風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

久しぶりの香港

2011-02-27 14:03:53 | 永遠の旅人
 香港は、一度、遊びで訪れたことがあるだけで、22年前のことです。当時は中国への返還などまだ先の話で、ロンドン風の二階建バスがあるかと思えば、タクシーには「的士」の文字があって、ヨーロッパとアジアが混ぜこぜの、不思議な活力がある街という印象でした。現地に駐在している人の話によると、既に中国返還後13年が経過し、中国語がやや幅を利かせつつあるようですが、大学は完全に英語で教育されるようですから、コスモポリタンなところは健在のようです。
 こうした性格は、台湾と比べると、その違いが明瞭で、香港においては日本語で話しかける気安さは少なく、長くイギリス統治下に置かれ、フリー・ポートで栄えた街として、心情的にヨーロッパや世界に対するアンテナが高いようです。それはホテルの部屋で見るテレビ番組に表れていて(勿論、一般家庭で見るチャネルとは違うでしょうが)、台湾では、地元の番組以外では、ニュース系はNHKとCNN、自然・社会科学系のドキュメンタリー番組はナショナル・ジオグラフィックやディスカバリー・チャネル、ドラマや映画はHBOやCinemax、スポーツはESPNなど、殆どアメリカ一辺倒のチャネル編成になっているのに対し、香港では、ニュース番組だけでもNHK(BS1、2及びワールド)やCNNだけでなく、BBC、アルジャジーラ、イギリスのスカイ・ニュースの豪・NZ版など、この地に世界各地から訪問客を受け入れているかが垣間見えます。
 しかし街の広告塔や看板を見ていると、香港では圧倒的に中国系企業が目立ち、Wikipediaによると、いくら香港基本法で言論および報道の自由や通信の秘密が規定されていても、広告主となる企業の多くは中国本土で活動する上で中央政府の意向を気にせざるを得ない状況にあることから、広告収入に依存するメディアの中には自主規制する傾向が出ているといわれています。
 夜の街の賑々しさは格別です。看板の大きさやその道に張り出した態様や色遣いは日本人の感覚に新鮮でけばけばしく、圧倒されます。私は早々に引き上げましたが、宵っ張りの香港の人々や観光客で、夜遅くまで賑わっていることでしょう。自治権の付与と本土と異なる行政・法律・経済制度の維持が認められる2047年まで、またそれ以降も、この混沌としたような賑々しさが続くと良いですね。
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久しぶりの台湾

2011-02-26 00:26:28 | 永遠の旅人
 出張で、今、香港からブログにアップしています。水曜日の夜に台湾に入り、丸一日いて、木曜日の夜に香港に入り、また丸一日いて、明日(土曜日)朝一番のフライトで日本に戻ります。
 台湾訪問は20年ぶりのことです。入社するまで海外に出たことがなく、入社して初めての出張が、私にとって初めての海外であり、それが台湾だったわけですが、以来、訪問回数は三十は下らず、私にとって、物理的にも心理的にも極めて近い存在です。久しぶりに訪れて、この20年の間に、一人当たりGDPは購買力平価ベースで1万ドルから3万5千ドルにまで上昇し、もはや先進国並みに豊かになって、さぞ変ったことだろうと予想していたら、確かに、変わったところ、変わらないところ、それぞれあるにしても、全体として余り変わったようには見えないところが、やっぱり台湾らしくて、それを確認出来て、なんとなく嬉しくなりました。
 何が変わらないかというと、先ず、空港に降り立ったときに吸う空気、その”香(こう)”の匂いにちょっと肉とか油が混ざったような独特の湿っぽさが全く変わらない。人間にとって視覚の記憶より嗅覚の記憶の方がよほど確かなので、この変わらないという思いの持つインパクトは強烈でした。
 そうなると、ちょっと変わった程度では、大して変わらないように思えてしまうのが不思議です。街並みだって、表通りにちょっと小奇麗な店が増えたのは事実ですが、よくよく見ると、まるでモックアップのように、裏通りには相変わらず薄汚い建物が残されていたりして、余り変ったように見えないのは、どこに行っても綺麗な日本とは明らかに違って、実際的・機能的な台湾人の面目躍如といったところでしょうか。街中を疾駆するタクシーは、かつてはドアが外れるのではないかとひやひやするようなオンボロで、時には遠回りされて高く請求されたこともありましたし、空港に向かうタクシーでガス欠にならないかとヒヤヒヤするのをよそに、最後までダイジョーブと言い放ちながらやっぱりガス欠になって、別のタクシーを拾ってくれたりしましたが、今では、外見こそ随分きれいになりましたが、怪しげな雰囲気はやはり変りません。ただ、バイクの数は減ったようですし、かつてはバイク1台に家族4人や5人で乗る姿をよく見かけたものですが、今ではそんな家族移動は見かけませんし、街を行く若い女性も、かつてはスッピンが多くてお構いなしだったのが、ちょっとは化粧が上手になってファッショナブルにも見えますが、それでもそんな変化は誤差の内、といった感じです。
 もう一つ、変らないという意味では、日本また日本人への親しさであり優しさでしょうか。かつて街で見かけた日本語は、日本食レストランか、怪しげな土産物やマッサージの勧誘の類いでしたが、今では、ダイソー、モスバーガー、吉野家、牛角、洋服の青山まであって、正真正銘の日本があちこちに見られ、20年の時を経て、益々、日本に近い存在になったように感じます。泊まったホテルは決して最上級ではありませんでしたが、必要最低限の日本語は通じるので、英語はとても話せそうにない老夫婦やおば様たちばかりのグループ客でも安心です。夕食は、かつてよく連れて行ってもらった台湾料理の店「梅子」が健在なのを見つけて、変わらない美味しさに舌鼓を打ちましたが、中華料理の中で、台湾料理は一番日本人の舌に合うように思います。
 そして何よりも日本人に向ける眼差しが優しい。お金持ちで、お金を落としてくれるお得意様と見ている面もなくはありませんが、かつての植民地統治が抑圧的ではなく、かつ台湾の近代化に多少なりとも貢献したであろうことが、今に続く良い関係に繋がっていることは間違いありません。
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ある熱狂(下)

2011-02-15 01:32:31 | 日々の生活
 既存の秩序に反抗するのは、若者の特権です。しかし年代によって過ごした時代背景は異なり、ひとつの事象に対する受け止め方も異なります。全共闘世代と一言で言っても、大学院生や学部の上級生は、ある程度自我を確立した年齢で学生運動を経験し、運動の性格もまた反戦平和志向の最盛期だったのに対し、入学間もない教養部の下級生は、それより若い年齢で学生運動を行い、運動は革命戦争の軍事的志向となり、その中で自我の形成を行いました。その結果、大学院生や学部上級生は運動が衰退しても医者・弁護士・研究者・大学教員など社会へ適応して行ったのに対し、学部下級生は中退・除籍の末、非正規雇用へと流れていく者も多かったと言われます。
 実際に全学連で名を馳せた方の中には後に転向された方も少なくありません。第二代委員長の香山健一氏は皇室関係者も通う学習院大学の教授でしたし、森田実氏は保守本流の宏池会を支持した政治評論家です。西部邁氏は中沢新一氏の助教授推挙問題で東大教授の座を投げ打ちましたが、西欧流保守思想を擁護する評論活動で知られますし、姫岡玲治の筆名で執筆した論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判」がブント(共産主義者同盟)の理論的支柱となり「姫岡国独資」と略称された青木昌彦氏は、今では世界的に著名な経済学者です。
 私は・・・と言うと、大学に入るまで政治を知らず、文字通り右も左も分からないノンポリで、気がつけば私がどっぷり浸かっていたのは自宅で親が購読していた朝日新聞的な正義派ぶった世界でした。そのため、大学に入って政治を知れば知るほど反発を覚えたのは、朝日新聞や朝日ジャーナルなど当時の論壇を席巻していた進歩的知識人で、却って保守派の現実主義的な論説に惹かれたものでした。近代ロシア政治思想史を専門にしていたある教授が端的に「ソ連は一人のドストエフスキーも産まなかった」と言ったところに、ソ連型の共産主義社会に対する深い絶望の思いが込められています。右と左の違いがあるとは言え、学生運動が共産党などの既存の左翼に飽き足らなかった点で、通じるものがあるとは言えないでしょうか。
 坂口弘死刑囚の刑が執行されないのは、共犯者である坂東國男が、1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際に釈放要求を呑んで国外逃亡し、裁判が終了していないためとされます。あさま山荘事件では警官の殉職2名と重軽傷者24名を出しており、坂東國男が逮捕されて裁判が終わらない限り、あさま山荘事件は終わらないと考える警察関係者は少なくないそうです。世界初の共産党からの独立左翼といわれるブント(共産主義者同盟)が、何故かくも若者を惹き付けたのか、またその若者の一部が武装闘争へと駆り立てられたのは何故か、あの時代に私も生まれ合わていれば、どう振舞っていたか、私にとっての“総括”はまだ終わっていません。
 以上三回にわたって連載し、いちいち断っていませんが、当時の事実関係についてWikipedia(新左翼、全学連、全共闘、ブント(共産主義同盟)、共産主義同盟赤軍派、日本赤軍、日本共産党(革命左派)神奈川県常任委員会、連合赤軍、大菩薩峠事件、よど号ハイジャック事件、山岳ベース事件、あさま山荘事件、塩見孝也、森恒夫、永田洋子、坂口弘、坂東國男など)や産経新聞記事を参考にしました。
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ある熱狂(中)

2011-02-13 23:10:33 | 日々の生活
 1970年は、物心ついた私が、「その年の十大ニュース」というものに目覚めた年であり、大阪万国博覧会開催、よど号乗っ取り事件、三島由紀夫の割腹自殺の三つをセットで記憶しています。「人類の進歩と調和」を謳った大阪万博の成功は、戦後の荒廃から立ち直って高度成長を続ける日本が到達した一つの高みとして晴れがましいものであるとともに、赤軍派によるハイジャックや、高名な作家の割腹自殺という旧時代の死に様が同じ年に起こったことは、子供心にも騒然とした時代であることを実感させられました。
 この年、日米安保が更新され、学園闘争は当局側の勝利に終わり、一般学生は急速に運動から離れて行きました。他方、運動を主導したブント(共産主義者同盟)は分裂し、その最左翼に位置する赤軍派は、革命には軍事が不可欠であり、革命は革命戦争により勝ち取られるという、過激な武装闘争路線を打ち出し、時代からどんどん遊離し、破滅への道をひた走ります。前年、首相官邸占拠のための軍事訓練をしているところを警察に発見され(大菩薩峠事件)、決起戦闘部隊が壊滅すると、国内での非合法闘争の後方基地として海外拠点を必要とする海外亡命抗戦論とでも言うべき国際根拠地論が出て来て、よど号ハイジャック事件(1970年3月)を起こし、目標地・キューバへの中継地として設定されていた北朝鮮に渡り、別のメンバーはアラブに流れて日本赤軍を結成し、日本に残ったメンバーは逮捕されて指導系列は解体します。そして最後まで残ったメンバーの一部が革命左派(日本共産党革命左派神奈川県委員会または京浜安保共闘)と統合して連合赤軍を結成するに至ります。
 1971年に入ると、革命左派が銃砲店を襲撃して入手した銃と、赤軍派が金融機関を襲撃して入手した資金を持ち寄り、警察の追及を逃れて山岳地帯で軍事教練や今後のテロ作戦を行うための拠点となるアジトを設置し、これを「山岳ベース」と呼称しました。革命左派のメンバーだった永田洋子死刑囚の罪状となった殺人は、この山岳ベースで「総括」と言う名で組織内を粛清する中で起こったものです(山岳ベース事件)。1972年2月17日、永田洋子はリーダー森恒夫とともに山狩り中の警察隊に発見されて逮捕され、坂口弘や坂東國男といった残りのメンバーもあさま山荘事件(2月19日~28日)に突入して逮捕されます。
 その後、永田洋子は脳腫瘍を患いながらの裁判の末、1993年2月19日に最高裁で死刑が確定しました(再審請求しましたが後に棄却)。1983年当時の判決では、森恒夫が既に獄中で自殺していたせいか、山岳ベース事件は永田洋子が主導したものとされ、その原因を永田洋子の「不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」と決め付けました。坂東國男は著書「永田洋子さんへの手紙」の中で、「永田同志は、人間的感情のひとかけらもない『鬼ババア』」でしかなかった」と言いつつ、同時に、「山岳ベース事件において自分も含めて指導部全体がそのようであった」とし、自身についても「鬼のように冷酷に同志を告発し、同志を死へ至らしめる恐ろしい、動揺など一切しない人間として存在した」と述べています。ところが、永田洋子と往復書簡集を発刊した作家の瀬戸内寂聴さんは「洋子さんが、ごく普通の女の子で、頭のいい、素直な、正義感の強い、自分をごまかせない、馬鹿正直な人だと知るようになった」と書いています。凄惨な事件の原因を個人の属性に求めるのは安易で、政治イデオロギーの異常さや状況のもつある種の不条理さを説明しません。
 森恒夫は、一切の責任は自身と永田洋子(サブリーダー)にあるとし、後に、革命左派に事件の原因を求め、遺書の中では、革命左派の誤りを自身が純化させてしまったのが原因だと述べました。しかし、永田洋子も坂東國男や坂口弘も、事件を主導したのは森恒夫であり、権力欲からと言うよりも、自身の作った総括の理論にのめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしており、坂口弘は「極論すれば、山岳ベース事件は、森恒夫君の観念世界の中で起きた出来事」だったと述べています。獄中で自身の活動の総括を行ってきた永田洋子は、同志殺害の本質は日本の左翼に顕著な党派主義や左翼党派が当然の前提としてきた一党独裁にあるとし、連合赤軍事件と社会主義国・共産主義政党がしばしば引き起こしている暴力事件・虐殺事件(特に日本共産党が戦前や1950年代に起こした事件)との類似性を指摘しています。また、高橋和巳の「内ゲバの理論は越えられるか」を引用し、連合赤軍の同志殺害をはじめとした左翼運動内部での暴力を支えているのは「無私の精神」(党派への徹底した忠誠心・献身性・自己犠牲)や「共犯関係の導入による結束維持」(内部・外部への犯罪による一蓮托生の関係の創出)であるとし、それらの克服を訴えています。
 そう言えば、毛沢東と中国共産党によって殺された同胞は2600万人余りと言われますし、スターリンの粛清は7百万人(?)に達したとも言われます。左翼イデオロギーはかくも激しい。それにしても日本の1960~70年代の学生たちの熱狂から、連合赤軍事件に至る転落の軌跡は、私の中ではなかなか繋がらず、彼らの心象風景は如何なものだったのか、謎は深まるばかりです。
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ある熱狂(上)

2011-02-12 15:33:17 | 日々の生活
 もう一週間前のことになりますが、永田洋子死刑囚が多臓器不全により東京拘置所の獄中で死亡しました。誕生日を4日後に控えた享年65歳。元・連合赤軍幹部で、1971年末から翌72年にかけて、僅か二ヶ月足らずの間に同志十二人をリンチ殺害した凄惨な事件(山岳ベース事件)は社会に大きな衝撃を与えたものでしたが、既に1984年には脳腫瘍と診断され、最近は、視力をほとんど失った上に、訪れる面会者が誰か認識することが難しいほど厳しい病状になっていたと伝えられており、ちょっと寂しい最期でした。
 1968年に世界的な広がりを見せた学生の反乱は、フランスでは労働者も巻き込んだ一千万人規模のゼネストに発展し、ド・ゴール大統領は事態を打開するために議会解散に追い込まれました。日本でも、東大・日大の全共闘を手始めに“燎原の火の如く”全国の大学に広がりましたが、1968年当時、学生運動を支持あるいは共感するとした回答者は全体の7%程度に過ぎないという政府統計があるように、民主主義に対する歴史的な厚みの違いあるいは社会的な違いによるものか、彼我の温度差は否めませんでした。全共闘は、もともとノンセクト・ラディカル(急進的無党派)色の強い広がりをもった運動だったはずですが、授業料値上げ反対闘争が、学生による自治や民主化要求に発展し、いつしか「大学解体」などの政治性や「自己否定」といった思想性を帯び、「学生と国家権力との間の闘い」にまで先鋭化する中で、中核対革マルといった新左翼諸党派間の主導権争いや内ゲバが激しくなり、革命戦争路線の最左翼・赤軍派が登場して、その流れをひく日本赤軍によるハイジャック事件や連合赤軍によるあさま山荘事件などが勃発すると、運動は急速に退潮していきました。
 私が学生時代を過ごした1980年代は、こうした“政治の季節”の潮が退いた後、“シラケ世代”と揶揄されて既に久しい時代でした(今では“シラケ”という言葉自体が当たり前になって死語と化していますが)。それでも、京都という土地柄は、長年、日本の都だった自負のせいで、今なお日本の中心だとする無意識の裏返しで、東京を頂点とする日本社会の流行に取り残されたような、良く言えば惑わされない反骨心のようなものを温存していて、私が通った頃でも、学生運動の名残りをそこかしこに色濃く残していました。大学構内の建物は「安保粉砕」「反日帝」「闘争」などの独特の字体が躍る勇ましいアジ・ビラやタテカン(立て看板)に溢れ、赤ヘルや白ヘルや黒ヘルのお兄さんたちがハンドマイクでがなりたてるダミ声に包まれながら、塀の外に待機する機動隊のマイクロバスを横目に通り過ぎるのがごく当たり前の学園風景でした。あるとき、大学の寮の自治闘争をやっていた同級生が、授業の前に演説をぶち始めて、なかなか終わらないものだから、諦めた教授が出て行ってしまって、いわば授業を占拠してしまったことがありましたが、その時、彼が語った「自由は勝ち取るものである」というフレーズは、今でも忘れることが出来ません(そんな彼も労働省(現・厚労省)の役人になり、数年前に会った時には、かつて黒ヘルをかぶっていたことなど忘れたかのように、大臣の国会答弁のペーパーを用意するのに忙しいとぼやいていましたが)。
 あの頃は、その後、ほどなくしてバブル崩壊や日米貿易戦争が始まる前の、安定した成長を謳歌し、誰もが多少なりとも豊かさを実感できた時代であり、ごく普通の生活と隣り合わせにかつての学生運動の熱狂の残滓がなお息づく時代でした。大学の校舎の地下室に、指名手配中のかつての活動家が潜伏していると噂されたのは、既に都市伝説の一つだったかも知れませんが、佐世保に原子力空母エンタープライズが寄港した時、電信柱のような丸太を担いで突っ込んだという武勇伝をもつ予備校講師がいたように、駿台予備校の物理科講師である山本義隆さん(東大全共闘議長)だけでなく、予備校は、当時の闘士が偽名を使って潜伏する巣窟だと言われたものでしたし、高校時代の友人に連れられて行った大学そばの喫茶店で、その友人と喫茶店のマスターが新左翼の議論に夜通し興じるような、のどかな時代でした。
 それだけに、かつての熱狂は、私にとって冷めた歴史の一コマではなく、常に肌に感じて拭い去れずにいた、ぬくもりを持った不思議であり、永田洋子死刑囚の死には、その記憶が呼び戻されて、ほろ苦い気持ちにさせられました。
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金は天下の回り物

2011-02-08 00:17:33 | 時事放談
 ほんの10年前、中国のGDPは日本の三分の一に過ぎなかったそうです。それでも年平均10%の成長を12年続ければ三倍を越える計算で、2010年度には日本を追い越すことが確実になったことが話題になりました。もはや中国やインドを「新興国」と呼ぶのは改めた方が良さそうで、先日の日経によると、BRICsの言いだしっぺだったゴールドマン・サックスのジム・オニール氏も、韓国やトルコを加えて「成長市場」と呼ぶようになったそうです。「新興国」経済が厚みを増し、当たり前の存在になったと言うわけです。
 日本では、どちらかと言うと存在感を増すばかりの中国経済の脅威が声高に叫ばれますが、世界第二位の経済がすぐ傍にある恩恵を受けているのもまた事実です。
 高級車を代表するロールスロイスもその一つで、リーマンショック後の世界不況で、2009年には年間販売台数が1千台まで落ち込んだのに、昨年は、中国やインドなどの「成長市場」で急増するニューリッチが原動力となって2700台にまで増え、過去最高を記録したそうです。国別販売台数を見ると、中国がお膝元の英国を抜いて、アメリカに次ぐ第二位に浮上したとか。デタラメが多い中国社会ですが、規模が大きいだけに、ニューリッチの数も半端ではありません。日本が生きる道のヒントになりそうです。
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土俵際

2011-02-07 00:27:20 | スポーツ・芸能好き
 日本相撲協会は、臨時理事会を開いて春場所開催を断念することを正式決定しました。小・中学生の頃、大阪府立体育会館に通って春場所をよく観戦した私としては、正直なところ一抹の寂しさを覚えます。産経新聞によると、江戸時代こそ、大火・地震・飢饉などで江戸の本場所が中止されたことがあったそうですが、大正12年の関東大震災で旧・国技館が焼失した後でさえ名古屋で行ったそうですし、太平洋戦争中、旧・国技館を軍部に接収された時にも後楽園球場などで続けたといい、昭和以降、本場所が取り止めになるのは、戦争で被災した国技館修復の遅れを理由とした1946年夏場所以来、65年ぶり二度目、その時ですら6月に大阪で本場所と同じ形態の準場所を開催したそうですから、平時に不祥事で中止に追い込まれて、大相撲史上に(理事長が言う通り)最大の汚点を残すことになりました。
 もっともこれまで大相撲に八百長は全くなかったと信じるほどナイーブな人はいないでしょう。「注射」と言い、真剣勝負のことを「ガチンコ」と言うのは、そもそも大相撲の世界から出た言葉であり、そうした影が付きまとってきた証拠でもあります。石原都知事に至っては「(八百長は)昔から当たり前のことだ。今さら大騒ぎするのは片腹痛い」「(大相撲が)日本の文化の神髄である国技だったら、ちゃんちゃらおかしい」と批判したのは、相変わらず慎みが足りませんが、分からなくはありません。Wikipediaでも、江戸時代、主君の大名の意地の張り合いや面子を傷つけないための星の譲り合いによる八百長相撲は、観客としても腹に据えかねたようですが、美談としての片八百長(対戦者の一方のみ敗退行為を行う)、いわゆる「人情相撲」には寛容だったと説明しています。
 そういう観点で、今回、八百長が発覚したのが十両力士中心だったのは象徴的で、星の貸し借りを行い合ったのは、幕下に転落して無給になるのを避けるためだったことを匂わされると、厳しい格差社会と言うよりも、伝統芸能を演じていると思っていた力士が、サラリーマンか、公益法人で親方日の丸の公務員のように見えて来て、しかも大麻や野球賭博が蔓延っていたとなれば、余りの当たり前の平凡さにがっかりさせられます。国技と言いながら、貴乃花が引退した2003年以降8年間も日本人横綱が不在で、武蔵丸、朝青龍、白鵬といった外国人横綱に支えられる不甲斐ない状況に、追い討ちをかけるように起こった、大相撲の本質に係る八百長問題だけに、角界自身にはもはや弁解の余地がなく、人々の見る目も厳しくならざるを得ません。豊かな現代日本における時代の流れとは言え、あちらこちらで囁かれるように、国技としての、また伝統芸能としての相撲界は、いよいよ土俵際まで追い詰められたと言えます。
 それにしても、今回、八百長の物証になったのは、野球賭博問題の時に押収された力士の携帯電話から消されていたメールが再生されたものと言いますから、新しいメディアがここでも小さからぬ影響を与えたことが印象的でした。もちろんメディアの果たす役割は、ジャスミン革命であろうが相撲界であろうが、所詮はある種のきっかけに過ぎなくて、底流にある本質的な動きがそれで変ったというものではありません。仕切り直しは、果たして許されるのでしょうか?
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俺たちの旅

2011-02-05 19:48:13 | たまに文学・歴史・芸術も
 学生時代の友人と会って飲んで話して楽しいのは、友人との関係が、何の利害もない自由な身分の気ままな学生時代で凍結しているからです。この年齢になってこそ感じる会社生活をはじめとする人生の“しがらみ”からひととき解放され、かつて守るべき物は何も無く、未来に無限の可能性が広がっていると思い込んでいた当時のままにタイム・トリップでき、当時の空気を吸っていた友人だからこそ、共に当時の空気にひとしきり浸ることができるのが幸せです。
 青春は、失ってから気づくもの、と言われますが、成長するにつれ、だんだん世の中(の矛盾)が見えてきて、でも、うまく渡り合えず、ちょっと不器用で、恥ずかしくも傷ついていた時代であり、そうした時代を意識した時にはもはやそこにはいないことをほろ苦く悟らされる類いのものです。もう一度若くなって世の中を渡って来なければならぬと思うと、何よりも先に煩わしい思いがする、と言ったのは正宗白鳥であり、もう一度やれと言われてもお断りしたい、と言ったのは吉行淳之介でした。また、たくさんいろいろな事を考える、そして人生の問題を殆ど発見する、その後は、それに慣れて、だんだんにそれを忘れていく、と言った人もいますし、若い時、我々は学び、年をとって、我々は理解する、と言った人もいました。極めつけは太宰治の言葉で、大人とは、裏切られた青年の姿である・・・と。私たちははっきりと頭では分かっていたけれども、長い検証の時を経てそれらが胃の腑に落ちたのは歳を重ねてからのことであり、そういう意味では、無知の知が無性に懐かしい、あるいは知らない方が幸せだったと言えるかも知れません。
 なお、青春とは、人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言う、という文章で始まるサミュエル・ウルマンの有名な詩(”Youth”)は、マッカーサー元帥が座右の銘として執務室に掲げていたことから、日本でも知られるようになり、ロバート・ケネディーはエドワード・ケネディーへの弔辞にこの詩の一節を引用したそうですが、「リーダーズ・ダイジェスト」1945年12月号に掲載された時には、”How to Stay Young”と題されていたように、「青春」と言うよりは、心の「若さ」を讃美するものと言うべきです。
 こんなことをつらつら書いて来たのは、木曜日夜11時からBSジャパンで青春群像ドラマ「俺たちの旅」の再放送をやっているのをたまたま見て、懐かしい気持ちでいっぱいになったからでした。ご存知、青春ドラマの巨匠・鎌田敏夫の脚本で、1975年10月から一年間、計46回にわたって日本テレビ系で放映されたもので、その後も何度が再放送され、アマゾンによるとDVDも販売されているので、今なお根強い人気があるのでしょう。私も子供の頃に憧れ、学生時代には、あれほどの自由気ままさや、ひたむきさはなかったと思い、それは時代背景が違うからだと納得していたのですが、今、あらためて見ると、当時の自分たちのことも同様に「俺たちの旅」のような感傷に包まれて思い出します。そう、「俺たちの旅」は現実ではなくて、オトナになってから学生時代を振り返る感傷の味付けがされていたもの、それが「青春」たる所以なのでしょう。
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ジャスミン

2011-02-04 00:59:11 | 時事放談
 地中海沿岸のアラブ情勢が緊迫しています。
 当初、チュニジアの政変と言われてもピンと来ませんでした。トランペット奏者のディジー・ガレスピーが、ピアニストのフランク・パパレリとの共作で作曲したジャズのスタンダード・ナンバー「チュニジアの夜」が思い出されますが、どちらかと言うと日本人には馴染みがありません。しかし歴史を紐解くと、古代フェニキア人が交易拠点とし、古代フェニキア語で「埃っぽい」という意味の「アファル」などを語源として、現在のチュニジア近辺を「アフリカ地域」と呼んだのが「アフリカ大陸」という言葉の始まりと言われるほどの由緒ある地で、後にカルタゴが建設され、名将ハンニバルが古代ローマを滅亡寸前にまで追いやったと言われれば、誰もが、これがあれかと、納得するのではないでしょうか。今なおフランスやイタリアを中心とするEU諸国との貿易の占める比率が高く、独立前はフランスの保護下にあったことから、フランス語も広く普及しているそうです。観光地としても人気があり、アラブの優等生だったはずですが、1月14日にベン=アリー大統領が国外逃亡し、23年の長きに亘った独裁体制が崩壊しました。
 そしてチュニジアの民主化デモと政情不安は周辺諸国にドミノ現象のように波及し、29年もの長期独裁政権を維持してきたエジプトのムバラク大統領が2月1日に次期大統領選への不出馬表明に追い込まれたのに続き、アラビア半島諸国で唯一共和制をとる立憲国家であるイエメンのサレハ大統領も翌2月2日に次期大統領選への不出馬を表明しました。いずれも、長引く不況で若年層の失業率が高く、金は天下のまわり物と言いますが、リーマン・ショック以後の金融緩和による金余りが商品市場に向かって食料価格を高騰させ、民衆の不満が長期独裁政権に向けられる形になったことに加え、これら政変劇に、フェイスブックやツイッターから、ウィキ・リークスによる政権腐敗の情報、ユーチューブの音声動画まで、ソーシャル・ネットワーク・メディアをはじめとする様々なインターネット情報ツールが一定の役割を果たしたことも話題になりました。
 こうした新しいメディアを過大評価するべきではないと思いますが、電報や固定電話からインターネット、電子メールや携帯電話へと、何十年もかけて慣れ親しんで来た私たちと違って、一気にツイッターや携帯電話を与えられた新興国の人々の行動に与える影響は決して小さくはありません。現象としては、20世紀初頭の日本で、大正デモクラシーや普通選挙権に象徴される大衆民主主義の広がりとともに、一般大衆の間に芽生えた政治参加の高揚感が、その未熟さ故に暴走してしまった危うい歴史を連想させます。当時の日本では、政治が(今も昔も)政局にかまけている間に信用を失い、いつの間にか地方の貧農出身の青年将校が一般大衆の思いを受け止め、徐々に発言力を増して行きました。今、中東諸国では、人々の思いが一瞬の内に昂ぶります。
 エジプトを数少ない友好国としてきたイスラエルは、イスラム原理主義の台頭を警戒し、中東情勢は一気に流動的になりました。極東の中国も、民主化運動の飛び火を警戒します。金も情報も、天下のまわり物、グローバル時代の思わぬ影響に、目が離せません。
 チュニジアの政変劇は、チュニジアの国花にちなんで、ジャスミン革命と呼ばれるようになりました。上の写真は、シドニーのマンション玄関に咲いていたジャスミン。
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