あと10数時間で2021年が終わる。
暮れ行くコロナ二年目を象徴するのが東京オリパラだったと言えるだろう。始まる前は、コロナ禍対応における政府の一連のぐだぐだ振りもあって、世間では警戒心が昂じて憎悪の声まで充ち溢れて、清少納言ならさしづめ「あな浅まし・・・」と冷ややかに背を向けたことだろう(苦笑)。世論の分断は最高潮に達した。ところが、いざ始まってみると、ボランティアを含む現場の関係者の努力と、何よりもアスリートの頑張りが世間の空気を一変した。憎悪の声を煽り続けたマスコミは手のひらを返したように、日本人のおもてなしと外国の賓客の反応ぶりを詳報し、これでもかとその交流をもてはやした。清少納言なら再び「あな浅まし・・・」と呆れたことだろう。この頃を分水嶺として、デルタ株流行はワクチン接種が進むとともに収束し、誰もが首をひねるほどに原因不明の低水準で推移して来た。今またオミクロン株の脅威がひたひたと打ち寄せているが、諸外国の爆発振りと比較すれば、まだ「さざ波」レベルである(時間の問題かもしれないが)。
こうしてファクターXを思わないわけには行かない一方、10日ほど前にアゴラに寄稿された森田洋之さんが、緩い日本と厳格な韓国の感染対策を比較して(さらに緩いスウェーデンと厳格なデンマークという同じように対照的な隣国同士の事例を付け加えながら)、「厳格なロックダウンや感染対策・経済抑制をしても、感染拡大の先延ばしするだけで、結局コロナはいつかは国中に広まるし、そうならなきゃ終わらない? とも考えられる」と、当座の結論めいたことを言われていたことに、なんとなく賛同したくなる(12/21付「韓国とスウェーデンのウィズコロナは失敗だったのか?」)。
いずれにしても、どちらが優れているとか正解だったという評価は馴染まないのだろう。これだけ世界が一律に苦難に直面する事態は、そうあるものではなく、政治リーダーにとっては成績表を横並びで比較されるようで辛いだろうし、私たち国民は民度が試されているようで面白くないが、良くも悪くも国柄が表れているだけ、と言うべきなのかも知れない。SNSの時代に、自由な社会にあっては世論が分断するのはある程度はやむを得ないとして、儒教圏の人々のように何かと自らが優れていると思いたくて一喜一憂するのではなく、また西欧圏の人々のように自由と権利を主張してさっさとマスクを外して浮かれることもなく、日本人は淡々とマスク姿で耐え続ける(ように見えて、したたかに慣れてしまう)姿にはあらためて感服してしまう。
私的には、生活に変化をつけようと(巣籠もりで痩せ細って上半身がジジイ体形になりつつあるのを食い止めようと)、春先に腕立て伏せ100回チャレンジを始め、夏の終わりにようやく瞬間風速で達成した(今も少なくとも二日に一度は続けているが、その後100回には二度と届かない)。秋口からは、いつでも走れる恰好で散歩に出るようにして、時々ママゴトのようなジョギングを入れている(しかし青梅マラソンは今年2月に続いて来年もヴァーチャル開催となってしまい、いまひとつ気合いが入らない)。師走に入って、学生時代の友人たちと二年振りの(腰の引けた!?)忘年会を楽しんだ。東京都の感染者数が最低レベルにあった頃とは言え、飲み屋は思った以上に密で、確率論を信じて、その後の二週間はおとなしく過ごしたものだった(笑)。五輪開会式前日に二度目のワクチン接種をして、次の接種を心待ちにしているところだが、世の中は、緩い対策による感染とワクチンによって、明らかに次のステージに進んでいるようだ。少し勇気を出して新しい世界に踏み出そうと思う。
最後に、この一年で最も心に残るシーンを思い浮かべてみた。ブルーインパルスが(オリパラではなく)医療従事者に向けて感謝の飛行を行ったのは5月末のことだった。政治家の声は(残念ながら)心に響かないし、マスコミは(申し訳なくも)その場限りの感情を弄ぶ雑音にしか聞こえないが、常に日陰の存在ながら日本の独立と平和を守る自衛隊が、やはり縁の下の力持ちである医療従事者への感謝を通して、国民に示してくれた連帯の心意気という声なき声が、最も心に残る。30年に及ぶ経済的な凋落を続ける(特に最近は給与レベルが上がっていないとの批判が喧しい)日本の周囲を取り巻く環境は厳しいが、「日本を日本たらしめている価値」(を守ることが安全保障だと、故・高坂正堯教授は言われたが、「日本」を「私」や「私たち」に置き換えてもいい)に思いを馳せるならば、前途は決して暗くないように思う。
(注記)ブルーインパルスの飛行は前の年のことでした。その区別がつかないとは耄碌が進んでおり、恥じ入るばかりです。ここに謹んで訂正致します。
暮れ行くコロナ二年目を象徴するのが東京オリパラだったと言えるだろう。始まる前は、コロナ禍対応における政府の一連のぐだぐだ振りもあって、世間では警戒心が昂じて憎悪の声まで充ち溢れて、清少納言ならさしづめ「あな浅まし・・・」と冷ややかに背を向けたことだろう(苦笑)。世論の分断は最高潮に達した。ところが、いざ始まってみると、ボランティアを含む現場の関係者の努力と、何よりもアスリートの頑張りが世間の空気を一変した。憎悪の声を煽り続けたマスコミは手のひらを返したように、日本人のおもてなしと外国の賓客の反応ぶりを詳報し、これでもかとその交流をもてはやした。清少納言なら再び「あな浅まし・・・」と呆れたことだろう。この頃を分水嶺として、デルタ株流行はワクチン接種が進むとともに収束し、誰もが首をひねるほどに原因不明の低水準で推移して来た。今またオミクロン株の脅威がひたひたと打ち寄せているが、諸外国の爆発振りと比較すれば、まだ「さざ波」レベルである(時間の問題かもしれないが)。
こうしてファクターXを思わないわけには行かない一方、10日ほど前にアゴラに寄稿された森田洋之さんが、緩い日本と厳格な韓国の感染対策を比較して(さらに緩いスウェーデンと厳格なデンマークという同じように対照的な隣国同士の事例を付け加えながら)、「厳格なロックダウンや感染対策・経済抑制をしても、感染拡大の先延ばしするだけで、結局コロナはいつかは国中に広まるし、そうならなきゃ終わらない? とも考えられる」と、当座の結論めいたことを言われていたことに、なんとなく賛同したくなる(12/21付「韓国とスウェーデンのウィズコロナは失敗だったのか?」)。
いずれにしても、どちらが優れているとか正解だったという評価は馴染まないのだろう。これだけ世界が一律に苦難に直面する事態は、そうあるものではなく、政治リーダーにとっては成績表を横並びで比較されるようで辛いだろうし、私たち国民は民度が試されているようで面白くないが、良くも悪くも国柄が表れているだけ、と言うべきなのかも知れない。SNSの時代に、自由な社会にあっては世論が分断するのはある程度はやむを得ないとして、儒教圏の人々のように何かと自らが優れていると思いたくて一喜一憂するのではなく、また西欧圏の人々のように自由と権利を主張してさっさとマスクを外して浮かれることもなく、日本人は淡々とマスク姿で耐え続ける(ように見えて、したたかに慣れてしまう)姿にはあらためて感服してしまう。
私的には、生活に変化をつけようと(巣籠もりで痩せ細って上半身がジジイ体形になりつつあるのを食い止めようと)、春先に腕立て伏せ100回チャレンジを始め、夏の終わりにようやく瞬間風速で達成した(今も少なくとも二日に一度は続けているが、その後100回には二度と届かない)。秋口からは、いつでも走れる恰好で散歩に出るようにして、時々ママゴトのようなジョギングを入れている(しかし青梅マラソンは今年2月に続いて来年もヴァーチャル開催となってしまい、いまひとつ気合いが入らない)。師走に入って、学生時代の友人たちと二年振りの(腰の引けた!?)忘年会を楽しんだ。東京都の感染者数が最低レベルにあった頃とは言え、飲み屋は思った以上に密で、確率論を信じて、その後の二週間はおとなしく過ごしたものだった(笑)。五輪開会式前日に二度目のワクチン接種をして、次の接種を心待ちにしているところだが、世の中は、緩い対策による感染とワクチンによって、明らかに次のステージに進んでいるようだ。少し勇気を出して新しい世界に踏み出そうと思う。
最後に、この一年で最も心に残るシーンを思い浮かべてみた。ブルーインパルスが(オリパラではなく)医療従事者に向けて感謝の飛行を行ったのは5月末のことだった。政治家の声は(残念ながら)心に響かないし、マスコミは(申し訳なくも)その場限りの感情を弄ぶ雑音にしか聞こえないが、常に日陰の存在ながら日本の独立と平和を守る自衛隊が、やはり縁の下の力持ちである医療従事者への感謝を通して、国民に示してくれた連帯の心意気という声なき声が、最も心に残る。30年に及ぶ経済的な凋落を続ける(特に最近は給与レベルが上がっていないとの批判が喧しい)日本の周囲を取り巻く環境は厳しいが、「日本を日本たらしめている価値」(を守ることが安全保障だと、故・高坂正堯教授は言われたが、「日本」を「私」や「私たち」に置き換えてもいい)に思いを馳せるならば、前途は決して暗くないように思う。
(注記)ブルーインパルスの飛行は前の年のことでした。その区別がつかないとは耄碌が進んでおり、恥じ入るばかりです。ここに謹んで訂正致します。