風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ドーハの歓喜

2011-01-30 12:15:23 | スポーツ・芸能好き
 サッカーのアジア・カップ決勝で、日本はオーストラリアを破り、二大会ぶり四度目の優勝を果たしました。野球少年が年取っただけの私でも、特にW杯南ア大会以降、成長を続ける日本代表の試合を見るのが楽しみで、昨晩も、深夜に二戦続けての延長戦でしたが、眠くなることも飽きることもありませんでした。
 この日の試合ではやや精彩を欠きましたが、短いパスを繋いで縦に切り込むスピード感のある攻撃が、日本代表の成長を感じさせます。そんな日本が攻めあぐねるほど、対するオーストラリアの守りはどっしりした印象があって、体力の問題だけでなく、本田が言うように要領のいい守備でしたが(それを吉田は、身体が強い分、ちょっと重いので守備では余り頑張らない、と形容していました)、数少ないチャンスをモノにしました。他方、オーストラリアには簡単にロングボールを蹴られて空中戦を仕掛けられ、こぼれ球を押し込まれる再三のピンチに見舞われましたが、守護神・川島がよく守り切りました。
 ザッケローニ監督は、これで国際Aマッチ8戦無敗だそうです。強さの理由に「Grande Compattezza(偉大な団結力)」という言葉を何度も口にしていましたが、チームは個性のある強い個人が集まるだけではなく、そこにまとまりを持たせることで更に強さを発揮する、ということを見せつけられました。それは控えの選手も含めて代表チーム全体として言える話で、昨晩も決勝ゴールを決めた李忠成のように、交代で出てくる選手がきっちり点を取るところに日本代表の底力を見た思いです。監督のある種のカリスマ性と、その信頼に応えようとする選手たちとの良い関係が垣間見えて、頼もしく映ります。
 W杯米国大会アジア最終予選最終戦のイラク戦終了間際に追いつかれた「ドーハの悲劇」は1993年10月28日のことでしたが、あれから17年の同じドーハで、日本はあのトラウマを完全に克服したような強さを感じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治主導と言うけれど・・・(2)

2011-01-29 10:27:21 | 時事放談
 まったく、この国を、言いようのない閉塞感が覆っています。世界の諸外国と比べて見れば、客観的な諸条件は決して悪くないのに、何故か陰鬱な空気が充ち満ちて、日本人にいまひとつ元気がありません。手持ちのお金がないわけではないのに、日本経済の先行きや日本の財政状況から、老後の生活とりわけ社会保障に対して漠然と感じる不安感。では今こそ何か仕掛ければ良いのですが、どうせ手を打ってもゼロ・サムの中で、右のポケットから左のポケットに移るだけで、何をやっても変わらないと諦める無力感。かつて活力に充ち満ちた社会で、右肩上がりに、働くほどに給料も増え、社会が豊かになるのが目に見えて、忙しくても遣り甲斐があったのに、高度に発達した組織社会の中で、社会に勢いが無くなった今、自分がやることの価値が見えにくく、歯車のように働くことに達成感がなく、自分が出来ることは高が知れていると諦めてしまう喪失感。結果として、ある程度の豊かさを達成して、物的にはそれなりに満足しながら、精神的にはいまひとつ満たされない焦燥感。
 実際問題として、これほど(例えば一人当たりGDPなど)豊かになった国が、人口が増えず、むしろ少子高齢化で人口が減少していく中で、更に高度成長を夢見るのは、ドンキホーテの無謀と言うべきで現実的ではありません。しかし国境のハードルが限りなく低くなってグローバルに影響し合う社会にいて、ただ手を拱いていては、失われた20年から這い上がるきっかけがつかめないまま、さらに地盤沈下を続けるだけです。
 政治が悪い、と言うのは簡単です。私たちが投票行為によって選び(全体の半分しか投票していませんが)、私たちの負託を受けて(全体の半分のそのまた半分くらいしか支持していないという意味で、負託もその程度の低レベルですが)代表者が行うことに対して、何か言おうものなら天に唾するようなものです。
 政治主導という言葉が悪い。きっとそうなのでしょう。そう言った途端、大多数の国民にとって、他人事になってしまいます。ただでさえまつりごとをつかさどるのは(なんと平仮名だらけで読みにくいことでしょう!)お上と呼んで、個人的な事情に引き篭もりがちな日本人の性です。そして環境変化に対応できなかっただらしない自民党に代わって、およそ政権担当能力がないにも係らず舞台に引き摺り上げられた民主党は、もがきあがいて空回りして、挙句は選挙対策と党内抗争に明け暮れる茶番を演じる始末で、益々、民心は離れていきます。
 政治主導ではなくて、国民主導、民の活力を引き出すキャッチフレーズが重要です。国家も、企業社会と同じで、変革を起こすには、社長(首相または内閣)が叫ぶだけでは、あるいは経営層(政治や行政機構)が働くだけでは、うまく行くものではあり得ません。従業員(国民)の一人ひとりが危機感をもち、回復させるのは、他人事ではなく、一人ひとりが創造していく作業なのだということを自覚させることが必要です。おそらく国民一人ひとりは、何かやる余裕があり、やる心の用意もあるのに、なすすべもなく、ただ日々の生活に埋没しているだけではないでしょうか。今では抵抗勢力によってすっかり色褪せさせられてしまった小泉改革は、いろいろ功罪はあったにしても、そして時代の追い風はあったとしても、当座の日本が進むべき方向に対するメッセージは明確で、少なくとも国民はその範囲で熱狂し、改革の痛みに耐える覚悟が出来ていました。あの勢いを続けられなかったところに、自民党の凋落があり、その先に民主党が十分な用意もなく桧舞台に躍り出て醜態を曝け出し、その結果として、国民の失望が広がっています。
 今は、日本が高度な中央集権体制から地方分権、もっと言うと地域コミュニティへの参加を通して、国民一人ひとりが寄る辺を確認し、自ら腕を振るえる社会に変革するための臨界点に向けて、エネルギーを貯めている時期なのだろうと、善意に解釈しています。果たして、臨界点を超えるのは、いつのことか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治主導と言うけれど・・・(1)

2011-01-28 23:43:07 | 時事放談
 管さんの施政方針演説に続いて、各党の代表質問が始まりましたが、どうにも与野党の議論がかみ合いません。呆れて、何とも言いようがありません。
 ぐっと堪えて、一歩引いて、根本的に今の政治家は議論に慣れていないと思わざるを得ませんが、それは何故かとつらつら考えるに、そもそも日本人は合理的な判断よりも情念で動くことが多く、議論よりも空気に支配されやすい性向がある上に、明治以来の日本の政治の現実は、官僚が情報を握り、与党のためにシナリオを作成してくれるものだから、自民党ですら下野すれば、対案はおろか、手も足も出せなくて、結局、下らない足の引っ張り合いに終始せざるを得ない、といったところなのだろうと思います。そうすると、日本に二大政党制は馴染まないのではないか、いわば勝てば官軍で、政権を取るか取らないかが焦点になり、一昨年の衆議院選挙の民主党のキャッチフレーズのように「政権交代。」と句点を打って、それだけが目的化して、以後、思考停止してしまうのではないかとも思います。今回の与謝野さんの経済財政政策担当大臣就任などは良い例で、本人は、財政・社会保障改革は政治家の良心だ、政治家生命も残り少ないと、真綿にくるんで言い訳しますが、要は弱小野党にいたら情報は入らないし何も出来ないという証左でしょうし、自民党の主張も、自民の比例で当選し、離党後も民主党の政策をこっぴどく批判しておいて、民主党政権で入閣する変節はどうしたことかと、大いなる疑問を呈して、それは確かに一理あるのですが、煎じ詰めると、要は野党に成り下がった自民党を捨てて、与党・民主党に鞍替えするのはズルいと言っているに過ぎません。
 政治主導と言うけれども、物言えば唇寒し秋の風・・・といったところです。秋の風どころか、真冬の寒気で耐えられないほど・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

当世テレビCM事情

2011-01-27 00:08:10 | スポーツ・芸能好き
 連続ドラマのことを「連ドラ」と呼ぶのに倣って、連続テレビ・コマーシャルのことを「連コマ」と呼ぶことにしましょう。一話完結で、数週間で入れ替わりながら、なおシリーズものとしてストーリー性をもつテレビCMのことです。およそ物欲が控え目な日本にあって、テレビCMも何をどう訴えたら効果があるのか今なお試行錯誤する中で、それなりに支持を得ているのか、こうしたエンタメ性を備えた連コマがいくつか根強く残っています。
 ひとつは白戸家のお父さん犬が活躍するソフトバンクのCMで、数年前にはCM高感度ナンバーワン(洒落ではありません)にもなりました。少子化の時代に、犬が家族の一員として暮らすのは当たり前ですが、お父さんという一家の大黒柱であるところが、なんともシュールで、テンポの良さと相俟って、インパクトがあります(最近はシュール過ぎて理解を超えていますが)。
 次が、妻夫木聡と小西真奈美が繰り広げる、「私のコンロに火をつけて」とサブタイトルがついた恋愛ドラマ仕立ての東京ガス・ガスパッチョのCMです。草食男子を代表するような妻夫木聡の、自信なさげな表情がなんとなく気になります。因みに「ガス・パッ・チョ!」とは、東京ガスのプレス・リリースによると、「ガスで、パッと明るく、チョっといい未来」を意味し、先進の技術と身近なサービスをもって「ガスには未来がある」ことを宣言したコミュニケーションワード、だということです。う~む、半官半民の東京ガスも、随分、柔らかくなったものです。
 三番目が、時任三郎、柳沢慎吾、麻生祐未の豪華メンバーに加え、中井貴一もついに登場した、昔懐かしいトレンディ・ドラマ風のモバゲーのCMです。こちらもCM高感度が高いCMのようで、「同窓会」という設定が優れていて、私たちオジサン・オバサン世代をつい夢中にさせるのですが、ちょうど1980年代後半から90年代にトレンディ・ドラマに嵌った世代が、今、テレビCMをプロデュースする年代になったということなのでしょうか。歴史は、否、流行は繰り返す。
 四番目に、木村拓哉主演のセコムのCMも挙げておきます。SMAPの中では一番器用そうに見えて、何を演じても芸風が変らない木村拓哉ですが、おじいちゃんとのやりとりにホロリとさせられ、つい引き込まれてしまうこともあります。
 ちょっと情ない?話ですが、ドラマを見なくなって久しいせいか、これら連コマのミニ・ドラマを結構楽しみにしている私でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国に乗っ取られる?(後編)

2011-01-24 00:03:53 | 時事放談
 昨日は中国の存在感が増すばかりの現象を追いました。今日は中国の国としてのありようについて、最近読んだ本を紹介しながら、つらつら考えてみたいと思います(「二十世紀をどう見るか」野田宣夫著)。
 孫引きになりますが、近世中国の外交史を専門とした東洋史学者の矢野仁一氏は、「近代支那論」(大正12年)の中で、中国にはもともと国境の観念がない、何故なら中国は自らを「世界的帝国」とみなし、世界は全て中国の領土と心得ているから、と述べます。実際には、中国の政治の及ぶ範囲は限られていますが、中国人の観念からすれば、そのために生ずる境界は、「国境」ではなくて「邊疆」(=辺境、と言い換えると意味が変わってしまうのでしょうか)であって、その向こう側に別の国家の存在を認めない、と言うわけです。そして明確な国境を持つことが近代的な国家組織の必要条件であり、国境がないところに近代国家は成り立たない以上、国境というものを知らない中国は国家ではあり得ないと断じます。実際に、第一次大戦以後(矢野仁一氏の生きた時代)の中国は、いくつもの軍閥が割拠する一種の戦乱状態にありましたが、人民は戦争の脅威を感じて戦々恐々とした生活を送っていたかと言うと、そんなことはなく、むしろ政治家や軍閥の消長とは無縁なところで、どちらかと言うと切迫した気分なしに暮らしていました。これは、通常、欧米諸国や日本のように国家組織が完成している国では、いったん主権の存在が不分明になったり分裂したりすると、収拾不能な混乱に陥ることと比べると、その違いは明白です。こうして国家の組織が出来ていないところでは社会の進歩向上は期待できず、現に国家ではなく、将来も国家となる見込みが少ない中国の前途は「頗る失望すべきである」と診断しています。
 こうした論説に対しては、時代背景に影響されているという批判はあり得るでしょう。野田氏も、確かに世界史上の帝国の境界は、古代のローマ帝国にせよ中世の神聖ローマ帝国にせよ、アメリカ西部開拓時代の「フロンティア」的に、あくまでも仮の停止線であって、事情が許せば前進するような性格のものだったと認めつつ、他方、矢野氏の時代は、明治維新後、半世紀を経て、日本が近代主権国家に変身を遂げ、第一次大戦で戦勝国となり、国際的にも五大列強の仲間入りをするに至った成功に対する高揚感を背景とする中国への優越意識が投影されていると述べておられます。
 それはともかくとして、矢野氏の予想を半ば裏切る形で、中国は内戦状態を克服し、社会主義国家に生まれ変わりました。しかし、野田氏の見立ては、二十世紀の中国の歴史の中で、孫文、蒋介石、毛沢東の三人は、中国を欧米諸国や日本をモデルとして近代主権国家に仕立て上げようとして、ついに果たすことが出来ず、その努力は概ね徒労に終わった、とりわけ毛沢東の社会主義は、先進国並みに国家による社会の緊密な把握を目指した一風変った実験だったが、結局、経済の発展は阻害されてしまった、これに対して小平は、緊密な近代主権国家の実現を断念し、中国を孫文や蒋介石以前のルースな支配の形態に引き戻す道を選んだと言います。中国史における統一帝国の支配は、その中央集権的な官僚体制にもかかわらず、社会の底辺まで浸透することはなく、中央から下降する中国官僚制の支配は、常に地縁的あるいは血縁的なさまざまな勢力と妥協する形でしか行われ得ず、多くの腐敗も生んできたわけで、結局、中国史における国家は、一定の領土内の社会を完全に掌握し尽くすことなく、底辺の社会を、ある程度まで不定形で流動的な状態に置いたまま、その上に覆いかぶさる形で存在してきたに過ぎない、と敷衍されます。中国政府が究極的に関心をもっているのは、いまや秩序の保持と徴税でしかなく、国家のコントロールを後退させて社会の流動化を促しつつ、市場経済に移行していくのが小平の「改革・開放」路線である、これは蒋介石以前の混乱状態に復帰しかねない危険を孕んだ大きな賭けだけれども、しかし、ボーダレス化の時代においては、日本のような密度の高い国民国家の統治形態よりも強みを発揮するのではないか、と問題提起されています。
 以上、紹介が長くなりました。野田氏による本書は、グローバル化の進展に伴い、人々の交流や接触が増大すると、世界の一元化をもたらすのではなく、むしろ文明間の違いについての意識が強められ、それぞれの文明への帰属意識を高めること(ハンチントン氏の「文明の衝突」)、そしてそれは各文明を基盤として中世的な「帝国」が復活する(ジャン-マリ・ゲーノ氏の「民主主義の終わり」)という「歴史の慣性」が働くのではないかという仮説のもとに、東アジアの歴史を振り返ったものでした(実は本書の前半では、在来型の凝縮度の高い国民国家が、グローバル化に対して不適応を起こし、支配形態が変容を迫られるもうひとつの方向性として、複数のエスニー(小民族集団)の連合体に再編されて行く状況を活写しますが、省略します)。興味がある方は、是非、手にとって頂きたいと思います。
 中国のありようについては、孫文を支援した内田良平氏の「支那観」(大正2年)でも、「ただ個人の利益を追い求めて生活する者たちが構成する社会で、君主がいようがいまいが国土が異民族に乗っ取られようがまったく感知しない。ある日突然、国王が英や露、また仏、独、日、米その他となっても一向に構わない。井戸を穿って飲み、田を耕して食らえれば、もうそれだけでよく、皇帝には一切関わりはない」などと述べられています。こうした度重なる政権交代で、中国の民衆は金以外に信じるものはないという見方は、私たちにも目新しいものではありませんし、中華思想も、東アジアにおける文化的優位性の中で論じられて来ましたが、それが国家観として、あるいは帝国論として提示されているのが、私には新鮮に映りました。こうした見方は、大正時代に限ったことではなく、現代も、単にコミンテルンの鎧を纏い、あるいはその戦略を振りかざしていますが、本質は変らないのではないか・・・というのは、尖閣諸島や南沙諸島を含む東・南シナ海へのこだわりだけではなく、朝鮮半島へのコミットメントや、台湾やチベットを核心的利益と言ってはばからない倣岸さからも明らかでしょう。先日の米中会談を見ていると、欧米をはじめとする国際社会に対しては、まがりなりにも国際ルールに乗っかるかのように見せかけながら、新興国を理由として、あるいは個々の国の事情を持ち出して、時間稼ぎしつつ、他方、東アジアにおいては、昔ながらの中華思想、あるいは帝国観が牙を剥き、日本はその濁流に呑み込まれるのではないか・・・そんな危機感を覚えてしまいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国に乗っ取られる?(前編)

2011-01-22 10:39:38 | 時事放談
 ここ二日間、日経新聞はまるで中国に乗っ取られたかのような賑々しさで、一昨日夕方の一面は「中国GDP世界2位」と「米中、経済・安保で連携」の大文字が踊り、昨日朝の一面は「NEC、レノボと合弁」の記事が紙面を埋めました。
 先ず、中国の2010年のGDPの話ですが、実質で前年比10.3%増え、日本が中国に肩を並べるには、内閣府が2月14日に発表する10~12月期の名目GDPが前期比27%増になる必要があることから、日中逆転は確実になったということのようです。既にここ数年来、予想されて来たこととは言え、日本が1968年にドイツを抜いて以来42年間守り続けた世界第二位の経済大国の座を譲ることになるわけで、日本人としてはやはり心中穏やかではいられません。しかし冷静に考えれば、十分の一の人口しかない国に勝ち目はなさそうですので、一人当たりGDPでは日本がなお十倍という圧倒的な強さを誇るということで慰めるしかありません。実際にアメリカやドイツなどの連邦制でもない、中央集権制の国家でありながら、1億人という規模で豊かな社会を実現したということは、日本が誇って良い偉業と思いますし、日本の凄さが分かろうというものです(同時に今まさに壁にぶち当たっているからこそ、地方分権が叫ばれるわけですが)。
 次いで、米中会談が賑々しく報道されましたが、日経一面に踊った空疎な文字「経済・安保で連携」とは裏腹に、二面には「米中、個別案件は先送り」「人民元などマクロ政策すれ違い」「両首脳、協調演出もぎくしゃく」など、総論賛成・各論反対の典型で、これ以上緊張を高めないためのカタチだけの会談だったことが見て取れます。象徴的だったのは、記者会見で、何故人権問題を追及しないのか、あるいは人権問題を抱える国と何故会談するのか、といったような質問が飛んで、オバマ大統領が回答に詰まって言い淀んだところでした。結局、アメリカではアメリカ寄りの報道に終始し、中国では中国寄りの報道に終始しただけで、狐と狸の化かし合いとまでは言いませんが、お互いに相容れない人権問題や領土問題や為替問題はお互いに言いっ放しで議論にならず、中国は国賓として同格に扱われるメンツを取り、アメリカは故錦濤主席の手土産である輸出という実を取って、表面上、握手するという、これが外交かと訝るのも故なしとしませんし、ある意味でこれぞ外交の極致と感心もします。大国化する中国のプレゼンスばかりが目立った会談で、とりわけ中国は、日本の歴史に学んでいるので、人民元は過小評価されていると、いくらオバマ大統領に糾弾されても、動じる気配は微塵も無く、こうした駆け引きを見ていると、かつての日本はなんとナイーブでお人好しだったことかと、愛しくもあります。
 そして最後に、NECとレノボとの合弁ですが、いくら調達・販売で提携するとか、合弁後もNECの雇用は維持し、NECブランドのパソコンは存続し、アフターサービスなど国内のサポート体制も従来通り継続し、生産拠点である米沢事業場を活用すると言いながら、レノボ主導の事業形態に移行してパソコン事業の成長余地を確保するとか、レノボはNECの広範な販路などを活用し、約5%にとどまる日本でのシェア(8位)を高めると言い、NECにおけるパソコン事業の現実を見れば、レノボがNECを乗っ取るのは時間の問題だろうと思います。思えば、1980年代には、日本資本がアメリカのロックフェラー・センター・ビルやコロンビア・ピクチャーズを買収し、アメリカの心を買ったと、アメリカ人の琴線に触れて、日本叩きが燃え上がったものでしたが、特にここ数年は、家電量販店・ラオックス、ゴルフ用品販売・本間ゴルフ、金型・ハギワラ、アパレル・レナウンといった名だたる企業が中国資本の傘下に組み込まれて、ここでも日本人としては心中穏やかではいられません。とりわけ、アメリカで勃興したパソコン市場は、コンピュータで自社開発の垂直統合型ビジネスを展開してきたIBMが、自社開発ではないデファクト・スタンダードのキー・コンポーネントを寄せ集める水平分散型ビジネスに転換したからこそ爆発的に拡大したもので、ある意味でアメリカのビジネスの象徴でもあったパソコン事業を、レノボが2005年に買収したのに続き、日本においても、パソコンの代名詞だった98を育て上げ今もトップ・シェアを誇るNECに、レノボが資本参加するというのは、パソコンはもはやコモディティ商品と呼ばれて久しいですが、我慢強い日本においても、ようやくそれを認めざるを得なくなったという意味では、象徴的な出来事だと言えます。コモディティの世界で、中国の存在感はとどまるところを知りません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健全なる精神は・・・

2011-01-19 02:19:20 | 日々の生活
 実は・・・と遠慮がちに書こうとしているのは、週末ジョギングを始めた、という話です。成人の日に、それこそ前回ジョギングをしたのはペナン・ブリッジ・インターナショナル・マラソンに向けた準備のために近所のジムに通った時のことなので、かれこれ5年ぶりのジョギングでした。三日坊主になりかねないので、偉そうなことは言えないのですが、身体は重くても、気持ちだけは走りたくてうずうずして、走り続けたくなるのをなんとか無理矢理思い留まらせたほどでしたが、やはり身体は素直に反応し、以後三日間は筋肉痛が抜けませんでした。情けない。二度目はこの日曜日に走って、ようやく筋肉痛にも慣れたところです。
 先日、ホメオスタシスに触れましたが、運動不足の身体が、バランスを求めて、動きたがっているのだろうと思います。などとカッコつけたところで、5年間も走らなかった説明がつきません。結局、ズボラだっただけですね。今回、ようやく重い腰をあげたのは、職場の同僚とチームを結成し、春に行われる、とある駅伝大会に出場することに決めたからです。情けない姿を人目に晒したくないというのが、原動力です。
 健全なる精神は健全なる身体に宿る・・・と言ったのは、古代ローマの風刺詩人であり弁護士でもあったデキムス・ユニウス・ユウェナリスでした。Wikipediaの日本語訳は以下の通りです。

強健な身体に健全な魂があるよう願うべきなのだ。(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body)
勇敢な精神を求めよ。死の恐怖を乗り越え、
天命は自然の祝福の内にあると心得て、
いかなる苦しみをも耐え忍び、
立腹を知らず、何も渇望せず、
そして、ヘラクレスに課せられた12の野蛮な試練を、
サルダナパール王の贅沢や祝宴や財産より良いと思える精神を。
私は、あなたたちが自ら得られることを示そう。必ずや
善い行いによって平穏な人生への道が開けるということを。

 健全な精神を求めるならば、先ずは身体を鍛えて健全にすることだ、健全な身体にこそ健全な精神は宿る、というように、身体を鍛えることを推奨する、体育会系のお気楽イメージで捉えていましたが、Wikipediaによると、まさにこれは軍国主義を推し進める方便として使われ、今なお、世界各国の軍隊やスポーツ界において誤って根付いていると、手厳しい。ユウェナリスの真意は、幸福を得るために多くの人が神に祈るであろう様々な事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ取り挙げ、いずれも手に入りにくいし、手に入ったところで却って余計な心配が増えたり、身の破滅に繋がったりするだけで、良いことは何もなく、持ち主を幸福にするとは限らないのだと戒め、もし祈るとするならば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」と、ローマ市民に対し、勇敢で、死をも恐れず、忍耐強く、誘惑にも負けない、高い精神性を求めたもの・・・なのだそうです。なかなか厳しい言葉だったんですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風が吹けば・・・

2011-01-17 23:48:51 | 時事放談
 オーストラリア北東部クイーンズランド州で、昨年末来、洪水被害が伝えられています。12月23~25日の三日間だけで12月の月間雨量平年値を上回ったそうで、2010年の降水量は1900年の統計開始以来三番目の多さで、「ラニーニャ現象」が原因とされています。
 エルニーニョ現象が、太平洋赤道域の日付変更線付近から南米のペルー沿岸にかけての広い海域で海面水温が平年に比べて高くなるのに対し、ラニーニャ現象は、同じ海域で海面水温が平年より低い状態が続くもので、オーストラリアの豪雨だけでなく、昨夏の日本やロシアの猛暑や、この冬の西日本を中心とした大雪や、インド西部からパキスタンの低温にも影響している可能性があると言われています。
 私がシドニーに滞在していた頃も、クイーンズランド州はモンスーンによってしばしば洪水に見舞われ、ワニが流れて来る恐怖が報じられて、オーストラリアの大自然に驚かされたものでした。今回はそれほどのんびりしていられないようで、洪水による被害額は4000億円以上と推定されています。
 中でも、風が吹けば桶屋が儲かる・・・ではありませんが、オーストラリアの豪雨により、自動車や電機製品の値上げが見込まれています。もともと、今年は中国など新興国の鉄鋼需要の高まりから、鉄鋼生産に必要な原料炭の需給が逼迫する見通しでしたが、世界有数の石炭産出地クイーンズランド州の大雨で、炭坑の多くが浸水による操業停止に陥り、原料炭の供給に懸念が高まり、価格の上昇が避けられない見通しです。鉄鋼各社は、豪州以外の調達先確保に動き出しているようですが、良質の原料炭は豪州に偏在している事情があり、調達先拡大は簡単ではないようです。
 中国がレアアースの輸出規制をしたおかげで、調達先拡大の努力が続けられ、期せずしてリスク分散が図られて来ましたが、鉄や石炭といったレアではない資源も負けず劣らず重要で、日本のような資源小国にとっては積極的な資源外交が望まれます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイガーマスク

2011-01-16 13:23:40 | 時事放談
 昨年のクリスマス以来、伊達直人などのヒーローの名で児童養護施設などに届けられる贈り物が後を絶たず、タイガーマスク現象と呼ばれて一種の社会現象になりつつあります。尖閣映像を流したのがsengokuで、ランドセルを贈ったのは直人と、時の内閣要人と一致するのは偶然だと思いますが、今では矢吹丈やルパン三世やアンパンマンやドラえもんといったアニメ・ヒーローから肝っ玉かあさんまで現れ、先ずは日本人の善意を再確認できて嬉しく思います。匿名性を帯びるのも、日本人らしい照れの表れと言えますし、ある動きをきっかけにして雪崩を打って(善意の)輪が広がるといった受身の姿勢もまた、阪神・淡路大震災のボランティアを引き合いに出すまでもなく、なんとも日本人らしい気がします。
 中には、児童養護施設について知る機会になれば良い、とか、ブームで終わらせたくないという声もあり、その通りだと思いました。
 新聞報道によると、児童養護施設や里親家庭で暮らす子供は全国で約4万人(厚労省の2009年データでは、前者が3万1千人、後者が3千人)、かつては孤児院と呼ばれましたが、実際には親がいる子供が8割以上を占め、その内の三分の二は虐待のため実の親から離れて生活をせざるを得なくなった児童で、その割合は年々増加しているそうです。児童虐待のニュースを見る限り、潜在的な数は底知れません。
 施設の子供たちは原則18歳になると退所して自立しなくてはならないそうですが、自由を得て希望を胸に社会に出て行っても、現実には身近に頼るべき人がおらず、施設出身ということで周囲から「かわいそう」という目で見られること自体も辛いだけでなく、一般の過程で育っていれば自然に身についているはずの金銭感覚や人との付き合い方に疎く、トラブルに巻き込まれて「道」を外す人も多いという、施設出身の人の声もありました。もっといろいろな苦労があるでしょうが、知ったところで、何が出来るのか。厚労大臣が「国としても懸命に取り組み、子供たちへの施策を充実させていく」と述べたのは良いとして、総理大臣が「本当に心温まる活動だな、と思って見ている。共助の精神を大切にしたいなと改めて思った」などと語ったのは、私並みにご隠居さんのようにのんびりしていて、とても一国の総理大臣のコメントとは思えません。
 国の根幹である税金の取り立てと使い道に、これほど関心が薄い国民も珍しい。アメリカのように、寄付金を税額控除するというように、税金の使い道を政治家に任せるのではなく、一定限度は私たち自身が決める仕組みがあっても良いのではないかと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲーム時代

2011-01-15 10:25:34 | 時事放談
 今朝のニュース解説番組で、お年寄りがゲームに近づきつつあるという、俄かに予想がつかない取り合わせの特集をやっていました。
 一つは、朝のゲームセンターで、コアの顧客層である若者、つまり学生や若いサラリーマンがいなくて閑散とする時間帯に、お年寄りが集い、憩いの場になりつつあるというのです。確かにお年寄りといってもまだまだ元気で、手足や頭を使って楽しみながら、会話も弾み、長時間いてもパチンコと違ってゲームセンターで何万円も摩るほどにはなりません。そのため、シニア限定コイン増量のプロモーションやお茶の無料サービスを提供するところも出ているようです。もう一つは病院などのリハビリテーションで、ゲームを活用する動きがあるようです。使われる音楽やBGMを年配者向きのものに変え、スピードを落として、ソフトに、モグラ叩きゲームや足腰を使った軽い運動をする姿を見ていると、まさにゲーム感覚で楽しくリハビリが出来そうです。反射神経が鍛えられ、握力も回復することが、データで裏づけられるそうです。
 「ゲーム性」あるいは「遊び」に対して、日本人はストイックで、娯楽そのものとしては追及しますが、「ゲーム性」を他の活動になぞらえたり彩りとして添えたりするような発想を余りして来ませんでした。たとえば欧米人はビジネスをゲームと捉えますが、日本人は面白くないほど真摯さや勤勉さを求めがちで、どちらかと言うとビジネスからゲーム性を排除すらしてしまう傾向にあります。その意味で、ゲームとお年寄りやリハビリと言えば、日本人にとっては両極端の性格をもった取り合わせであり、ちょっとした盲点のような、新鮮な驚きがありました。先入観あるいは偏見で物事を見ていては進歩がないという実例のひとつでしょう。見渡せば、こうしたゲーム性が普及する余地が社会の至る所に転がっているかも知れませんし、これから益々ゲームに慣れた世代が高齢者を迎える時代に、株をやる人にとってゲーム関連株は買いかも知れません(笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする