風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

国家と社会の関係

2021-07-31 21:07:55 | 時事放談
 東京オリンピックのメダル・ラッシュで盛り上がっているときに、それだからこそ余計に、というところが天邪鬼の私にはあって、関係がないことに目移りして、宇野重規教授の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)の「国家」と「社会」の関係に関する論考が刺激的で、いろいろ考えさせられた。中学・高校時代の定期試験中にかかわらず、本棚のどうでもいい本をつい手にとって暫し夢中になる、あれ、である(笑)。ちょっと長くなるが引用する。

(引用はじめ)
 封建社会において、主権は存在しましたが、実質的な権力は各地に散らばる封建領主の間で分割されていました。
 それぞれの領主は自前の軍事力を持ち、司法を行い、秩序を維持しました。
 領主たちは国王に対して奉仕義務を持ち、戦時には自ら軍を率いるなど貢献を求められました。
 とはいえ、平時における国王の歳入のほとんどは、自らの直営地から得たものでした。当然、大規模な常備軍や官僚制を持つことは不可能です。
 このような状態から出発したものの、やがて西欧の王権は、初期は司法権の掌握を通じて権力を拡大し、その後は戦争の必要から、次第に領土全体への徴税権を拡大していきました。
 やがて、国王の個人的資産としての国家(家産制国家)から、人々からの幅広い納税によって支えられる国家(租税国家)へと成長を遂げます。
(中略)
 ここで重要なのは、西欧において国家システムが整備され、中央集権化が進む一方、これに対抗する社会の力も強まって行ったことです。
 身分制議会はあくまで特権者のための機関でしたが、これが次第に国家に対する抵抗の拠点になったことは間違いありません。
 国家が一方的に強くなり社会を従属させると専制国家になりますし、国家が弱体で社会の抵抗だけが強ければ無秩序に陥ります。
 これに対し、両者の間に均衡がある場合にのみ、国家は社会に対して一定の説明責任を持つことになりました。
(引用おわり)

 中世から近世・近代にかけての遷移、「国家」体制確立への過程を簡にして要を得て描写して余すところがない。「国家が一方的に強くなり社会を従属させると専制国家になる」・・・まさに現代の中国やロシアがそうだし、「国家が弱体で社会の抵抗だけが強ければ無秩序に陥る」・・・アラブの春の後の中東が想起される。
 ここで、「国家」や「社会」について厳密な定義なしに語られているのは残念だが、私なりには「国家」=擬制、「社会」=実体と漠然と捉えている。「国家」は、「社会」の安全を維持するための便宜的な枠組みに過ぎず、その領域内で執行権(警察権など)や司法権(裁判権)を行使し、秩序を維持するもの、という理解だ。
 中国では、今、共産党が統治する。西欧と違って選挙による洗礼を受けることなく、むしろ中国に古くからある秩序意識、「天子が命を天に受けて主権者となるという思想」を尊重し、「したがって主権者の交替ということはすなわち天命を改めることであるというところから、これを革命と称した」ことに従う(小島祐馬著『中国の革命思想』より)のであって、強権でならす中国共産党と言えども、人民を最も恐れ、統治の正統性・正当性を担保するべく、「国家主権と領土保全を守る」ことよりも、「国家の基本制度(共産党による統治)と安全」の維持を優先し、そのために「経済社会の持続的で安定した発展」を期してやまないのである(Wikipedia「核心的利益」を参考)。西欧の歴史と比較して初めて、中国という国家の特殊性が理解できるように思う。
 他にも宇野教授の本には、新書ならではの平易な中に、学術的な裏付けのある興味深い記述が多くて、勉強になる。

(引用はじめ)
 完全に隷属した人々は、自らの隷属に不満を感じることすらありません。
 むしろ、自分もまた一人の人間であることを自覚した人々が、それゆえに残された不平等に不満を持つのです。
(引用おわり)

 これは、フランス革命の原因を説明したところで、フランスは、ヨーロッパのより東の地域と比べて、農民の解放が進んでいたそうで、隷属した農民たちが悲惨な状態に反発して立ち上がったと言うよりは、既に隷属した地位を脱していた農民が、そうであるがゆえに、同じ人間でありながら特権を享受する層に不満を募らせたそうだ。
 中国は格差社会と言われ、国内の都市と農村との間に戸籍(とそれに伴う地位)の違いが厳然としてあって、非常に不安定だと言われる。歴史に学ぶとすれば、習近平政権の最近の強権主義は、フランス革命前夜のような不安定を抑えるために、社会統制を強めていると見えて仕方ない。
 世間では「米中対立」とか「新冷戦」などと喧伝される。Voice 8月号に、垂秀夫・駐中国大使のインタビューが掲載されており、大部分は公式発言でとりたてて興味を惹かなかったが、以下ご発言には思わず膝を叩いて賛同したのであった(笑)。

(引用はじめ)
 日本では一般的に「強い中国」「怖い中国」というイメージが定着していると思いますが、私の中国のイメージはむしろ「脆弱な中国」「不安定な中国」です。
(引用おわり)

 折しも、東洋経済7/24号は中国を特集し、「世界の覇権か、落日の老大国か」とサブ・タイトルされていて、そのコピー・ライティングの上手さには脱帽したのであった(笑)。
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東京五輪・開幕

2021-07-28 01:14:26 | スポーツ・芸能好き
 呪われた五輪というのは、麻生副総理が言われたのだっただろうか。まさに呪われたほど直前まで不祥事が続き、始まってなお賛否両論が絶えず、開会式の黙祷の場面では場外から「五輪やめろ」のデモの声が響いて、清少納言ならさしずめ「あな、あさまし」などと眉を顰めたのではなかろうか(笑)。一体、この混乱をどう収拾すればいいのか。
 既に5日目に入って、連日、繰り広げられる熱戦に、涙をぼろぼろ流しながら感情移入する私は、パンデミックで荒んだ心がすっかり浄化されたかのように爽やかである(笑)。もはや開会式のことなどどうでもいいが、とりあえず順を追って書き残すことにしたいと思う。
 何より印象に残るのは、天皇陛下の開会宣言は、もっと大仰なものかと思っていたら、「全文」を伝える記事には僅か一行、「私は、ここに、第三十二回近代オリンピアードを記念する、東京大会の開会を宣言します」というだけのシンプルなものだったことだ。過去には、「オリンピアードを」「祝い」と言われて来たところ、「記念する」と言い換えられたところに、現下の環境における天皇陛下の、そして世間の苦悩が凝縮しているように思えた。
 海外のメディア報道は、開会式を揶揄するものもあるにはあったが、「非常に控えめなセレモニー」(英ガーディアン紙)だとか、「簡素だが、詩的、文化的側面は劣っていない」(仏国営テレビ)だとか、「カラフルではあるが、妙に落ち着いたセレモニーが独特なパンデミックの中でのオリンピックにふさわしい雰囲気を醸し出した」(AP通信)などと、大人の寛容を見せてくれたものだけ引用しておく(笑)。ベルギー通信社ベルガの記者に至っては、「厳しい状況だが、大会中止より、無観客でも開催される方がいい。他の国がホスト国だったら、日本のように開けるかは分からない」とまでヨイショしてくれた。他方、NYタイムズ紙のように、「2016年のリオ五輪では施設の建設が遅れた問題があった。五輪が始まる前はいつもネガティブなニュースが出る」と指摘し、現在の東京五輪に対する批判も特別な状況ではないといった冷静な声もあった。いやまさにその通りなのだ。だからこそ、根本に立ち返るべきなのだが、これについては後述する。総じて、社交辞令を剥ぎ取ってしまえば、無観客であるのはやはり寂しく、世界的なイベントに相応しい派手さに乏しい、地味なものだった、ということに尽きるのかも知れない。そのため、当初、東日本大震災からの力強い復興を示すことを目指しながら、パンデミックに今なお翻弄されて打ち勝ったことすら示すことができず、メッセージ性がないと、実に安易で残酷な言い草まであった。しかし、メッセージなど、所詮フォーマリティを整えるための自己満足でしかなく、そこに拘る必然性はもはや乏しいように思う。
 選手団の入場行進に使われたのは、ドラクエやFFなどのゲーム音楽だった。此度のオリンピック参加世代には恐らく馴染みのものだろうし、日本が世界に誇るポップ・カルチャーの代表であるのは間違いないが、私のようにゲームに関心がない者は物足りなく思ったに違いない。
 50種目のピクトグラム・パフォーマンスは、欽ちゃんの仮装大賞のようだと揶揄する声があった。日本人らしい職人技はなかなかよく出来ていると思う一方、世界の檜舞台でこの手作り感がどこまで通用するのか疑問に思っていたら、案に相違して、そのコミカルな動きが好感を集めたようだ。NBC Olympicsのウェブサイトでは、「オリンピックの開会式には、厳かで感動的なものなど多くの印象的な場面があった。しかし“人間ピクトグラム”のパフォーマンスほど純粋に楽しめたものはない」などと紹介された。
 さらに、競技場の上空で1824台のドローンが市松模様のエンブレムを形成したかと思うと、地球の形に変わるパフォーマンスを見せて、日本の技術は素晴らしいと感嘆する声があがった。しかし、使われたのは米インテルのShooting Starシステムだった。因みに、2018年の平昌五輪でも使われたが、本番でトラブルがあったため、事前に撮影された映像が使われたらしい。なお、2~3年前に中国が100機超のドローンを軍事演習に使って話題になった。しかし、軍事で言うところの「ドローン・スウォーム」は、本来は各ドローンが自己判断で自律戦闘を行う徘徊型兵器であり、さらに群れの仲間同士で連携を行いながら、群れ全体が一つの生き物のように戦う群体兵器システムであって、敵と味方と非戦闘員を識別して戦闘を行うには高度な人工知能を完成させる必要があり、実用化はまだ当分先の話のようで、予めプログラムされた今回のような趣向とは次元が違うようだ。
 ことほど左様に、いまどき、何をするにしてもcontroversialにならざるを得ない。オリンピックという格式を重んじる方からは厳しい目が向けられ、三枝成彰さんは、「ロンドン五輪では英国を代表する指揮者のサイモン・ラトルが演奏し、北京五輪では国際的映画監督のチャン・イーモウが演出した。どちらもその国の文化の顔ともいえる人物で、スポーツと文化の大国であることを十分にアピールしていた。東京五輪の人選にはそうした文化への深い理解がまったく感じられない。元文科相や政府首脳らのお歴々が、歴史、哲学、芸術などのリベラルアーツを知らないからこうなるのだ」と手厳しい。その限りでは仰る通り。たけしさんは、「きのうの開会式、面白かったですね。ずいぶん寝ちゃいましたよ」と皮肉を交えながら、「驚きました。金返してほしいですよね。税金からいくらか出ているだろうから、金返せよ。外国に恥ずかしくて行けないよ」と、これまた突き放された。巨匠には物足りなかったのかも知れない。
 誰のための五輪か?といった議論もあった。こうした国際的な舞台を日本が演出するのは、もはや私の世代が思うほど晴れがましいものではなく、成熟した日本が国民の総意として歓迎するのは難しいのかも知れない。子供の頃、大坂万国博覧会に心躍らせ、札幌五輪のテレビ放映にかじりついたといった記憶は、スガ総理が国会で、子供たちに夢を見させたいというような答弁をされたことと大同小異で、昭和という時代のノスタルジーでしかないのかも知れない。今や海外には(パンデミックさえなければ)簡単に出掛けることができるし、SNSでリアルタイム・コミュニケーションを取ることができ、多様性と調和といった五輪テーマとは真逆の、トランプ氏のように自国第一を公言して憚らないアメリカ合衆国大統領が登場する時代である。日本代表というプレッシャーに圧し潰されて自害された円谷幸吉さんのような方はもう出て来ないだろう(と言う意味では、実感と言うより観念的に日本を捉えているのではないかと思える大坂なおみさんが3回戦で敗退して謝罪したのは、ちょっと気の毒だった)。むしろ、オリンピックでなくとも、実力を試すために物おじすることなく世界の舞台に飛び出し、のびのびとプレーし、プレッシャーさえ楽しむような時代だ。他方で、旧態依然たるIOCの運営が物議を醸し、コマーシャリズムや五輪貴族ぶりが批判された。テニスの参加選手からクレームがあがったように、日本のこのクソ暑い時期の、しかも最悪の時間帯に競技を行わせる理不尽が、最大のスポンサーであるアメリカに配慮されたものであることを知らない者はない。かつて8割の日本人が東京五輪誘致を歓迎し、今、8割の日本人が延期や中止を訴えるのは、パンデミックの閉塞感がもたらすストレスのせいではないのではなく、こうした前時代を引き摺る五輪の虚飾に嫌悪しているに過ぎないのではないだろうか。競技が始まれば、日本人は熱中すると、スガ総理は見切っておられたようで、その限りにおいてはその通りだが、根本的な不信が消えるものではなさそうだ。もはや金満国しか誘致出来ないほどにぶくぶくに膨れ上がった肥満体の五輪は、手垢にまみれて、魅力に乏しく、見苦しくすらある。いっそのこと持ち回りを止めてアテネでの永久開催にしてはどうかという斬新な意見が出ていたが、そういうことを考えてもよいのではないかと思う。純粋に、スポーツのドラマ性に、限界に挑む人間の美しさに、感動するだけでよいのではないかと思う。
 そんな中、唯一、選手団の入場行進が「あいうえお」順であったことに新鮮な驚きを覚えた。台湾がこれまでの「チャイニーズ・タイペイ」の「チャ・・・」ではなく「タイペイ」に基づいて、大韓民国とタジキスタンの間に登場したこと、NHKの和久田麻由子アナウンサーが「台湾」と紹介したことは、台湾の多くの人を歓喜させた。他方、米NBCテレビは、中国の選手団の入場行進の際、台湾を含まない中国の地図を画面上に映したため、中国から「中国人民の尊厳と感情を傷つけた」としてクレームを受けた。今だに国民ではなく人民と呼ぶのは奇異以外の何ものでもないし、「人民の尊厳と感情を傷つけた」などと文句を言う国も、この広い世界に他にいなさそうだ(いや、韓国や北朝鮮はそれに近いことを言うかも知れない 笑)。そんな中国の、歴史を逆行するような在り様もまた、いずれ手厳しいしっぺ返しを受けるのではないかと思う。
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パンダ外交

2021-07-22 12:18:03 | 時事放談
 上野動物園のジャイアントパンダに双子の赤ちゃんが誕生して、かれこれ一ヶ月になる。二日前のニュースによると、体重は6倍以上となり、健康状態は良好、耳の周りなどの黒い模様がハッキリしてきて、よりパンダらしくなってきたという。これまでは赤ちゃんにつきっきりだったお母ちゃんパンダのシンシンも、食事の時など短時間ながら子どもから離れるようになったのは、赤ちゃんが順調に成長し、安心して子育てができるようになったからだという。
 生まれたときには、戦狼外交で知られる中国外務省の副報道局長も、記者会見で、「大変うれしい。姉のシャンシャン同様、中日人民の友好感情を増進する使者になるようお祈りする。当然、中日関係にとっても良いことだ」と歓迎した。まさに、パンダ外交である。
 ワシントンのシンクタンクAEI(American Enterprise Institute)は先月、”Pandas: China’s Most Popular Diplomats”と題する調査報告を発表した。
 中国が外国との友好のためにパンダを活用した歴史は、685年、唐の時代に則天武后が日本の天武天皇に2頭を贈ったときにまで遡るそうだ。中華人民共和国になってからは、1957年にソ連に対して共産主義国家同士の連帯と友好の証に、2頭を贈ったのが最初だという。勿論、一時、絶滅危惧された貴重な資源なので、見境なく配るわけはなく、主に経済関係を含めて外交上、重要な国が対象で、2020年現在、貿易量が多い順に見ると米国(11頭)、日本(9頭)、韓国(4頭)、台湾(2頭)、ドイツ(4頭)、オーストラリア(2頭)、マレーシア(2頭)、ロシア(2頭)となるらしい。最近は贈与ではなくレンタルなので、一層、中国の裁量が働きやすくなり、2010年2月にオバマ大統領(当時)が中国政府の反対を押し切ってチベットのダライラマに面会すると、中国側は、抗議の意味を込めて米国で生まれたパンダ2頭を即座に引き取ったそうだ。その後、オバマ政権下で南シナ海での中国の軍事膨張などをめぐる対立が始まると新しいパンダの貸与はなくなり、トランプ政権で米中対立がさらに激しくなると、サンディエゴ動物園の2頭は予定より数年早く中国へ引き戻され、ワシントン国立動物園の2頭も当初合意された貸与期間10年よりも7年も早く、2023年に中国へ返還される方針が発表されたという(このあたりは古森義久さんコラムから抜粋)。
 報告書のExecutive Summaryによれば、パンダは「国際的なミッション」を負った「パンダ外交官」であり、一定の目的に資するものである以上、その政治的動機は確認しておいた方がよいこと(According to the Global Times, a state-run news outlet, giant pandas go on “international missions” and are “panda diplomats.” Since giant pandas serve policy purposes, we should examine how the PRC deploys them.)、パンダの貸与は、対外関係を補完するソフトパワー外交の一部として慎重に検討され、束の間、善意を示すものとして、しばしば外交イベントや貿易取引に合わせて実施されるが、その効果のほどは限定的で、長期的に見るとポジティブな関係を維持するには至っていない(The PRC’s deployment of giant pandas is a deliberate part of its soft-power diplomacy that complements its broader bilateral relationships.(中略)Panda diplomacy provides a momentary injection of good-will and often coincides with major diplomatic events and trade deals. That being said, panda diplomacy is a limited tool, and it cannot sustain positive relations between China and panda host countries in the longer term.)、と総括する。これも、なんだかんだ言って、世評とは裏腹に中国のやることは必ずしも戦略的ではないことの証左のような気がする。
 愛らしいパンダに罪はない。いくら愛らしいと思っても、それは飽くまでパンダのことであって、その背後に中国共産党の影を見ることはない。現実には、馬脚ならぬ狼脚をあらわす戦狼外交まっさかりで、むしろその落差を異様なものとして際立たせるキッカケになっているのではないだろうか。
 上の写真は、10年前のものなので、お父ちゃんのリーリーか、お母ちゃんのシンシンか。夢中で竹をむさぼる姿は主客逆転だが「ぬいぐるみみたい」でカワイイ。
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韓国の革命政権

2021-07-20 00:58:24 | 時事放談
 文在寅大統領が東京五輪に合わせた訪日を行わないことを発表した。双方による神経戦などと報じるメディアがあったが、韓国が自らの願望を叶えるべくあれこれ注文をつけてハードルを上げて、結局、日本から拒否されるという、いつもの韓国の一人芝居と言わざるを得ない・・・という意味で溜息しか出ない。
 文大統領にしてみれば、一度は東京五輪という晴れの舞台を利用して、(平昌五輪の夢の再来を期して)北朝鮮との対話を画策したが、北朝鮮にあっけなく拒絶された。その後、地方選で敗北し、コロナ防疫で成功を自慢したはずがワクチン対応で失態を犯し、残り任期一年を切って、次の大統領選で与党敗北となれば、これまでの韓国大統領の悲惨な末路に倣って、自らの身にどんな不幸が降りかかるか知れたものではない恐怖に苛まれていることだろう、輸出管理強化といった負のレガシーを残したくないという、二度目の野心に燃えて、「成果」を掲げて東京五輪を利用しようとしたが、日本側にあっさり拒絶された。
 その間、韓国政府は7月8日、培材大学校のカン・チョルグ日本学科教授の「素材部品・装備で世界的な技術強国への跳躍」という寄稿文を要約した4枚のカードニュース(イメージと簡略なテキストで構成された記事)を制作し、政府公式ツイッターをはじめとするインターネット上に公開したところ、2頁目の「衰退する日本、先進国格上げの大韓民国」というタイトルが外交非礼だとして炎上し、こっそり削除した(李正宣氏のJBpress寄稿による)。日本に勝ちたい、日本の不幸を望む、というコンプレックスは、傍迷惑なだけだが、根深いものがある。
 また、東京五輪の選手村に、「臣にはまだ5千万国民の応援と支持が残っている」という、秀吉の朝鮮出兵で「抗日の英雄」として知られる李舜臣の言葉を連想させるハングル語メッセージを垂れ幕に掲げて、IOCから「政治的な宣伝を禁じる五輪憲章第50条に違反する」と撤去要請を受け、垂れ幕が撤去されて、一件落着と思ったら、今度は、虎の形をした朝鮮半島の絵が描かれ、ハングル語で「虎が降りてくる」との文字が添えられた垂れ幕を掲げたという。これも秀吉が朝鮮出兵時に加藤清正に命じた「虎狩り」を根に持っていることが表現されているとされる(このあたりはAERAによる)。折角の平和の祭典に、偏執的とも言える反日行動は、何とかならないものか。(あるいは慰安婦像と同じで、一部の活動家の行動を放置して利用する)韓国政治の弱さが露呈する。
 さらに、本ブログ冒頭で「一人芝居」と呼んだような文政権の外交姿勢を、在韓日本大使館の公使が、韓国メディアとの非公式の懇談の場で、性的な表現を使って揶揄していたことが発覚し、韓国側はこの問題と文大統領の訪日をリンクさせて、公使の処分が大統領訪日の前提条件になるかのような態度を取ったらしい。言わば幕引きに利用したわけだ。
 この一連の騒動について、ある外務省幹部は「韓国側が懸案について、解決策を示すという外交的決断ができなかったことが全てだ。これでしばらく日韓関係は動かないし、ダメだろう」と淡々と語ったと、日テレNEWS24が報じた。残念ながら、それに尽きてしまう。
 文氏が政権を握ったとき、革命政権と呼んだ朝鮮半島専門家がいた。何を大袈裟なと思ったものだが、その後の4年余りを振り返ると、まさに自らの正義を押し出した歴史観(保守・軍人政権の歴史をひっくり返すという意味では革命的)と(北になびく)民族主義に殉じて、革命的に日韓関係を破壊したことを痛感する。こうした日本人一般の受け止め方について、ご本人は微塵も想像できないことだろう。
 もっとも、日本だって10数年前、(文氏と同様の)ただの市民活動家にすぎない人物を首相に担ぐことになる政党に投票して政権交代を実現させたことがある。その悪夢を経験した日本人は、その後、どんなに与党政権がお粗末でも、当該政党への支持を復活させない。心ある韓国の方々には大いに反省して頂きたいものだと思う。
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オールスター・宴のあと

2021-07-18 11:19:06 | スポーツ・芸能好き
 AP通信によると、オールスター戦のテレビ視聴率は、前回(2019年)の5.0%を下回り、4.5%と過去最低となった模様だ(但し視聴者数は前回から約1%上昇したという)。此度の宴の目玉がアメリカ人じゃなかったから、という理由もなきにしもあらずだが、むしろメジャーリーグ人気は長期低迷しており、それ故に、日本人であっても二刀流の素晴らしさは疑いようがなく、懸命にプロモートした、というところだろう。
 日本では、かつて子供が好きなモノ三傑として「巨人・大鵬・卵焼き」などと言われたことがあった。私も子供の頃は、大鵬(というより輪島・北の湖の時代だったが)やONを応援したし、今の週休二日と違ってたった一日の貴重な日曜日に友達と野球に興じたものだったが、かれこれ50年近く前のことである。1990年代にJリーグが始まり、その後はTVゲームやSNS全盛で、野球人気は長期低迷し、既に地上波で放送されなくなって久しい。
 それでも、大谷の凄さを知るのは実力者たちそのものだ。前回ブログで引用したUSA TODAYは、大谷がロッカールームでメジャーのスター選手たちからサイン攻めにあう様子を伝えた。
 野球マニアの間でも異様な盛り上がりを見せている。2018年の直筆サイン入りルーキー・カードが米国の大手ゴールディン・オークションズで$148,330(ざっと1500万円超!)で落札されたらしい。MLBのオークション・サイトを覗くと(日本時間18日11時現在)、オールスター戦で使用されたものと同型のユニホームが選手の直筆サイン入りで65選手分、出品されていて(ア・リーグのものはパジャマかと揶揄されたが)、大谷は入札数100で、なんと$111,120の値を付け、2位のタティス(入札数40、$5,010)、3位のゲレロ(入札数45、4,030ドル)、4位のジャッジ(入札数47、$3,010)を大きく引き離している(最安値は$300、オークションは21日迄)。ちょっと気持ち悪いほどだ。人気が長期低迷するメジャーリーグにあって、彼が救世主であるのは間違いない。
 いやアメリカ社会にとっても救世主と言ってよいのではないだろうか。Covid-19のことをChina Virusと呼ぶ大統領がいて(デルタ株をカッコ書きにしてインド株と呼ぶくらいだから、その呼称自体を否定するものではない、それを大統領が言う?という話で、そこがトランプ氏のお茶目なところ)、未曾有のコロナ禍で鬱屈したアメリカ社会の各地でアジア系(および太平洋諸島系)アメリカ人(AAPI:Asian American and Pacific Islanders)に対する嫌がらせが多発したことは、BLM運動以来、社会の分断を煽るものとして、心あるアメリカ人の心を痛めてきた。それだけに、大谷の野球の実力もさることながら、気さくにサインに応じる人柄や、周囲にさりげなく目配り・気配りできるオトナのマナーや、不調が続かないメンタルの強さ・穏やかさや、純粋に野球が出来る喜びを(危険や疲労を顧みず)走攻守、全身で表現する天真爛漫さ、言わば優雅な振舞いが、多民族国家アメリカにおけるアジア人の控えめな自己主張となり、それらが称賛を受けるたびに、アジア系アメリカ人には大いなる癒しとなっていることだろう(と、かつて滞米中に野茂に癒された私はそう思う)。
 一日半前のUSA TODAYは、”Shohei Ohtani's MLB All-Star jersey draws $111,000 bid – a six-figure edge over next player”と題して、オークションの様子を伝えるとともに、ESPNのパーソナリティ Stephen A. Smith氏が、大谷が英語が話せないことを批判して謝罪に追い込まれたことに触れながら、才能と実績とカリスマ性こそが重要なのだと結んでいる(Not that it particularly matters. Talent, production and charisma remain louder than words.)。このあたりは根深いものがある。日本の大相撲で活躍するモンゴル人力士が、ただでさえ例えば横綱らしくないなどと批判する人(私も含めて)がいる中で、日本語を全く話さないとしたら、どう思うか? という問題に近い(もとより日本とアメリカではそもそも国の成り立ちが違うし、大相撲=伝統芸能≠格闘技を理解するのは難しい)。
 此度のオールスター戦でMVPを獲ったブラディミール・ゲレロ・ジュニアのお父ちゃんがルーキーイヤーのときの直筆サイン入り野球カードを引き当てたことがある。今も押入れの奥にあって、野茂のものだったら大いに自慢するところ、ゲレロなので(とは言いつつ個人的には超お宝なのだが)、取り出すのが面倒なので諦めた・・・
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オールスターは大谷のもの

2021-07-15 01:06:08 | スポーツ・芸能好き
 大谷翔平選手がMLBオールスター戦に史上初めて投打「二刀流」で出場した。先発登板は日本人選手として野茂英雄以来26年振りであり、勝利投手は2019年のヤンキースの田中将大以来二大会連続で日本人が獲得することになった。
 ア・リーグの指揮官を務めるケビン・キャッシュ監督は、「ルール上、大谷には、2人の選手として出てもらう」と語った。本来、大谷が投手として打席に入る場合、DHを解除しなければならないが、そうなると、「投手が打席に入るたびに代打を出したり、ダブルスイッチ(投手交代時に野手も同時に交代させ、投手の打順を入れ替える策)を頻繁にしたりしなければならない」 「自分が混乱しそうなので、リーグにルール変更をお願いした」ということだ(日経新聞・丹羽政善氏コラムより)。
 それにしても、「二刀流」大谷を見せるためにあっさりルールを変えさせるほどの大谷フィーバーは、私たち日本人の想像を軽く超えている。
 野球ジャーナリストのBob Nightengale氏は、USA TODAYに寄せたコラム: 'Simply thankful' Shohei Ohtani calls MLB All-Star Game the most memorable experience of his careerで、大谷はMVPに推されなかったし、打者としてヒットを打たなかったし、投手として三振を取れなかったが、そんなことはどうでもよい、今宵は大谷のものだった、と書いた(He wasn’t voted the MVP, that honor went to Vladimir Guerrero Jr. He didn’t produce a hit, or even get the ball out of the infield in two plate appearances. He pitched a 1-2-3 inning, but didn’t strike anyone out. It made no difference. The night, with the American League winning the All-Star Game, 5-2, for the eighth consecutive year Tuesday night at Coors Field, still belonged to Shohei Ohtani of the Los Angeles Angels.) 日本人として誇らしいのを通り越して、訝しいほどの異常事態である(笑)。
 実際、前日のホームランダービーでは一回戦で二度の延長の末に惜敗したものの、500フィート(152メートル)以上の本塁打を参加8選手中で最多の6本も放ち、オールスター戦では全19投手の中で最速の100.2マイル(161キロ)をマークするなど、その実力の片鱗を見せつけている。先頭打者として、初回の1打席目は二ゴロに終わったが、初球から(本塁打を)狙って行ったようだし、投手として、全部(三振を)取りにいくつもりで行ったようで、その躍動は眩しいばかりだ。
 Wall Street Journal紙は、「マウンドではノーラン・ライアンの速球、打席ではケン・グリフィー・ジュニアのパワーを兼ね備えた投打の『二刀流』で旋風を巻き起こす大谷」と書き(因みにスポーツ・イラストレイティッド誌は「ウィリー・メイズのように打ち、ロジャー・クレメンスのように投げている」と書いた)、「100マイルの速球と本塁打の組み合わせは前代未聞」であって、「DH制によって、投手として登板しない日に野手として出場せずに打席に立てること」は過去の選手(とりわけベーブ・ルースの時代)にはない利点としながら、「これまでの常識では、5日に1度のペースで登板し、その間に打席に立つということは、心身への負担が大きすぎてうまくいかないとされてきた」 「仮にルースが二刀流で活躍できるほどの投手だったとしても、肉体的にそれが可能だったのか」と問いかけ、「大谷は日本のベーブ・ルースではない。最初の『ショウヘイ・オオタニ』であり、唯一無二の存在だ」と絶賛した。
 日本でも「エースで4番~」などと歌われるが、昨季のナ・リーグMVPを獲得したフレディ・フリーマン氏は、「米国にももちろん、高校、大学までなら、二刀流選手はいる。ここにいるオールスターの連中なら、みんなそうだったんじゃないかな。俺だってそうだった。でも、いろんな理由でそれをあきらめる。俺はケガをしたけれど、先が見えない、ということが一番大きい。でもこうやって、大谷がその先にゴールがあることを示してくれた。これで将来、才能のある若い選手が、どっちかに絞らなければいけないと、自分で限界を決めなくてもすむんじゃないだろうか。もう、どちらかに――という考えは、時代遅れかもしれない」と語った(日経新聞・丹羽政善氏コラムより)。丹羽氏は、かつてイチローがデビューし、活躍を始めると、体が小さくても大リーグで活躍できる――そんな希望を抱かせたことを彷彿とさせる、と書いた。
 実力だけではなく、球場でさりげなくゴミを拾うとか、折れたバットを拾って審判に手渡すとか、このオールスター戦でも、三人目のバッターで、昨年まで地元ロッキーズで活躍したノーラン・アレナド選手(現=カージナルス)を打席に迎えた時、スタンドのファンから大声援とスタンディングオベーションが巻き起こると、大谷はマウンドを外してファンの拍手が終わるまで見守るなど、その振舞いまでもが高く評価される。日本人で活躍したメジャーリーガーの野茂やイチローと言えば修行僧のようなポーカーフェイスが特徴的だったが、大谷は感情表現が豊かで、老若男女のファンから愛されるキャラは、今や一種のアイドルのようだ。
 大谷がオールスター戦で使用したスパイク、アームガード、レッグガードの3点セットは、早速、米野球殿堂博物館に寄贈された。これからも寄贈されるものが続出することだろう。ただでさえ苛酷な「二刀流」で、愛すべき野球小僧のように投げて打って走ることを楽しみながら躍動する彼を、これからもはらはらしながら見守ることだろう。くれぐれもケガにだけは留意して欲しいものだ。
 なお、上に添付した写真は、26年前に野茂が先発した1995年のオールスター戦記念Tシャツ。その1年前にボストンに赴任し、近所のショッピング・モールで購入したもので、一度も袖を通さないまま、タンスの奥にしまってあったのを久しぶりに引っ張り出してみた。似顔絵の中で、一番奥の右から三番目に、名前のリストでは右側(ナショナル・リーグ)の下から4番目に、野茂がいる。それ以外にも懐かしい名プレイヤーが目白押しである。(右上から)ドジャースで野茂の女房役だったマイク・ピアッツァ、遊撃手として13年連続ゴールドグラブ賞に輝くオジー・スミス、通算最多762本塁打のバリー・ボンズ、2年目から引退する迄の19年間、打率3割を切ったことがなかったトニー・グウィン(滞米中に買ったグローブには彼の名前が刻まれていた)、アメリカ外出身選手として2番目に多い609本の本塁打記録を持つサミー・ソーサ、史上最多18回のゴールドグラブ賞に輝く通算355勝のグレッグ・マダックス、(左上から)ホワイト・ソックスの永久欠番(35)のフランク・トーマス、歴代最多の2632試合連続出場のカル・リプケンJr、イチロー憧れのケン・グリフィーJr、ドーピング疑惑のHR打者マーク・マグワイア、私が駐在した地元ボストン・レッドソックスの大砲モ・ボーン、2m8cmの長身で歴代2位の通算4875奪三振を記録したランディー・ジョンソン・・・等々、なんと豪華な顔ぶれだろう。まさに一夜の夢の球宴である。日本でも二戦ではなく一戦に集中すればもっと有難がられるだろうに・・・
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パンデミック下のオリンピック

2021-07-11 20:00:07 | 日々の生活
 東京オリンピックは、開幕二週間前になって、東京・埼玉・千葉・神奈川に続き、北海道でも無観客で開催されることに決まった。東京で緊急事態宣言(明日から8/22迄)が発出されることに端を発する諸々の事情によるようだが、なんとも残念だ。
 宣言は回数を重ねるごとにその理由や目的が国民に伝わりにくくなっているように感じると詫摩佳代さん(東京都立大学教授)が語っていたが、私も今回ばかりは疑問に思う。
 政府のコミュニケーションの取り方がいま一つこなれないのは、今に始まったことではない。ドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相のように・・・とまでは言わないが、リーダーのリスク・コミュニケーションあるいはクライシス・コミュニケーションを通して国民の共感を得て信頼を醸成することは、危機に対処するための貴重な基盤を構成するはずだが、スガ首相にしても安倍前首相にしても、有事と言うよりは平時に官僚が用意した原稿を棒読みするかのようで、想像するに国民の心に響かないのは残念だ。特に安倍さんの時代にメディアとの関係性に問題があったと思うが、メディアの姿勢だけでなく政治には説明責任があって、どっちもどっちだろう。
 中でも経緯説明が足りない。本来、緊急事態宣言は医療崩壊を避けることを目的とする予防措置だと理解しており、その意味では、重症患者の大部分を占める高齢者(65歳以上)のワクチン接種が今月末で完了すると言われるので、緊急事態宣言は必要なくなるのではないかと期待していた。実際にスガ首相は三日前の会見で、「東京では、重症化リスクが高いとされる高齢者のワクチン接種が70パーセントに達する中・・・(中略)・・・重症者用の病床利用率も30パーセント台で推移するなど、新規感染者数が増加する中にあっても、重症者の数や病床の利用率は低い水準にとどまって」いると言っておきながら、「ワクチン接種が大きく進み、新型コロナとの闘いにも区切りが見えてきた中で、ここで再度、東京を起点とする感染拡大を起こすことは絶対に避けなければなりません」と、いつの間にか感染拡大を抑制することが目的化してしまっている。この目的のすり替えを聞くと、此度の宣言は(これまでの姿勢を翻して)東京オリパラを無観客にするためにこそ発出したのではないかと疑ってしまう。無論、その先にあるのは、秋の衆院選挙である。都議会選挙で負けたし、人流が活発化する夏休みを控えているし、東京オリパラをキッカケとする「失敗」は許されないと、反対派に押し切られたのではないか・・・ことの真偽はともかくとして、こうした下衆の勘繰りを呼ぶこと自体が、危機に対処するために良かろうはずはない。
 因みに、添付グラフから読み取れるように、3度目の宣言までは、いろいろ文句を言われながらも、所謂ハンマー&ダンスで、拡大する新規感染者ひいては重症者を抑えるために発出されてきた(宣言後1~2週で感染者数が、更にその1~2週後に重症者数がピークアウト)。ところが4度目の宣言発出のタイミングは、これまでのパターンを踏襲していないことは明らかだ。なんだかやり切れない。
 振返ると、日本におけるコロナ禍対応は、昨年3月以来、東京オリパラ開催の影響を受けて来た。本当はオリパラを主語にして語りたいところだが、なかなかそう出来ないもどかしさがある。長引くコロナ禍で国民が疲弊する中、メディアはパンデミック危機を煽り続けるばかりで、「さざ波」と発言すると、それでも医療逼迫してしまう医療体制(つまりは医師会や行政)が問題視されるのではなく、発言した本人が叩かれる始末である。現場の医師や国民一人ひとりの頑張りで何とか持ち堪えて、超過死亡マイナスの日本で、「国民の命が大事」という正論が必要以上に勢いを得て、かつてオリパラ誘致を祝福した多くの国民は、いつの間にかオリパラを邪険に遠ざけてしまった(ように見える)。気の毒なのは、水を差されたオリパラであり、参加する選手たちだと思う・・・というのは少数意見であることを自覚した上で、敢えて述べたい。利権まみれのオリパラの意義を問う声があがるのはその通りで、それは運用上の問題として別に議論すればよいことだ。古代ギリシアに倣ってスポーツを通して鍛え上げられた肉体を賛美し、4年に1度の代理戦争とも言われる平和の祭典を(実際の戦争以外の理由で中止することなく)開催することの意義は変わらないはずだ。そうは言っても、所詮は「余興」であり、今は戦争に準じる有事だと言われると、立場は弱い。が、それでも、政府が国民のゴンセンサスを得ることに成功しなかったとは言え、「命」と「余興」の間のバランスのとり方が、いつもの日本人らしい冷静さを欠いていた(と少なくとも私には見えた)のを残念に思う。
 私のような素人がいくら言ったところで、チンピラの遠吠えでしかないが、現役の医師である大和田潔さんが、「日本では医療崩壊するようなコロナウイルス流行は終わった」 「日本はすでにコロナと共存できる環境に無事パラダイムシフトできた」 「(オリンピックの)祭典は、コロナと共存して人間が立ち上がっていくことを証明する機会になる」 「先進国の日本からパラダイムシフトを示すことになる今回の経験は、国民の自信や誇りにつながると思う」などと、挑発的とも取れる大胆な発言をされている(下記参考)。残念ながら、ぎりぎりのところで腰砕けになってしまったが、このオリンピックは、私たち日本人が国際社会と先人から受け継いだ公共の責務を果たし、無事の開催を通してパンデミック対応の底力を見せつける格好の機会となることを願ってやまない。

(参考)「現役医師『ゼロコロナは永遠にやってこない。だからオリンピックを楽しもう』」(プレジデントオンライン 7月7日付) https://president.jp/articles/-/47500
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中国共産党100年の夢

2021-07-03 17:10:26 | 時事放談
 一昨日は、中国共産党の創立100周年記念式典があり、多くの“ケバケバしい”ニュースに触れて、ちょっと辟易してしまった(笑)。「中国共産党万歳!」 「中国人民万歳!」といった大時代な演出は、もはや日本人には違和感しか抱かれない(と思う)。もっと言うと、日本人は斯様なプロパガンダは毛嫌いするだけだ(と思う)。日本人は、そもそも江戸の昔から、政府を「お上」とたてまつる一方で自らの生活は政治から干渉されるのを嫌い、制約ある中でもそれなりに自由を謳歌して来たものなのか(この点で、司馬遼太郎さんは、江戸時代の士農工商を身分制による上下関係ではなく機能的な棲み分けに過ぎないと喝破された)、戦前・戦中のナショナリズムに懲りた日本人は、「国家」や「権力」を必要以上に忌避するようになったからなのか、よく分からない(まあ、いずれでもあるのだろう)。
 実際に、ピュー・リサーチ・センターの最新調査によると、中国に対して否定的な見方を示した回答者の割合は、(特段、苛められているわけでもない)日本が88%でダントツの一位だった(2位以下には、最近、苛められているスウェーデン80%、オーストラリア78%、韓国77%が続く、7/1付Bloomberg)。早速、中国外務省は会見で「西側諸国の反中政治家やメディアは中国への偏見に基づき嘘やデマをまき散らしている」と主張し、「少数の国の少数の人々を対象に行った」として、この世論調査自体を否定した(7/1付 テレ朝News)。
 引っ越せない隣人なので、毛嫌いしていても仕方ない。一応、中国なる国を理解しようと努めるようにしている。それで最近、感じるのは、現代の中国を理解するためには、中国の地に伝統的な秩序観(中華思想や華夷秩序など)や国家意識(革命の思想など)とともに、中国共産党という統治組織に特有の統治原理についても併せ考える必要があるのではないかということだ。その際、東洋と西洋とで似たところもあれば違うところもあり、中国共産党はその違いを乗り越えて世界に理解を求めるためにレトリックを使うので、そこにも目配りしなければならない。
 例えば、「中華民族」なるものは、56の民族を束ねた、中国共産党の独創で、言わば「中華帝国」を正当化するレトリックであろう。また、中国的な「法治」は、一見、西洋的な「Rule of Law」を思わせるが、中国では共産党が法律の上位にある「Rule by Law」であって、似て非なるもの、これも一種のレトリックであろう。
 かつて孫文は戦前の日本に対し「西洋流の覇道文化の番犬になるのか、東洋の王道文化の守り手になるのか、よく考えてほしい」と訴えたらしい。今、中国共産党が西洋的な「覇道」か東洋的な「王道」か問われれば、間違いなく「王道」と答えるだろうが、そこには大いなる誤魔化しがあり、それを糊塗するレトリックが使われる。中国共産党が人民のご機嫌を気にするのは、選挙で選ばれたわけではない引け目にほかならず、伝統的な革命思想に沿って社会の安定を第一義に考えるからで、一見、西洋由来の啓蒙思想の根幹をなす国民主権に似たところがある。それを実践するかのように、最近、法律を制定するに当たって、事前にパブリック・コメントを求めたりするので、中国も変わったもんやなあ・・・とちょっと感慨深く思うのも束の間、何のことはない、国内や国外(日本の業界団体など)のコメントや提言には一切、耳を貸すことなく、結局、中国共産党がやりたいように決めるだけのようである。レトリックに騙されず、すなわち「言葉」ではなく「行動」で判断しなければならないと、あらためて思い知った次第だった。
 今回の式典で一時間にわたり披露された習近平国家主席の演説には、歯の浮くような言説が満ちている。
 「中華の大地に全面的な小康社会を建設し、歴史的な貧困問題を解決した」と、成果を誇ったが、昨年5月、習氏と仲が良くないと言われる李克強首相は、「中国ではいまだ、6億人が月収1000元(約1万7000円)で生活している」と発言して物議を醸した。
 「(党は)中国で数千年続いた搾取と抑圧に満ちた封建制度を排除し、帝国主義と覇権主義による破壊と武力挑発を克服した」とも自賛したが、今、新たな帝国主義と覇権主義で台頭しようとしている。否、新たな、ではない。かつてナポレオンが、「中国は眠らせておけ。目を覚ましたら、世界を震撼させるから」と言ったように、その長い眠りから覚めて、しかし意識(頭の中)は1840年以前のままで、台頭しようとしている。この時代認識のギャップが、世界のあちらこちらで摩擦を惹き起こしている。
 「中国共産党は終始、人民の根本的な利益を代表し、(人民と)生死を共にする。いかなる自らの利益や権力、特権も代表しない。共産党を中国人民から分離し、敵対させようとする試みは決して成功しない」とは、中国共産党と人民との分断を狙うアメリカの暗躍(!?)を意識しての発言だが、党員と非党員とで格差があるのは公然の秘密だ。ジャーナリストの中島恵さんの知人によると、中国では中国共産党の党員になること=ステータスだと捉えられ、党に入ること自体、難しいので、それだけでも成績優秀者、人格者という証になるという。国有企業のトップは党員であることが義務づけられているし、公務員の場合は党員であるかどうかが昇進に影響する場合もあるようだ(中島恵さん『増え続ける中国共産党員 中国で中国人が中国共産党員になる方法』による。このあたりは後述)。
 「強い国には強い軍隊が必要で、強い軍隊は国防につながる」と強調するが、人民解放軍は党直下の組織であって必ずしも国家を守る軍隊ではない。天安門事件のように人民を抑圧することも厭わない。
 「中国の人民は外国勢力によるいかなる圧力、いじめも許さない。圧力を試みるものは14億人を超える中国人民の血肉で築かれた『鋼鉄の長城』の前に打ちのめされることになるだろう」と、「いじめ」られる存在に自己規定するとは、相変わらずしたたかで図々しい。さぞナショナリズムを鼓舞することだろう。これだけの大国になり、一帯一路でカネをバラマキながら、気候変動やWTOにおいては、今なお発展途上だと、演じ分ける。
 「香港人が香港を統治する。マカオ人がマカオを統治する」と述べるが、「高度な自治の原則を完全かつ正確に実行し、中央当局が香港・マカオに完全な権限を持つ」と、当たり前だが、一国二制度の内の一国を強調した形だ。党が全てなのだ。
 「台湾問題を解決し、祖国の完全統一を実現することは共産党の歴史的任務だ」と言うが、台湾の人の多くは望んでおらず、迷惑な話だ。啓蒙思想の下にアメリカは被統治者の合意が必要だとしてハワイ統合に慎重だったとも言われるが、中国にそんな慎重さは微塵もない。
 いくつか気になることがあった。
 習氏が演説したのは、いつもの人民大会堂ではなく天安門の楼台で、しかも居並ぶ幹部がダークスーツ姿だったのに対し、習氏一人だけグレーの人民服(中山服)に身を包み、別格の存在感を示した。毛沢東が建国宣言したこの地で、あの姿をなぞったということか。FNNの特派員は、「この式典は単なるお祝いではなく、習近平国家主席が自らの地位をさらに確立し、毛沢東に並ぶ絶対的な存在になるための通過儀礼ともいえる」と伝えた。
 ジャーナリストの近藤大介さんによると、「共産党成立100周年のお祭りなのに、習総書記以下、厳めしい顔つきを崩さず、誰一人ニコリともしない。習近平時代になってから、この種の祝典から「笑顔」というものが消えた」そうだ。また、演説において、「キーワードは『偉大』である。何と46回も『偉大』を連呼したのだ。特に自己の政権のスローガンである『中華民族の偉大なる復興』というフレーズで、20回も繰り返した」ということだ。何と余裕を感じさせない、窮屈な式典は、一体、どこから来るのだろう。日経の秋田浩之さんは、「習政権はなぜ、各国を敵に回して超大国への道を生き急ぐのか。主要国の当局者や識者の間では、2つの仮説が交錯する」として、「第1は国力を増し、自信過剰になっているという見立て」、「第2の仮説は逆だ。油断したら91年に崩壊したソ連の二の舞いになってしまう。こんな習氏の不安が強硬策につながっているというもの」で、「正解はいずれか片方ではなく、両方とみるべきだ」と書かれた。確かに実像への自信と虚像への不安に揺れているのだろう。
 ロイターのコラムニストは、中国共産党のことを、「国内でこれほどまでに人気が高く、一方で海外ではこれほど嫌われたことはかつてない」 「共産党指導者は支配が巧みで、野心に満ちている。しかし、危険なほどに新しいアイデアがない」と書いた。確かに、コロナ禍を克服したことで、共産党の統治は自由・民主主義体制より優れていることが喧伝され、党への信頼は高まったとの声もある。その実態は?
 冒頭に記したように、“ケバケバしい”式典記事には辟易したが、日経で、その隣に「おつまみ」のように添えられた小さい記事が印象に残る(下記参考)。「共産党員、9500万人に増加」と題するもので、毎度のことながら、中国の統計をどこまで信用できるのか疑問はあるが、党員総数より、党の高齢化が進むとして、「30歳以下の若手党員は全体の13.2%にあたる1255万人で、比較可能な15年以降で最低」 「61歳以上の党員は2693万人で、全体の3割弱」といったあたりに注目した。まあ、中国という国自体が高齢化しているのだから当然だろうが、「公務員や国有企業への就職を希望する一部学生らの間で入党希望は強い。就職や昇進に有利とされるためだ。一方で民間企業志望者や政治に無関心な若者も多く、距離を置く動きもみられる」 「党の記章は農民と労働者を象徴する鎌とハンマーからなる図案だが、党員全体に占める割合は34%にとどまった」とも解説する。これまでGDPや人口などの「量」を誇って来た中国共産党にとって、確実に進む「質」の変化こそ最大の脅威であろう。
 中国共産党は、進歩史観に蝕まれて安心し切った私を、まるで180年以上前の歴史に引き戻すかのような刺激を与えてくれる、実に奥深く、探究心をそそられる存在だ(笑)

(参考)「共産党員、9500万人に増加」(日本経済新聞 7月1日付)
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO73436410Q1A630C2FF8000/
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