前回に続き、ウォルター・リップマン著『世論』(1922年)から拾い読みする。
独裁制が機能するためには「危機感」が欠くべからざる条件であり、民主主義が機能するためには「安全感」が必須の条件だと言う(下巻P108~109)。
それは、例えば北朝鮮を見れば明らかであろう。金正恩政権は、自力での経済成長が叶わず、さりとて国を開放するほどの勇気はなく、貧しさに喘ぐ人民の不満を逸らすために、アメリカによる核攻撃という空想的な危機を自作自演し、核開発やミサイル開発を正当化している。
中国も、安定的な高度成長が叶わなくなって、チャイナ・ドリームを掲げて民族意識に訴え、社会不安を抑えるために抑圧的になり、人民の不満が昂じれば、福島原発処理水の海洋放出のように、はたまたかつての反日暴動のように、日本を外敵に見立ててガス抜きを図る(それが歯止めが効かなくなり、矛先が反体制に向かう前に、沈静化を図る)。共同富裕のために行き過ぎた市場経済を制御し、他方で反スパイ法や諸外国内で警察機能を発動するような違法行為まで犯して、社会統制(アメとムチ)に心を砕く。
ロシアにしても、NATOの東方拡大(真実は、フィンランドやスウェーデンのように東欧諸国の西方への駆け込みであろう)やウクライナ政権のネオナチ言説はただの言い訳で、真の懸念はカラー革命のような体制転覆リスクであり、ベラルーシとウクライナをヨーロッパとの間の緩衝地帯とするべく、ウクライナへの傀儡政権樹立を画策したのだろう。思惑は外れ、泥沼の(ロシア曰く)“軍事作戦”に搦めとられ、国内にあっては欧米による侵略だと危機を煽り、世界の食糧問題を欧米のせいにする。
ことほど左様に、昨今の国際社会の政情不安は、権威主義体制における統治の脆弱性にある。
だからと言って、民主主義体制も盤石ではない。そもそもジャン・ジャック・ルソーは、コルシカ革命をはじめ、民衆による統治は限定した人口の地域においてのみ有効で、18世紀中葉のフランスのような大国に適用できるとは考えていなかった。古代アテネや中世イタリアで民主制が実現したのも都市国家であった。アメリカ建国の父たちも、所詮はイギリスの立憲主義に範をとったフェデラリストであって、民主主義そのものを志向していたわけではなかった(その後、ジェファーソンやジャクソンが革命的な施策を講じていくのだが)。産業が高度化し価値観が多様化した現代社会にあって、真の意味での民主主義を実現するのは容易ではない。主権を担う国民に、異なる価値観や異見を受け容れるだけの器量がないからだ。そして、中国やロシアは、世論戦・情報戦を展開して(とりわけ欧米の)社会の分断を煽り(日本も煽られていると思うが、気づいていないだけではないか)、自らの体制の相対的優位性を際立たせようとする。こうして見ると、自由民主主義社会では、ある程度、共通の理念や理解があってこそ、意見の相違を調整し社会の安定が保たれるのであって、ウォルター・リップマンの言う通り、「危機感」とは対極の「安全感」が基本的な条件なのであろう。
体制間競争と言われて久しいが、今後、影響力を増すグローバルサウスは、価値観を議論できるほどの豊かさにはほど遠く、西側・自由民主主義体制と中・露・イラン・北朝鮮の権威主義体制との間で、経済的利益を引き出すべく現実主義的な行動を貫くことだろう。
国際社会は間違いなく流動化する。