風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

トランプ発言の重み

2025-01-11 10:16:19 | 時事放談

 トランプ氏は就任前からトランプ節を炸裂し、現職のバイデン大統領の影をすっかり薄くしてしまった。

 先月21日に(1999年末に全面返還していた)パナマ運河を再び支配下に収めることをあらためて要求し、翌22日には「安全保障と世界の自由のため、米国はグリーンランドの領有と管理が絶対必要だと考えている」とSNSに投稿した。今月7日の記者会見では、パナマ運河とグリーランドを巡り、軍事力や経済的威圧を用いないと確約できるかと問われると、「いずれも保証できない」と返答した。ついでながら別の機会に、カナダは「51番目の州」になるべきと発言し、メキシコ湾の名称を「アメリカ湾」に変更するとの考えも示した。

 ジョン・ボルトン氏は、パナマ運河の通航料の高さやグリーンランドの戦略的重要性について議論するのは真っ当なことだとしつつ、トランプ氏の「放言」のせいでそうした議論の機会が危うくなっていると懸念を示した。確かに、グリーンランド西北部にはピッフィク米宇宙軍基地があるし、気候変動より北極の航行ルートが利用可能になるにつれ、貿易および軍事上、戦略的な重要性が増していると言われる。また、未だ開発がされていないレアアース(希土類)、石油、天然ガス等が豊富にあるとも見られている。しかしトランプ氏の狙いは逆ではないだろうか。

 トランプ氏の「放言」の特徴が、真実の一端を衝きながら(その限りにおいては本気である)相手の譲歩を引き出すところにあるのは衆目の一致するところだ。例えばカナダに圧力をかけるのは関税を巡る交渉の一環だと解説されるのがそれだ。今回、ロシアや中国と同じ穴のムジナとも言うべき領土の拡張主義を露骨に打ち出して周囲を慌てさせ、西側・自由民主主義陣営の盟主にあるまじき「放言」として一斉批判を浴びたが、バイデン大統領の影を薄くするばかりのトランプ氏の念頭には中国の影がチラついていることだろう。これらの要衝を世界に向かって争点化し、予測不可能なトランプ氏が明確に関心を持ち、アメリカが関与する可能性があることを示すことによって、中国と、中国に誘われて呼応しかねない当時国の動きを牽制する効果があるのは間違いない。パナマ運河について言えば、カリブ海側・太平洋側の二つの港の管理に、香港に拠点を置くCKハチソン・ホールディングスの子会社が長年にわたり携わっている点が懸念材料になっていたのは事実なのだ。孫正義氏がトランプ氏を訪ね、アメリカに1000億ドルを投資すると擦り寄ったら、2000億ドル出せないかと反射的に答えるほどにディールが染みついた根っからの商売人である。ボルトン氏の言うようなプロフェッショナルな外交でもなければ、アメリカ大統領にあるまじき品格のなさでもあるのだが、これがトランプ流であろう。

 もしそうだとすれば、トランプ政権一期目に国家安全保障問題担当の高官だったビクトリア・コーツ氏が「米国にとって良いことは世界にとっても良いことだという考え方だ。トランプ氏はある状況で何が米国にとって利益であるかを冷静に見極める」と指摘し、米メディアからは「冗談めかした雰囲気は全くない」「100%真剣だ」との指摘が出て、当事国のパナマやデンマークだけでなくドイツ首相までもが声高に反発するのは、トランプ氏の思うツボだろう。

 他方で、ウクライナ戦争について、「就任後24時間以内」の停戦実現に意欲を示してきたが、7日の記者会見では「6カ月あれば良い。それよりずっと前に解決できることを望む」と説明し、目標をあっさり後退させてしまった。

 芥川龍之介は、「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である」との名言を残した。トランプ氏の発言も、重大に扱うのはバカバカしいが、重大に扱わねば危険である。そんなトランプ劇場が間もなく幕を開ける。

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2024回顧③民主主義

2025-01-04 20:44:47 | 日々の生活

 私たちは「民主主義の後退期(a period of democratic backsliding)」にあると、フランシス・フクヤマ氏が元旦の日経新聞で述べていた。確かにあの民主主義の殿堂とも言うべきアメリカでトランプ党と化した共和党が大統領府と議会を乗っ取り(所謂トリプル・レッド)、トランプ氏は忠誠を尽くすお友達で周囲を固めてしまった。一期目とは異なり、二期目は意のままに政策を推し進めそうな気配である。かたやヨーロッパではひたひたと極右が台頭している。韓国では民主化して日が浅いとは言え党派争いには目を覆うべきものがある。しかし、私たちは民主主義(ドクトリンではないのだから本来は「民主制」と呼ぶべきもの)に期待し過ぎているのではないだろうか。

 かつてプラトンは国制を①名誉支配制、②寡頭制、③民主制、④僭主独裁制の四つに分類し、この順番で古代ギリシアの国制は推移したと述べた。名誉支配制とは所謂「哲人王」による王制で、豊かな知と徳を備えた人々を守護者とする。彼らは「決して自分のための利益を考えることも命じることもなく、支配される側のもの、自分の仕事が働きかける対象であるものの利益になる事柄をこそ考察し命令する」存在である。そのような守護者の中から一人だけ傑出した人物が現れる場合は王制、複数である場合が優秀者支配(=貴族制)で、プラトンはこれらこそ最善の国制とした。しかし支配者たちはやがて殖財に邁進し、寡頭制に転じる。更にそんな富や権力を独占する支配者に対する反発から民主制に転じる。民主制は、自由で平等な市民による相互支配の体制であり、アリストテレスは端的に「順繰りに支配し、支配される」と形容した。しかしそのような「最高度の自由からは最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくる」とプラトンは喝破した。僭主独裁制である(以上、君塚直隆著『貴族とは何か』参照)。もとよりアテネをはじめとする民主制は直接民主制であって現代の間接民主制とは似て非なるものではある(私たちの間接民主制はもはや民衆が選ぶ貴族制と化しているかもしれない 笑)。何しろアテネでは、投票は党派性を生むとして、籤引きこそ民主的と見做したのだ(私たちは中間団体としての政党=党派性の様々な塊を甘んじて受け入れている)。なんと素朴で手作り感のある社会だろう(私たちは政治に余り関わりたくなさそうだ)。この直接民主制を成り立たせるためには、古代ギリシア史家の伊藤貞夫氏によれば、一般市民が感情や目の前の利益に惑わされぬ冷静さと大局観を持つこと、更には彼ら市民の意向を集約し、時には的確な指針を示して、一国の向かうべき行く手を誤らせぬ政治指導者に恵まれることが必要条件となる。現代の間接民主制においても概ね同様の「関心」を持つことが必要で、それを失うと醜悪な全体主義に転じることは、私たちはその後の20世紀の歴史から学んだはずだ。

 プラトンに学んだアリストテレスは、政治制度を人数によって三通りに、また共通の利益に目を向けるか否かでそれぞれ二通りに、計六通りに分けて見せた。一人による支配(王制、僭主制)、少数による支配(貴族制、寡頭制)、多数による支配(国制または共和制、民主制)である。ここから読み取れるのは、人数による違いには本質的な意味がなく、人数の違いで分けた制度はそれぞれに両義的であり、中でも民主制はネガティブに捉えられていた、ということだ。プラトンもアリストテレスも、貴族制こそ理想としたのは、かの敬愛して止まないソクラテスを死に追いやったのは民主制のせいだと考えたからだろう。実際に久しく近代に至るまで民主制の評判はよろしくなかった。アメリカでさえ建国当初は民主制に懐疑的で、ローマ的な共和制を志向したとされる。それほどまでに、現代の私たちがつい当たり前だと思ってしまう民主制を成り立たせるのは如何に難しいかの証でもあろう。

 こうして民主制そのものへの過剰な期待を拭い去った上で、民主制を成り立たせる規模感、あるいは単位のことを思わないわけには行かない。本来の民主制は、多数派が支配すると言うよりも、市民に一定の同質性があり、生じる差異については協議し妥協して解決できる寛容な社会である必要があるようだ。古代ギリシアや中世イタリアの諸都市は、まさにそのような規模感だっただろうし、かのルソーも、まさかフランスのような国家レベルで民主制が成り立つ(革命が起こる)とは考えていなかったようだ。その急進性に危うさを覚えたエドマンド・バークは『省察』を書いて警鐘を鳴らした。フランスの貴族だったアレクシス・ド・トクヴィルは、1830年代にアメリカを訪れて、民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」と断じた(と言いつつも、ローカル・コミュニティには手作り感のある民主制が息づいていることは見抜いていた)。フランス革命が挫折した後、西欧で国民国家が誕生するまでには経済的に余裕ができて社会的に成熟する必要があった。

 そうすると、社会が分断するアメリカや更にその上を行くほどに分極化する韓国で政治が荒れるのは、民主制そのものに内在する道理なのだろうと思う。他方、中国やロシアのように多民族を抱える帝国が、国家をまとめるために民主制を実践できずに強権に向かうのもまた道理なのだろうと思う。だからと言って権威主義を認めるつもりはなく、いずれ最適レベルに分裂して行くしかないと希望的に観測している(笑)。実際に第一次世界大戦では四つの帝国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシア)が崩壊し、その余波は今もなお続いていて、第二次世界大戦後の体制に不満を持つリビジョニストたるロシアや中国という残された帝国が民主化に抗うのは当然として、強権化し却って不安定化しつつあって分裂しかねないとは皮肉な話だ。

 いや、権威主義国のことはひとまず措く。選挙イヤーと言われた昨年、アメリカや日本をはじめとする多くの国々で政権与党が敗北を喫したのは、生活を直撃するインフレなどの経済的な一過性の要因が大きく作用したのは事実だが、冷戦崩壊以降の新自由主義のもとで格差が拡大する中、中東情勢が不安定化して移民が拡散したり、中国という異形の大国が政治・経済的に台頭したりして、いずれの異質性へも嫌悪感や排他性が強まり、SNSのエコーチェンバー効果が手伝って、社会の寛容性が失われつつあることが底流にあるように思われる。SNSはツールでしかないが、トランプ氏暗殺未遂事件に象徴されるように、同質性の高い集団の中ではますます結束が高まった(他方、異質な集団への影響は皆無に等しかった)。国際社会では権威主義国が民主主義国から離れて行き、自由でオープンな民主主義社会に付け込んで分断を煽っていると言われる。

 社会が分断を深めつつあるのは日本も同じで、迎合するポピュリズムには苦々しく思い、既存の政党やメディアが信頼を失い、石丸現象のように特定個人に期待が集まる風潮には危うさを覚える。現代を20世紀前半の戦間期に比定しようとする向きがあるが、ワイマール体制下で多元主義への幻滅や、勃興する左翼(今で言うならwokeなリベラル)への嫌悪が広がり、ベルサイユ体制がもたらした経済危機や世界恐慌(今で言うならリーマン・ショックやコロナ禍やウクライナ戦争)で疲弊する中で、既存の政党は危機に適切に対処できずに、また既存メディアは世論を適切に喚起・誘導できずに、いずれもが支持を失い、各陣営が自分たちにしか通じない特定の思想や価値観を増幅させ、世論が分断されて、ナチスのようなポピュリズム政党に流されていった状況には留意すべきだろう。

 国制は人数に関わらず、と言ってみたものの、やはり今となっては法の支配に基づく民主制こそ個人の自由を担保できる制度だと思うからだ。しかしその民主制を成り立たせるのは人であり社会なのである。

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2024回顧②戦争

2025-01-01 09:47:07 | 日々の生活

 ウクライナ戦争が始まってから間もなく丸三年になろうとしている。世界のどこかで戦争があると実感する生活が当たり前になってしまった。さすがにロシアやウクライナ界隈では戦争疲れや厭戦気分が漏れ伝わる。最近で言えば(と言っても70年以上前のことだが)、朝鮮戦争が丸三年とひと月で休戦協定に至った。大統領に就任すれば24時間以内に戦争を終わらせると豪語したトランプ氏の登場で局面打開できるだろうか。

 ウクライナ戦争を通して多くの人が様々な教訓を再確認したことだろう。

 まさか21世紀の現代に19世紀的戦争が行われることになろうとは思ってもみなかった。しかも第一次世界大戦当時の塹壕戦が展開される上空に遠隔操作ドローンが飛び交うハイブリッドの様相である。民主的平和論が本当かどうか分からないが、現代にあっては戦争へのハードルが高い民主国家と違って、独裁国家においては少人数で(場合によっては一人で)意思決定される恐ろしさがある(その意味で最近、習近平に権力集中する中国で人民解放軍筋から集団指導体制を称える論説が出始めているのは注目される)。そして戦争は始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。しかも戦争は、戦争法規というものがありながら、いともたやすく破られて悲惨である。長期戦になれば砲弾などの物量がモノを言う。戦争ではロジスティクスが重要と言われ続けて来たが、あらためて実感された。中でもサプライチェーンに関心が集まる。アメリカで今、造船が注目されるのは、ウクライナ戦争やコロナ禍と無縁ではないだろう。最近でこそ世界の工場とは言われなくなった中国の(米国に対して比較優位にある)製造能力は、いざ戦争が勃発したときには脅威となるからだ。また、プーチンの継戦の「意志」は変えられないとしても「能力」を削ぐために矢継ぎ早に幅広く経済制裁を科して来て、三年近く経ってなお、ロシアがへこたれないでいることには驚くべきものがある。中国から電子機器を、イランからドローンを、北朝鮮から砲弾や歩兵を調達しているからとされ、グローバル経済にあって、特に価値に囚われることなく米露いずるからも経済的恩恵を引き出そうとする新興国がいれば制裁は破られる。逆に、世界経済に組み込まれた資源大国を制裁したことでエネルギー危機が勃発し、世界の景気を悪化させ、選挙イヤーと言われた昨年の選挙戦では各国で軒並み与党が敗れる波乱が続いた。米国のような特定の社会だけでなく世界も民主主義国家と権威主義国家とに分断され、窮屈になった。最近になってようやくウクライナにロシア領攻撃が許されつつあるが、日本が国是とする専守防衛では心許ないことがはっきりした。そして、核戦争をチラつかせるプーチンの脅迫に弱腰のバイデン大統領や西欧諸国を見ていると、力に対して力で対抗するしかないという現実が突きつけられる。やはり、戦争は始めるべきではないのだ。敵基地攻撃能力を保有してでも、外交を駆使し、相手の意志を拒否的に徹底抑止しなければならない。

 シリア・アサド政権が崩壊したのは、ウクライナ戦争と中東紛争の余波と言えるであろう。ロシアがウクライナ戦争に足を取られ、ヒズボラやイランがイスラエルによって壊滅的な打撃を受けて、シリア・アサド政権を助ける余力がなく、言わばシリア内に権力の空白を見てとった反体制派が進軍し、シリア軍はあっけなく瓦解した。

 そして何より、私たちは経験の中でしか物事を見ることが出来ないことが分かる。だからこそ読書したり映画やドラマや漫画を見たりしてなんとか想像力の翼を広げようとするのだが、それでも実体験には及ばない。戦争を遠くからではあるが同時代的に眺めていて、歴史を学び歴史的視野で物事を捉える重要性を思い知った。マーク・トウェインが言ったとされる「歴史は繰り返さないが韻を踏む」(History doesn’t repeat itself, but it often rhymes.)が人口に膾炙したことにはワケがある。

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