風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

デパート

2010-01-31 12:46:49 | 時事放談
 先週は、西武百貨店・有楽町店と阪急百貨店・四条河原町店が閉店されることが相次いで発表されました。いずれも地域の大企業や商業施設が集積する好立地にあって、単なる小売業にとどまらず、若者向け流行や文化の発進地としても隆盛を極めましたが、消費者の百貨店離れが言われて久しく、リーマン・ショック以降の景気低迷が止めを刺したといったところなのでしょう。
 さらに有楽町は、周辺地域の再開発が進み、人の流れが変わったとも言われます。丸ビルや新丸ビルのショッピング・ゾーンや豊洲には商業施設ららぽーとがあります。有楽町も、2001年に有楽町そごうが撤退した読売会館ビルにビックカメラが入ったのは衝撃的でしたが(「有楽町で逢いましょう」は、そごうの東京進出に一役買っていた大映映画がキャンペーンのために制作した映画の主題歌だったそうです)、2007年には丸井を中核店舗とする有楽町イトシアがオープンしましたし、今秋には三越本館増床と別館跡地に建設する新館とで売場面積は1.8倍になるそうです。京都でも、JR京都駅に直結した「ジェイアール京都伊勢丹」が開業して以来、買い物客の流れが分散したと言われます。
 私が子供の頃は、デパートと言えば、高級感溢れて、年にそうそう訪れる場所ではなく、たまに訪れると屋上の遊園地で遊んだり、見晴らしの良いレストランでお子様ランチを食べるのがささやかな贅沢と言われた、幸せな時代でした。今では人が集まる場所は屋上から地下に移動し、デパ地下が文字通りデパートの屋台骨を支えているような気息奄々たる状況で、デパートを取り巻く環境は実に厳しい。消費者の意識や行動が多様化する中で、躍進するユニクロに代表されるカジュアル衣料店やネット通販と比較すると、定価販売で売れ残った在庫を返品できる旧態依然としたビジネス形態を続けるデパートは、その大きさとも相俟って、環境変化に取り残されてしまった恐竜のような印象です。ダーウィンが言ったように、生き残るのは強い者(あるいは大きいもの)ではなく、変化によく対応するものなのだということを、実感します。
 学生時代を京都で過ごした私には、むしろ阪急百貨店・四条河原町店の方が馴染みが深い。阪急京都線のターミナル駅・河原町駅に直結した利便性と、四条河原町という一大繁華街の顔として、買物はしたことがなくても、渋谷ハチ公前と同じくらい待ち合わせの場所として有名で、何度もお世話になった場所でした。買物の場と言うよりも、人々が集まる場として、その閉店は、時代の流れとは言え、感傷的な気分になります。
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元ヤクザの牧師さん

2010-01-30 11:11:04 | 日々の生活
 今朝のニュース解説番組で、元ヤクザの牧師さんが取り上げられていました。ご覧になった方もおられるでしょう。暴走族から暴力団へ、そして組長代行にまで上り詰め、覚醒剤に溺れて組を破門になってからも覚醒剤密売を続けて逮捕され、三度目の収監の際、知人から差し入れして貰った聖書に目覚めて、服役後、教会に住み込みながら神学校を卒業し、牧師になったという、絵に描いたようなストーリーですが、事実は小説よりも奇なり、受刑者から届く手紙が月に40本あり、返事をしたためるのが日課になっているなど、ワケありの人たちも含めて多くの人の支えになっているという話でした。
 社会は不条理で、必ず敗者が産み落とされ、犯罪が絶えず、その中には再犯者も多いと言われます。そうした中で、宗教によって救われる人も少なくありません。こうした宗教の力は、日本の宗教ではなく、やっぱりキリスト教(あるいは西欧の宗教)なのだと再認識しました。日本の宗教が、そうした力がないというわけではなく、生い立ちや性格が全く違うということが言いたいだけです。
 西欧社会における契約の観念は、元来、神との契約に発するように、西欧では、自己と対置する形で神を自らの精神の中に宿らせます。神は万物のCreatorですが、その実、神を創造するのは個々の人間の精神なのですね。そして原罪を背負った人間から出発する通り、旧約聖書を起源とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界は、極めて文明的な文脈で展開されてきたことが分かります。イスラムの世界で、一夫多妻が認められるのは有名な話ですが、戦争未亡人を救うのが趣旨だったと言われますし、断食も、飽食を知り、貧しい人たちに思いを馳せるのが趣旨だと聞いたことがあります。宗教の生い立ちに常に文明社会の存在があり、社会における行動規範を形成しています。そういう意味でも、現代社会にあっても、更正の支えになる力があるのだろうと思います。
 西欧にももちろん土俗的な宗教はありましたが、文明の発展の中で、今ある三大宗教が誕生し、やがて集約されて行ったのでしょう。それに引き換え、日本の宗教(神道の世界)は、土俗的なまま息づいています。人によっては日本に宗教はないと言いますが、それは文明的な文脈での宗教と対比し得る宗教がないという意味だと思います。八百万の神は、自らの内面にミラーのように対置する規範的存在ではなく、私たちを取り巻く自然そのものであり、私たちの祖先であり、自己を包み込む存在であり、私たちはその一部であり、自らを同一化し得る存在です。私は宗教研究家ではありませんし、生まれてこのかた、誰に教わったわけでもありませんが、木にも森にも山にも神様はいると、ごく当たり前に思っていますし、ごく自然に、便所には便所の神様がいると思います(水洗トイレはキレイ過ぎて、自然との繋がり、すなわちかつての所謂ボットン便所のような地面との繋がりがなくて、神様もさぞ住み辛いでしょうが)。ハンチントン教授は、日本をも世界の七大文明の一つに数えてくれましたが、極めて特異な文明と言うべきで、それが、西欧のような文明社会との付き合いの難しさの基本になっているように思います。
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トヨタ

2010-01-29 01:46:31 | 時事放談
 今朝の日経朝刊一面には、ソニー、ホンダ、東芝、キャノンをはじめとする「製造業、外需で急回復」の文字が躍っていて、俄かに明るい気持ちにさせてくれましたが、目立たない11面まで読み進んだところで、トヨタは「販売計画見直しも」「米でリコール8車種、生産も停止」と報じられ、明るい気持ちは一気に吹き飛んでしまいました。リコール台数230万台、夕刊によると更に109万台追加改修し、合計420万台に及ぶそうです。追加分が、先日来、話題になっていた、アクセル・ペダルがフロア・マットに引っ掛かる恐れがある問題に関連するものであり、今朝の230万台は別の問題で、アクセル・ペダルの根元の可動部分が使用されることで磨耗し、ヒーターからの熱で可動部分に結露が発生して動きにくくなるのだそうです。
 勿論、ミクロに見れば、昨今の世界経済を牽引する新興国経済の成長という追い風を受けて、ソニー、ホンダ、東芝、キャノンの販売が急回復する一方、新興国市場で出遅れているトヨタとで、明暗を分けただけの話だと言ってしまえばそれまでですが、マクロに見れば、トヨタ生産方式で先行した優位性は、当分、揺るぎ無いものと思われていた流石のトヨタも、リーマン・ショックでは57年振り(だったかな?)に赤字に転落した上、相次ぐ品質問題は、生産革新で世界をリードして来た日本の製造業の象徴的存在であるトヨタらしからぬ失態で、トヨタ繁栄の翳りを予感させます。
 トヨタと言えば、愛知県がベースの超ドメスティックな企業でありながら、世界の自動車生産台数世界一を達成するほどのグローバルなブランド力を誇り、愚直に生産革新を続け、企業のDNAとまで言われて、そのまま英語にもなっているKAIZEN(改善)活動によって、他を寄せ付けない高品質を誇る、いわば日本的経営の鑑であり、日本の企業人であれば誰も尊敬しない者はいないほどの超優良企業であるのは、言うまでもないところです。トヨタの不振は、ひとりトヨタの凋落のみならず、あのトヨタまでもが・・・という嘆息とともに、日本的経営そのものの凋落と映ります。
 まさかトヨタにそんなことはあるまいと思いますが、実際、日本人から執念が失われてしまったのではないかと、ある雑誌で、さる韓国人学者から、日本人は憐れみをかっていました。ガンバリズムとか、モーレツとか、負けて悔しい花いちもんめ、などと言われなくなって久しいのではないか。「ゆとり教育」は既に修正されているはずですが、個人的には、あの「ゆとり教育」導入で、日本人はすっかり慢心してしまったのではないか、そしてずっと張り続けてきた緊張の糸がプツリと切れてしまったのではないかと懸念されます。更に、個人的には、あの「ゆとり教育」がフリーターや派遣志向の若者の増加とどこかで繋がっているのではないかとさえ訝しがっているのですが、誰か検証してくれないものでしょうか。教育問題は、何年か経ってから、ボディ・ブローのように日本の基礎体力を蝕むものです。日教組を支持母体にする民主党の教育政策には関心を払わざるを得ませんが、子供手当てくらいしか中身がないのは問題です。こうした懸念が杞憂だと思えるほどのトヨタの復活を心から待ち望んでいます。
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翻訳

2010-01-26 01:05:13 | 日々の生活
 先日、ある雑誌を読んでいたら、日本人が英語を所謂“直訳”する時の日本語は、漢文の訓読に倣ったものではないかという説を見かけて、なるほどと合点がいきました。英語の単語の一つひとつに、ほぼ近い意味の日本語を一対一で対応させて、ぎこちなく書き下す、アレです。明治に開かれた日本にあって、翻訳書とは原書を読む際の手引きのような位置づけだったのではないかと、その人は解説するのですが、それならなるほど納得できますね。しかしあれから翻訳文化もすっかり成熟し、今どき翻訳書を片手に原書に取り組む奇特な人はなかなかいません。それで、翻訳産業が、こなれた日本語訳を提供してくれるのなら問題ありませんが、中には機械翻訳に毛が生えたような粗末な日本語のものもあって、その時には、元の英語を想像しながら理解するといった本末転倒が起こってしまいます。
 翻訳産業という意味では、日本は世界でも有数の規模を誇るのではないでしょうか。学生時代に原書で読む外国書購読などという授業がありましたが、世界の非英語圏ではこうして原書を読むのが当たり前なのではないかと思います。そういう意味で日本人の英語力が伸びない大きな理由の一つは、翻訳産業が隆盛を極め、著名な英語の書籍の日本語版を片っ端からそれほどの時差なく出版してくれるお節介にあるのではないかと思います。その翻訳産業では、外国語モノを日本語に訳すのが大半ですが、その逆もあります。その典型はコミックでしょう。いくらコミックとは言えそのまま日本語で理解できる人はそうそういませんから、アジアだけでなく欧米へも輸出されては、現地語に翻訳されて出回るわけです。そして、そういったコミック好きの中には、日本語の原書を読みたいばかりに日本語を学びたがる人が出て来て、驚かされます。アニメの殿堂などと馬鹿にしてはいけなかったのではないでしょうか。
 日本の中学の英語の教科書が、This is a pen.で始まるのを、現地校にいきなり放り込まれて乱暴に鍛えられた我が家の子供たちは、意味がないと不思議がります。先日、新聞に掲載されたセンター試験の英語に戯れに取り組んでみましたが、受験科目として英語を得意にしてきた私でも、発音の違いなどは、もはや歯が立ちませんでした。目から入る日本の英語の緻密さを、耳から入った我が家の子供たちは、当然のことながら持ち合わせません。受験英語が、明治以来の翻訳の緻密さをテストするという位置づけから脱却しない限り、日本の英語は、世界の英語コミュニティの中の一種のガラパゴスとして、コミュニケーションのための生き生きとしたツールとは凡そなり得ないことでしょう。
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中国という異形

2010-01-24 00:53:44 | 時事放談
 最近、中国という同じ一つの国のニュースであることを疑わせるような、否、同じ国のニュースであるが故に不思議をあらためて思わせるニュースが相次ぎました。
 一つは、中国国家統計局が発表した2009年第4四半期(10~12月)の実質国内総生産で、前年同期比の成長率が10%を越え、2008年9月のリーマン・ショック後、11月に打ち出した総額4兆元(約54兆円)規模の景気対策や金融緩和の効果もあって、過剰流動性を見るとバブル寸前とまで言われながら、2009年第1四半期を底にV字回復軌道にあることが鮮明になりました。その結果、年間ベースで前年比8.7%成長となり、政府が目標として掲げていた「8%増(保八)」を達成するとともに、2010年内には、過去20年来GDP500兆円前後で足踏みしている日本を追い抜いて世界第二位に躍り出る可能性が高いことが、英国BBC放送などで報じられました。経済大国世界第二位の座をめぐる日本との競争は、中国国内のメディアでも熱を帯びているようです。
 もう一つは、グーグルが、サイバー攻撃や中国当局による検閲などを理由に中国撤退を検討している問題です。ことは12月半ばに、中国を発信源として、グーグルの事業インフラを標的とする極めて高度な攻撃が検知され、その後の調査で、同様の攻撃は金融関係やメディアだけでなく国防関連企業を含む30社以上に仕掛けられたことが判明したことに発します。グーグルへの攻撃を詳細分析したところ、中国の人権問題活動家が使用するGメール・アカウントへのアクセスが主目的だったことが突き止められ、2つのユーザー・アカウントが不正アクセスされ、メールの件名が閲覧されたほか、フィッシング詐欺に用いられるソフトなどがコンピューターにインストールされた可能性があるといいます。クリントン米国務長官も、ネット規制に関して「世界人権宣言に違反する行為だ」と言い出す始末で、米国政府としても反対する姿勢を鮮明にしました。
 それぞれ、もう少し踏み込んで見てみます。
 まず、中国のGDPをはじめとする統計数値の信憑性は、この際、措いて置きます。中国の経済成長を牽引するのは、「世界の工場」と言われて久しいように、安価な労働力に支えられた輸出産業で、台湾・香港・マカオ系を含む外資系企業が製造する製品がGDPの約4割を占めると言われます。この分野では雇用や所得税による貢献があるとは言え、単純にGDPを人口で割った国民一人あたりGDP値は、生活実感とかけ離れているのが実態だろうと思われます。そういう意味でも、COP15で自ら主張した通り、中国は先進国ではなく今なお発展途上国であり、時間の問題だったにせよ、世界第二の巨大な経済力を有するに至り、その巨大な経済は今なお猛烈な勢いで経済成長を続け、世界の中で存在感を増すばかりなのです。
 その中国は、社会主義経済と言うよりも、確かに資本主義経済を志向しながら、市場経済に主導されるのではなく、中国共産党による高度に独裁化した官僚主義計画(統制)経済である点が異様と言うべきでしょう。かつては共産主義イデオロギーにより、チベットやウイグルなどの少数民族問題や台湾独立問題を強引に抑え込んできましたが、経済的自由の高まりやインターネットを介したオープンな情報環境を通した自由化・民主化要求の高まりに伴い、政治・社会的な一党独裁体制が揺らぎつつあり、人民解放軍をはじめとする現実世界の軍事・警察機構と世界最高水準の「網絡警察」(サイバー・ポリス)を抱えて、無駄な抵抗を試みているというのが現状ではないでしょうか。自由と平等への信仰篤いアメリカ的な自由市場経済を体現する一民間企業に過ぎないグーグルが、ボーダーレスと言われる世界経済の中で存在感を増すこの異様な統制経済国家に立ち向かっている構図は象徴的です。
 勿論、グーグルにも“お家の事情”がないわけではなさそうです。かつて中国市場に参入した4年前には、「インターネットによる情報量の増大は、検閲を受け入れることのマイナスを補ってあまりある」との判断により、中国当局からの検閲を受け入れた経緯がありましたが、今では「言論の自由に関する世界的な議論にかかわる問題」と事態を問題視する方向に転換しました。端的に検閲に耐えられなくなった背景には、中国検索エンジン市場でグーグルのシェアは僅か12.7%にとどまり、中国語最大の検索エンジンである百度(Baidu)の77.0%に圧倒されて苦戦している現実を指摘する声もあります。昨年9月に現地法人社長が突然辞任したのは実は首切だったと言われますし、中央テレビ局であるCCTVの番組が「グーグルは大量の詐欺広告を掲載しており、しかもエロ写真や下品なニュースも多い」と暴露したのは中傷にしても、中国作家の許可を得ないで8万冊以上の作品をデジタル・ライブラリーに公開したという理由で中国作家協会に告訴され、今月、テレビを通じて中国作家に「申し訳ない」(sorry)と謝罪したと思わせるような談話を発表するトラブルもあったようです。
 いずれにしても、この問題は一民間企業が起こした純粋な経済問題にとどまらず、インターネット上の検閲を人権問題とみなし、体制のありようを問う従来からのアメリカ政府の姿勢に再び火を点し、米中政府間の摩擦にも発展しかねない情勢です。更にアメリカ政府の介入の背景には、今回のサイバー攻撃対象に国防関連企業が含まれていたことにも見られるように、中国だけでなくテロリストからのサイバー攻撃をも「武力攻撃」と警戒すべきかどうか議論している現実もあるようです。ヴァーチャルな電子空間を舞台とする新たな冷戦構造だと書き立てるメディアもあり(WSジャーナルなど)、日米中の正三角形論だとか、日中の経済的な結びつきが強まれば、中国の軍事行動を牽制でき、駐留米軍への依存を減らせるなどと呑気に構えているフシが見られる日本の現政権の姿勢とは凡そ対照的です。東アジア政治に限っても、立脚する地点が違いすぎて、日本はアメリカのまともなパートナーとは見なしてもらえないのではないかと心配です。
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職人芸

2010-01-20 01:10:17 | 日々の生活
 一昨日で、阪神大震災発生から丸15年が経ちました。あの時、私は雪深いボストンにいて、CNNで大地震の模様を知りました。当時、大阪に住んでいた両親に電話したら、埼玉に嫁いでいた姉とはまだ連絡が取れていないとの由、国内通話は制限されていたのかも知れません。勿論、大阪と言っても京都寄りの立地なので、本棚の本が崩れた程度で済みました。しかし、この週末の特集番組によると、震災後の復興はまだ終わっておらず、15年経った今も商店街の活気は戻っていないようでした。
 それでもあの大震災からは多くの教訓が得られたことでしょう。そのうちの一つに、文化財の免震対策があります。その補修工事を幅広く手掛けている建築士が語っていた言葉、建物は揺れなければならない、そしてしなやかに変形することによってエネルギーを逃がし、壊れない構造にすることがポイントだという話が印象的でした。宮大工も、カチッとしたものを造るな、“逃げ”を作れ、と言います。地震大国・日本における木造建築ならではの知恵なのでしょう。
 そのとき、五重塔が話題にのぼりました。五重塔や三重塔などの木塔と言われるものは全国に500ヶ所以上あり、それらは兵火、雷火、放火、失火等によって焼失したり建て替えをを繰り返しているので、実際にはその何倍も存在したはずですが、地震で倒壊した例は記録されていないそうです。慶長大地震では、秀吉の伏見城は崩壊しましたが、平安時代建築の醍醐寺五重塔は無事でしたし、関東大震災では、円覚寺は倒壊しましたが、池上本門寺や中山法華教寺の五重塔はやはり無傷でした。そして阪神大震災でも、兵庫県下の三重塔15基の内、江戸以前に建立された5基も含めて、ほとんど損傷はなかったのですが、コンクリート製の三重の塔だけはヒビが入ったと報告されています。
 五重塔には、いくつかの工夫が施されています。一つは、単位面積当たりの木材の使用量が多く、地震力への抵抗力が大きいこと、二つ目は塔内の無数にある木の接合部がカッチリ組み上げられていなくて摩擦と滑りが地震エネルギーを吸収していること、三つ目は何より真ん中に通し柱としての心柱(“しんばしら”と読みます)が礎石の上に立てられているのですが、通し柱とは違って地上に固定されているわけではなく、いわば上から吊された形の心柱が地震時に振り子作用をして、塔が揺れるのを和らげていることです。更に驚くべきは、五重塔の塔身は、いわば鉛筆のキャップを順々に重ねるように、各層(各重)ごとに独立して軸部・組み物・軒を組み上げ、相互に緊結されていない柔構造になっているため、地震の時に、初重が右に傾けば二重は左に傾き、三重は右に傾くといった具合いに、さながらスネーク・ダンスのように互い違いに波を打って、結果として頭頂部が大きく揺れることはなく、倒れる力よりも元に戻ろうとする復元力の方が大きいため、地震に強いということです。
 こうした五重塔の耐震性は、東京の新タワー、東京スカイツリーにも生かされているそうです。「心柱」と呼ぶ鉄筋コンクリート製の中心軸と、心柱を取り巻く編み籠状の鉄骨による塔体が独立し、その間はダンパーという伸び縮みするバネで繋がれ、揺れ方の違うこれら二つが別々に揺れると、お互いに揺れを抑え合う仕組みになっているそうです。
 かつて宮大工の西岡常一さんが言われた言葉を思い出します。「大工の言う通りにすれば、それでええんや。飛鳥建築でも、白鳳建築でも、天平の建築でも、学者がしたのとは違う。みんな大工が、達人がしたんや。我々は達人ではないけれども、達人の伝統を踏まえてやってるんやから、間違いないんや。いらん知恵出してヘンなことしたら、却ってヒノキの命を弱めるんやから、やめてくれなはれ。」中国や朝鮮半島から伝わった建築技術は、本国では衰退しても、日本ではしぶとく行き抜いて、将来の日本さえも左右しかねない職人芸として、脈々と受け継がれています。大いに誇るべき技術です。
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学校教育

2010-01-17 00:39:14 | 日々の生活
 我が家の上の子のように半年前まで海外の現地校に通学していて、この冬、帰国子女枠で高校受験する場合には、現地校の成績表を提出するよう要請されることがあります。日本の中学校の成績は、帰国して僅かな時間でキャッチアップするのが難しく、中でも国語や社会、そして理科さえも悲惨な状況なので、それをそのまま客観的な評価と見なしてくれないのは誠に有難い措置ではあります。しかもただ単に、現地校が印を押して厳封した成績表だけではなく、手持ちの成績表コピーに、能力別クラス編成の有無や、成績評定基準、教科の内容等について、日本語で補足説明を付して併せて提出するよう要請されることがあります。それは一つには、能力別クラス編成が公立の学校でも当たり前に行なわれている海外では、クラス内の成績(相対評価)が全体でのポジションを表さないこともあり得ること、そしてもう一つには、海外の学校の授業は、日本のような学習指導要領に沿った教科書通りの授業が行なわれるのではなく、カリキュラムについての緩やかなガイドラインがある程度で、むしろ教師の個性に依存したユニークな授業が行なわれることが多く、タイトルからだけでは想像し難いこと、にも依るように思います。
 シドニーの公立の中学校では、中学三年から選択授業が始まり、20以上ある中から自分で気に入ったものを3つ選ぶのですが、これがまたなかなかユニークです。日本では、私が中学生の頃に受けた美術の授業のように、せいぜい風景画を描くとかエッチングとか多色刷り木版画とか凧を作って飛ばすといった、ひねりのないオーソドックスなものが一般的でしょうが、Art and Mediaという授業では、作者と素材と技量とコンテクストとの間の関係性を学ぶ、と日本語に訳すとワケが判りませんが、例えば、自分の顔とある動物の顔を描いて、自分の顔がその動物の顔に変遷する途中の二段階を、コンピュータ・グラフィクスならありがちですが、想像して描いてみるとか、あるいは、ある動物とあるモノを選んで、その両者が合体したモノ(動物)を粘土細工で表現してみるとか、更にはテレビについて自分が持っているイメージを一枚のポスターに表現するとかなど、キレイに描けたとかよく出来たという一面的な評価基準では測れない、想像性と創造性を巧みに刺激する内容で、話を聞くだけでもわくわくして来て、特にウチの子の子供心をくすぐる内容だったようで、大喜びで取り組んでいました。Industrial Technology(工業技術)のEngineering分野の授業では、構造物の材料や道具や技術の知識とスキルを学ぶというテーマで、様々な橋が取り上げられ、そこに施されているデザインや技術的な工夫を学ぶとともに、木材で模型を作って、どれくらいの強さに耐えられるのか、強度の実験をしたそうです。Beyond Visibleという科学と数学の発展授業では、その名を訳すと、目に見えるものを超えるもの、ということになりますが、中学三年生の分際で、SKA(Square Kilometer Array)という、私はよく知りませんがWikipediaによると今なお開発中の最先端の電波望遠鏡(開発の暁には高精細で従来型の1万倍のスピードで天体観測できるシロモノで、電波妨害を受けにくく、かつ銀河系がキレイに見える南アフリカとかオーストラリアに登場する見込み)を調べて報告するテーマを与えられたのはほんの序の口で、答がすぐには浮かばないような小難しい数式や証明問題を与えられて、嬉々として取り組んでいました。
 勿論、オーストラリア(NSW州)でも、大学に入る前にセンター試験に相当するような高等学校修了証/大学入試資格認定基準(Higher School Certificate、通称HSC)試験を受け、その成績次第で良い大学に進学できますし、その平均点によって高校のランキングが発表されるほどですが、日本と比べると、明らかに授業の自由度が高く、日本以上にアカデミックな世界を覗かせたり実学的な興味を満足させたりするものが多いということは言えると思います。日本の場合(最近のことはいざ知らず、私が通った頃の想像でしかモノを言っていませんが)、教科書に沿った画一的な内容を詰め込まれるのは、必ずしも悪い話ではなく、基礎学力レベルが平均して高い人材を多く輩出する一方で、ある分野だけ突出したような尖った人材は生まれにくく、なかなか自分が進みたい道を決められない結果、とりあえず偏差値で大学を選ぶという事態になりかねません。ところがオーストラリアの場合、基礎学力レベルは日本より低そうですし、バラつきもありそうですが、少なくとも日本よりは自分の志向を見つけやすい仕組み(その気がある子供にとっては)と言えるのではないかと思います。
 日本では、社会に出れば厳しい競争に晒されるのが現実なのに、学校の中で競争を避けるのはオカシイ。社会に出れば職業はイロイロあるのが現実なのに、教科書(及びその延長)の勉強が出来ることだけで測られるのもまたオカシイ。そして学校と塾の区別がつかないところは、どう考えてもオカシイ。教科書の勉強なんて、塾や自宅で取り組めば済むレベルのものであって、学校では学校ならではの授業というものがあって然るべきです。こうして見ると日本の教師は、創意工夫を発揮するチャンスを与えられない気の毒な立場に置かれていて、教師にとっても、子供にとっても、不幸であり、日本国にとっても損失になっていると言えるのではないでしょうか。
 今日はセンター試験初日でした。私は、やたら小難しい英語や数学の問題などパズル気分で解くのは好きでしたが暗記モノには馴染めない気紛れな受験生でしたが、日本の教育制度、端的に受験戦争に不満を持ちながら、それを批判出来るのは、先ずは受験に打ち克ってからだと自分に言い聞かせ、面白くもない暗記科目にもなんとか真面目に取り組もうとしたことを、懐かしく思い出します。デキル子が失敗することはあっても、デキナイ子が実力以上に出来ることはまずあり得ないのが入学試験というものです。そう思って、受験生の方には、今日の結果にかかわらず、自分がやって来たことを信じて、また明日も頑張って欲しいと思います(受験生がこのブログを読んでいるとは思えませんが)。
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神話

2010-01-15 01:50:16 | たまに文学・歴史・芸術も
 「聖徳太子はいなかった」(谷沢永一著、新潮新書)という本を読んでいます。一般に天武天皇以後の歴史は明白だと言われます。その天武天皇に即位した大海人皇子は、壬申の乱において、皇位継承者と目されていた天智天皇の子・大友皇子を武力で打倒し、皇位を簒奪したのはご存知の通りですし、国史「日本書紀」を編纂させたことでも知られますが、そこで、自らの正統性を示すため、唐の太宗に倣い、神聖万能の皇太子像を創作した、それが聖徳太子だと言うわけです。凡そ中国にせよ中世以前の日本にせよ、国史は政治的なもの、創られるものであり、聖徳太子神話には今更驚くまでもないのかも知れません。なにしろ、つい最近まで、私たちの周囲には「神話」がまかり通っていたからです。
 その「神話」の一つは、明治以降の薩長史観であり、また戦後のGHQ史観や左翼史観もそうで、私たちは日本人としてのアイデンティティをすっかり見失ってしまいました。
 薩長史観が怪しいことは、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」などが、江戸や明治という時代、更には日露戦争の位置づけに見直しを迫ったことからも明らかで、共有されつつあります。またGHQに関しては、例えば1995年から公開されているCIAの前身OSSのヴェノナ文書によると、GHQが進めた対日占領政策は、皇室を弱体化させることによって(宮家は直宮、すなわち昭和天皇の弟以外は廃絶されたことによって皇位継承問題が現実化しましたし、皇室財産も国に召し上げられました)日本人の精神性そのものを骨抜きにし、日本を徹底的に懲罰することを狙っていたことが明らかになっています。またGHQは社会主義思想家の巣窟であり、いわば占領政策は社会主義思想の実験だと言われるほどですし、ルーズベルト政権の財務次官で、ハル・ノート起草者でもあったハリー・ホワイトは旧ソ連のスパイだったことも明らかになり、衝撃を与えました。日本でも、例えば昭和10年代の近衛新体制を支えた官僚の中にはコミンテルンと関わりをもつ者が少なくなかったと言われますし、ブレア政権以後のイギリスが公開し始めた情報資料から、旧連合軍による対日工作や諜報活動の実態が少しずつ分かり始めています。更にエリツィン時代のソ連で公開された資料を米英の学者がコピーして持ち帰っていますし、アメリカではレーガン政権の頃まで、スーパーコンピューターを使って第二次大戦期のソ連暗号の解読作業を続けており、新たな研究成果が期待されています。勿論、一部のスパイや社会主義者だけで歴史の奔流を変えることなど出来ないでしょうし、個が出来ることは高が知れていますが、ある閾値を越えた時には、歴史のちょっとした流れ(支流)が大きな流れ(本流)を変えることがあったかも知れませんし、そうしたスパイの暗躍は昔から知られるところです。いずれにせよ戦前史は、ようやく悪しき経験だったという(思い込みの)神話の時代を過ぎて、より客観的な研究対象になりつつあるようです。
 戦後、日本が平和であり得たのは平和憲法のお陰だという平和憲法「神話」も怪しい。実際には日米同盟を機軸にするアメリカの存在感が複雑で地政学的に難しい極東を安定させたと言うべきです。また経済に集中し得た軽武装国だからこそ、高度経済成長を実現し得たという成長「神話」も怪しい。多大の軍事負担を続ける中国ですら、経済成長を続けていますから、軍事と経済は両立し得ますし、実際には、戦後の生産革新や技術革新による未曾有の工業経済の成長の波に乗ったと言った方が正確ですし、そこで産業を牽引した技術の中には、戦時中に開発されたものが少なくありませんでした。
 ごく最近では、小泉改革が日本の社会の格差を拡大したという「神話」も、怪しい。そもそも新自由主義は小泉さんの専売特許ではありません。小泉政権時代の「小さな政府」路線は、既に1980年代初頭に設置された臨時行政調査会(所謂第二臨調)や臨時行政改革推進審議会で、レールが引かれており、そこでの答申の精神が、鈴木善幸内閣や中曽根康弘内閣から小泉内閣に至る代々の自民党政権に脈脈と受け継がれて来たのです。そもそも国鉄は民営化できて、郵政は民営化できない理屈が理解できません。官邸機能を強化し、官僚支配から脱却しようとするのも、当時から着々と進められてきたもので、民主党に始まるものではありません。
 私たちは実に「神話」が多い時代を今なお生きているものです。そこには、前回の「迷信」と同じで、誘導したがるある悪意が存在し、信じたがる別の善意が存在するのだと言わざるをえません。今、日本の社会を覆う閉塞感から脱却するには、こうした迷妄を振り切る必要があると思うのですが・・・
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迷信

2010-01-13 01:48:29 | たまに文学・歴史・芸術も
 前回、地球温暖化に関して、実は今、地球は温暖化しつつあるのではなく、寒冷化に向かっており、その兆候は今後5~10年の間に明らかになるかも知れないという説を紹介しました。出所は、地質学者で地球惑星科学という私も初めて聞くような専門分野を専攻されている東京工業大学の大学院教授ですが、自信を以って主張されている背景には、どうやら学際的な研究の裏づけがあるからのようです。地球の気候変動と言えば、一見、気象学の問題と捉えがちですが、地球環境という複雑系には、さまざまな影響が考えられます。地球はただ独立して存在するわけではなく、太陽エネルギーの恵を受けていますし、宇宙の放射線も浴びています。また過去の温暖化と寒冷化のパターンを、数千年から数億年の昔まで辿ることも、これからの温暖化や寒冷化を予測するのに有効かも知れません。そういう意味では、宇宙物理学や地質学の知見も必要になりますし、地球に降り注ぐエネルギーの源である太陽の核融合を理解するには、原子核物理学の助けも有効です。逆に言うと、専門分野に拘る学者の議論は、部分的にしか説明出来ていない可能性があります。
 それはともかくとして、その教授が語ったことで印象に残っている議論は、一つには自然界に「緩衝効果」が備わっているということでした。大気中の二酸化炭素が増えると、ある程度は気温が上昇するが、その一方で、植物や珊瑚など、二酸化炭素を吸収する生物の活動が活発化し、大気中の二酸化炭素濃度を小さくする方向に働くことを言います。結果として、過去一万年のデータを見れば、地球の北半球中緯度の平均気温はプラス・マイナス二度の間を行ったり来たりするだけで、それを越えたことがなかったのだそうです。地球のもつ自律機能をもう少し信じても良いのかも知れません。もう一つの議論は、温暖化は本当に「不都合な真実」なのかどうか、むしろ、江戸時代の大飢饉をもたらしたような寒冷化よりも、温暖化の方が、生命の繁栄にとって良いのではないか、という議論でした。6千年前、現在の平均気温より、2度、暖かかった時代には、東京の現在の気候が青森県あたりの気候になり、青森県の遺跡を調べた結果、北国でも食べ物の確保に困らなかったと推測されています。温暖化で、米生産が増加するとか、人類の健康・寿命が増進するという報道もありました。勿論、温暖化によって、乾燥地帯が砂漠化したり、気温が高くなり過ぎて作物の栽培が出来ない地域も出てくるでしょうが、これは生態系の地図が変わるだけとも言えます。
 先日、皇后陛下が、高齢化と言えば、皆が長生き出来て幸せなはずなのに、医療費や年金などの問題ばかり指摘されて、マイナスのイメージで語られるのが残念でならないというようなことを話しておられたのを思い出しました。どうも私たちは、温暖化=悪、高齢化=問題というような迷信に囚われて、思考停止してしまっているのではないかと思います。それによって隠されている良い面を思い出し、総合的に前向きに取り組むべきなのではないかと思います。
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都市伝説

2010-01-10 11:14:57 | たまに文学・歴史・芸術も
 昨日は商魂のことに触れましたが、経済システムは私たちの生活を支える基礎として、現代社会が経済によって規定される部分が大きいことの表れに他なりません。しかし、なかなかに厄介なものです。
 そもそも私たちを取り巻く制度やシステムは、合理的に設計されたとしても、人間の欲深さによって大きく歪められてしまうものです。それは、人間行動において、理性が欲望を抑えられないと言うに等しく、経済システムにおいて極端な形で現れたのが、一昨年のリーマン・ショックであり、日本で「失われた10年」を惹き起こしたバブル経済でした。民主主義ですら、チャーチルはひどい政治システムだと言って憚りませんでした(が、歴史上のどの政治体制よりもマシだと付け加えることも忘れませんでしたが)。ことほど左様に、資本主義にしても民主主義にしても、その他の制度にしても、完璧なものは一つとしてなく、だからと言ってそうした事実は資本主義や民主主義の価値を貶めるものではなく、もとよりやめるわけにも行きません。そこを出発点にして、常にどこかで欠陥が露呈するものとして、これからも注意して取り扱って行かなければならないものであるに過ぎません。
 かつて冷戦時代のアメリカでは、軍と産業が結託した軍産複合体が、ケネディ元大統領暗殺事件の背景を説明するものとして、語られたことがありました。そして、産業振興のために政治不安を惹き起こす、極端な言い方をすると、軍需産業を儲けさせるために戦争を仕掛ける、そのために平和主義を唱える者は大統領でも消されてしまうと、激しい非難の対象になりました。しかし現実問題として、経済発展のためにはエンジン(起爆剤)が必要で、それが軍需産業だった時代があったわけです。
 それと同時に、この時代は、家電製品や車などの消費財が、機能や性能の進化を通して、爆発的に普及し、史上稀に見る経済成長を遂げた幸せな時代でもあり、軍需産業に光が当ることは少なかったと言えます。日本でも、1950年代には、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫といった家電製品が「三種の神器」という名で、庶民の憧れの的として喧伝されましたし、1960年代には、それらはカー・クーラー・カラーテレビ、通称「3C」の耐久消費財に取って代わられ、平成になってからも、デジカメ・DVDレコーダー・薄型テレビが「デジタル三種の神器」と呼ばれて持て囃されました。本当に必要なものだったのかと問われると疑問なしとしませんし、必要以上の機能・性能改善や行き過ぎた広告宣伝など、消費を刺激するための作為が批判され、人々はそれに踊らされた部分もありましたが、こうしたモノの進化が人々の消費意欲を刺激し、人々はモノに満たされることによって豊かさを実感し、それが高度経済成長を支えたのは事実でした。
 冷戦後、クリントン政権時代のゴア副大統領は、次の産業のフロンティアとしてインターネットに着目し、情報スーパー・ハイウェイ構想を打ち出しました。今、思うと、インターネット技術を開発したのは国防総省だった点が象徴的です。その後、猫も杓子もインターネットに群がり、インターネット・バブルを惹き起こすほどの熱狂もありましたが、我々の社会構造を確実に変え、成熟した家電産業の次を担う産業としてすっかり定着しました。
 そのゴア氏が、2006年に全米で公開された映画「不都合な真実」では、地球温暖化の危機を訴えました。それ以来、益々、地球温暖化問題がクローズアップされ、最近ではCOP15が話題になったのはご存知の通りです。かつての家電製品や車やコンピュータなどの消費が一服してしまった今、オバマ大統領はグリーン・ニューディール政策を打ち出し、官民を挙げて、エコを軸に新たな経済成長を目指しています。実は、二酸化炭素量が増加して地球が温暖化しているのではなく、統計データが示すところはむしろ逆で、温暖化しているから二酸化炭素量が増えていること、その温暖化の要因としては、二酸化炭素排出量増加は微々たるもので、太陽の活動が活発化していることや宇宙線の照射量など別のところにあること、むしろ今後5~10年で地球は寒冷化に向かうこと、といった説が、一部の専門家筋から聞こえて来るあたりは、ちょっとどころか大いに怪しげであり、かつて辿って来た道以上の作為が感じられて、どちらが「不都合な真実」なのか問い質したくなります。が、とにかく、日米のみならず各国こぞって、エコをキーワードに技術革新や製品開発への投資が活発化し、新たな産業が勃興し、経済が牽引されるとすれば、必ずしも悪い話ではありません(一般論として)。
 勿論、軍産複合体説や、地球温暖化はでっちあげで実は寒冷化に向かっているのだという説は、豚インフルエンザのウィルスが製薬会社の手によってばら撒かれた(そして製薬会社はワクチンを売ることで巨万の富を得た)という噂と同じく、一種の都市伝説なのかも知れません。その真偽は、今の私にははかりかねますが、こうした都市伝説が語られ、一定の支持を得る土壌があること、すなわち経済成長に停滞感があり、それに伴う社会的な閉塞感に見舞われていること(そう、人々が感じていること)は真実です。所詮、宗教をはじめとして人間社会に虚実は付きもので、騙されることが幸せなこともあります。ただ、人間のある種の欲望が操る、現代にあっては巨大な経済システムが、同じ人間のある種の弱みに付け込んで、人々の生活を呑み込みかねないほどに暴走するのを、私たちはうまく制御できるかどうかが重要なのだろうと思います。
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