風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

戦後70年ではない

2015-07-30 22:36:31 | 時事放談
 戦争が終ったのは、ご存知の通り物理的には1945年8月15日だが、国際法的には1952年4月28日のようだ。言わずと知れたサンフランシスコ講和条約発効の日であり、日本が戦争期間(4年弱)より長い占領期間(7年弱)を経て再び主権国家として独立を回復した日である。実際に同講和条約第1条には、「日本国と各連合国との間の戦争状態」は「条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する」とある。そうすると今年は戦後70年と言うが、法的には63年ということになる。
 まあ、年数のことはどうでもよい。ポイントは日本人が「終戦記念日」と称して「記念」するのは、法的に戦争が終わり「独立」を回復した日ではなく、物理的に戦争が終った8月15日、正確には「昭和天皇が『戦争終結の詔書』を読み上げる玉音放送により、ポツダム宣言受諾・連合国への降伏が日本国民に伝えられた日」(Wikipedia)であるのは、戦争から解放されたと日本人が感得したという意味では、やむを得ないことだろうと思うが、これは極めて象徴的なこととも思う。
 別に「独立」の日こそ、新生・日本が平和国家としてスタートする「記念日」とすべきだとまで主張するつもりはない。実際に、新生・日本人は自主憲法すらこれまでのところ制定出来ていないのだから。そうではなく、「終戦」などと言って、「敗戦」だった事実を隠蔽あるいは糊塗するものだと批判したのは、戦後の進歩的知識人あるいはリベラル派(乃至は戦後の平和主義者)だったが、それでは「終戦」と糊塗したとして、保守派(乃至は戦前の国家主義者)は、二度と敗戦の憂き目に遭うことのないよう、政・軍で強い日本を作ることを誓ったのかと言えば、そうではない。むしろ多くの日本人は、戦没者を悼み、将来に向けて静かに非戦を誓ったのである。
 その結果、今もなお、集団的自衛権行使容認や安保法制を巡って国論が二分する事態に陥っているのは、まさに8月15日を記念日とする日本人の平和への想いが強烈だからであろう。こうした平和への想いは大いに共感できるし、必ずしも悪いことには見えないのだが、ちょっと待って欲しい。戦後、とりわけサンフランシスコ講和条約発効後に独立を回復してからは、憲法改正を叫ぶのは自主を叫ぶことと同義だったわけだが、冷戦という特殊な(つまり日本にあっては異例なほど平和な)環境下で、平和への想いが無条件に増幅・強化され、自主の精神が衰えてしまったのだとすれば、やはり憂うべきことなのである。
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床屋談義

2015-07-28 01:27:30 | 時事放談
 週末、余りに暑くて床屋に髪を切りに行った。同じことを考える人が多かったのか予想外に混んでいて、待ち時間に週間朝日とやらを久しぶりにじっくり読んだ。
 話は脇道に逸れるが、日本の企業社会でも虚礼を廃するようになって久しく、最近は会社関係者との年賀状のやりとりはない(どころか、個人情報として自宅住所が開示されないので、そもそも年賀状を送りようがない)。今となっては当たり前のことだが、慣習の恐ろしさであろうか、長年、止められなかったのを不思議に思う。海外出張でも手土産を省略することが多くなった。それでも虚礼と見なすことにはまだ心理的な抵抗があり、週刊誌を読み捨てる感覚で現地駐在員に差し上げることで、心理的に救われることから、半分は手土産のつもりで半分は機内の徒然に、何冊か買い込むのを常としている。そんなとき、多少なりとも緊張が高まる海外(これは日本人のサガである)そして出張(これは勿論仕事のせい)の前に、束の間リラックスしたいときに、敢えて精神的にざらざらしてしまう、つまり肌が合わない議論には付き合いたくないので、選ぶ週刊誌は決まって文春か新潮かせいぜいポストということになる。つまり、いつもの床屋に週刊朝日しかないのを半ば落胆しながら、読み始めたわけだ。
 巻頭記事の一つで、所謂ナイ・レポートを取り上げていた。
 ジョセフ・ナイ氏と言えば、知日派で知られるハーバード大学特別功労教授で、クリントン政権の1994~95年には国防次官補として政策決定にも携わり、同じく1983~89年に国防次官補を務めた知日派のリチャード・アーミテージ氏とともに、2000年、2007年、2012年と三次にわたり対日外交の指針として超党派による政策提言報告「アーミテージ・ナイ・リポート」を作成・発表したことでも知られる。直近の2012年レポートでは、冒頭、「日本が今後世界の中で『一流国』であり続けたいのか、あるいは『二流国』に甘んじることを許容するつもりなのか」と問いかけ、『一流国』であり続けようとするのなら、「国際社会で一定の役割を果たすべきである」と迫ったことで話題になった(折しも民主党政権の惨状を目の当たりにして・・・というタイミングであった)。そして、「アジアにおける諸問題に対処するためには日米関係の強化および対等化が必要との認識を示し、両国の防衛協力強化を提言した他、日本に対し集団的自衛権の行使や自衛隊海外派遣の推進、PKOへの参加拡大などを要望した」(Wikipedia)のであった。彼らはここ10年来毎年のように日経とCSIS(戦略国際問題研究所)共催のシンポジウムに出席するため来日し、好き放題語り、日本のメディアやビジネスパーソンはそれを有難く拝聴するという年中行事が繰り広げられている。何を隠そう私も何度か傍聴しているが、知日派は親日派とは限らないこともまた痛感している。
 今さらではあるが、週刊朝日の記事は、安倍政権による集団的自衛権の行使容認やそれに続く安保法制化の動きが「ナイ・レポート」の要望通りだと指摘している。そしてリベラル系の雑誌でお馴染み孫崎某という元外交官の解説を交えながら、防衛省に格上げされて以来、日本の防衛省と米国の国防総省等とのパイプが太くなり、日本・防衛省の要望が「ナイ・レポート」で取り上げられている面もあるのではないかと推測している。「ナイ・レポート」を取り上げるのなら、今さらではあるが、彼らの戦略分析を批判すればいいものを、そういうことは一切顧慮することなく、ただかつての(その筋では悪名高い)「年次改革要望書(日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書)」で日本が米国から改革を迫られた構図と似たようなものを嗅ぎ取っているだけである。それはそれで現象的にそう理解される面は確かにあるが、国防費を抑えざるを得ない状況下で東アジアの安全保障環境を維持することに苦慮する米国と、自主防衛を強化したい安倍政権との思惑が一致しているのが、そもそもの客観的な事実であろう。
 床屋談義と言って、床屋のオヤジと話したわけではないのだが、週刊朝日ともあろうものが、これでは反対することが自己目的化した反安倍キャンペーンと変わりなく、言論空間としては余り健全ではなく、床屋談義とタイトルするのは床屋のオヤジに失礼な話かも知れない。
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中年の星の呟き

2015-07-26 01:37:40 | 日々の生活
 一昨日から国際宇宙ステーション入りした油井亀美也さんが、昨日、ツイッターに「無事に宇宙に到着しました。皆さんの地球は、皆さんと同じでとても美しいです」と呟いたらしい。1961年、世界初の有人宇宙飛行としてボストーク1号に搭乗したソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリン氏が帰還後に語った有名なフレーズ「地球は青かった」と似ているのだが、ちょっと感動してしまった。東アジア情勢緊迫とか、安保法制の賛否など、日本ではメディアをあげて大騒ぎだが、所詮はコップの中の争いであって、水をたたえた地球は飽くまでも美しい・・・人間はそれほど合理的にはなれないと諦めつつ、一服の清涼剤にはなる。
 油井さんは、日本人として10人目の宇宙飛行士で、6年前に39歳という歴代最年長で選抜され、自らも「中年の星」になりたいと、3年前、国際宇宙ステーションに滞在する乗組員になることが決定したときの記者会見で語っていた。元・航空自衛隊パイロットで、資質として宇宙飛行士とパイロットの間には共通するものがありそうだが、日本人でパイロット出身の宇宙飛行士は初めてだ。もっとも、ガガーリン氏も「大佐」と呼ばれる空軍パイロットで、ロシアでは大半を、月面に初めて着陸したアメリカのニール・アームストロング船長を含め、米国では半数を、軍の出身者が占めているらしく、宇宙開発は軍事目的と密接に関わっている側面も見えてくる。
 それにしても、ガガーリン氏から54年後の現代は、ツイッターでリアルタイムに呟きを聞くことが出来ることにも、あらためてちょっと驚きだった・・・。
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二重アイデンティティ

2015-07-22 23:12:53 | 時事放談
 来日中の台湾の元総統・李登輝氏は、今日、衆院議員会館で講演し、「安倍政権が今国会で成立を目指す安全保障関連法案について、『日本が主体的に安全保障に意識を持つことがアジア全体の平和につながる』と述べ、歓迎した」と報じられた(読売)。既に昨年9月に来日したときに、大阪市内で講演して「アジアの平和と安定のため『日本は憲法を改正して真の自立した国家となるべきだ』と述べ」、都内で講演して「日本の集団的自衛権の行使容認は日米同盟を強固にするものだとして、『決断した安倍晋三首相に心から敬意を表したい』と語った」記事が引っかかった(いずれも産経Web)。朝日や毎日は果たしてどう報じたか、興味本位で記事検索をかけたところ、どちらも今月9日に来日予告の記事が出たきりだった(本日午後11時現在)。よほど真性保守の李登輝さんのことがお気に召さないらしい。
 先週末の「ウェークアップ!プラス」では、(この李登輝さんだけでなく)東南アジア周辺国や北・南米の環太平洋諸国はおしなべて日本の集団的自衛権の(限定)容認と安保法制に賛成または支持しているのに対し、中国と韓国だけが反対表明している地図を示し、辛坊さんは、日本のメディアはこういった情報も報道すべきと、チクリとコメントしていた。
 ちなみに最近ちょっとリベラルが行き過ぎの感があるNYタイムズは、20日付の社説で、与党が先週、衆議院で安全保障関連法案の採決を強行したことについて「安倍総理が戦後日本の平和主義への痛切な誓いを尊重するのか大きな不安を引き起こした」と批判したらしい(TBS、以下同じ)。「戦後70年を経てアジアにおける中国の強引さが目立つ中、『世界第3位の経済大国がより大きな国際的な役割を果たそうとするのは驚くにあたらない』と指摘」しつつも、「『問題はそうした目的ではなく安倍総理の手法だ』として、安倍政権が集団的自衛権の限定的な行使を憲法改正ではなく解釈の変更で認める法案を衆参両院で与党が多数を握る状況で採決している点を批判」したというのである。さらに「『こうした変更は戦後日本の核心にふれるもので短絡的な過程で決めるには重大すぎる』と論じ、学者やデモ隊の反論が巻き起こっているほか、世論調査でも法案に反対する声が多数であることも挙げ」たという。挙句、「日本とアジア地域では、安倍総理が、長く平和主義をとってきた日本を戦争に導くことが心配されている」と強い懸念を示して社説を締め括ったというが、実に誤解を招く表現だ。ここで言うアジア地域とは、文意を正しく捉えるなら、中国と韓国のことしか指していないが、それがフェアと言えるのかどうか。むしろ誰の意向を受けて記事を書いているのか明らかと言うべきだろう(恐らくリベラル派日本人の某と思う)。
 リベラルが多いことで有名な憲法学者や弁護士界やメディアが、見事に中国・韓国と共鳴しているのは、今に限ったことではなく、従軍慰安婦問題や教科書問題などでも同じ構図である。戦後平和主義者(リベラル)が熱烈支持する平和憲法と、戦前の国家主義者(保守)が支持する日米安保に引き裂かれた日本の「二重アイデンティティ」(添谷芳秀氏による)が70年を経てなお続いている異常・・・ということになるのだろう。あるいは中国あたりの世論工作によって、それが維持・強化されていると言うべきか。日本人ながらも尋常ならざる不思議な国だと思う。
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コピーと技術の話

2015-07-20 23:33:03 | ビジネスパーソンとして
 先月、インドネシアに出張したとき、模倣品、所謂コピー商品が多い国ランキングを聞いて、些か驚いた。私が就職した頃、それこそ30年位前は台湾や韓国がその中心だったが、今は1位バングラデシュ、2位インドネシア、3位中国なのだそうである。中国が1位じゃないのは、私の認識が甘いだけで、世の中はどんどん進んでいるようだ。7~8年前、ペナン島に駐在していた頃、出張者を連れてナイト・マーケットに行ったときに、ブランド品をコピーした時計を売っている店員に聞いたら、台湾製ムーブメントはA級品だと自慢げに語っていて、言うまでもなく中国製がB級品だったのに。それが今やバングラデシュである。ユニクロが進出したことが先ず浮かぶから、軽工業が離陸しつつあるステージにあるということだろうが、こうしてコピー大国が移ろうのは、世の流れである。
 因みに米通商代表部が公表する「2014年スペシャル301条報告書」では、知的財産権保護が不十分などとして、中国を「優先監視国」に指定している。日本の特許庁が3月に発表した模倣被害調査報告書(2014年度)によると、日本企業の海外での模倣品被害を国・地域別にみると、中国が67.0%と最も多く、台湾、韓国がともに19.7%と同率2位となっており、同報告書は「特に中国、台湾、韓国、ASEANにおいて模倣被害が増加傾向であるとする回答が多い」と指摘している。バングラデシュやインドネシアまで監視の目が届いていないのかも知れない。
 そんな中国をはじめとするサイバー攻撃は激しくなるばかりで、年金情報が流出したのは記憶に新しいが、さすがに経産省あたりも、日本の企業情報が盗まれることには神経を尖らせているようだ。中国は、これまで安い労賃を売りに、外資を誘致し世界の工場として経済発展を遂げてきたが、人件費高騰によってこの経済モデルは曲がり角に来ている。日本を追い越し世界第二の経済にまで成長したものの、自律エンジンがなく、中所得国の罠に陥って踊り場に来て焦る中国政府は、「ニューエコノミー(新常態)」と嘯き、表では中国に進出している外資企業の情報にアクセスする権利を主張する一方、裏ではサイバー攻撃により成長エンジンとなるべき技術情報の窃盗に余念がない。しかし技術情報は盗んだところで、そのときはいいが、技術を育てる人がいない限り、続かない。中国の故事にあるように、貧しい人には魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えなければ、やっぱり一生、食うに困ることになるのである。果たして中国の工業生産力は持続可能なのであろうか。
 韓国では、技術や職人を軽視する儒教文化が根強いこともあって、日本のようには中小企業における技術の蓄積が進まず、相変わらず財閥系企業のみが繁栄している。そんな韓国で、韓国製品の中国への輸出が減少しているという統計が発表され、波紋を呼んでいるとの報道があった。近年、中国における模造品や海賊版の品質が高くなっており、韓国に焦りが見えるらしい。韓国も中国も似たもの同士。果たして韓国の工業生産力も持続可能なのであろうか。
 さて、日本では、円安により、生産の国内回帰の動きがあるが、概して技術者が高齢化しており、技術の伝承に苦労している企業が多く、技術立国も安穏としていられない状況にある。思えば、日本だって、モノマネしながら技術を身につけ、世界の工場にのしあがった。その地位を韓国・台湾さらには中国に譲って久しいが、それでもなお製造装置やキー・コンポーネントでは一日の長があって、中国や韓国から頼られている。東日本大震災のとき、中国が最初に言ったのは、お見舞いの言葉ではなく、「早く部品生産を回復してくれ」だったという(が、都市伝説か)。尖閣海域での漁船衝突事件の際、レアアース調達で中国にイジワルされて、代替製品の技術開発に努めたところ、中国のレアアース企業を倒産に追い込むまでになった。日本では自国防衛産業の再生に動き出しているのは主に原低が目的のようであるが、いくら同盟国からとは言え輸入する防衛装備品は二級品(一世代前の旧技術)であるのは至極当たり前の話で、それは中国がロシアから戦闘機を買う場合も、インドがロシアから潜水艦を買う場合も、同様であろう。しかし、それでは防衛力の点でいつまで経っても防衛装備品輸出国に追いつかない道理である。ことほど左様に、技術力は経済力だけでなく国力の源泉でもある。政権交代したときの民主党は、国民に金をばら撒く奇策を打って、世間をあっと言わせたが、そのまま消費に繋がるか疑問だったし、産業政策は貧弱だった。自民党政権で役所がまとめる産業政策に関する報告書は、民主党政権時代よりずっと充実しているそうである。経済の循環は、残念ながら自民党の伝統的政策のように先ず企業から・・・が王道なのかも知れない。
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戦前<戦後

2015-07-16 00:16:49 | 時事放談
 先週、あるシンポジウムの閉会の挨拶で、安倍首相が登場した。当初、主催者通知には、閉会の来賓挨拶に氏名が記されていなかったため、気にも留めていなかったのだが、当日、会場は厳戒態勢で、飛行機に乗り込むくらいのものものしさで、爆破予告でもあったのかと、すっかり勘違いしてしまった。シンポジウムはグローバル・ヒストリーを考えるもので、安倍首相も関心が高いと見えて、2台のプロンプターを使って、ゆうに10分を越えるご挨拶を丁寧にこなされた。以下のようなものである。
 先ず、20世紀から人類が学んだ普遍的な教訓、すなわちアジア・アフリカ会議の演説で述べたような、戦後の自由・民主主義社会の価値観を述べるとともに、戦前については「戦後、我が国は先の大戦に対する痛切な反省の上に立ち」とほんの一言触れただけで、一貫して平和国家として歩んできたこと、奇跡と言われた経済発展を成し遂げ、アジアを始めとする世界の国々と共に繁栄してきたこと、さらに1990年以来、国際協調主義に基づく積極平和主義を進めて来たこと、そしてブログ・タイトルの不等式にあるように明治から開戦までの「戦前」は70数年、「戦後」70年、間もなく「戦後」の方が長くなる、その戦後の日本の歩みを誇りに思う・・・というものだ。最後に、自由、民主主義、人権の尊重、法の支配といった普遍的価値を基盤とする世界について触れた上で、こう結んだ。

(引用)
 21世紀には世界の形がどんどん変わっていくでしょう。新しい世界はルールに基づき形成されなければなりません。自由で寛容で開かれたシステムの中で多様な意見がぶつかり合ってこそ、新しい世界のビジョンが生まれてきます。それを可能にするのが「自由主義的な国際秩序」だと思います。日本は、新しい世界のビジョンの創造と実現のために、主導的役割を果たしていきたいと思います。
(引用おわり)

 我が国の明治維新から帝国主義的発展の時代より、国際社会復帰と平和への努力に捧げた時間が長くなること、実際には東京裁判で裁かれたのは15年戦争だから、それよりも5倍近い時間が流れたことに、私たちは自信をもっていいし、安倍さんが伝えたかったのは、まさにこのことだったのだと思った。中国や韓国は大いに不満だろうが、それが現実である。今回の話はやや観念的に過ぎたが、話題の70年談話がどうなるのか・・・こうして見ると、もう骨格はほぼ出来ているのだろう。
 集団的自衛権は違憲だと主張し、安保法制は戦争法規だと非難し、政府の説明が足りないと文句を言う人が多いようだが、そもそも集団的自衛権は自衛権なのだから、勝手に他国を攻めるものではないし、権利なのだから義務ではなく従い他国の戦争に巻き込まれるという発想もおかしい。そんな基本的なところから始めて、そういう人たちはどこまで本気で自ら勉強しているのだろうかと不思議に思う。
 何よりも先ず私たちが考えなければならないのは、中国という、国際秩序に明らかに挑戦する大国がいて、東南アジアの相対的に小さい国々に対して露骨に小国だから大国に従えと開き直り、力による現状変更を試みる・・・ということは、東および東南アジアはやはり世界で最も厳しい安全保障環境の一つと言っても過言ではない、そんな環境認識と、もはや地域の安定と安全保障の公共財とも言うべき日米安保条約をどのように位置づけ、日本の外交や安全保障を今後どのように進めて、結果として、どんな国を目指すのか、古い言い方をすれば国柄であり、今風に言えば国家像を、どう描くかという問題だろうと思う。ペルシャ湾やインド洋で、掃海やテロに備えて、シーレーンを守ろうとする国々とともに国際平和と安定のために共に行動するのか、1990年の湾岸戦争のときのように、我々は汗はかかない代わりに金は出すからと言って、最も多額の金銭的貢献をなしたのに、クウェートが主要紙に出した感謝広告に日本国の名前が掲載されなかった、あの屈辱の歴史を繰り返そうというのか・・・。
 冒頭のシンポジウムの話に戻るが、安倍さんが描く国家像に対して、私も特に異論はなく、今日、衆院平和安全法制特別委員会で与党が安保関連法案を強硬採決したことに反対し国会周辺に集まる人々が心配するような、戦争をする国では毛頭ない。国会前にはラップに乗せて戦争反対を歌う若者がいて、それ自体には私も特に異論はないが、今回の安保法制とは余り関係がないように思う。ニュースウォッチ9の後、ついいつものクセで報道ステーションにチャネルを合わせて、国会前中継を興奮気味に報道するMCを見ていて思うのは、国際政治の現実には目を塞ぎ、飽くまでナイーブなヒューマニズムや観念的な憲法論を堂々と主張して恥じない偽善性と、まるで思想統制(と言って言い過ぎなら世論誘導)せんばかりの宣伝臭い番組づくりで、小心者の私は大いに当惑し違和感を覚えてしまうのだ。
コメント (4)
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Ⅹ論文

2015-07-13 01:34:04 | 時事放談
 添谷芳秀氏の著作を読んでいると、学生時代に聞いた懐かしい話が出て来た。「フォーリン・アフェアーズ」1947年7月号に、当時、国務省政策企画室にいたジョージ・ケナンが、匿名Ⅹとして「ソ連の行動の源泉」と題する論文を発表したという話である。そのとき彼は、「ソ連の拡張主義的行動は自国の安全保障に対する本能的な不安感から生じているのであり、ソ連に通常の外交交渉による譲歩を求めることがそもそも不可能であることを論じ、アメリカ国民に、長期的で辛抱強い対ソ『封じ込め』が必要であることを説いた」(同氏)のだった。
 あらためて言うまでもないが、中国も、普通に外交交渉で何とかなる相手とは言えそうにない。そんなことを思わせる、相変わらずのニュースがあった。「中国では当局に批判的な人権派弁護士が逮捕されることはあるが」「中国の公安当局が9日から11日にかけて、北京、河北省、広東省など全国各地で、人権派弁護士やその関係者を30人以上拘束」「弁護士仲間やその家族らが明らかにした」「未確認情報を含めれば、今回の拘束者は60人前後に達する」「これだけ大規模な一斉拘束は珍しい」と報じられた(産経Web)。
 そもそも外交は国内問題の延長という命題は、例えば内なる憤懣を対外的に敵を作り上げることによって解消する事例を思い浮かべれば、古今東西、枚挙に暇がない。かつて外交が職業外交官という専門家に担われた閉じた世界だった時代もそうだったし、20世紀以降の大衆社会で外交もオープンであることが求められる時代も、選挙で選ばれる政治家は多かれ少なかれ世論を意識した外交を心掛けざるを得ない。そして政治家が選挙で選ばれるわけでもない中国で、これがまた顕著なのである。過去、中国の歴代王朝は、民衆の心が離反し、ひっくりかえった。内政不安が高まっている最近の中国ではなおのことであり、ある中国専門家によると、中国共産党が最も恐れているのは、内憂(江沢民派などの政敵)でもなければ、外患(世界の軍事大国アメリカや日本)でもなく、民衆の心だという。
 習近平国家主席がやっていることは、人権派弁護士や学者やメディア関係者だけでなく、外国人と親しい関係にあったり、欧米の価値観に共感を持ったりする知識人そのものに対する直接の、またネットを見張ることによる間接の、言論統制を通して批判を封じ込めた上で、反腐敗の権力闘争を仕掛け、大向こうを唸らせつつ、対立派閥を弱体化する、権威主義的な手法だ。そして今、彼が民衆の支持を得ているのは、もはや毛沢東以上ではないかと論じる中国専門家もいる。そのあたりの実感はよく分からない。しかし、そう言われれば、江沢民以来、反日の歴史教育を一種のプロパガンダとして利用するのは相変わらずのようで、我々からすれば自ら行動範囲を狭める自縄自縛の政策と言わざるを得ないのだが、対外的に反日のポーズをとるのが、最近、落ち着いているのは、勿論、対米接近などの対外関係の環境変化も影響していようが、問題を抱えつつも中国の内情を反映していると言えなくもない。ことほどさように、中国の対外姿勢(とりわけ我が国に対して)は揺れ動く。それに対して、善隣外交、つまり隣近所は仲良くした方が良いだろうと、庶民の生活感覚を持ち込むと、話はややこしくなる。そうではなく、かつての戦略的互恵関係のように、過去には両国関係でいろいろ問題があったし、今もなお利害が一致しないことが多いけれど、協力できるところは協力していくオトナの対応を基本として、急がず、余り期待することなく、是々非々で冷静に対処するのがいい。
 他方、韓国も似たようなものであるが、反日は国是と言ってもいいくらい教条的であり、もはや理解に苦しむ。安倍首相周辺の話によると、安倍首相は、韓国のことは放っておけ、というスタンスらしい。中国と韓国の国力の違い(ひいては影響力の違い)もさることながら、自縄自縛の政策はもはや妥協の余地なく、まともに相手をしていられないと言うべきなのであろう。
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国会は大本営?

2015-07-08 23:12:56 | 時事放談
 前回ちらっとご登場頂いた日本大学の百地章教授は、憲法学界では珍しく保守派の論客として知られるのは、数年前、ある講演会で拝見して以来、存じ上げていた。その百地教授は、こんなことを言われたようだ。「憲法学者の中に護憲論者が多いことは否定できない。憲法の条文だけを眺め、現実離れした『机上の空論』に終始する風潮があるが、私に言わせれば思考停止だ。国際情勢など、現実的な大局を踏まえようとしていない」「問題なのは、こうした空気が憲法学界を支配し、モノを言いにくくなっていることだ。『改憲論者です』などと言おうものならもう終わり、という雰囲気すらある」と。
 こうしたリベラルな雰囲気は、良いとか悪いとかの価値判断はとりあえず脇に置いて、歴史学界あたりにも共通するように思う。憲法に対する現実的な解釈は、憲法学者からはまず出て来なくて、国際政治学者だったりするというのが前回のブログの話だったが、所謂東京裁判史観を批判する現実的な声は、歴史学者からはまず出て来なくて、よその分野、たとえば西洋史学者(西尾幹二氏)だったり英文学者(渡部昇一氏)だったりする(というのは、極端な例を挙げ過ぎか・・・笑)。古くGHQの戦後統治で戦前の保守派が一掃されGHQリベラル派の提灯持ちばかりが生き残った名残りであろうか、それが世間一般にも伝染して、リベラルこそインテリみたいな空気が、つい最近まで、それこそ冷戦崩壊で共産主義に対する幻滅がようやく目の前に突き付けられるまで、疑われることなく(私は自慢じゃあないけど、20歳の頃から疑っていたが)ごく一般的だった。私の父は、田舎者の自民党支持者でどう見ても保守だが、つい最近まで朝日新聞と岩波とNHKを見ていた。
 と、前置きが長くなってしまったが、どうもこのテーマは言い足りないことがいろいろあって困る。今日は、日本は法治国家であればこそ、集団的自衛権にしても安保法制にしても、しっかり法制化してもらわないと、現場が動けなくて困るんじゃなかろうか、といった話を思いつきで独りごちたい。
 海外に派遣される日本の自衛隊員の任務を規定する実施要領が、世界の常識に反してポジティブ・リスト方式であるのは有名な話で、やっていいことを限定列挙するだけなので、それ以外のこと、たとえば実際にあった話でその筋では有名だと思うが、カンボジアで負傷者を助けることすら、実は命令違反で処罰される可能性があった(その後、ポジティブ・リストが追加されたが、それでも「これだけはやっちゃダメ」式のネガティブ・リストに比べれば裁量の余地が狭いのは自明)。また、東日本大震災のとき、米軍から空母(ロナルド・レーガンだったかな)を派遣するから護衛して欲しいと頼まれて、当時は集団的自衛権が認められていかったために、受けるわけにいかず、さりとて断るわけにも行かなくて、空母の周囲で演習をする名目にしたというのも、その筋では有名な笑えない話である(あるいはただの都市伝説か)。ある自衛隊OBの方の話によると、集団的自衛権を発動すると、当然、他国軍を指揮するかその指揮下に入ることになる・・・と言われればそういうものかと素人の私もなんとなく納得するが、そういった議論は国会の場ではついぞ出てこない。日・米の力関係で言うと、間違いなく自衛隊が米軍の指揮下に入ることになるだろうから、ただでさえ米国の戦争に巻き込まれるのではないかと警戒するリベラルの手前、口が裂けても言えないのだろう(まあ、そんな世界で抜きんでた米軍と共同行動できるだけのスキルがあるだけでも、自衛隊は大したものだと褒めるべきところだと思うのだが)。
 本当は憲法改正すべきだと思う。そして「普通の国」として、有事法制を整理した方が余程すっきりすると思う。しかし日本人はいまだにナイーブで、そんな日本人が私は大好きで、日本にいる限りはそれでも十分に生きていけるのだが、ちょっと海外に出たらアブナイ人がいっぱいいて、騙されてタクシー代を倍取られるくらいならいい方で、身ぐるみ剥がされたり命まで奪われかねないのが現実でハラハラするのに、相変わらず日本人は、隣近所にスネ夫のような虚言癖やジャイアンのような暴れん坊が住んでいようが争いごとはイケナイ、世界は一家、人類は皆兄弟、仲良きことは美しき哉、マッチ一本火事の元と言って、リベラルな自国メディアの耳障りの良い話や隣近所の世論操作(があるかどうか知らないが、あればの話)に従順で、とても憲法改正は覚束ないのが現状だ。ならば現実的に解釈するしかないではないか(そもそも憲法「解釈」の変更とか見直しと言うからおかしな話になるので、私自身は、憲法の枠内で、政府「方針」を変えただけと思っているのだが、変人扱いされそうなので、やめておく)。
 私たちは戦前の大本営のことを笑うことは出来ないのかも知れない。現場から遠く、乖離している、という意味において。そんなことをくよくよ心配するのだが、杞憂に過ぎず、もっとリベラルのように大らかに生きるべきなのかも知れない。
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安保法制論議(下)

2015-07-06 22:30:41 | 時事放談
 今朝の日経新聞「核心」コーナーで、論説委員長・芹川洋一氏が「憲法と国際政治のはざま」と題する論説でユニークな視点を呈示していた。
 集団的自衛権の行使について、早稲田大学の長谷部恭男教授は衆院憲法審査会で「・・・違憲である。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかないし、法的な安定性を大きく揺るがすものである」と発言し、さらに「95%を超える憲法学者が違憲だと考えているのではないか」とも述べておられたのは記憶に新しい。実際にテレビ朝日の報道ステーションが、憲法判例百選の執筆者198人にアンケートを実施し、返信があった151人分のデータを集計したところ、「今回の安保法制は、憲法違反にあたると考えますか?」と質問したのに対し「違反にあたる」と答えたのは127人に達し、「憲法違反の疑いがある」が19人、「憲法違反の疑いはない」が3人、「回答なし」は僅かに2人だった、と報じられた。また、「一般に集団的自衛権の行使は日本国憲法に違反すると考えますか」に対して132人が「憲法に違反する」と回答したらしい。さすが憲法学者らしい生真面目さだ。
 他方、解釈変更に踏み出すお墨付きを与えたのは安倍首相の私的諮問機関の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)で、顔ぶれを見ると、座長代理をつとめた政治学者の北岡伸一国際大学長(東京大学名誉教授)のほか、田中明彦国際協力機構理事長(東京大学東洋文化研究所教授、元東京大学副学長)、中西寛京都大学教授、細谷雄一慶応大学教授・・・錚々たるメンバーがずらりと並んでいると言い(なお( )内は私が勝手に補足)、引っ張ったのは、国際政治に精通した学者だった、と言うわけである。
 こうして、芹川洋一氏は、違憲・合憲の議論を、憲法学と国際政治学の認識の違いに還元し、佐々木毅東京大学名誉教授のご発言としての「規範性を重んじる憲法学と、権力運用論の国際政治学では、学問としての立ち位置に違いがあって不思議ではない」「ローマ時代から、必要に応じて規範を相対化する議論は山のようにある。こんどの問題が規範と権力の関係だとすれば歴史に深く根ざしたものと言える。ある程度の緊張関係があるのは健全でもある」を引用し、「規範に立つのか、権力運用に身を寄せるのか・・・両者を止揚する学問はない」と言いつつも、「憲法解釈の変遷があって、国際環境の変化があって、そしてすぐに憲法は変えられない。ここはリアリズムで考えたいと思うがどうだろうか」と結んでいる。
 この議論に、我が身を振り返り、大いに納得した次第。なにしろ中学・高校の若いミソラでは、自衛隊は違憲ではないかと真剣に悩み、大学に入って、いや自衛権は主権国家のもつ固有の権利としてそれを保持することを憲法は否定しない、自衛隊は戦力に当たらない(従い、空母も爆撃機も持たず、健気な努力を続けている)という苦しい言い訳を知り、私の心は心置きなく憲法学から離れて行ったのだった。そして、法学部に籍を置きながら、卒業に必要な単位は、法律系の科目はカタチばかり、政治系の科目を稼いで卒業し、目出たく法学士となったクチであり、まさに「権力運用に身を寄せる」立場をごく自然に支持するわけである。実際に、件の三人の憲法学の先生方のお名前は恥ずかしながら存じ上げず、他方、ここに挙げられた安保法制懇メンバーは、いずれの方もさまざまな講演会やシンポジウムでお馴染みで、その著作はそれぞれ1冊ならず親しんでいる。
 もっとも憲法学者の中にも、百地章日本大学教授や西修駒沢大学名誉教授のように、わざわざ日本記者クラブで「憲法と安保法制」をテーマに講演し、安全保障関連法案は「合憲」と主張された勇気ある、ある意味でさばけた先生方もおられるし、井上武史九州大学大学院法学研究院准教授のように、同じように「憲法には、集団的自衛権の行使について明確な禁止規定は存在しない。それゆえ、集団的自衛権の行使を明らかに違憲と断定する根拠は見いだせない」と言い、さらに「集団的自衛権の行使禁止は政府が自らの憲法解釈によって設定したものであるから、その後に『事情の変更』が認められれば、かつての自らの解釈を変更して禁止を解除することは、法理論的に可能である」とまで言い、しかし「政府は、新たな憲法解釈の『論理的整合性』を強弁」したのが「戦略的に誤り」で、「『事情の変更』に基づく解釈変更であると言い切っていれば(つまり、初めから従来解釈からの断絶を強調していれば)、従来解釈との整合性が問われる余地はなく、その後において実質的な政策論議が展開されたかもしれない」と言い切っておられる方もいて、なかなか傾聴に値する。
 これに対し、日本人は、規範性を重んじる国民性を特徴とするから、集団的自衛権と言わず自衛隊そのものを「違憲」とする主張そのものに傾きやすいのは容易に想像できる。だからと言って、法は法として、法に依らないで生きて行く、ある意味でさばけた現実感覚を併せもつのもまた日本人の特徴であり、事実、自衛隊を許容して来たわけで、今回も、総論反対を叫びながら、結果、自民党が強行採決に至ると、一時的には反発しても、いずれ仕方ないなあと受け止めるのではなかろうか。否、誤解を恐れずに言えば、20/80の法則ではないが、リベラルな20%は飽くまで「違憲」を主張し続け、保守の20%は飽くまで「合憲」を信じ、残りの60%は状況に応じて、つまり「政府の説明が足りない」と思えば、リベラルの20%に付いて80%もの高率を叩きだす一方、いつのまにか保守の20%に付いて80%の高率で事実としての自衛隊を受け止める・・・という塩梅だと思うが、どうだろうか。
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アジア太平洋の旅(下)

2015-07-03 00:27:15 | 永遠の旅人
 NZは、冬だったせいばかりでなく、暑くて湿度が高いモンスーン・アジアの諸都市とは違いが際立っていた。年季が入って落ち着いた街の佇まいはもはや西欧であり、アジアの果てにありながら、どこかヨーロッパの片田舎を思わせる。現地人社長が、羊の頭数の方が多いけど・・・と自ら語ったのにはビックリしたし、最果ての地・・・とも卑下していたのには破顔してしまったが、南シナ海の緊張をよそに、中国の海洋進出の脅威はNZまで及んでいないらしく、あらためて安全保障上のリスクを尋ねると、ちょっと首を捻って、ISISなどのテロリストがNZにいったん入ってしまうと比較的容易に欧米諸国に移動出来てしまうGatewayになり得ることだと答えた。そう言えばNZは、アングロサクソン系5ヶ国の諜報機関で構成される国際諜報同盟、所謂“Five Eyes”(第二次世界大戦中に米・英が結んだ秘密条約に端を発し、戦後、英連邦のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドが加わったもの)の一員で、諜報活動で得た情報をお互いに共有するとともに、相手国に対してはスパイ活動をしない非スパイ協定も結んでいることが、スノーデンが暴露した文書から明らかになった。名実ともにNZは欧米の片割れである。
 続いてタイ。中国の生産工場勤務の経験があり、今はタイの生産工場に勤務する日本人の同僚は、タイ人のことを、中国人と比べて格段に日本人に近いと断言した。まあそんなものだろうとは想像できるが、彼曰く、タイ人は個人主義的な主張が激しいわけではなく、離職率もそれほど高いわけではなく、実際、長年勤務するタイ人は珍しくなく、僅かな報奨金を見返りにカイゼン提案を通して献身的に会社に貢献し、エルゴノミクスの観点から製造設備をちょろちょろ改造し、カンバンやミズスマシなどの日本的生産革新がまがりなりにも根付いていると言うのである。タイにはインラック前首相をはじめ華人が多く、逆に華人ではない首相を探すのが難しいくらいであり、バンコクに住むタイ人の8割は中国人の血を引いているとまで言われながら、華人であってもタイ人はタイ人なのである。風土や歴史は、違う民族を形造るものらしい。
 そしてインドネシアは、食事も言葉も、マレーシアのそれに近い、マレー系の国で、ペナン暮らしをした私にとってはなんとなく懐かしく思えて来る。実際、インドネシア語は、マレー語のリアウ州の一方言を、国家の共通語としたものだと言われる。ナシゴレンやミーゴレンなど、マレーシアと共通の料理が多いし、食事のとき、右手にスプーン、左手にフォークを持って、スプーンをナイフ代わりに器用に使いこなすのも、マレーシアと同じ。握手の手を差し出すと、自信なげにそっと握る奥床しさは何とも言えない。インドネシアは平均年齢が28歳とか29歳と言われ、2040年くらいまで人口ボーナス期を享受できて、消費・労働の両面から経済を牽引することが期待される若い国で、羨ましいのだが、そうとばかり言っていられず、日本から出向している現地法人社長は、サービスに対価を払う習慣がまだ確立されておらず、ビジネスが成り立ちにくいとぼやいていた。発展途上の国に特徴的であり、悩ましいところだ。
 上の写真は、ジャカルタのホテルの窓から見たプール。
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