久しぶりに台湾に出張した。入社した頃に台湾の子会社を担当し、何十回となく(ほぼ隔月で)出張させられて、対照的に自らレンタカーを駆って飛びまわるアメリカ担当の同僚を羨ましく思ったものだった(実のところ、無いものねだりで、お互いを羨んでいた)。ところが、いざ自分もアメリカ担当になってみると、ハシゴして飲んだくれてタクシーで帰る・・・というような日本や台湾の生活スタイルが、無性に懐かしくなった・・・やはりこの生活スタイルは日本人にはよく似合うということを、今回の出張でも再認識した(笑)
この30年弱で、さすがに台湾の街並みもちょっとは変わったようだ。なにしろ当時、台湾は、韓国、香港、シンガポールと並び四匹の(昇)龍などと呼ばれてアジアの経済成長を牽引し、当初NICs、その後NIEs(台湾はCountryではないとクレームされてNewly Industrializing Economiesと言い換えられた)と、もてはやされた。街は薄汚れて猥雑だったけれども、妙に油断ならない活気があった。ところが30年の年月を経て、当時はなかった地下鉄が東西南北に走って便利になった。街行く台湾の人々の身なりも随分垢抜けたように思う。今回、一泊二日の短い出張で、街をうろつく時間がなかったが、見覚えのあるデザインの時計をロゴ抜きで安く売っている店の奥には鍵がかかる小部屋があって、そこでは店頭でロゴ抜きだった時計に有名ブランドのロゴをつけたマガイモノを売る・・・といった怪しげな商売は、もはや見当たらないのだろう。路地裏の本屋は、宮沢りえちゃんの写真集発売から間を置かずしてコピー本を当たり前のように並べていたが、それもないのだろう。怪しげな、という意味ではマッサージもやる床屋が街のあちらこちらにあったものだが、すっかり見かけなくなった。リヤカーの屋台も減って、レストラン、中でも日本食レストランが随分増えて、益々、日台は近くなった。そして(10数年前のことになるが)台北101なる高層ビルも登場した。屋台の姿を見かけない分、かつて排気ガスに油っ気を含んだまったりとした空気は今は澄んでいるが、肌にまとわりつく湿気と温かさ(いずれも物理的のみならず、甚だ心理的な意味合いをも含んでいる)は変わらない。
それと言うのも・・・僅かな時間の合い間を縫って、台北101とやらに初めて登ってみたときのことだ。「おのぼりさん」とは、かつて京都に行くことを「のぼる」(上京する)と言い、今、東京駅に向かう電車を「上り」と言うように、都会に出る(向かう)人のことを言うのだが、高いところに「登って」見渡したくなる心境をも併せ表現しているようで、実に優れた言葉だ(笑)。入場料は600台湾元(日本円で約2200円)と高いので一瞬迷っていると、チケット売り場のおねえさんが、今日は曇りでよく見えないけどいいですか?と優しく声をかけてくれて、二度と来ないかもしれないからと、踏ん切りがついた(笑)。お隣の大陸国ではついぞ聞けないような、おもてなしの声掛けだ。
東芝製エレベーターで89階までスムーズに運ばれる(因みにビルの施工は熊谷組を中心としたJ/V)。確かに雲に覆われてよく見えないが、雲が思いのほか速く流れて、その切れ間に、遠く山並みや河も見える。382mの高さは、なかなかの絶景だった。
夜は、昔、よくお世話になった「梅子」という、日本人駐在員や出張者ご用達の台湾料理レストランに行ってみた。今なお「1965年創始店」を謳い文句に(ということは当時既に20年以上も操業していたのか・・・)健在である。先ずは、しじみの醤油漬け(蚋仔)でビールを飲む。生のしじみだけど腹をこわさないだろうかと恐る恐る口に運んだ当時のことを思い出す(今は平気だけど)。日本人慣れした商売上手なおばちゃんが、高めの紹興酒を勧めて来る。紹興酒は温めて、ザラメ糖か梅干しを入れるのが一般的だと思っていたら、台湾ではそうじゃない、生姜の千切りを漬けると美味いのだという。お勧め通りに頼んでみたら、確かにアルコール臭さが抜けて、まろやかになって美味い(その分、飲みやすくて、飲み過ぎてしまう)。それから、空芯菜の炒め物や、イカダンゴと通称していた炸花枝丸(イカボールのから揚げ)は外せない。メインは、広東風に胡麻油で蒸した魚料理を頼んでみる。片手に収まる大きさのカップ(Bowl)に入った担仔麺で締める。至福のときだ。
なお、昼は街に出て・・・と言いたいところだが、都合によりホテルのレストランで、それでも庶民的な牛肉麺を食べた。今回の出張で、何をさし措いても口にしたかったものだ。日本にはない味付けだが、クセになる美味さだ。それから、日本の職場へのお土産は、定番のパイナップルケーキ(鳳梨酥)。東アジアの戦略環境厳しい折りから(とは唐突で大袈裟ながら)、日本人として台湾は大事にしなきゃ、と思うのだった。
上の写真は、おばちゃんに勧められた10年モノ紹興酒と、生姜を漬け込んだところ。
この30年弱で、さすがに台湾の街並みもちょっとは変わったようだ。なにしろ当時、台湾は、韓国、香港、シンガポールと並び四匹の(昇)龍などと呼ばれてアジアの経済成長を牽引し、当初NICs、その後NIEs(台湾はCountryではないとクレームされてNewly Industrializing Economiesと言い換えられた)と、もてはやされた。街は薄汚れて猥雑だったけれども、妙に油断ならない活気があった。ところが30年の年月を経て、当時はなかった地下鉄が東西南北に走って便利になった。街行く台湾の人々の身なりも随分垢抜けたように思う。今回、一泊二日の短い出張で、街をうろつく時間がなかったが、見覚えのあるデザインの時計をロゴ抜きで安く売っている店の奥には鍵がかかる小部屋があって、そこでは店頭でロゴ抜きだった時計に有名ブランドのロゴをつけたマガイモノを売る・・・といった怪しげな商売は、もはや見当たらないのだろう。路地裏の本屋は、宮沢りえちゃんの写真集発売から間を置かずしてコピー本を当たり前のように並べていたが、それもないのだろう。怪しげな、という意味ではマッサージもやる床屋が街のあちらこちらにあったものだが、すっかり見かけなくなった。リヤカーの屋台も減って、レストラン、中でも日本食レストランが随分増えて、益々、日台は近くなった。そして(10数年前のことになるが)台北101なる高層ビルも登場した。屋台の姿を見かけない分、かつて排気ガスに油っ気を含んだまったりとした空気は今は澄んでいるが、肌にまとわりつく湿気と温かさ(いずれも物理的のみならず、甚だ心理的な意味合いをも含んでいる)は変わらない。
それと言うのも・・・僅かな時間の合い間を縫って、台北101とやらに初めて登ってみたときのことだ。「おのぼりさん」とは、かつて京都に行くことを「のぼる」(上京する)と言い、今、東京駅に向かう電車を「上り」と言うように、都会に出る(向かう)人のことを言うのだが、高いところに「登って」見渡したくなる心境をも併せ表現しているようで、実に優れた言葉だ(笑)。入場料は600台湾元(日本円で約2200円)と高いので一瞬迷っていると、チケット売り場のおねえさんが、今日は曇りでよく見えないけどいいですか?と優しく声をかけてくれて、二度と来ないかもしれないからと、踏ん切りがついた(笑)。お隣の大陸国ではついぞ聞けないような、おもてなしの声掛けだ。
東芝製エレベーターで89階までスムーズに運ばれる(因みにビルの施工は熊谷組を中心としたJ/V)。確かに雲に覆われてよく見えないが、雲が思いのほか速く流れて、その切れ間に、遠く山並みや河も見える。382mの高さは、なかなかの絶景だった。
夜は、昔、よくお世話になった「梅子」という、日本人駐在員や出張者ご用達の台湾料理レストランに行ってみた。今なお「1965年創始店」を謳い文句に(ということは当時既に20年以上も操業していたのか・・・)健在である。先ずは、しじみの醤油漬け(蚋仔)でビールを飲む。生のしじみだけど腹をこわさないだろうかと恐る恐る口に運んだ当時のことを思い出す(今は平気だけど)。日本人慣れした商売上手なおばちゃんが、高めの紹興酒を勧めて来る。紹興酒は温めて、ザラメ糖か梅干しを入れるのが一般的だと思っていたら、台湾ではそうじゃない、生姜の千切りを漬けると美味いのだという。お勧め通りに頼んでみたら、確かにアルコール臭さが抜けて、まろやかになって美味い(その分、飲みやすくて、飲み過ぎてしまう)。それから、空芯菜の炒め物や、イカダンゴと通称していた炸花枝丸(イカボールのから揚げ)は外せない。メインは、広東風に胡麻油で蒸した魚料理を頼んでみる。片手に収まる大きさのカップ(Bowl)に入った担仔麺で締める。至福のときだ。
なお、昼は街に出て・・・と言いたいところだが、都合によりホテルのレストランで、それでも庶民的な牛肉麺を食べた。今回の出張で、何をさし措いても口にしたかったものだ。日本にはない味付けだが、クセになる美味さだ。それから、日本の職場へのお土産は、定番のパイナップルケーキ(鳳梨酥)。東アジアの戦略環境厳しい折りから(とは唐突で大袈裟ながら)、日本人として台湾は大事にしなきゃ、と思うのだった。
上の写真は、おばちゃんに勧められた10年モノ紹興酒と、生姜を漬け込んだところ。