台湾の元・総統、李登輝さんが昨日、亡くなった。享年97。(一部修正して、題を改めた)
私は、現役時代の李登輝さんのことは殆ど存じ上げない。辛うじて台湾は、入社して最初に業務出張し、私にとっては日本以外で最初に降り立った外地でもあり、その後の4年間で通算30回以上も入り浸ったご縁がある。蒋経国総統(当時)が亡くなり総統代行となられた時期までは重なるが、その後まもなく、アメリカに担当替えとなり、あの直接選挙の頃にはアメリカ駐在しており、縁遠い存在となっていた。追悼記事を読みながら、あらためて李登輝さんの足跡と、今日的意味を振り返りたい。
元々の、という意味は、戦後、国共内戦で敗れた国民党軍とともに入って来た外省人と区別して、戦前からの台湾人である本省人として、外省人が牛耳る国民党で本省人の政治参加を取り繕うために「お飾り」として任用されたのをきっかけに、庇を借りて母屋を乗っ取るかのように、外省人のライバルを次々と政権の中枢から外して行き、住民の大多数を占める本省人の支持を背景に、総統の直接選挙を推進・実現し、自ら総統に就任された。見事と言うほかない。あの総統選は、中国にとっても一つの大きな転機となる、因縁深いものだった。李登輝さん有利と見た中国は、台湾海峡にミサイルをぶっ放して恫喝し、アメリカは即座に2つの空母打撃群を派遣して威嚇して応えた(第三次台湾海峡危機)。かつて幕末の日本は黒船4隻で夜も眠れなかったが、あのときの中国は空母2隻(群)で黙らされたのであった。この苦い経験(挫折と言ったほうがよい)が契機となって、中国は海軍建造を本格化したと言われる。
その中国との関係では、いったんは「一つの中国」を認めたものの、その後、中国と台湾は別の国だと位置づける大胆な「二国論」へと舵を切った。その理論構築を担ったのが、当時、法学者だった蔡英文さんで、李登輝さんは彼女を秘蔵っ子としてかわいがったそうだ(日経による)。李登輝さんの意思が脈々と受け継がれている。今や台湾人としてのアイデンティティをもつ「天然独」(生まれながらの独立派)が若者の間に台頭しているのは、李登輝さんあってのことだ。中国から「台湾独立勢力を代表する人物」「中華民族の永遠の罪人」と厳しく批判されても、なんと名誉なことと、ご本人は満足に思っておられたかも知れない(笑)。
日本との関係では、日本統治時代に高等教育を受け、ご本人は右手を首まで水平に持ち上げ、「僕はここまで、22歳まで日本人だったんだ」と語っておられたそうだ(産経の元・台北支局長による)。首までどっぷりという意味だろう、いわば戦後の日本人が忘れてしまった「古き良き日本人」そのもので、その日本を愛するが故に、私たち戦後日本人の耳に痛い苦言も厭わない、真の意味での親日家で、今に至る親日・台湾へと導いた最大の功労者だったように思う。生涯9度にわたり訪日され(このあたりは産経による)、日本統治時代の台湾で治水事業に活躍した八田與一や尊敬する哲学者・西田幾多郎の出身地・石川県や、母校(京都帝国大学)のある京都を巡り、「奥の細道」を探訪して、松島を眺めては自作の句を詠み、先の戦争で(と京都人に話すと応仁の乱を思い浮かべるらしいが(笑)、そうじゃなくて太平洋戦争で)日本人として出征しマニラで戦死されたお兄さんが祀られる靖国神社を参拝し、沖縄を訪問したときには仲井真知事(当時)などとの昼食会の席上で尖閣諸島を「日本の領土」だと表明し、「台湾の民主化と政治改革に大きく影響した」と語った幕末の志士・坂本龍馬の故郷・高知にも足を伸ばしたそうだ。また、沖縄の台湾出身戦没者慰霊祭に出席する前に慰霊碑への揮毫を求められて、「為國作見證」(公のために尽くす)の書を送ったともいう(同)。私のような不届き者の日本人よりよほど日本を理解され、日本の各地を巡っておられる(笑)。
李登輝さんが行った教育改革は「台湾人」意識の向上に繋がったとされるが、戦後、国民党政権が進めた反日教育を反転し、戦前・日本の統治の正当性を名実ともに復権するものでもあった。実際、国民党政権の反日教育で育った私と同世代の台湾の方々は、学校では戦前日本の悪行を教えられ、自宅に帰ると祖父母から日本統治を懐かしむ話を聞かされて、混乱したと聞いた。今回のパンデミックで台湾が、中国のような高圧的なやり方ではなく民主的な感染症対応によって国際社会から絶賛されたのは、SARS禍に学んだのは事実だろうけれども、もとをただせば、かつて清の時代に化外の地と言われ、感染症がはびこって、とても日本人が住めるような土地ではなかったところに、後藤新平がいわゆる帝国医学(帝国主義時代に植民地支配のために必要とされた予防医学)を持ち込んで、公衆衛生面で先進地域としたことが基盤になっていると言われる。
『外交青書』では台湾を「普遍的価値を共有する、極めて重要なパートナー」と位置付けながら、菅官房長官が「葬儀への政府関係者の派遣の予定はない」と明言したのは、日本外交の限界であり、物悲しいことだ(但し、政府として弔辞を送る準備は進めているらしい)。思えば、台湾といい、朝鮮半島といい、戦前も、戦後の冷戦時代も、ポスト冷戦と言われる今も、日本の安全保障にとって要衝の地であり、一足先に落ち着いた欧州方面に対して、今もなお決着がついていない。戦前の悪しき記憶に引き摺られる日本は、どうしても負い目を感じて手を拱いてしまいがちになるが、客観的に見ても、欧米的な自由主義(=アングロサクソン的なシーパワー)と東洋的な専制主義(=中国のランドパワー)とが衝突し、政治的な地震を引き起こしかねない断層地帯を形作る。かつてニコラス・スパイクマンが「リムランド」と呼んだ一帯の一部を構成し、極めて今日的意義があるのだ。「中華民族の偉大なる復興」という見果てぬ夢を追って拡張主義に乗り出し、香港を併呑した中国は、次にその矛先を本命たる台湾に向ける。不幸にも香港は守ることが出来なかったが、かつて日本が礎を造りあげ、李登輝さんが身体を張って育て上げた台湾は、日本にも責任の一端があると言えないだろうか。それは、日本の戦前の台湾統治が欧米的な意味での植民地統治とは異なることを示す証だからであり、李登輝さんへの餞(はなむけ)にもなるように思う。
私は、現役時代の李登輝さんのことは殆ど存じ上げない。辛うじて台湾は、入社して最初に業務出張し、私にとっては日本以外で最初に降り立った外地でもあり、その後の4年間で通算30回以上も入り浸ったご縁がある。蒋経国総統(当時)が亡くなり総統代行となられた時期までは重なるが、その後まもなく、アメリカに担当替えとなり、あの直接選挙の頃にはアメリカ駐在しており、縁遠い存在となっていた。追悼記事を読みながら、あらためて李登輝さんの足跡と、今日的意味を振り返りたい。
元々の、という意味は、戦後、国共内戦で敗れた国民党軍とともに入って来た外省人と区別して、戦前からの台湾人である本省人として、外省人が牛耳る国民党で本省人の政治参加を取り繕うために「お飾り」として任用されたのをきっかけに、庇を借りて母屋を乗っ取るかのように、外省人のライバルを次々と政権の中枢から外して行き、住民の大多数を占める本省人の支持を背景に、総統の直接選挙を推進・実現し、自ら総統に就任された。見事と言うほかない。あの総統選は、中国にとっても一つの大きな転機となる、因縁深いものだった。李登輝さん有利と見た中国は、台湾海峡にミサイルをぶっ放して恫喝し、アメリカは即座に2つの空母打撃群を派遣して威嚇して応えた(第三次台湾海峡危機)。かつて幕末の日本は黒船4隻で夜も眠れなかったが、あのときの中国は空母2隻(群)で黙らされたのであった。この苦い経験(挫折と言ったほうがよい)が契機となって、中国は海軍建造を本格化したと言われる。
その中国との関係では、いったんは「一つの中国」を認めたものの、その後、中国と台湾は別の国だと位置づける大胆な「二国論」へと舵を切った。その理論構築を担ったのが、当時、法学者だった蔡英文さんで、李登輝さんは彼女を秘蔵っ子としてかわいがったそうだ(日経による)。李登輝さんの意思が脈々と受け継がれている。今や台湾人としてのアイデンティティをもつ「天然独」(生まれながらの独立派)が若者の間に台頭しているのは、李登輝さんあってのことだ。中国から「台湾独立勢力を代表する人物」「中華民族の永遠の罪人」と厳しく批判されても、なんと名誉なことと、ご本人は満足に思っておられたかも知れない(笑)。
日本との関係では、日本統治時代に高等教育を受け、ご本人は右手を首まで水平に持ち上げ、「僕はここまで、22歳まで日本人だったんだ」と語っておられたそうだ(産経の元・台北支局長による)。首までどっぷりという意味だろう、いわば戦後の日本人が忘れてしまった「古き良き日本人」そのもので、その日本を愛するが故に、私たち戦後日本人の耳に痛い苦言も厭わない、真の意味での親日家で、今に至る親日・台湾へと導いた最大の功労者だったように思う。生涯9度にわたり訪日され(このあたりは産経による)、日本統治時代の台湾で治水事業に活躍した八田與一や尊敬する哲学者・西田幾多郎の出身地・石川県や、母校(京都帝国大学)のある京都を巡り、「奥の細道」を探訪して、松島を眺めては自作の句を詠み、先の戦争で(と京都人に話すと応仁の乱を思い浮かべるらしいが(笑)、そうじゃなくて太平洋戦争で)日本人として出征しマニラで戦死されたお兄さんが祀られる靖国神社を参拝し、沖縄を訪問したときには仲井真知事(当時)などとの昼食会の席上で尖閣諸島を「日本の領土」だと表明し、「台湾の民主化と政治改革に大きく影響した」と語った幕末の志士・坂本龍馬の故郷・高知にも足を伸ばしたそうだ。また、沖縄の台湾出身戦没者慰霊祭に出席する前に慰霊碑への揮毫を求められて、「為國作見證」(公のために尽くす)の書を送ったともいう(同)。私のような不届き者の日本人よりよほど日本を理解され、日本の各地を巡っておられる(笑)。
李登輝さんが行った教育改革は「台湾人」意識の向上に繋がったとされるが、戦後、国民党政権が進めた反日教育を反転し、戦前・日本の統治の正当性を名実ともに復権するものでもあった。実際、国民党政権の反日教育で育った私と同世代の台湾の方々は、学校では戦前日本の悪行を教えられ、自宅に帰ると祖父母から日本統治を懐かしむ話を聞かされて、混乱したと聞いた。今回のパンデミックで台湾が、中国のような高圧的なやり方ではなく民主的な感染症対応によって国際社会から絶賛されたのは、SARS禍に学んだのは事実だろうけれども、もとをただせば、かつて清の時代に化外の地と言われ、感染症がはびこって、とても日本人が住めるような土地ではなかったところに、後藤新平がいわゆる帝国医学(帝国主義時代に植民地支配のために必要とされた予防医学)を持ち込んで、公衆衛生面で先進地域としたことが基盤になっていると言われる。
『外交青書』では台湾を「普遍的価値を共有する、極めて重要なパートナー」と位置付けながら、菅官房長官が「葬儀への政府関係者の派遣の予定はない」と明言したのは、日本外交の限界であり、物悲しいことだ(但し、政府として弔辞を送る準備は進めているらしい)。思えば、台湾といい、朝鮮半島といい、戦前も、戦後の冷戦時代も、ポスト冷戦と言われる今も、日本の安全保障にとって要衝の地であり、一足先に落ち着いた欧州方面に対して、今もなお決着がついていない。戦前の悪しき記憶に引き摺られる日本は、どうしても負い目を感じて手を拱いてしまいがちになるが、客観的に見ても、欧米的な自由主義(=アングロサクソン的なシーパワー)と東洋的な専制主義(=中国のランドパワー)とが衝突し、政治的な地震を引き起こしかねない断層地帯を形作る。かつてニコラス・スパイクマンが「リムランド」と呼んだ一帯の一部を構成し、極めて今日的意義があるのだ。「中華民族の偉大なる復興」という見果てぬ夢を追って拡張主義に乗り出し、香港を併呑した中国は、次にその矛先を本命たる台湾に向ける。不幸にも香港は守ることが出来なかったが、かつて日本が礎を造りあげ、李登輝さんが身体を張って育て上げた台湾は、日本にも責任の一端があると言えないだろうか。それは、日本の戦前の台湾統治が欧米的な意味での植民地統治とは異なることを示す証だからであり、李登輝さんへの餞(はなむけ)にもなるように思う。