プーチン大統領は、ウクライナ東部二州にある自治共和国の独立を承認し、その安全確保のために派兵を決めたのに続いて、首都キエフなどの軍事施設への攻撃を始めた。東部二州の停戦を約したミンスク合意だけでなく、核放棄後のウクライナの安全保障を約したブダペスト覚書(1994年)まで破るに至った。そこまでやるか・・・という無力感に囚われてしまう。これはウクライナ危機であるとともに、それを阻止し得ない西側世界の危機でもあるように思う。
最近、プーチン氏は妙ちくりんな歴史書に執心しているとか、自身も昨夏に歴史論文をものして、ロシアとウクライナとの一体性を強調したとか、なんだか彼の精神状態を危惧する声も聞こえて来るが、一種の陰謀論になりかねないので、とりあえず措いておこう。もともと勢力圏(sphere of influence)の考え方が根強いロシアであるが、それにしても、執念深いまでにNATO不拡大、特に緩衝地帯としてのベラルーシとウクライナへの固執を唱える被害妄想は一体、どこから来るのだろうか。辛うじて察せられるのは、そこで主役を演じるプーチン氏のメンタリティが、冷戦時代のKGBの頃のままなのだろうということだ。ロシア=プーチン=マフィア国家と短絡する人もいるが、分からないではない。中国という国家が中国共産党に乗っ取られているように、ロシアはプーチン氏とその一味(元KGBや犯罪組織などの取り巻き)に乗っ取られているかのようだ。
確かに、ロシアと言い、中国と言い、権威主義国はこんなものかと、思い知らされる。自作自演の動画まで用意し、偽情報をばら撒いて、自らの行為を正当化するのに余念がない。かねてソ連解体は「20世紀最悪の地政学的惨事」と語ったように、プーチン氏は旧ソ連という帝国復活を夢見ているのだろう。このあたりは、帝国主義列強に簒奪された19世紀中国の復讐を決意し、「中華民族の夢」を語る習近平氏に通じるものがある。私たちは言わば歴史の報復に直面しているのだ。
そしてロシアにしても中国にしても、西側・民主主義諸国において、行き過ぎたグローバル化のもとで格差が拡大し、イデオロギー的に社会が分断され、追い討ちをかけるようにパンデミックで混乱する様子を見て、「『西側の衰退』という物語を信じている」(前フィナンシャルタイムズ編集長ライオネル・バーバー氏)のは間違いない。バーバー氏は、「プーチン氏は、西側の民主主義諸国が長期間の対峙に備えた胆力を持ち合わせていないことに賭けている」とも指摘される。その行動が予測不可能だったトランプ氏はもういないし、その暴れ馬トランプ氏をよく調教した安倍氏も、調整に長けたメルケル氏もいない。バイデン大統領は、早々に派兵することはないと言い切ってしまったし、アフガニスタンから慌てて撤退したように、もはや中東やヨーロッパではなく東アジア(対中抑止)に注力したがっている(すなわち二正面も三正面も同時に対応できない)のは明らかだし、長引いたイラク・アフガニスタン戦争後の厭戦気分が横溢するアメリカ社会では、直接の影響が及ばない地域の出来事に対して、世論は冷淡だ。もとより国際連合、とりわけロシアという当事者を含む安全保障理事会が機能不全に陥って何も決められないのは言うまでもない。そんな国際社会を、プーチン氏は見切っている(はずだ)。
その国連・安保理の緊急会合(2/21)で、ケニアのキマニ国連大使が行った演説が注目された(*)。帝国主義の時代に、恣意的に国境線が(例えば直線で)引かれたアフリカの立場から、「民族や人種、宗教の同質性に基づく国家を追求していれば、何十年も血にまみれた戦争を続けることになっていただろう」「その代わりに、私たちは(列強によって引かれた)国境を受け入れ、アフリカ大陸の政治的、経済的、法的な統合を目指すことにしたのだ。危険なノスタルジアで過去を振り返り続ける国家をつくるのではなく」と皮肉った上で、「同胞と一緒になりたいと思わない人はいないし、同胞と共通の目的を持ちたいと思わない人はいない」「しかし、そのような願望を力ずくで追い求めることをケニアは拒否する。私たちは、二度と支配や抑圧の道に陥ることなく、今は亡き帝国の残り火から、回復を遂げなければならない」と語ったという。こうした声は、非常によく分かるが、残念ながら権威主義国の独裁者の心には響かないのだろう。
国家は「力(=軍事力)の体系」「利益(=経済)の体系」「価値の体系」の三つのレベルの複合物だと言われる。とりわけ「価値」については、冷戦時代には資本主義と共産主義とで妥協できなかったし、今なお民主主義と権威主義とでソリが合わないように、国家主権を至高の権力と見做す、絶望的にアナーキーな国際社会にあっては、何が「正しい」のではなく、国の数だけ「常識」があり「正義」があると言わざるを得ない。こうして私が敬愛する高坂正堯氏は、50年以上前の著書の中で、「対立の真の原因を求め、除去しようとしても、それは果てしない議論を生むだけで、肝心の対立を解決することにはならない」「それよりは対立の現象を力の闘争として、敢えて極めて皮相的に捉えて、それに対処していく方が賢明なのである」として、混乱状態を間接に直すことが、現実主義の立場だと喝破された。西側諸国は経済制裁を発動することで結束するが、クリミア併合以来、既に経済制裁慣れし、そのためにドルへの依存を抑え、外貨準備を積み上げて来たロシアに、どこまで実効性があるのか疑問だ。残念ながらポリコレ全盛の時代に、力で力に対抗する胆力はもはや失われたことによる限界は明らかだが、それでもなお諦めることなく、現状を凍結する(棚上げする)現実的な知恵をなんとか活かして欲しいものだと思う。
(*)「ウクライナは『私たちの歴史と重なる』 ケニア大使の演説に高評価」(2/23付 毎日新聞)
https://mainichi.jp/articles/20220223/k00/00m/030/052000c
最近、プーチン氏は妙ちくりんな歴史書に執心しているとか、自身も昨夏に歴史論文をものして、ロシアとウクライナとの一体性を強調したとか、なんだか彼の精神状態を危惧する声も聞こえて来るが、一種の陰謀論になりかねないので、とりあえず措いておこう。もともと勢力圏(sphere of influence)の考え方が根強いロシアであるが、それにしても、執念深いまでにNATO不拡大、特に緩衝地帯としてのベラルーシとウクライナへの固執を唱える被害妄想は一体、どこから来るのだろうか。辛うじて察せられるのは、そこで主役を演じるプーチン氏のメンタリティが、冷戦時代のKGBの頃のままなのだろうということだ。ロシア=プーチン=マフィア国家と短絡する人もいるが、分からないではない。中国という国家が中国共産党に乗っ取られているように、ロシアはプーチン氏とその一味(元KGBや犯罪組織などの取り巻き)に乗っ取られているかのようだ。
確かに、ロシアと言い、中国と言い、権威主義国はこんなものかと、思い知らされる。自作自演の動画まで用意し、偽情報をばら撒いて、自らの行為を正当化するのに余念がない。かねてソ連解体は「20世紀最悪の地政学的惨事」と語ったように、プーチン氏は旧ソ連という帝国復活を夢見ているのだろう。このあたりは、帝国主義列強に簒奪された19世紀中国の復讐を決意し、「中華民族の夢」を語る習近平氏に通じるものがある。私たちは言わば歴史の報復に直面しているのだ。
そしてロシアにしても中国にしても、西側・民主主義諸国において、行き過ぎたグローバル化のもとで格差が拡大し、イデオロギー的に社会が分断され、追い討ちをかけるようにパンデミックで混乱する様子を見て、「『西側の衰退』という物語を信じている」(前フィナンシャルタイムズ編集長ライオネル・バーバー氏)のは間違いない。バーバー氏は、「プーチン氏は、西側の民主主義諸国が長期間の対峙に備えた胆力を持ち合わせていないことに賭けている」とも指摘される。その行動が予測不可能だったトランプ氏はもういないし、その暴れ馬トランプ氏をよく調教した安倍氏も、調整に長けたメルケル氏もいない。バイデン大統領は、早々に派兵することはないと言い切ってしまったし、アフガニスタンから慌てて撤退したように、もはや中東やヨーロッパではなく東アジア(対中抑止)に注力したがっている(すなわち二正面も三正面も同時に対応できない)のは明らかだし、長引いたイラク・アフガニスタン戦争後の厭戦気分が横溢するアメリカ社会では、直接の影響が及ばない地域の出来事に対して、世論は冷淡だ。もとより国際連合、とりわけロシアという当事者を含む安全保障理事会が機能不全に陥って何も決められないのは言うまでもない。そんな国際社会を、プーチン氏は見切っている(はずだ)。
その国連・安保理の緊急会合(2/21)で、ケニアのキマニ国連大使が行った演説が注目された(*)。帝国主義の時代に、恣意的に国境線が(例えば直線で)引かれたアフリカの立場から、「民族や人種、宗教の同質性に基づく国家を追求していれば、何十年も血にまみれた戦争を続けることになっていただろう」「その代わりに、私たちは(列強によって引かれた)国境を受け入れ、アフリカ大陸の政治的、経済的、法的な統合を目指すことにしたのだ。危険なノスタルジアで過去を振り返り続ける国家をつくるのではなく」と皮肉った上で、「同胞と一緒になりたいと思わない人はいないし、同胞と共通の目的を持ちたいと思わない人はいない」「しかし、そのような願望を力ずくで追い求めることをケニアは拒否する。私たちは、二度と支配や抑圧の道に陥ることなく、今は亡き帝国の残り火から、回復を遂げなければならない」と語ったという。こうした声は、非常によく分かるが、残念ながら権威主義国の独裁者の心には響かないのだろう。
国家は「力(=軍事力)の体系」「利益(=経済)の体系」「価値の体系」の三つのレベルの複合物だと言われる。とりわけ「価値」については、冷戦時代には資本主義と共産主義とで妥協できなかったし、今なお民主主義と権威主義とでソリが合わないように、国家主権を至高の権力と見做す、絶望的にアナーキーな国際社会にあっては、何が「正しい」のではなく、国の数だけ「常識」があり「正義」があると言わざるを得ない。こうして私が敬愛する高坂正堯氏は、50年以上前の著書の中で、「対立の真の原因を求め、除去しようとしても、それは果てしない議論を生むだけで、肝心の対立を解決することにはならない」「それよりは対立の現象を力の闘争として、敢えて極めて皮相的に捉えて、それに対処していく方が賢明なのである」として、混乱状態を間接に直すことが、現実主義の立場だと喝破された。西側諸国は経済制裁を発動することで結束するが、クリミア併合以来、既に経済制裁慣れし、そのためにドルへの依存を抑え、外貨準備を積み上げて来たロシアに、どこまで実効性があるのか疑問だ。残念ながらポリコレ全盛の時代に、力で力に対抗する胆力はもはや失われたことによる限界は明らかだが、それでもなお諦めることなく、現状を凍結する(棚上げする)現実的な知恵をなんとか活かして欲しいものだと思う。
(*)「ウクライナは『私たちの歴史と重なる』 ケニア大使の演説に高評価」(2/23付 毎日新聞)
https://mainichi.jp/articles/20220223/k00/00m/030/052000c