗っても、お西さんは通ります」
もとより、こちらとしては三人がバスに乗るのと、タクシーに乗るのとでは、大差ないだろうという判断です。
 運「来年は、南口からでもバスを出すのを考えてはると思いますけど」
 私「来年って、何かあるんですか?」
 運「えっ(とまた絶句)」
 私「いや、知りません、何ですのん?」
 運「親鸞聖人の750回忌ですがな。まさか檀家はんが知らはらへんとは・・・皆さん、寄付されてまっしゃろ」
 私「(むっとして)そういうことは両親がやっとります」
本願寺では、宗祖・親鸞聖人のご命日にあたる毎月15日・16日に「宗祖聖人月忌法要」を営み、祥月命日(1月16日)には、「御正当の忌日(命日)に聖人のご恩徳を報謝する法要」として毎年1月9日から16日まで8日間にわたり「御正忌報恩講」を修行し、50年毎の節目にあたる親鸞聖人の年忌法要を「大遠忌」と称して、特に大切にお勤めしているそうです。そして来年(2012年)は750回忌の「大遠忌」をお迎えするそうです(西本願寺HPより)。
 運「最近はお寺はんも、宗派のこだわりがなくなってしもて・・・」
と言って、浄土真宗のお坊さんが日蓮宗のお勤めをされる例を挙げて、仏教文化の衰退を嘆いておられました。これもまた京都人のプライドとして許されないことなのでしょう。
 客人に「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどすか」と勧めれば、それは早く帰れという(要は食事時間まで居続ける無粋を暗に悟らせる)サインだといったような、京都人独特の直接表現を避けるもって回った言い回しは有名ですし、京都文化に対する無理解を婉曲的に非難することもよく行われるところです。もっとも、私は学生時代の4年間、京都に通いましたが、露骨にそういった場面に遭遇したことはなかったのは、行動が限定的だったのはもとより、「学生さん」として要はまともに相手にされていなかったのでしょうか。笑いについても、京都は独特で、言わばお公家さんの含み笑いのようなところがあって、大阪の商人的なあっけらかんとした笑いとは対照をなします。同じ関西にありながら、京都と大阪とでは雰囲気が異なるのは、今もなお歴史の重み、文化が脈脈と息づいているからでしょう。
 そんな取っ付き難さのある京都ですが、私のような田舎モノ観光客には、その文化の一端を惜しげもなくひけらかしつつ味わわせてくれます。到着した日の昼は、駅のレストランで「にしんそば」を食べました。八坂神社界隈の四条通りで看板をよく見かけましたが、これまでついぞ食べたことがなく、今回、三十年ぶりに念願叶ったようなものです。ニシンの蒲焼きが無造作に麺の上に載せてあるだけですが、鰹節と昆布のきいたダシに溶け込んで、なかなかに味わい深い。夜はお決まりの京懐石を堪能しました。京大和屋さんという老舗で、四季折々の品を、素材の味を活かしつつ薄味ながらコクのあるダシとともに頂くのが、絶品。こればかりは筆舌に尽くし難い、至福の時でした。たまには京都に行こう・・・と心に決めました(田舎モノ!)。
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大阪

2010-09-27 00:08:03 | 永遠の旅人
 私の父は、昭和40年に故郷の鹿児島を離れて上阪(ジョウハンと読みますが、Wordで漢字変換されなかったので、念のため、地方から東京に出るのが「上京」であり、大阪に出るのが「上阪」)し、大阪で勤め上げ、今は埼玉で老後の生活を送っています。父の男兄弟は皆、同じように大阪に働きに出て、今も大阪に暮らしています。この週末は、父方の祖父の50回忌の法要で、父の兄弟が大阪で集まるというので、私も父母に付き添って(何しろすきだらけで田舎モンの老夫婦ですから心配でなりません)一泊二日で久しぶりの大阪に行って来ました。そこで、いくつか感じたこと。
 一つは、いくつになっても兄弟は兄弟やなあと感じ入りました。父は6人兄弟の二番目、男4人の内の長男で、その4人を見ていると、年を取るごとに見た目がなんだか互いに似て来るのが不思議でした。若さでギラギラしたところや職業柄などの角が取れてつるんと丸みを帯びると、実は土台は同じだった、といったところでしょうか。勿論、職業柄は異なり、父は公務員で堅実タイプ、次男坊は商都・大阪で自営業をやっていただけあって兄弟で一番さばけて見え、三男・四男はサラリーマンでこちらも堅実ですが、同じサラリーマンの私にとっては感覚が一番近いように感じました。そんな中で、長男と三・四男はちょっと無骨で不器用な薩摩人らしさが今もなかなか抜け切れないのに対し、次男は二番目の跳ねっかえりという一般的な傾向に加え、自営業故の「大阪のおっちゃん」らしく才気ばしって奔放に見えるのが印象的でした。かつて私が、東京生まれの家内を、結婚前に初めて大阪に連れて行った時、新幹線の京都駅を降りてローカルのJR京都-大阪線に乗り換えた車内で見た若者たちのどの会話も漫才に見えると、家内が感嘆していたのを今も思い出しますが、まさに次男のおっちゃんは、「大阪のおっちゃん」らしく、他の三兄弟のちょっと真面目くさった話にも茶々を入れる間合いと合いの手が実に大阪らしく、軽やかで笑いを誘う洗練されたところが見事でした。TVで見かける、出たがりで低俗な大阪芸人と違って、相手を一方的にけなすのとはわけが違う、謂わば神の第三者目線で相手のことも自分のことも笑いを取る生活感溢れる庶民の大阪らしさの妙に感動したのが二つ目です。
 そして三つ目が、父の兄弟たちの思い出話を聞くとはなしに聞いていると、日本の高度成長の縮図を見る思いだったことでした。住み慣れた田舎を離れ、都会で逞しく生きて来たおっちゃんたちが、日本経済の高度成長を支え、いわば国内移民二世の私たちが、それを受け継いで呻吟している・・・ほぼ三十年の世代差を肌で感じたひとときでもありました。
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近くて遠い国・続

2010-09-25 07:16:49 | 時事放談
 それにしても、憤懣やるかたない結末でした。
 9月29日の拘留期限を待たずに、中国漁船・船長が釈放されました。那覇地検は記者会見で「今後の日中関係を考慮すると、身柄の拘束を継続して捜査を続けることは相当ではない」と理由を説明し、「福岡高検および最高検と協議の上で決した」と強調していましたが、もとより「日中関係を考慮する」のは地検の仕事ではなく、誰が見ても、政治決着が図られたのは明白です。仙谷官房長官は「地検独自の判断だ。それを了とする。」などと述べて、飽くまで政治の関与には白を切らないことには、政府として面子が立たないわけですが、政治責任を回避したつもりでも、中国をはじめ諸外国はそうは見ないでしょう。国家として、中国の圧力に屈し、経済(観光とレア・アース)のためならプライドを捨てる、外交音痴の国と見られて(今に始まったことではありませんが)、末代の恥の上塗りとなりました。
 中国は、よくもなりふりかまわぬ嫌がらせを仕掛けてきたものです。レア・アースの日本向け輸出を事実上停止し(本当はレア・アースを日本が買わなくなると困るのは中国のはずですが)、フジタの社員4人を粛々と国内法に則って拘束すると脅す(フジタの役員が言っていたように事実関係を確認しなければ何とも言えませんが)など、後から既成事実を積み上げてニッポンを追い詰める厚顔無恥ぶりは、むしろ天晴れと言うべきです。ニッポンは、うまく国際社会に訴えれば、中国の非道が明らかになったでしょうに、最後の最後まで、日本が違法に船長を拘束し中国の主権を侵害したとする中国の主張にいちいち反論することはありませんでした。
 今回の中国の行動について、いろいろな人が勝手な分析を述べていますが、東シナ海における海洋権益(水産資源や海底資源)や制海権を確保することが直接の目的だったことは間違いありません。さらに事情通からは、漁船を使って挑発する“自作自演”は、国民の鬱積した不満を外に向けさせようとするがため、中国は領土問題を国民のガス抜きに利用しているだけだ、という指摘もあります。中国では、住宅、雇用、医療、教育、どれをとっても矛盾だらけで、中国国民の不満は爆発寸前だというわけです。そんな内憂を抱える中国政府に対して、日本政府との水面下での交渉があったのかなかったのか、あっても大幅に対応が遅れ、温家宝首相のトップ発言に至ってしまっては、もはや中国として後戻り出来ないことは明白でした。
 キリスト教の中の宗派を見ればわかるように、近いほど、違いを憎しみ合うのが世の常です。ハンチントン教授が別の文明に分類したように、日本と中国は全く別ものです。それは日本が中国という古代の大文明の周辺にあり、影響を受けながらも、韓国とは違って、併合されたり乗っ取られたりすることなく、古来アイデンティティを保ち続けたからにほかなりません。良くも悪くもこれが隣人であり、今後益々、世界の中で存在感を増し続けるこの厄介な隣人と、付き合っていかざるを得ない運命を嘆きたくなります。そしてそれ以上に嘆かわしいのは、実は、国益のぶつかり合いという国際政治の修羅場であっさり圧力に屈する同胞の愚、でありましょう。
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中秋

2010-09-23 10:16:38 | 日々の生活
 昨日は中秋でしたが、東京ではこの夏71度目の真夏日を記録するほどの暑さとなりました。
 今年は本当に暑い夏で、1898年の統計開始以来、113年間で最高だったと発表されました。偏西風が北に蛇行し、勢力の強い太平洋高気圧(こちらも気象庁がデータを解析するようになった1979年以降で最も勢力が大きかったようです)に覆われたことと、オホーツク海高気圧などの影響がほとんどなかったことが原因のようですが、東京ではこれにヒートアイランド現象も加わっているのでしょう。幸いこの記録的な猛暑は打ち止めのようですが、昨晩は折からの曇り空のために月を拝むことは出来ませんでした。
 さてその満月は、年に12回乃至(閏月がある年は)13回あるのに、どうして中秋だけが名月として愛されてきたかというと、一つには秋のこの季節に月の高さが月見に頃合いになること(天球上の通り道は太陽とほぼ同じで、満月は地球から見て太陽と正反対に位置しますので、太陽とは逆に夏は低く、冬は高くなります)、そうであれば春も同じ高さになるわけですが、春は朧月夜などと呼ばれるように、空気が澄んでひときわ明るく美しいお顔を見られるのは秋だというわけです。
 月見ではありませんが、「月」ということで思い出されることがあります。
 高校時代、国語・古文・漢文を担当されたオバサン先生は、折に触れ広中和歌子さんをライバル視するような、ナラジョ(関西では奈良女子大学のことをこう呼び慣わします)を出た才媛で、語り口は関西弁の柔らかいオブラートに包まれながら、話す内容にはことごとく毒を潜ませる毒舌家で、そうしたアンバランスと相俟ってちょっと浮世離れした風雅なところもあるものですから、お子さんがいないご自宅に茶室があるなどと聞くとなおのこと、私たち小僧には、ある種の近づき難い貴さのようなものを感じさせたものでした。
 さて、その一目置かれた先生の授業で、俳句をひねり、作文や感想文などの課題を提出し、返ってきた答案を見ると、「ゆき」とか「つき」とか「はな」などと、流麗な赤ペンの文字が添えられています。ご存知「雪月花」は、白居易の詩の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時、最も君を憶ふ)」から取った言葉で、自然の美しい景物を指し、三景、三庭園においても、雪の天橋立、月の松島、花(紅葉)の宮島と言われ、雪の兼六園、月の後楽園、花(梅)の偕楽園と言われて、それぞれに趣きがあって美しい。同じように、私の作品もそれなりに「ゆき」「つき」「はな」を連想するような趣きを感じ取って頂けたのか、風雅やなあと、○×式のテストではない、それぞれに何がしかの価値を認める絶対評価になっているらしい視点が新鮮で、さすが先生だと感心し、騙されたような、そのまま騙されていたいような、俄かに嬉しい気分にさせられたものでした。
 ところがそれが地面からどれだけ離れているかをもとにした相対評価に過ぎないことを知らされたのは、年度末のこと。天空に浮かぶ「つき」が最も優れ、「はな」はそこそこ、「ゆき」は地べたを這っているというわけです。あな、あさまし。今さらどれが「つき」でどれが「ゆき」だったかを検証する気にもなれず、一年間、騙され続けた自らの思い込みを笑うしかありませんでした。
 月を見るたびにさめざめと泣くのはかぐや姫ですが、私は月を見るたびに関西弁のオブラートに包まれた毒舌先生を思い出します。
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近くて遠い国

2010-09-22 00:50:00 | 時事放談
 今月7日、尖閣諸島近海の日本の領海内で、中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件で、日本は、国内法に則って粛々と漁船船長を公務執行妨害容疑で逮捕し、さらに勾留を10日間延長したところ、起訴を視野に入れていると見られることから、中国側は反発を強め、反日デモが繰り広げられる模様が、日本のメディアでも、連日、センセーショナルに報じられています。
 これに対し、中国通の知人は、2005年の反日暴動ですら一部の右翼の仕業であり、良識ある多くの市民は冷静だったので、今回も似たようなものだろうと気にしていませんでした。世間でも、識者を中心に、日中は経済的に緊密な補完関係にある以上、日中の対決がエスカレートすることはあり得ないし、せいぜい反日が反政府に転じることがないよう、中国政府としてはそれなりに強行姿勢を見せる必要がある程度だろうと楽観して来たところがありました。
 ところが、中国政府が打ち出した日本への嫌がらせとも言える対抗策を見ていると、駐中国日本大使をわざわざ休日の深夜に呼び出して抗議したのに始まり、東シナ海ガス田の共同開発をめぐる交渉の延期、日中間の閣僚級以上の交流停止、航空路線の増便をめぐる航空交渉の中止、日本への中国観光団の規模縮小など、反応は予想を遥かに上回る過剰なものです。中国が大国としての自画像に必ずしも自信がもてないことの裏返しではないかと私は思いますが、中国が「核心的利益」と呼び、自国の内海化を進める南シナ海に加えて、東シナ海をも、力を背景に、本気で勢力圏に置こうとする傲慢さが鼻につきます。
 こうした日中関係、とりわけ中国側の過敏な反応が、日本人の対中感情に与えるマイナスの影響は小さくありません。
 言論NPOが実施したアンケートがあります。日中双方の一般市民は余りにお互いのことを知らな過ぎるようで、一般の日本人の7割は中国のことをいまだに「社会主義、共産主義」と認識し、一般の中国人の4割近くは日本のことをいまだに「軍国主義」と認識しているというのですから、驚かされます。5年前の対日暴動から、日本人・中国人の対中・対日それぞれの感情は改善しているようですが、それでも、日本人の中で、中国に対して良くない印象を持っているのは11%、どちらかと言えば良くない印象をもっている61%と併せると、実に72%は余り良くない印象を持っており、他方、中国人の中で、日本に対して良くない印象を持っているのは19%、どちらかと言えば良くない印象をもっている37%と併せると、依然56%は余り良くない印象を持っているようです。また今後の両国関係が良くなっていくまたはどちらかと言うと良くなっていくと考える日本人は41%、中国人は60%と、余り高くありませんが、両国関係は重要またはどちらかと言うと重要と考える日本人は82%、中国人は93%にも達し、理屈ではそれなりにお互いを認識し合っていることが読み取れます。
 このアンケートで気づくのは、日本人の対中感情の方が、中国人の対日感情よりも格段に良くないことです。これは中国経済が日本経済を凌駕しつつある現状に対する感情的な反応を映していると言えなくもありませんが、基本的には、日本人の対中感情が、最近の中国による軍拡、餃子事件、領土問題、食料や資源確保などに見られる自己中心的な行動に左右され、なかなか改善しにくい状況にあるのに対して、中国人の対日感情の多くは歴史問題に起因し、交流の拡大に伴って改善し得る性格のものだからと考えられます。
 今回の尖閣諸島を巡る中国の過剰な反応は、朝貢外交と見紛うような低姿勢の小沢さんが党代表戦に敗れ、中国に対して厳しい前原外務大臣が就任したこととは無関係ではなく、アメリカの識者を中心に、日本の外交姿勢をテストしているとの見方があります。中国では、円を買って円高に追い込むべきとの過激な論評も見られるのは、ちょっと見苦しいほどであり、日本はこうした挑発に乗ることなく、圧力に屈することなく、毅然とした対応をして欲しいと思います(国際世論を味方につけて!)。
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円高

2010-09-18 13:29:36 | 時事放談
 菅さんが再選された翌日に、実に6年半振りとなる為替介入が行われ、単独介入だから長続きしないだろうと言われながら、ここのところ85円前後に戻したままで推移しています。ビジネスに冷たいと陰口を叩かれがちなオバマ大統領は、それを打ち消すかのように5年で輸出倍増の花火を打ち上げ、ここ暫くはドル安の手を緩めることはなさそうなので、日本としても、腰を据えて、という意味は、注射のような介入でよしとするのではなく、改造内閣のもとで明確な中・長期の国家戦略を打ち出し、力強い経済・財政運営を進めて欲しいものです。
 さて国家戦略と言ったときに問題になるのは、何が国益かということでしょう。端的に円高が良いのか、良くないのか。当然、国の経済構造やその時々の経済情勢に左右されて一概には言えませんが、自国通貨が強いことを好まない国は、一般的には少ないのではないでしょうか。日本においても、円高メリットを享受すべしと主張する人たちによれば、円高で輸入価格が下がると、食料やエネルギー価格の値下がりに繋がり、輸入業者だけでなく小売ひいては消費者にもメリットがありますし、国内にとどまった話だけではなく海外に積極的に打って出る契機にもなり、個人にあっては海外旅行がお得になりますし、企業もM&Aなどの攻勢を仕掛けやすいと喧伝されます。これが円安に反転すると、海外から高い買い物をさせられることになりますし、国内の資産を外資に食い散らかされることにもなりかねません。しかしこれまでのところ日本がそうならなかったのは、圧倒的に強い輸出力を誇って来たからで、むしろ国内経済の実態(購買力平価)以上に円の実勢レートは高めに張り付いて来たと言えます。
 そこで更に議論になるのが、日本は今もなお輸出主導型経済なのかどうか、つまるところ円高を悲観するには及ばないのかどうか、更に言うと円高を克服しなければならない(パラダイム転換しなければならない)のかどうか、ということです。
 よく引用されるデータが輸出依存度(国内総生産に占める輸出額)で、ちょっと古いですが、総務省統計局のサイトからリーマン・ショック前(2007年)のG7各国データを拾ってみると、高い順にドイツ40%、カナダ29%、イタリア24%、フランス21%、日本・イギリス16%、アメリカ8%となっています。日本は2002年から2007年の景気拡大期に、輸出依存度を高めていながらこのレベルですから、総じて低い方の部類に入ると言えます。アジアの国はもっと高くて、韓国35%、中国36%、香港やシンガポールに至っては150%を越えています(各166%、179%)。こうした字面を見て、日本経済はもはや輸出依存型ではないと判断するのは早計だろうと思います。そもそもユーロ圏として一体感が強く、相互依存関係が進んだ欧州諸国にあっては、輸出・輸入が伝統的な意味(あるいはユーロ圏以外)での輸出・輸入と等価とは言い難くなっており、ユーロ圏内取引を除いたユーロ圏全体の輸出依存度は17%だそうです。それはカナダも同様で、輸出の8割をアメリカに依存しているそうです。こうしてみると、経済のステージとしては製造業の空洞化が叫ばれて久しく金融経済型で先行するアメリカという極端と、国内経済が限られているため少数精鋭の財閥系企業が外需に依存する韓国や、世界の工場として台頭する中国という極端との間にあって、日本の輸出依存度は必ずしも低いとは言えないでのではないかと思います(もっとも、その日本も、中国・韓国をはじめとするアジア経済圏との結びつきが強く、単純比較は難しいのですが)。
 さらに数字だけでなく、その中身を見る必要があるように思います。とかなんとか言いながら、手元にデータがないので私の想像でしかありませんが、輸出を支える企業の属性は、韓国や中国に比べると、ずっと零細ではないか。なにしろ日本の企業総数430万超の内、中小企業基本法の定義に基づく大企業(常用雇用者300人以上、卸売業・サービス業の場合は100人以上、小売業・飲食店は50人以上)は僅かに1万2千社(0.3%)に過ぎません。もちろん、トヨタを代表とする大企業の輸出額は依然規模が大きいには違いありませんが、トヨタをはじめとする大企業の多くはプラザ合意による円高の進展や1980年代に過熱した貿易摩擦により海外生産を進めてきました。こうして大企業の輸出を支える部品や金型・プレスなどの製造装置などの裾野産業としての中小企業だけではなく、中小企業自体の輸出も少なくないだろうと想像されます。これら中小企業の輸出の絶対額は大企業に比べれば小さいには違いありませんが、関連する企業数や従業員の総数は無視できないのではないでしょうか。
 民主党政権は、過去一年、今回の為替介入に至るまで、円高に対して無策でした。それは、円高でも掛け声だけの内需拡大、すなわちサービス業をはじめとする内需型産業を伸ばすことによって日本経済を立て直すのだといった強い信念に裏打ちされたものではなく、雇用さえ守られれば企業(とりわけ輸出を手掛ける大企業)のことはどうなっても構わないといった消極的な思考に過ぎなかったのではないかと思います。確かに野党の時代には、自分の好きなこと、得意なところに集中して、その一点において攻撃していればそれで済む面がありました。自らの支持基盤である労働組合や日教組の利害ばかりを気にしてご機嫌を取っていれば良い。さすがに政権党の座に一年間おさまって、まがりなりにも国家運営を手掛けざるを得なくなると、労働組合だけではなく経営側にも、また農家や零細企業だけではなく大企業にも、更に中国や韓国をはじめとするアジア諸国だけではなくアメリカやヨーロッパにも、全てにわたって目配りが欠かせませんし、それなりに(全てとは言いませんが)守って行かなくてはならなくなります。攻撃よりも防御は難しい。それが政権党の重みであり、民主党もようやくそのことに気づきつつあります。
 これからの日本をどう描くのか。これは自分の周囲しか見えていない私たち国民が手掛けるには限界があり、政治の仕事の一つと言えるかも知れません。ただ一つ言えることは、日本は江戸時代のように鎖国をして生きて行けるわけはなく、好むと好まざるとに係わらず競争環境の国際社会で生き抜くしかありません。そのとき、輸出立国を見直して内需型にするといった、1か0かの内向きの発想ではなく、不得意な分野では諸外国を活用して輸入を増やしつつも、自ら得意とする分野はより強くして輸出を伸ばし、経済全体の効率を高めることが重要です。今も既に輸出と輸入はほぼ均衡していますが、輸出も輸入も伸ばすことにより、国際社会と相互依存関係を密にすることが、資源の乏しい貿易立国の姿であり、安全保障上の緊張を緩和することにも繋がります。その時、民間の活力を活かせるような環境を整えるのは政治の責任であり、そういう意味でも行き過ぎた円高は是正する必要があります。
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政争(5・完)一難去って

2010-09-15 00:07:53 | 時事放談
 民主党代表選は、菅さんが国会議員票では劣勢という下馬評を跳ね返し、党員、地方議員、国会議員の全てで過半数を取るという完全勝利で、新しい党代表に就きました。
 早速、組閣と党人事に話題が移りつつありますが、今の景気やデフレや円高は、民主党代表選どころではなかったはずだと正論を吐いて憤慨していたところで、結局、政局好きの日本人としては興味が尽きません。小沢さんの処遇は、現時点では白紙と言いながら、選挙戦でここまで挙党体制を謳ってきた以上、党分裂の大義名分を与えないためにも、それなりの処遇を考えざるを得ないのではないでしょうか。こうして見ると、小沢さんとしては、党代表選に負けたところで、小沢外しを撤回させることが出来るとすれば、所期目的は達成したことになります。むしろ首相を続投する菅さんの方が、厳しい経済・財政運営を背負って立たねばならず、やっと党代表選に勝ったところで、一難去ってまた一難といったところです。
 別に、タイのようになれとまでは言いません。
 日産が新型「マーチ」をタイから逆輸入しているのは以前にも触れましたが、日産と同様に三菱自動車も、次世代小型車をタイで生産し日本に輸出するのに約400億円を投じる計画だそうです。マツダは米フォードとのタイでの合弁会社に約300億円を投資し、来年半ばから次世代ピックアップトラックの生産を始めることを発表しました。スズキは2012年春の稼働を目指して、200億円を投じてタイに新工場を建設し、9月に発売する新型「スイフト」などを年間10万台規模で生産するそうです。トヨタは既にタイで、新興国向けの戦略車である「IMV」を100万台以上生産して輸出した実績がありますが、年内にはハイブリッド車「プリウス」の生産を開始し、海外に輸出する計画だそうです。このように完成車メーカーがタイでの現地生産を拡大するに伴い、タイヤ・メーカーのブリジストンやベアリング大手のミネベアをはじめとする様々な部品メーカーのタイでの大型投資も目白押しです。タイ政府による優遇策が投資の呼び水になっているようですが、これだけ自動車産業が集積すると、熟練した生産技術者や開発技術者が育つなど、技術の蓄積が進み、好循環を支えます(以上、日経ビジネスより)。
 党代表選中、成長戦略を問われた菅さんは、企業は内部留保を溜め込まないで使うべきだと暴言を吐いていました。企業は、積極的に投資したくなる環境であれば、言われるまでもなく投資します。投資を誘発しない環境であることが問題視されていることに早く目覚めて欲しい。また、一に雇用、二に雇用、三に雇用と叫んでいましたが、雇用は派生需要であって、順番を間違えてはいけません。経済成長の先に雇用の拡大が続くわけで、雇用を先ず目指したところで、官(菅と言っても良いですが)の力では高が知れていることに早く気づくべきです。短期的には財政を悪化させるのを覚悟して、規制緩和や法人税減税などの思い切った構造改革を期待します。
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政争(4)究極の選択

2010-09-14 02:35:35 | 時事放談
 いよいよ明日に迫った民主党代表選ですが、わが国の首相が決まると言うのに、どうしてこんなに投げやりな気持ちになるのでしょうか。
 ワシントンポスト紙の社説は、小沢さんの「アメリカ人=単細胞」発言を根に持っているのか、代表選について「日本は三ヶ月前に選んだ新首相を放り出す可能性がある」と、トゲのある言い方で小沢さん有利を伝えているようです。共同通信が実施した電話世論調査でも、菅内閣支持率は54.7%と、前回から6.6ポイント上昇したそうですが(不支持率は4.7ポイント減の31.5%)、この時期に際立った手柄があったわけではありませんので、首相を頻繁に変えるなという声か、あるいは小沢さんへの反発か、いずれにせよ消極的ながらも支持が増え続けているのは、一部で広がる小沢さん待望論への警戒感が強まっているものと言えそうです。
 いずれが勝つにせよ、どうも奇妙な感じを拭えません。民主党という一政党の代表選挙でありながら、実質的に一国の首相を決める戦いなわけですが、立会演説を聞くことは出来ても、投票の局面で、私たち国民の大多数は置き去りです。そのくせ、外国人でも年会費わずか2000円でサポーター、6000円で党員になることができ、代表選挙に参加できるというのですから、民主党は一体誰のための政治をやろうとしているのか、どう考えても妙です。また、同じ政党内でありながら、まるで擬似・政権交代であるかのような戦いを、コップの中でもない、それこそお猪口の中で繰り広げている、その実態は、現職の総理大臣に対して、同じ党から内閣不信任案を突きつけているようなものであるのも、なんだか妙です。それならばいっそのこと解散をしてあらためて国民の信を問えばよいと思うのですが、そこまではしない。飽くまで昨年夏の政権交代を是として、そこを基点にリセットしようとしているだけです。さらに実際にそれぞれの政策を比べてみると、個別には多少の食い違いはあるにせよ、足を引っ張り合うほどのものなのかどうか疑問であるという点からも、妙です。政策の違い、ひいては日本をどう立て直すか、日本はどんな国を目指すべきかといった哲学の違いは見えて来なくて、一体何のために争っているのか、ただ今後の政局を巡って仲間内で争っているとしか思えません。
 こうして冒頭の疑問に戻るのですが、きっと日本の政治の選択肢が余りに乏しくなったからではないでしょうか。
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六十五回目の夏(3)敗戦

2010-09-11 14:29:17 | たまに文学・歴史・芸術も
 前回は、集団で異常な夢を見ていただけのことではないかと書きました。確かに、大いなる共同幻想であったことは間違いありません。今では、勝算のない無謀な戦争に突入したというのがほぼ定説ですし、当時においても、開戦直前の夏、国家主導で総力戦研究所という組織に軍人・文官・民間から36名の若手エリートを集め、「日米もし戦わば」の命題のもとに数ヶ月にわたって行わせたシミュレーションによれば、奇襲攻撃で緒戦は勝利するが、物量において劣勢な日本に勝機はなく、長期戦となって敗戦に至る…という、驚くほど史実に近い結論に至っていたことが「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹著)の中で明らかにされています。
 一方で、一種の全体主義国家で国民の誰もが窮乏をものともせず総力戦を覚悟し得る日本(いわばハリネズミ)と、民主主義国家で個人主義が根強く、戦争への関与には世論の批判もあって限定的とならざるを得ないアメリカ(いわば巨象)とでは、戦争に割ける国力の単純比較は難しい(実際に太平洋戦線において物量にモノを言わせ戦力が逆転し始めたのは中盤以降のことで、緒戦の躓きがあったればこそ)。しかもアメリカは、大西洋と太平洋とに戦力を二分され、更に西南太平洋にアメリカ軍を引き付けて戦う日本の戦法に従って、地の利がないのも明らかでした。「太平洋戦争は無謀な戦争だったのか」(ジェームズ・ウッド著)の中で、このアメリカの歴史学者は、開戦へと日本を導いた決断は必ずしも非合理的とは言えず、むしろ追い込まれた状況下で考え抜かれたベストのタイミングだったこと、その後いくつかの戦局でもっと巧妙な戦い方が出来たはずであることを検証し、壊滅的な敗北を免れることは可能だったのではないかと述べています。もとより当時の一般の人々は大した情報を持っていたわけではなく、戦争はデータだけではなく、やってみなければ分からないところがあると主張する人がいてもおかしくない状況だったのでしょう。
 歴史は、将来に活かしてこそ歴史としての意味がありますが、現代の目で裁くべきではないと思ってきました。結果を知る現代人の目線は所詮は後知恵に過ぎないからで、当時の人たちが必ずしも必要十分な判断材料をもっていたわけではない中で下した意思決定には一定の敬意を払ってしかるべきでしょう。また、大きな事件の後は価値観が大きく変容を来たすこともあり、そもそも同じ土俵で議論すること自体が困難なこともよくあることです。たとえば、本来、喧嘩は両成敗であり、戦争は外交の延長に位置づけられ、「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」(クラウゼビッツ)のが伝統的な考え方ですが、第一次大戦を機に、侵略戦争を新たに定義し、戦争責任を追及するといったように、戦争や平和に対する考え方は変りつつあり、戦間期はその過渡期にありました。逆に言うと新旧混交の時代であり、現代と比較すれば、空気はかなり異なっていたことでしょう。自由や民主主義に対する見方に至っては、現代とは格段に違っていたことでしょうし、戦後の民主教育の名のもとに、左翼的思想が私たちの戦争観を歪めてきました。
 前回引用した「日本のいちばん長い夏」(半藤一利編)における座談会をきっかけとして、同じ作者が、昭和20年8月14日の正午から翌15日の正午までの24時間における主だった政策決定者の行動を時系列的に追いかけたドキュメンタリー「日本のいちばん長い日」(半藤一利著)を読むと、開闢以来負けたことがなかった日本の「敗北」を巡って、政権を取り巻く人々の心が大いに揺れていたことが分かります。それはまさに戦争観、更には国家観や人生観のせめぎ合いでもあったでしょう。私たちはともすれば海軍提督三部作(「米内光政」「山本五十六」「井上成美」いずれも阿川弘之著)に代表されるように、開明派の海軍に対する固陋頑迷な主戦派の陸軍という単純な図式で捉えがちで、現に終戦工作においても、和平を説く鈴木首相・海相・外相が、飽くまで徹底抗戦にこだわる陸相をなだめる構図ですが、ここでのキーマンである阿南陸軍大臣が、なかなかに印象深い人物として描かれています。
 ポツダム宣言受諾にあたって、阿南大臣は、「無条件」ではなく、①保障占領は出来るだけ小範囲で短期間に、②武装解除と③戦犯処置は日本人の手に任せること、という三つの条件に拘ってなかなか譲ろうとしなかったのは、軍人たる部下のプライドを気遣ったものだろうと想像されます。終戦の詔勅(玉音放送)の文言を閣議で協議した際、当初、「戦勢日に非なり」とネガティブに表現されていた戦局見通しを、阿南大臣は決して認めようとせず、「戦局必ずしも好転せず」に変えるべしと最後まで譲らなかったのは、大本営の情報操作を最後まで徹底すると言うより、戦場で艱難辛苦に耐えつつ、まさに降伏を受け入れる直前まで戦い続ける兵士たちの気持ちを慮ったものだろうと想像されます。阿南大将のもとに陸軍は一つにまとまり、阿南さんの心一つでどうにでもなる態勢だと言われながら、陸軍大臣の職を辞することなく、終戦の覚悟を決めた鈴木首相を支え続け、威風堂々、陸軍としての立場は主張しつつ、部下の暴走(クーデター)は決して許さず、承詔必謹の方針を貫いて、最後はひとりで責任を取って自決されました。自決の数時間前に陸軍省・軍事課長に「若い立派な軍人をなんとか生き残るようにしてもらいたい」「軍がなくても日本の国は大丈夫、滅びるものか」と言い残し、その軍事課長は、戦後、復員兵の手配に尽力したといいます。皇国不滅を信じて徹底抗戦にはやる軍隊を統率し、無条件降伏という軍人として最大の屈辱を受け入れさせるのは、私たちには想像し得ない難しさがあったろうことを思うと、ここに軍人の一つの鑑を見る思いです。終戦当時の首相と陸相である鈴木貫太郎と阿南惟幾は、昭和4年夏から8年夏までの4年間、侍従長と侍従武官として昭和天皇のおそばにつかえ、三人が互いによく知る仲だったというのが歴史の妙だというようなことを、半藤一利さんは「~夏」の方で述べておられますが、歴史は、時にこうした気まぐれを潜ませるものなのですね。
 戦後世代の私たちにとって、8月15日をいくら「終戦」記念日と呼んだところで、「敗戦」がア・プリオリなわけですが、それまで「敗戦」の二文字を知らなかった人たちが、「無条件降伏」を決断し、日本国及び日本人の運命に重大な危機を及ぼしかねない「敗戦」を受け入れることの重みを、僅かながらも垣間見て、「戦争」を見る視点がちょっと変った私でした。
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