風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

台湾と香港の旅(下)

2015-08-31 21:25:24 | 永遠の旅人
 弾丸ツアーの出張なので、毎度のことながら、楽しみと言えば食事しかない(と言い切ってしまうのは何だか情けないか)。なんのことはない、ただの食べ歩き自慢である。
 台湾では、到着した昼、台湾のファーストフードである牛肉麺あたりを久しぶりに食してみたかったのだが、なかなか見つけることが出来ず、30年来贔屓にしている(!?)と言うより、30年近く前によく連れて行って貰った「梅子」という地元・台湾料理の店を見つけて、つい引き込まれるように入ってしまった。実は、4年前にも訪れて、健在であることは知っていたのだが、今もまだ、昔ながらに続いているのが何となく嬉しい。日本人ツアー観光客の日本語が飛び交って、日本人駐在員ご用達だったことも思い出した。部下と二人で、ビーフンと数品取っただけだが、相変わらず美味かった。夜は、久しぶりに台湾の小龍包を堪能した。京鼎楼 JIN DIN ROUという店で、後で調べたら、なんと日本にもいくつか支店が出ている有名店のようである(そごう千葉店、横浜店、ららぽーと新三郷店、池袋パルコ店、アクアシティお台場店)。そこでは念願の牛肉麺にもありつけることが出来た。中華料理は、何日も続くと、日本人には胃にもたれてキツいものだが、たまに食する台湾料理は、中華料理の中ではあっさり系、田舎料理風の素朴な味わいで、実に美味い。
 続いて香港である。到着後、昼はホテルに隣接するショッピングモールのレストランで、軽い昼食に、日替わり定食の揚げ麺を取った。お茶ではなく白湯が出て来たのにはびっくりしたが(お茶はなんと有料!だった)。夜は、ダウンタウンの広東料理レストランJade Garden(翠園大酒樓)に行った。後で調べたら、ランチタイムにはその筋では人気の点心の店のようで、夜は所謂本格中華で、紹興酒との取り合わせが絶妙で、つい飲み過ぎ、食べ過ぎてしまった。そして翌日、空港で午後のフライトに搭乗前、お決まりの点心で、香港を名残り惜しむ。
 台湾にしても香港にしても、どれもこれも外れがない(まあ、そこそこの店なら・・・と言うべきかも)。
 上の写真は、ホテルの部屋から見た香港島。やはりどこか霞んでいる。
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台湾と香港の旅(中)

2015-08-28 21:09:47 | 永遠の旅人
 香港を、20数年前、まだ中国に返還される前に観光で訪れたことがあるが、返還後、何がどう変わったというほどの勘も記憶も働かない。ただ、当時、香港島がここまで霞んで見えることはなかったと記憶する。それはだがイギリスからの返還という事象とは関係がなく、深センをはじめ隣接する広東省の経済発展による大気汚染のせいだろう。そこで現地の人に聞いたところ、かつての香港を知る人に言わせれば、やはり香港は変わりつつあるのを実感するものらしい。端的に、中国化しているということのようだ。タクシー(的士)の運ちゃんが英語を話せないのは昔からだったのかも知れないが、学校で英語に代えて中国語を教えるようになって、英語を解さない人も増えて来ているようだ。台湾では、第二外国語を英語にするか日本語にするかで今もって悩むらしいが、香港にはそんな選択肢はなさそうだ。不動産をはじめとする物価も、中国大陸からの投資が増えて上がり続けているのは、日本でも報道されている通りである。
 しかし、日本の報道とは裏腹に、雨傘革命は意外にマイナーなものだったらしい。台湾の向日葵革命と何が違うのか尋ねると、勿論、ここ18年の歴史が違うのだが、地続きかどうかで違うのだと諦め気味に話す人がいた。そのあたりは、海を挟んだ日本に対して、韓国が地続きで常に日和見(いわゆる事大主義)なのに似ている。私たち日本人は鈍感なのかも知れないが、国境を接する脅威は別格なのだろう。
 もともと中国4000年の歴史は民主的であったためしはなく、易姓革命を受け入れ、政治とは適当に距離を置きながら、現世をしたたかに生きるのが庶民の知恵というイメージがある。その一つの典型は、「明るい北朝鮮」の異名をもつ、華人の都市国家シンガポールに見ることが出来る。選挙制度はあるものの、事実上の一党独裁であり、現地に所在する日系企業のある社長は、監視社会だから、電話やメールは盗聴されていることを前提に生活していると淡々と語っていた。政治的な自由はなくとも、経済的な自由が認められさえすれば、割り切ってそれなりの生活をすることが出来る・・・中国が目指す(ということは香港の行く末の)国家像の一つは、間違いなくシンガポールにあるように思う。もっとも香港の場合、ここまで経済的に中国に依存し過ぎてしまえば、シンガポールのような独立独歩と違って、緩やかに衰退するばかりのような気もするが。
 上の写真は、二階建バスの向こうに霞む香港島。
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台湾と香港の旅(上)

2015-08-27 01:25:34 | 永遠の旅人
 月曜朝に台湾に向かい、一泊して翌・火曜朝に香港に移動し、一泊して翌・水曜夜に帰国した。相変わらずの駆け足の出張、弾丸ツアーである。いずれの地も4年振りの訪問だった。
 台湾は、新入社員の頃、というのは、ちょうど戒厳令が解除される前後のことだが、毎月のように修行のために出張させられたことがある。その当時の台湾のことはシカとは覚えていないのだが、なんだか当時も今も余り変わらない気がする。薄汚かったタクシーが見違えるようにキレイになったのは確かだし、さすがに街の佇まいも近代的に立派になったことだろう。屋台の車は見かけなくなったし、若い人たちも垢抜けたに違いない。しかし、目抜き通りのすぐ傍に場末のようなところ、日本人ならそれなりにキレイにするところ、ぽつりぽつりと開発し忘れたようにそこかしこに残る。一見派手で豪華だが、洗練を貫徹できないところがあり、それを気にしないのもまた台湾だ。そして台湾の人々は賑やかで調子がよくて、相変わらず日本人に優しい。現地駐在の同僚の中に、北京駐在のあと横滑りで台湾に駐在することになった人がいて、緊張感のある生活から一気に楽園に来たようだと形容していた。この20数年で、台湾は経済的には中国との関係が深まったが、政治的には依然中国に対して拒絶反応があるのは、ひまわり革命でも、この前の選挙でも明らかだったし、来年の総統選挙でもその通りに予想されている。台湾(国民党)は、自ら中国を代表するものであると(中国共産党に対して)正統性を主張し得る立場にあるのだが、所謂中国たり得なくて、やはり台湾なのである。諸事情あって台湾島に亡命した中国国民党の中国ではもはやなく、台湾なのである。
 若い人と、日本のキャラクターの話になった。アニメのしんちゃんやドラえもんや、キティちゃんのことである。台湾で絶大な人気を誇るのは周知の通りだが、その若者は、その理由について、人物(果たして一言で人と言ってよいのか躊躇われるが)造形が良く出来ているのだと解説した。いろいろ話しながら、じゃあ、そんな人物造形を何故台湾人はつくりあげることが出来ないのか、ふと疑問に思った。しかし日本人なら出来るであろうことを確信するのは、何故か・・・それは日本人の職人技そのものだからだ。
 日本人は、ゼロから全く新しいものを発明するのは苦手だが、現にあるものを改善するのは得意だと、言われ続けたもので、それはちょっと癪だった。例えばIT業界でビジネスモデルを変革するのは、だいたいアメリカの企業や起業家であって、日本ではない。他方で、アメリカで生まれた家電製品などのエレクトロニクス製品に磨きをかけたのは日本だったし、同じくアメリカで生まれた自動車の燃費を上げ使い勝手を良くしたのも日本だった。大陸から伝わった米を、ブランド米として本家の米以上に美味しく仕上げたのも日本だ。セブンイレブンは元はアメリカの氷販売の小売店であり、ローソンは看板のミルク缶に見られるようにアメリカのミルク・ショップだったが、日本でコンビニとして独自の進化を遂げた。だからと言って、発明家が日本にいないわけではない。要は芸を磨くことにかけては、日本の職人技に勝るものはない、ということではないだろうか(イタリアやドイツにも近いものがありそうだが、第二次大戦で同盟を組んだのは何の因果であろうか)。それが何故日本の強みになったのかは、歴史的に検証する必要があり、島国で、よその民族の侵略を受ける機会がなく、仲良く住みなした、あるいは今西進化論のように棲み分けをしたことが影響していそうに思うが、そのあたりの思考の遊びは別の機会に譲りたい。
 台湾に目を戻すと、パソコンやスマホの製造では、これまでのところ世界をリードしてきたが、果たしてこれからもスマホあるいはその後継となる情報機器でリードを守ることが出来るだろうか。先進国でも順調に経済成長する国とそうでない国があるように、新興国でも経済成長する国もあれば遅咲きの国もあり、浮かばれない国もあるだろう、そんなことをふと思った台湾訪問であった(台湾が新興国だと言っているわけではないし、実際にそうではないのだが)。
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戦後70年:精神力

2015-08-23 20:39:40 | 日々の生活
 今回は、小野田さんを取り上げる。Wikipediaには(ちょっと長くなるが)以下の記述がある。

(前略)フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。(後略)

 まさにゲリラ戦である。凄まじい。
 小野田氏は、昭和19年9月に陸軍中野学校二俣分校に入校している。所謂スパイ学校である。主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)し、11月に事実上の卒業後、見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官し、12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣された(Wikipedia)。フィリピン・ルバング島は、マニラ湾を塞ぐように位置する南北27キロ、東西10キロの小島で、敵のルソン島攻撃を遅延させるために、ルバン飛行場の滑走路を破壊し、敵が上陸したら、敵機の爆破を図れという命令だったらしい。「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」と言われ、最後まで命令に忠実だった。
 昭和29年5月、日本軍再上陸のために占領していた西海岸に、30数名の討伐隊がやってきて、銃撃戦となり、射撃の名手だった島田庄一伍長が眉間を打ち抜かれ即死した。昭和47年10月には、稲むらに火をかける陽動作戦の最中に警察軍に襲われ、小塚一等兵が銃撃でやられ、とうとう小野田少尉一人になった。しかし、「次は自分の番だ」という恐怖心はなぜか湧かず、敵に対する憎悪がこみ上げたが、その感情におぼれることを防ぐために、自分の命の年限を決めたという。あと10年、60歳で死ぬ。60歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃し、保存している銃弾すべてを打ち尽くして、死に花を咲かそう・・・。小塚一等兵「戦死」のニュースは、日本でも衝撃的なニュースとして取り上げられ、ヘリコプターが飛んで、「小野田さん、生命は保証されています。いますぐ出てきてください」と呼びかけ、ジープからは姉の千恵さんが「ヒロちゃんが、私に二つくれたわね」と、結婚祝いに贈られた真珠の指環のことを語りかけた。長兄や次兄、弟の声も聞こえ、本物に違いないと思った。しかしこの時でさえ、小野田少尉は二通りの見方を考えたという。一つは米軍の謀略工作で、「残置諜者」の自分を取り除くために、占領下の日本から肉親まで駆り立ててきたというもの。もう一つは日本の謀略機関が、アメリカを欺くためのトリックとして、捜索隊という口実で、島の飛行場やレーダー基地の情報収集をしている、というもの。アメリカのベトナム戦争での失敗をついて、経済大国にのし上がった日本がフィリピンを自陣営に取り込む目的か。いずれにせよ、肉親の呼びかけを信じて、うっかり出て行ってはならない、と小野田少尉は判断したという(このエピソードは、伊勢雅臣氏の国際派日本人養成講座H18.03.19「人物探訪: 小野田寛郎の30年戦争」参照)。
 リスクマネジメントは最悪のことを想定するものだが、彼におけるその厳しさといったらない。
 その肉親も含めた捜索隊が引き上げた約1年後の昭和49年2月、フィリピン空軍レーダー基地で、小野田少尉は戦闘服姿で、整列した将兵が捧げ筒で出迎える中、「投降の儀式」に出た。翌日、ヘリコプターで運ばれた先のマラカニアン宮殿で、マルコス大統領は小野田少尉の肩を抱き、こう言った。「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として4年間戦ったが、30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦します」(同上)。
 そして、翌3月、羽田空港に降り立って臨んだ記者会見で、有名なやりとりが行われる。「人生の最も貴重な時期である30年間をジャングルの中で過ごしたこと」について聞かれた小野田氏は、質問者を凝視して、しばらく考えた後、「若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」と答えた。戦後の日本人の浅ましさで、記者は、軍国主義に振り回された人生を憐れんだのかも知れないが、戦前の精神そのままの小野田氏は歯牙にもかけなかったのだ。そして、「日本の敗戦をいつごろ知ったか。また、元上官の谷口さんから停戦命令を聞いた時の心境」を聞かれ、「敗戦については少佐殿から命令を口達されて初めて確認しました。心境はなんともいいようのない・・・(うつむきかげんで、力なく言葉がとぎれかけたが、再び顔をキッとあげると)新聞などで予備知識を得て、日本が富める国になり、立派なお国になった、その喜びさえあれば戦さの勝敗は問題外です」と答えた。戦後の繁栄の中で、ますます軍国主義を悪と見なすことに慣れた日本人は虚を突かれたことだろう。
 そんな彼も、女性と子供には決して危害を加えなかったという。投降後の小野田氏に対して、州知事夫人はこう語っている。「島の男たちは30年間、大変怖い思いをした。不幸な事件も起きました。しかし、オノダは決して女性と子どもには危害を加えなかった。彼女たちが子供たちと共に安心して暮らすことができたのは、大変幸せなことでした。」 このことについて、後年、彼は次のように述懐している。「私は別にジュネーブ国際条約に定められた事項を守り通そうという意識があったわけではない。人として当たり前のことをしたまでです」。 しかしそれが帝国軍人の精神なのだろうと思う。
 小野田氏が、帰国後、一刻も早く実現したかったのは、最後までともに戦った島田伍長と小塚一等兵への墓参りと遺族への謝罪で、それが叶うまで一ヶ月近くが経っていた。その間、軍国主義に加担したなどという心無い戦後日本人の悪しき非難の声も届いており、小野田氏は、政府から寄せられた見舞金を全て靖国神社に寄付した。「一緒に戦って死んだんですもんね。それを軍国主義に加担するなんて言われたら。そんな人間と一緒にいたくない。それがブラジルへ移住した理由。だれも好き好んで戦争をしたわけじゃない」。翌年、53才の時、永住を心に決めてブラジルへ渡った。「喧嘩すると勝たなきゃいけない。だから、離れることを選んだ。喧嘩したくないから。自己満足かもしれませんけどね」。
 あらためて、帰国後の小野田氏の言葉を振り返りたい。「私は戦場での三十年、生きる意味を真剣に考えた。戦前、人々は命を惜しむなと教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか」。
 戦後の私たちだって、レベルは違うが・・・つまり死を身近に意識しないまでも、如何に生きるべきか、もがいている。死を覚悟しないでいい時代を生きられることは幸せだが、私たちは生きる時代を選べない。この時代を生きるしかない。それは小野田氏にも理解して欲しい。しかし、逆に小野田氏の帝国軍人の生き方を、あるいは戦前の日本人を不幸だと決めつけることは改める必要があるだろう。私たちは、私たちの哲学や思想を総動員し、想像力を目いっぱい働かせて、当時を振り返り、何故、戦争に至ったか、何故負けてしまったか、そして現代を生きる私たちに活かされる教訓は何か、私たちが怠ってきた(情緒に流されるのではない)知的な営みとしての「総括」をする必要があるように思う。
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戦後70年:生命力

2015-08-22 22:47:15 | 日々の生活
 この時期になると、思い出される人たちがいる。大東亜戦争終結後27年の1972年にグアム島で発見された残留日本兵・横井庄一さんや、同じくその2年後の1974年にフィリピン・ルバング島から帰還を果たした小野田寛郎さんである。横田さんはジャングルのサバイバル術に長けていた一方、小野田さんは少尉としてスパイ活動に携わったこともあり、ラジオを入手して情報収集怠りなく「作戦」を展開し続けるなど、兵士として戦い続け、ある意味で対照的な生き様を示された二人だ。いずれにしても、当時、子供心に、戦後27年や29年という歳月は衝撃だった。10年かそこらしか生きていない少年には当然のことである。あらためて、戦後の高度成長の真っ只中を生きた私は、その生命力の強さや精神力の強さに大いに感銘を受けるとともに、自らを振り返り、戦後の日本人が失った(と思われる)ものを思って、今もなお大いに考えさせられる。
 今回は横井さんにフォーカスしてみたい。Wikipedia は次のように伝えている。

(前略) 当時、グアム守備隊壊滅後も生き残った一部の将兵は山中に撤退しゲリラ戦を行っていたが、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾によって日本軍の無条件降伏が発令されたことは知らされなかった。横井らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日、エビやウナギをとるために罠をしかけに行ったところ、現地の鹿の猟をしていた住民に遭遇、同年2月2日に満57歳で日本に帰還した(なお、撤退当初から横井には2人の戦友が居たが、発見の約8年前に死亡している)。(中略)軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、羽田空港で空港に出迎えに来た、斎藤邦吉厚生大臣に「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました」と伝えたと言う。またその後の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど。」と発言した。これらの言葉をとらえて「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となった。(後略)

 そのほか、ネットを検索すると、いろいろなエピソードを拾うことが出来る。
 横井さんが過ごしたジャングルは衛生環境が良くない。高温多湿で虫が多く、中でもゴキブリがひどかったので、それを少しでも食べてもらうためにカエルを飼っていて、そのカエルを唯一の友人と表現されていたという。住居や食料確保のために存在を知られて死んでいった仲間たちを見ていたため、一切の生活の痕跡を残さずに行動することを心掛け、獣を装い、直線ではなくジグザグに歩く、足跡は必ず消す、決して音を立てず、独り言さえ言わない、落ちているヤシの実は、10個あっても3個だけ拾う、匂いと強い煙の出る「焼く」調理はご法度で「蒸す・煮る」のみ(「焼く」のは人目につかない真夜中に穴の中で行うため耐えられない暑さと息苦しさだったという)・・・その緊張感は尋常のものではなく、帰国後、横井さんの脳波を計測した医師は「熟睡時に出る脳波がまったく検出されなかった」と発表している。
 ただ、横井さんの強みは、名古屋で洋服の仕立て業を営んでいた経験から、手先が器用だったことで、ろくな道具もなしに掘った穴は、28年間で6ヶ所を数えたが、最後に住んだ穴は、幅1.6m、高さ1.5m、奥行き4m、竹で天井を張り、床にすのこを敷いた内部には、空気穴、いろり、水洗便所、排水溝まで備え、後に見学に訪れた某ゼネコン社員が、その精巧さに驚嘆したらしい。草履のほか、機織り機で服も作った。その服は、木の皮をはいでアク抜きして繊維を作り、砲弾からとった真鍮で針を作り、ヤシの実からボタンをつくり、丁寧にかがられたボタン穴の、半年がかりで完成させた5つボタンの立派なスーツで、緻密な織りの生地や美しく揃った縫い目から、とてもジャングルで制作されたものとは思えないほどの出来栄えで、作家の松本清張氏は「私も手先の器用な兵隊は見ているが、横井さんのような兵は一万人に一人あるかないかだろう」と新聞コラムに書いている。本人にとって時間がかかる大変な作業だったろうが、物を作り上げる充実した喜びが味わえたと言い、生きる支えになっていたことだろう。
 また、籠を作り、仕掛けにしてネズミなどの小動物や、川ではうなぎやエビも捕まえた。ジャングルとは言え大事なのは「火」で、マッチもなく火を起こすのは大変な苦労だったらしく、当初、拾ったワイングラスで作ったレンズを火災で失ってからは、竹をこすり合わせて発火させ、それを縄に移して灰にし、竹筒に入れて持ち歩くというように、火を絶やさない努力をしたという。火のお陰で、ネズミなどを焼くと簡単に皮がむけ、天日で乾燥させて保存食にすることが出来て便利になった。そして過酷な生活環境を少しでもマシなものにするための研究を続け、水筒を半分に割って飲み口に竹をさして持ち手にしたフライパンを作ったり、水筒の半分でおろし金を作ったりもした。ヤシの中の白い果肉のような物をおろし金でおろし、それを絞るとココナッツ・ミルクがとれたので、このココナッツ・ミルクで煮込む料理を作れるようになった。さらにココナッツ・ミルクを火にかけてアクを取り、アクを再び火にかけると油と水が分離したため、この油にヤシの繊維を編んで浸して燃やしランプとしたほか、この油を使って鉄カブトの鍋でソテツの実を砕いた粉に食材をつけてあげて天ぷらにした。そのソテツの実には有毒成分が含まれていて苦しんだが、それでも食べる物が乏しいため、ソテツを何とか食べようと工夫し、後にソテツは実を割って4日以上水にさらせば毒が抜けて食べられることが分ったという。
 まさにサバイバルである。帰国後は生まれ故郷・愛知県に居を構え、戦後の日本の変化に適応できるか心配されたが、驚くほど素直に現代日本に馴染み、公募で花嫁を見つけ、サバイバル評論家としてオイルショック後の豊かな日本で評論活動を続けられ、1997年9月に82歳で亡くなった。1974年には参議院議員選挙に出馬して周囲を驚かせ、落選したが、政権放送で語った次の言葉に、横井さんなりの問題意識が滲んでいて興味深い。「人間ジャングルと申しましたのは、戦後、人間の心が変わってしまったと感じるからでございます。(略)私はこれから、失われた日本人の心を探し求めたいと思います。(略)勤勉な心を失った国民が本当に繫栄したためしはありません。(略)食糧の大半を輸入に頼っているようでは独立国家と申せません。(略)子が親を大切にしないような教育、生徒が先生を尊敬しないような教育などあってたまるもんですか。そんなものがあれば、それは教育と言えません」。
 大東亜戦争で亡くなった帝国軍人は、戦闘そのものよりも飢餓や疫病で亡くなった方の方が多かったと言われる。横井さんのような存在はある意味で例外なのかも知れない。また今後、アメリカをはじめとして、諸外国が手を染める戦争は、ドローンなどの無人機やロボットが中心になる。そういう意味でも、公式の戦争後も続いた横井さん個人の戦争での生き様には、人間という動物の生命力の可能性を信じさせてくれる一方で、現代の私たちからは失われて久しく、むしろ特異性が際立つとも言える。それが良いのか悪いのか、いろいろ考えさせられるのである。
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イチロー通算4193安打

2015-08-18 00:36:51 | スポーツ・芸能好き
 15日(日本時間16日)のカージナルス戦に先発出場したイチローは、初回の第一打席でライト前ヒットを放ち、通算安打で「球聖」タイ・カッブがもつ4191安打を超えて単独二位に躍り出た。3回の第二打席も一塁内野安打で、通算4193安打とした。心から祝福したい。
 タイ・カッブと言えば、イチローより87年も年長だ。以下はスポニチからの抜粋・・・タイガースの中堅手として活躍し、1911年には自己最高の打率.420を記録するなど、4割を3度マークし、生涯打率.367は史上最高。打つだけでなく、走塁も一級品。通算897盗塁は歴代4位で、俊足を生かしたバント安打も多かった。同時期に活躍したヤンキースのベーブ・ルースが豪快な本塁打から華やかなイメージが強いのに対し、カッブは「最も冷酷な選手」とも評された。そしてこんなエピソードが残されている。カッブの打撃練習を見ようと集まってきた相手チームの選手に対し「今日は調子が悪い。どこに飛ぶか分からないから安全なベンチに避難してくれ」と言い放つと、11球連続でベンチ方向にファウルを飛ばし、ダーツのように1人ずつ当てて行ったという。巧みなバットコントロールはイチローとも共通している。実際、イチローが2004年オフにクーパーズタウンの野球殿堂を訪れた際、殿堂関係者の計らいでカッブが使ったバットを手にし「テークバックの写真を見る限り、自分と同じ(打撃の)感覚を持っていると思う」と口にしたらしい。それにしても、とてつもない選手の記録を超えたものだ。それだけイチローの凄さも際立つ。
 そのイチローも今年10月22日には42歳になる。2001年から2010年までメジャー10年連続200安打を記録した後は、184安打、178安打、136安打、102安打と、年々、減少傾向にあり、41歳の今シーズンを4122安打からスタートして、積み上げた安打はこの日まで71。当初、マーリンズでは4番手の外野手に位置づけられ、出番も限られていた。6月19日のレッズ戦からは34打席連続無安打の自己ワーストを記録し、それが大きなニュースにもなった。
 通算安打記録でイチローの上にいるのはとうとうピート・ローズだけとなった。
 ピート・ローズと言えば、イチローより32歳年長で、通算試合(3562)、通算打席数(15861)、通算打数(14053)、通算安打(4256)、通算単打(3215)、通算出塁数(5929)、通算アウト回数(10328)で歴代1位を記録し、シーズン200安打もイチローと同じく10度達成している、鉄人のような選手だ(1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚して永久追放処分を受けたままだが)。そのほか、通算二塁打(746)、連続試合安打(44)、1試合5安打以上(10)、1試合4安打以上(73)、1試合3安打以上(387)、1試合2安打以上(1225)で歴代2位を記録する記録魔だ。イチローもそうだが、ケガもなく体調をうまくコントロールし、息の長い選手生活を送ればこその記録でもある。驚くなかれ、引退の年(45歳)こそ52安打に終わっているが、その前年まで23年連続で100安打以上を放っていた。
 その歴代最多安打記録の4256まで残り63に迫っている。勿論、日・米の記録を合算することには議論があるが、この日のバットとボールは即座に回収されたらしい。野球殿堂に贈られるようだ。米スポーツ専門誌「スポーツ・イラストレイテッド」は、メジャーでの3000本安打よりも日・米通算でピート・ローズの歴代最多安打記録更新が「より重要」と表現しているらしい。安打数が3000本に近づくほど、来季のメジャー契約を手にすることが容易になるという見方もある。日本の「誇り」が、来季、いよいよ夢の記録に手が届く。
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戦後70年:談話

2015-08-16 00:08:20 | 時事放談
 今日の終戦記念日は、蝉しぐれが喧しい、暑い一日だった。蝉の鳴き声ばかりが響いて、芭蕉ではないが、却って静けさを際立たせるようでもあった。70年前の今日を思い出させるかのように。
 昨日、安倍首相から戦後70年の談話が発表された。個人的な談話ということであれば大いに期待したところだが、国内の保守層向けにはともかく対外的にはどうかという懸念が拭えず、結果、閣議に諮ることが決まった段階で、公明党が口を出し、諸外国を含む様々な立場に配慮した穏当なものに後退せざるを得ないことは分かっていた。止むを得まい。ここ数日、「植民地支配」「侵略」「反省」「お詫び」の四つのキーワードが盛り込まれるかどうかが話題になる馬鹿馬鹿しいほどの喧騒が続いたが、蓋を開けたら、安倍色を残しつつ、客観的に見てバランスの取れた良い内容だったと思う。
 読売新聞の社説が第一声で伝えるように、「先の大戦への反省を踏まえつつ、新たな日本の針路を明確に示したと前向きに評価」出来るだろう。何より近隣諸国だけでなく東南アジアや豪や欧米諸国にも配慮して「和解」に触れ、戦争そのものより戦後70年に至る平和国家としての歩みを誇り、未来志向に徹したのが良かった。そして、戦後生まれが八割を超える日本にあって、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と明言したのが白眉だろう。
 中・韓の反応がどうかは、朝日新聞の社説を見れば分かる(と言ったら叱られるかな)。冒頭、いきなり「いったい何のための、誰のための談話なのか」とある。中・韓が、その公正中立な談話内容に対して、外交的配慮により、言いたいことが言えずに戸惑っているのを、代弁するかのようだ。因みに、安倍首相は、主語のない「侵略」と一般化したことで、中国に対する皮肉とし、「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて・・・」と言うことによって、中国だけでなく韓国をも暗に批判する結果、中・韓にはバツの悪さが際立つものとなったであろうことが想像されるのだが、ここではこれ以上は触れない。続いて「安倍首相の談話は、戦後70年の歴史総括として、極めて不十分な内容だった。(中略)この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う」と、「戦後を総括した談話」を「総括」している。安倍色が残ることが余程お気に召さないらしい。
 保守派の学者の中にも、70年の節目とは言えキリの良い年数なだけで談話を出すことに疑問を呈する人がいた。維新の党も談話を出すことには否定的で、「これまでの歴史認識を変える意図があるのではないかと疑われて国際的な混乱を招き、国益を損ねかねない事態になったことは残念というほかない」とコメントしたが、「国際的な混乱」は「中・韓の疑念」と読み替えるべきであり、杞憂であろう。むしろ、いい加減、「謝罪」→「中・韓の執拗な嫌がらせ」の負の連鎖を断ち切るべきだろう。そうでなければ海外で生活する子供たちが肩身の狭い思いをして余りに可愛そうだ。
 いずれにしても、先の戦争の敗者としての地位は変わらない(この地位を変えたければ、アメリカと戦争するか、アメリカとともに戦争するしかないと、名言(迷言?)を吐いた学者がいた)。そのための嫌がらせは続くであろう。しかし、「言わずもがな」とか「身の潔癖は分かる人には分かる」と鷹揚に構えるのではなく、実証的ではない歴史認識に対しては即座に明確にNOを言うべきであり、法的・歴史的な事実関係を蔑にした無理な要求や主張にもNOを言うべきなのは当然である。そして自虐的な歴史観に基づき卑屈に生きるのではなく、日本国として、日本民族としての控えめながらも確固たる矜持を、戦後70年もそして今後も、保持すべきである。これも安保法制と同様「ふつうの国」になるための、小さくな、しかし重要な一歩なのだろう。
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戦後70年:戦後感覚

2015-08-14 00:44:19 | 時事放談
 今宵のNHKニュースウォッチ9の特集で(途中から見たので経緯はよく分からないが)、よりによって昭和20年8月15日、降伏とポツダム宣言受諾を伝える玉音放送が発せられることを知らないまま、特攻で飛び立った若者がいたことを伝えていた。第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は降伏のことを知りながら命令を発し、また自らもこの日の特攻機(彗星)に乗り込んで自決したのだが、その日の特攻隊員の遺族は今なお憤りを隠せないでおられる。また、初めての任務でこの日の特攻機に爆弾を装着したという整備士の方は、何故、そのとき止められなかったかと今なお悔やんでおられる。なんともやり切れない、それぞれの戦争体験である。
 なお、宇垣纏中将は、ポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため、戦死とは見做されず大将昇級は行われず、また戦後しばらくは靖国神社にも合祀されなかったらしい。むしろ、「停戦命令」後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法第三十一条に抵触していたのではないかとする意見もある一方、玉音放送を正式な「停戦命令」と解釈できるかどうかを巡っては見解が分かれており、秦郁彦氏は8月16日16時に発せられた大陸命第1382号および大海令第48号を正式な停戦命令としているらしい(Wikipdia)。玉音放送後の特攻として、その筋では有名な話のようだ。
 さて、今の私たちから見れば、ある種、異常な精神状況だったのだろうと思う。その異常さは、しかし飽くまで平常に対するものであって、今の私たちを正常という安全な立場に置いて、当時の人々を異常と決めつけることには躊躇いがある。なにしろ私には戦争状態を皮膚感覚で理解(想像)できないからだ。そして何より当時の日本人が抱いたであろう、その先にある敗戦の恐怖を共有(体感)出来ないからだ。逆に言うと、日本は戦争に敗れて、ほぼ米国単独の占領により分断の危機を免れ(北海道をソ連に、本州を米国に、四国をフランスに、九州を英国に、分断統治される案も現にあった)、しかも第一次大戦後のドイツに対する過酷な賠償金要求が結果としてヒトラーの台頭を招いた反省から、極めて穏便な占領統治が進められることになるという、その後の歴史を知っている私たちは、全能の神に近い立場で、何故、勝つ見込みのない愚かな戦争を始めたのか、被害が拡大するのを避けるために、もっと終戦交渉を早められなかったのかと、つい考えがちになるのは無理もない。それは、現代に生きる私たちが引きだす歴史の教訓として正しいが、それによって後出しジャンケンのように当時の人々を裁くことは厳に慎むべきだとも思う。私たちは歴史に対してもう少し謙虚であるべきだろう。
 当時の戦争は総力戦であり、国民一人ひとりが窮乏に耐えながら戦争を戦った。特攻であろうと、敵艦に打撃を与えたことに狂喜し、広島で原爆に遭った被害者は、苦しみ、米国を憎み反撃の鉄鎚を加えることを念願しつつ死んで行った。今の私たちの発想からすればちょっと異常な精神状況、いわば一種の熱狂的陶酔感(ユーフォリア)だと、呼ぶのはたやすいが、戦後、GHQの歴史教育のお陰でそんな熱狂的陶酔感(ユーフォリア)から一気に醒めることが出来たのは、ひとえに戦後が幸せだからではないのか。
 歴史にifは禁物だが、想像力を働かせてみる。もし、過酷な占領統治が行われていたとしたら、(ドイツが第一次の後に第二次を戦ったように、日本は第二次の後に)第三次を戦うことはなかったか。あるいはアジアやアフリカ諸国が独立を果たせず欧米諸国の植民地統治が続いていたとしたら、大東亜戦争に負けたことをどう思っただろうか。それでも自ら侵略戦争と認め、屈辱的な植民地支配を受け容れたのだろうか。逆に、日本軍の暗号が敵に簡単に解読されず、日本軍捕虜の手によって作戦が敵に明かされもせず、不時着した零戦が米軍に接収され弱点が解明されるようなこともなく、優位な航空戦を続け、なんとか大東亜戦争をもちこたえ、日露戦争のように、うまく停戦に持ち込めていたとしたら、どうであろうか。歴史は連綿と続く因果の流れであって、東京裁判で裁かれた15年戦争だけを取り出して侵略戦争と呼ぶのは間違っている(侵略戦争と認めるか認めないか、いずれにせよ、である)。つまりは東京裁判は日本の存在自体を(より正確には軍国主義を)悪と決めつけた茶番であって、それによって日本国民を救済したものだ(あたかもナチスを悪としてドイツ国民を救ったように)。両国とも民主的手続きが機能していたにもかかわらず、である(まあ、ナチスは悪事=人道的罪を働いたので、日本の軍国主義を同列に扱うには無理があるが)。
 こうして敢えて歴史のifを想像していると、平和で豊かな戦後感覚こそ一種の熱狂的陶酔感(ユーフォリア)のようにも思えて来るのだが、どうだろうか。かかる次第で、私は、「侵略的」であったこと(別にそれは日本に限ったものではない)、国民を窮乏の極致に陥れ他国民を巻き添えにし「敗戦」に至らしめたことを、大いに「反省」すべきだが、「お詫び」することにはどうしても違和感を覚えるのである。
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戦後70年:原爆の日

2015-08-10 09:42:50 | 時事放談
 8月6日に続いて9日は、日本人にとっては忘れられない、それぞれ広島と長崎に原爆が投下された日だ。
 昨日の「サンデー・モーニング」は長崎からの実況で、高齢化する被爆者が伝える当時の悲惨な状況を伝え聞いた岸井成格氏は「原爆が落とされる前に何とかならなかったんですかねえ」と思わず呟いた。そう思いたくなる気持ちは分からないでもないが、終戦をなかなか決断出来なかった当時の日本政府の方針を責めたり当時の状況を悔やんだりするのではなく、当然のことながら、戦争と原爆投下とは分けて考え、先ずは原爆投下を戦争犯罪として追及し、非人道的だとして激しく憎むべき筋のものだ。
 広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」とのメッセージが刻まれる、いわくつきの慰霊碑だ。インド人法学者で東京裁判の判事としても有名なラダ・ビノード・パール氏は、「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と、日本人が日本人に謝罪していると解釈し非難した(1952年11月)。また、戦争終結から29年目にしてようやくフィリピン・ルバング島から帰還を果たした小野田寛郎氏(元・予備陸軍少尉)は、この碑文を見て「これはアメリカが書いたのか?」と勘違い(憤慨)したという話も伝わっている。
 このように(ほかにも)碑文の主語を巡っては議論があり、撰文・揮毫した雑賀忠義氏(当時、広島大学教授)は、パール氏に「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」との抗議文を送ったらしい(Wikipedia)。広島市は碑文の趣旨を正確に伝えるため、日・英の説明板を設置し、「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」と記しているようだ(広島市のWebサイト)。
 志は崇高であり、異論があろうはずはない。しかし、敢えて一言さし挟みたい。日本人は、原爆の惨劇を戦争の過ちへと余りにも短絡的に結びつけたのではないか。短絡的と言って差し障りがあるならば、思考において安易に昇華してしまったのではないか。戦争そのものを愚かだとこきおろすのは簡単だが、原爆投下は全く別次元の問題だからだ。
 勝てる見込みのない戦争を仕掛けた愚かさをとやかく言っても、大筋において(一部には開明的で先見の明があった人がいたとしても、凡そ戦争を仕掛けた当時に入手していた情報は限られ、従い今とは比べものにならないくらい曖昧なものであって)所詮は後知恵でしかない。侵略戦争だったという批判も、大筋において(一部には現場が暴走して侵略的な局面があったとする見解があり、否定できないが、戦争という異常な状況にあって、コミュニケーション手段も限られる中で、イケイケドンドンだったのか、やむにやまれぬであったのか、その間の現場感覚がどこまで共有されていたのかは、今となっては分からない)勝てば官軍の押し付けによる歴史観でしかない。それに対して、原爆投下は、意図された民間人の大量虐殺であり、アメリカ国民の厭戦気分の高まりを危惧し戦争終結を早めるため(一説では本土決戦で米兵100万人を送り込むのを避けるため)とか、ソ連を牽制するため、などと言い訳出来るものではない(今なおアメリカ人の過半数はそう思っているようだが)。日本人に対する人種差別があったとまでは言わない。ウラン型、プルトニウム型、それぞれが人体に及ぼす影響を試す実験場としたものだったとまでも言わない。ただその破壊力を民間人に向けたことの非人道性は、万が一、アメリカが戦争に負けていれば、ナチスのガス室並みに非難されていたであろうことは間違いない。
 アメリカは、私が初めて生活した異国であり、第一子が誕生した思い入れのある地でもあり、自由で公平であろうとする社会のありようには今なお憧れがあり、ブッシュ前大統領の単独行動主義のときにも見放さず理解に努めようと思ったほどで、アメリカを貶めるのが趣旨ではない。ここでは、(アメリカによる)核使用の非を追及することや、世界レベルの核廃絶を願うこと、さらには核使用に至らしめた戦争への反対を主張することの間に、どれほどの葛藤があったのかを、敢えて問題にしたいだけである。そうした思想的な葛藤がない、単なる情緒的な反戦・厭戦は、却って230万人とも言われる戦没者を冒涜するものだと思う。ともすれば日本人は、恨んだり憎んだりする感情を潔しとせず、持て余し、戦争の愚を想う余り、安易な反戦・厭戦に飛びついてはいないか。そしてそれが今の安保法制化を巡る迷走に結びついているように思う。
 斯く言う私も、戦争を忌避するし、多くの日本人が抱く反戦の想いを尊いと思う。しかし、現実の国際政治の場面では、そんな日本人の健気な想いが通じないばかりか曲解され利用されることもあることに、打ちひしがれることがある。
 今年5月22日に閉幕した核不拡散条約(NPT)再検討会議で、日本政府が提案した「世界の政治指導者らの被爆地・広島、長崎の訪問」の文言は最終文書に盛り込まれなかった。(核保有国の)中国がこの文言に強く反対したため、全会一致の採択を原則とする最終文書にそぐわないと判断されたせいである。そのときの中国の言いぐさは何か。「歴史の歪曲だ」「日本は戦争の被害者の立場を強調している」・・・中国は、広島・長崎の人々の、ひいては日本人の崇高な想いをないがしろにし、歴史認識問題にすり替えたのである。日本が犯したとされる南京大虐殺20万人説(最近は30万人とも)は、発生したとされる当時は南京に外国人ジャーナリストが多数いながら誰も問題にしなかったにもかかわらず(つまりはそれが“大虐殺”ほどの問題はなかった根拠ともされるのだが)、東京裁判で突然持ち出され、広島・長崎両市の公式見解として伝えられる犠牲者数21万人(広島約14万人、長崎約7万人)に倣ったもの(つまり原爆被害を相対化するもの)という説があるが、一笑に付すわけには行かない。
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間もなく立秋!?

2015-08-06 02:46:26 | 日々の生活
 今日の日経・夕刊に石井和子さん(日本気象予報士会の元会長)が「二十四節気」と題するエッセイを寄せておられる。「8日は立秋、暦の上では秋が始まる。一年のなかで一番暑い今頃が何で立秋なの?」で始まり、結論を種明かししてしまうと、立秋は二十四節気の一つ、その二十四節気は遥か紀元前の昔、中国・華北で作られた季節の目印で、中国・華北は、一説によると日本の東北あたりの気候に近いようだが、中国・華北は大陸性気候なので、大陸が海洋よりも温まり易く冷め易いように、春は割りに早く、秋めくのも早いのではないか、ということだ。
 このエッセイは、「巡る季節の実感は、自分たちの生への確認につながるのではないだろうか?」と続き、「巡り来る季節を今か今かと五感を働かせながら待ち望む感性こそが、古代から続く日本人の季節感ではないかと思っている」と結んでいる。そこに大いに共感した。
 私はマレーシア・ペナンに3年暮らしたが、年がら年中、Tシャツに短パンにビーサンで街をほつき歩くことが出来る気候は、衣装代がかからないし、暑いと飾らないので、楽ちんであった。激しいスコールに襲われることもあるが、どこかに雨宿りしてやり過ごせばいい。その強烈な暑さを象徴するように、熱帯特有の花の色は原色鮮やかで、なかなかショッキングである。マンゴー、パパイヤ、パイナップル、モンキーバナナなど、南洋の果物もまた濃厚な味わいで、病み付きになる。朝夕にコーランを読む声が響く異国情緒と相俟って、飽くことを知らなかった。
 ところが・・・1年経ち、2年経つ内に、変化の乏しい常夏の気候に物足りなさを感じるようになった。鮮烈な色合いや強烈な味わいにも、同じように物足りなさを感じるようになった。感覚がマヒしたわけではない。不思議なもので、日本人は、移ろう季節を皮膚感覚で(つまり目や耳や鼻や肌で)愛でたいのである。桜の花びらのような仄かな色合いを、桃や柿のようなそこはかとない味わいを、こよなく愛するのである。トヨタのカイゼンDNAを育んだのは、こうした微かな変化をも感得する日本人の感性の繊細さにあるのではないかとさえ思った。
 そんな日本が、熱帯化しつつあるのを感じる。既に、熱帯の果物が栽培されているし、魚の漁獲も変わりつつあるようだ。ゲリラ豪雨のような激しさは、かつての日本では見られなかったことだが、最近は夕立と言うよりスコール的なものを感じる。打ち水をして涼を求めた日本の夏を、風鈴を、蚊取り線香を懐かしむが、もはや取り返せない日本の原風景なのだろうか。
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