風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

近頃のロシア

2024-02-20 02:25:58 | 時事放談

 ロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が刑務所内で死亡したと、インタファクス通信がロシア連邦刑執行庁の情報として報じた。まだ47歳という若さだった。

 これを受けてロシア全土で追悼行為の輪が広がっているらしい。それが、ナワリヌイ氏ゆかりの場所ではなく、KGB本部があった場所(=FSB本部の前)に設置されたソ連時代の政治弾圧の犠牲者を追悼するモニュメント「ソロベツキーの石」だったり、赤の広場のすぐ近くのアレクサンドル庭園にある無名戦士の墓だったりするから、当局もおいそれと手が出せないらしい。呼びかけがあれば当局に拘束されかねないが、自然発生的に人々が記念碑に集まっているらしい。

 ナワリヌイ氏は、弁護士であり政治活動家でもあって、2009年以降、プーチンやメドベージェフ政権を批判する活動で注目されて来た。昨年暮れに連絡が取れなくなったと騒がれたら、モスクワ郊外から北極圏の僻地の収容所に移送されたことが確認された。2020年にも、シベリアからモスクワに戻る機内で体調が急変し、ドイツの病院で治療を受けたところ、神経剤の一種ノビチョクによる毒を盛られたとされた。当時にしても今回にしても、都合が悪い人物を消すプーチン政権の手にかかったと考えるのが自然だろう。プーチン政権にしても習近平政権にしても、最近の権威主義体制の異形はとどまるところを知らない(もっとも、習近平のやることは、中国共産党の勝手ながらも法治の体裁をとっているという意味では一緒にして欲しくないと思っているかもしれない)。

 つい先週、日経にラトビアの外相(元首相)の論考が掲載された。ロシアは沸騰したヤカンのようなもので、外から内部に影響を及ぼすことは出来ない、ならば、周囲の防御を確実にするため、私たちはロシアを封じ込めていく必要がある、と。再び脅威として台頭し始めたロシアに対する苛立たしさを抑え切れない様子だ。横暴な大国と地続きの小国にとっては切実だろう。その根拠として二点。一つはファシスト哲学で、ラトビアの外相は、19世紀後半に生まれた哲学者イワン・イリインを挙げた(そう言えば本人の身代わりに娘を殺害されたアレクサンドル・ドゥーギンも同氏の『失われた純粋なロシア的精神』を称揚していた)。近年、ロシアでその著書が復活・再版されて、プーチンだけでなくロシアの戦略エリートの考え方に浸透しているらしい。その内容は、国家を偉大にするために、ロシアには隣国を征服する権利があるという、今どきなんとも大時代なものだ。もう一つは政治文化で、ロシアでは、妥協は対立を解決する美徳ではなく、弱さの表れと見做される、という。異民族(とりわけ中央アジアの遊牧民族)の侵略と支配を受けてきた歴史的なものを感じさせる。この点では中国にも共通するものがある。

 いろいろ考えさせられる。

 一つは、これだけ周囲の国々から厄介視され、それもあって、内に向けては偏執的なまでに反体制の策動に怯える独裁者の姿だ。権威主義体制の統治は盤石に見えて、正当性に関しては脆弱さと背中合わせだ(民主主義体制は何かと不安定でも国民の負託を受けているという一点で安定的であるのと対照的だ)。それはもう一つの、年齢にも関係するかもしれない。プーチン71歳(ロシア人男性の平均寿命68.2歳)、習近平70歳(中国人男性の平均寿命74.7歳)で、独裁者とは言え持ち時間は最大でも本人の寿命までであり、最近の誇大妄想的とも言える冒険主義や疑心暗鬼は年齢と無縁ではないだろうし、遠からず権力の移行があり、混乱があるかもしれない。ついでに、バイデン大統領81歳、トランプ元大統領77歳は、ともにアメリカ人男性の平均寿命76.3歳を超えており、さらに、クリントン元大統領77歳、ジョージ・W・ブッシュ元大統領77歳と、アメリカではここ30年間、オバマ元大統領62歳を除いて、1942~46年の間に生まれた方々が国家の顔となってきた。男性だからとか、女性だからと言ってはいけないように、年寄りだから悪いとは言わないが、あのアメリカにして余り健全だとは思えないが、余談だ。

 もう一つ、そうは言っても3月のロシア大統領選は無風の出来レースになってしまうということだ。そして私たちは年齢からくる予測不可能性に脅かされることになる。

 

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マエストロに捧げるG線上のアリア

2024-02-13 03:02:20 | スポーツ・芸能好き

 小澤征爾さんが6日、心不全で亡くなった。享年88。

 「世界のオザワ」について、クラシックが苦手な私に言うべきことはない。朝日新聞から引用する。「カラヤンに弟子入りし、1961年にはバーンスタインにも才能を認められ、ニューヨーク・フィルの副指揮者に。ウィーン・フィルやベルリン・フィルなど世界の名門楽団と共演を重ねた。(中略)カナダのトロント交響楽団を経て70年、米タングルウッド音楽祭の芸術監督とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に。73年から29年間、ボストン交響楽団の音楽監督を務めた。2002~10年にはオペラの最高峰、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。02年には日本人指揮者で初めてウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに登壇した。」(2月9日付)。なんと華々しい経歴だろう。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、SNSに、指揮をする小澤さんの写真と共に「ベルリン・フィルはかけがえのない友人であり、当楽団の名誉団員でもある小澤征爾に心からの哀悼の意を表します」と日本語で追悼のコメントを投稿したそうだ。フランスのフィガロ紙は「クラシック音楽の魔術師、小澤征爾が死去」との見出しを掲げ、ルモンド紙は「西洋で指揮者として初めて成功したアジア人だ」と伝えたらしい。西洋音楽へのコンプレックスがある日本人にとって、これほど誇らしいことはない。

 私はただ、人生で唯一の接点である1997年の夏の一日を思い出すだけである。

 場所はボストン郊外、森の中のタングルウッド。ボストン交響楽団の演奏の中央に小澤征爾さんがいて、芝生が広がる広場では、人々が思い思いに音楽を楽しむ。芝生で寛ぐ若者たち。テーブルと椅子を持ち込んで、ワインを片手に耳を傾ける老夫婦。そして、アメリカ駐在中の私は、同僚家族とともに、レジャーマットを敷いて子供たちを遊ばせながら、ピクニック気分。なんと贅沢な時間だろう。

 1973年から2002年まで29年間にわたって音楽監督を務めたボストン交響楽団では、9日午後の公演で、小澤さんが生前、友人が亡くなったときに別れの曲として贈っていたというバッハの「G線上のアリア」が楽団員によって演奏され、そのまま静かに演奏の手をとめて黙祷を捧げたそうだ。そして、ボストン交響楽団が拠点とする音楽ホールでは、建物についた楽団の頭文字の「BSO」という看板の「B」の字の電気を消して「SO」とすることで小澤さんへの哀悼の気持ちを示したという。

 あの夏の日は永遠に。ご冥福をお祈りして、合掌。

 

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