風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

Shoheiの夢

2024-11-03 02:22:52 | スポーツ・芸能好き

 2020年以来4年ぶり8度目のワールド・チャンピオンに輝いたドジャースが今日、本拠地ロサンゼルスで優勝パレードを実施した。前回20年はコロナ禍で行われなかったので、1988年以来、実に36年ぶりのパレードとなり、ロサンゼルス市警の推計で約22万5千人の観衆が集まったという。余りに多くて、バスに同乗していたデコピンはいつもより緊張し、目を丸くしていた(笑)。デコピンのパパは、途中、勢い余って左手を掲げて大きく振り、肩を痛めていたことを思い出したのか、顔をしかめる場面もあった。

 今シーズンは、幕開けの感動冷めやらぬ中、通訳のスキャンダルに見舞われ、どうなることかと心配したが、最高の形で締め括ることが出来た。スポーツ・メディアのオプタ・スタッツは自社Xで、「メジャーリーグの歴史において、シーズン50本塁打を打ったことのある選手は30人以上、シーズン50盗塁を記録した選手は200人以上、MVP受賞経験者は150人以上、ワールドシリーズを制したことのある選手は1500人以上」と過去の偉業を書き連ねた上で、「4つ全て(同じシーズンかどうかは関係なく)を成し遂げた唯一の選手 ショウヘイ・オオタニ」と紹介、「オオタニは2024年に全てを成し遂げた(彼がMVPを受賞すると想定)」と(気が早いことだが)称えたそうだ。ついでに、今年、トリプルスリーも達成した。

 高校時代に曼荼羅の中央に掲げた大目標は、「ドラフトでプロ野球8球団から1位指名を受ける」ことで、その実現のため「体づくり」「メンタル」「変化球」など8つの中目標を設定し、「食事 夜7杯 朝3杯」「仲間を思いやる心」「遅く落差のあるカーブ」など、8つの小目標を立てた。高校生から見える世界はそんなものだろう。メジャーに渡るとき、目標は上書きされ、野球中心のストイックな生活を続けて、30歳にして、新たな夢を実現した。

 パレード後のドジャースタジアムでの祝賀会では、この一年の成長を示すように、簡単ながらしっかり英語でスピーチした。「This is so special moment for me.  I’m so honored to be here and to be part of this team.  Congratulations, Los Angeles.  Thank you fans.」 その後、大谷に無理やり引っ張り出されてマイクを握った山本由伸は、「Thank you, fans.」と大谷の最後のフレーズを繰り返し、会場を盛り上げた。

 多くを成し遂げた一年だったが、ワールドシリーズでの活躍には心残りがあるだろう。しかも来年は二刀流で臨むことになる。野球の神様は、大谷の活躍に終わりをなかなか許さないようだ。

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プロ野球シーズンの終わり

2024-10-23 21:55:48 | スポーツ・芸能好き

 海の向こうのメジャーではオータニサンが、高校生以来の夢だったというワールドシリーズ出場を決めて、辛うじて望みを繋いでくれているが、巨人ファンの私には、一昨日で日本のプロ野球シーズンは終わり、ほぼ失意の日々だ(笑)。今年は巨人創設90周年の記念の年だったし、お得意様とするDeNAが相手だったし、アドバンテージの一勝があった。岡本をあそこまで徹底して故意四球するものかと不思議に思うが、何はともあれ、下克上とやらで日本シリーズ進出を決めたDeNAの執念だけは(皮肉でも何でもなく真面目に)祝福したい。最後はその差だったように思う。

 このシリーズでいきなり三連敗したときにはどん底の淵に沈んだが(爆)、第四戦の戦いぶりだけは見事だった。35歳のベテラン・坂本のヘッドスライディング二連発は語り草になるだろうと思われた(もし日本シリーズに進んでいたならば)。代わりにスポニチに語ってもらう。

(引用はじめ)

 1-1で迎えた7回、一死から坂本が左前打を放って出塁。続く中山がしぶとく一、二塁間を抜いてCS通算12打席目で待望の初安打を放つと、ベテランの坂本が一塁から激走を見せて三塁ベースに頭から飛び込んだ。そして、岸田が初球でセーフティースクイズ。これに坂本が再び激走し、本塁にヘッドスライディングで勝ち越しホームイン。激走に次ぐ激走、そして魂のヘッスラ2連発で1点をもぎ取ったベテランが手でグラウンドを何度も叩いて珍しく感情を爆発させ最高の笑顔を見せると、苦楽をともにしてきたベンチの阿部慎之助監督も拍手して喜んだ。

(引用おわり)

 あの時の感動が目に浮かぶ。この坂本のプレーで悪い流れを断ち切り、さらに2点を追加して、8回はバルドナード、9回は大勢という盤石の継投で逃げ切った。

 次の第五戦も、その余韻を残して痺れるような緊張感ある試合で、1-0で勝利をもぎ取ったが、第六戦は肝心のエース戸郷と菅野の二枚看板が打たれたのではどうしようもない。結果、安打数でDeNAを上回ったのは先の第四戦だけで、それ以外はDeNAの後塵を拝し、その意味でも、投手陣はなんとか踏ん張って、守備も手堅かったが、あと一本が出ないという、今年の巨人を象徴するような欲求不満のシリーズだった。6試合を通して五番打者(大城、坂本、ヘルナンデス)が無安打では、四番・岡本へのマークが厳しくなるのは避けがたく、岡本は不甲斐ないと言うよりも同情したくなる。

 最後に、クライマックス・シリーズについて。もう何年も前から言っていることだが、海の向こうのメジャーを真似る、いかにもアメリカ的な商業主義も甚だしい。それを日本シリーズと呼ぶのはおこがましい(勿論、あちらでワールド・シリーズと呼ぶのもオカシイが、それはあちらの勝手)。日本シリーズの名がつく以上、長いペナントレースを勝ち抜いたチーム同士の対決であるべきで、そうでなければ、オマケのような、ただの短期決戦のエキシビション・マッチと呼び習わすべきだろう。

 まあ、負け犬の遠吠えに過ぎないのだが。

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もう一度聞きたい「ぼく、ドラえもん」

2024-10-21 00:02:54 | スポーツ・芸能好き

 テレビで馴染みの人(特に高齢の人)が亡くなるのは寂しいし、複雑な思いがよぎる。つい我が身を振り返ってしまうから。

 17日に、俳優の西田敏行さんが東京都内の自宅で亡くなっていたことが報じられた。享年76(まだ若い!じゃない)。西田さんと言えば『釣りバカ日誌』や『ドクターX~外科医・大門未知子~』が代表作なのだろうが、私は残念ながら見ていない。大昔に『池中玄太80キロ』を見て、なんとも温かみのある俳優さんだと印象深かったが、SmartFLASHによれば、仕事終わりにも若手スタッフを誘って飲みに行き、店にいた客とも気さくに言葉を交わすようなお人柄で、いつも楽しく愉快な宴席だったという。

 幅広い役柄をこなされた役者さんで、大昔に見たNHK大河ドラマ『おんな太閤記』の秀吉役も印象に残る。三谷幸喜氏によれば、大河ドラマ『功名が辻』では家康役を演じたので、「あと信長をやったら『三英傑』完全制覇」だと言って、信長役を志願されたそうだが、「そう言われたんですけど、ちょっと難しいんじゃないですかねって。ちょっとキャラクターがね。あと、年齢的にもね…。お断りしました」と明かされた。確かに、サルとタヌキ親父は似合うが(微笑)、冷酷で奇才の信長のイメージは余り合わないかもしれない。『もしもピアノが弾けたなら』も彼らしい温かさに溢れた曲・・・というより彼が歌ったからこそ、そう感じるところがある。東日本大震災のときは、復興CMへの出演や東日本大震災・原子力災害伝承館のナレーションを務めるなど、地元の復興のために奔走されたそうだ。言葉は福島(郡山市出身)訛りなのだろう。私には判別できないが、そこがまた彼の独特のキャラクターをほんわかと温かく包んでいたように思う。稀有な役者さんだった。

 ちょっと遡るが11日には、声優の大山のぶ代さんが9月29日に老衰のため亡くなっていたことが分かった。享年90。言わずと知れたドラえもん役で、間延びして、やや拍子抜したような独特の口調は、未来から来たネコ型ロボットらしい突き放した冷たさの中にも、えも言われぬ愛らしさを感じさせたものだ。1979年4月の開始から2005年3月に降板するまで、実に26年間にわたって大役を務めてこられたそうだ。2005年4月以降は『ドラえもん』を見ていないので、私の中では大山のぶ代さん=ドラえもんのイメージが定着している。

 島田裕巳氏によれば、「特殊な能力(=ドラえもん)を与えられた人間(=のび太)がそれを乱用し、最後にそのむくいを受けるというパターンは世界の伝統的なおとぎ話のパターンであり、それを取り入れることで長い間人気を保ってきた」と分析されている(Wikipedia)。なるほど、そういうことか。大山のぶ代さんが登場するとき、「ぼく、ドラえもん」と喋る(喋らせられる)と盛り上がるそうだ。ドラえもんは、マレーシアやオーストラリアに駐在したときにも、本屋で漫画を入手することができた、日本が世界に誇る国民的漫画・アニメの代表作で、自分の子供(や孫)にも安心して見せられるものとして親子(孫)で楽しむという意味では、この26年間に大山のぶ代さん=ドラえもんに馴染んだ人は日本の人口のかなりの割合にのぼるだろう。国民的声優なのだ。

 不思議なもので、音の記憶はいつまで経っても鮮明である。「ぼく、ドラえもん」という声とともに、ドラえもんの笑顔が目に焼き付いている。親子(孫)の目の前に現代のお伽噺を紡いでくれたことに、感謝の気持ちしかない。

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今年のプロ野球

2024-09-29 09:53:42 | スポーツ・芸能好き

 残り3試合にしてようやくリーグ制覇へのマジックを1とした巨人が、昨日、4年ぶり39度目優勝を決めた。二軍監督時代は鬼軍曹と言われた阿部慎之助が監督になって、若手へのシフトが必要となる中、のびのびと野球をやらせるために仏の顔に切り替えたなどと言われるが、なかなか波に乗り切れず、さぞ内心の葛藤があったことだろう。広島や阪神と首位攻防を繰り返す中、どうやら優勝が見えて来たのは、9月10日からの二位・広島とのマツダスタジアムでの3連戦に3連勝した時で、分水嶺となった。二年連続Bクラスから見事に復活したことを祝したい。

 今年の巨人は、捕手出身の阿部監督らしく、守りが堅かった。菅野、戸郷、グリフィンの先発投手陣と、船迫、高梨、バルドナード、そして守護神・大勢らの救援陣が、大崩れすることなくシーズンを乗り切った。何より失策の数がリーグで断トツに少なく、結果としてチーム総失点は両リーグを通じて最少である。

 他方、打撃はパッとしなかった。ベテラン坂本にいつものらしさがなく、開幕から固定されなかった3番に、新外国人ヘルナンデスが交流戦から合流した時には光明を見る思いだったが、8月中旬に骨折で離脱してしまった。結果として、主砲・岡本の前後の打力が弱く、岡本一人がマークされ、本塁打、打点ともにヤクルト・村上に次ぐリーグ2位の記録をマークしながら、得点圏打率は長らく低迷し、期待通りの活躍にならなかった印象がある。これは巨人の4番の宿命でもあり、逆に彼が打った時の盛り上がりようは格別で、実際にその試合の勝率は高い。

 そもそも今季は、個別のチーム事情を超えて、セ・パともに投高打低が顕著だった。高校野球では今春から低反発バットが導入され、夏の甲子園でホームランが減少したことが話題になった。プロ野球でも、ホームラン数は昨年より2割程度少なく、今日時点で30本を超えているのはパの山川とセの村上だけ、3割打者はパに一人、セに二人だけである。他方、防御率1点台はパに一人だが、セには5人もいる。

 これに対し広澤克実氏は、投手の球速が年々、上がっており(直近10シーズンで、ストレートの平均球速は141.4kmから146.6kmまで上昇)、打者は速球に対応するため、アオダモよりメイプルやバーチのような軽量バットを使い、飛距離が犠牲になっているのではないかと分析される。選手の声を拾うと、バットの芯に当たると普通に飛ぶのだそうで、軽いバットを選ぶことでスイングスピードは維持できても、遠心力が減少するため数メートル手前に落ちてしまう、という見立てだ。大谷翔平が今季は34.5インチという、昨季より1インチ長いバットに変えてホームランを量産しているのと対照的だ。バットに当たった瞬間に生じる打球の初速を見ても、大谷が180〜190キロを叩き出しているのに対し、日本では村上や岡本でも170キロ台、その他の選手は平均して160キロ台に留まっているらしい。メジャーでも実力が傑出している大谷と比べても仕方ないが、日本の打者がボールの反発係数を充分に活かしきれていないのは明らかだと、広澤氏は言う。

 かつて日本シリーズで、DH制で進化したソフトバンクの投手にセの打者が太刀打ち出来ないことが話題になった。巨人は2019、20年とソフトバンクに2年連続で4タテを食らう屈辱を味わった。その後、セでも投手育成法が進化し、投高打低を招いているのかもしれない。かつて江川卓が一人で9回を投げ切るために緩急をつけ、一発病だとか手抜きだと白い目で見られたような、ある意味で悠長な時代ではもはやなく、投手の分業が進み、中6日で5回を全力投球されれば、大谷翔平のフィジカルを真似るのは難しくても、バッターにも相応の覚悟が問われるのだろう。そのような環境の変化は明らかだ。

 メジャーでは、野球が遅い、退屈といった理由で若者の支持を失ったことから、投球間隔に制限を設けるピッチクロックが導入された。息詰まる投手戦もいいが、良いところで一発が出ないイライラったらありゃしない。投げて、打って、走っての躍動こそがプロ野球の醍醐味である。打者もこのままで留まるはずはなく、何らかの対策を打つことに関しては楽観している。投手と打者がそれぞれに切磋琢磨し、何よりも面白いゲームを魅せてくれることを期待している。

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Ohtani-sanの「50-50」

2024-09-21 02:31:21 | スポーツ・芸能好き

 米時間19日(日本時間20日)のマーリンズ戦で、大谷翔平選手が自身初の3打席連続HR を含む6打数6安打10打点4得点2盗塁の大暴れで、待望の「50-50(50本塁打&50盗塁)」を達成し、記録を「51-51」まで伸ばした。場所は、昨年のWBCで侍ジャパンが準決勝と決勝を戦い、大谷選手が胴上げ投手となったローンデポ・パークだった。地元ドジャー・スタジアムではなかったが、これも何かの因縁だろうか。

 それにしても、記録を狙う緊張のキの字のカケラも見せなかった。このあたりはイチローにも似て、数字は結果として後からついて来るものでしかなく、あくまで自分が納得する野球が出来るか、勝利に貢献出来るか、が重要のようだ。私のような素人からすれば、それだけで偉大なる境地だ。残り10試合のどこかで畳み掛けるかも知れないと、心の片隅で思わないではなかったが、まさかこんなに早いタイミングで、さっさと方をつけてしまうとは思いも寄らなかった。いつも良い意味で裏切られてしまう、凄い選手だ。

 実力通りの記録づくめで、1試合で5安打以上、複数本塁打&複数盗塁を記録した初めての選手だそうだ。1シーズンで少なくとも1本塁打&1盗塁した試合数を13として、伝説のリッキー・ヘンダーソンが持つ史上最多記録に並んだそうだ。ナショナル・リーグのHR王も間違いなさそうだ。かつては9月に入れば勝負してもらえない場面が多かったものだが、今回は打つことに専念しているから伸び伸びと走って盗塁も多くて、相手投手にしてみれば、勝負を避けたところでスコアリング・ポジションに置くことになるから痛し痒しで、勝負せざるを得ないのかも知れない。これほどHRの機会が多い中で、これほど盗塁が多いというのは、あらためて驚きである。

 私が敬愛する江川卓氏によると、投手目線で打球の角度を見れば、これはセンターフライだと分かるらしいが、それが大谷選手の場合はホームランになるのだそうで、それだけスイング・スピードが速いのだろうと解説される。MLBでは余り内角を攻めなくて、大谷選手のホームランも真ん中やや外寄りが多いらしく、江川氏が得意とするインハイにどう対応するのか、投げてみたいと語っておられた。そう思わせる打者のようだ。

 これでドジャースは今季のポストシーズン進出を決めた。大谷選手はこの日がMLBで865試合目、これはポストシーズンに出場したことがない現役選手、また負傷者リスト(IL)に入っている選手の中で、最多なのだそうだ。大谷選手としては記録よりこちらの方がよほど嬉しかったようだ。世間では個人の記録に湧くが、一人、大谷選手だけが冷静にポストシーズンを見据えているのかもしれない。勝つということ。これこそ野球少年の原点ではないか。大谷選手が記録以上に愛される所以だろうと思う。気が早いが、一人の偉大な野球少年のワールドシリーズでの躍動を今から楽しみにしている。

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デコピンの始球式

2024-08-31 19:58:58 | スポーツ・芸能好き

 28日のオリオールズとの第二戦で、大谷翔平選手の愛犬デコイことデコピンによる始球式が行われた。

 マウンドに登場したデコピンは凛々しかった。翔平お父ちゃんの合図でボールを咥えると、18.44mを全力疾走し、ホームプレートで待ち構えるお父ちゃんにボールを無事送り届ける大役を果たした。これまで多くの始球式の映像を見て来たが、前回ブログで取り上げた我らが江川卓は寄る年波に勝てず劣化が著しく、かの稲村亜美は伸びやかで素晴らしいと、毎度、感心するが、今回のデコピンが文句なしに歴代一位の愛らしさだった。そして、デコピンへのご褒美のおやつが入っている、がま口状のポーチに肉球のデザインがプリントされているのと、翔平お父ちゃんが履いているニューバランス社製スパイクの左右の側面にデコピンの顔が描かれているの話題になった。

 そんな縁起担ぎの翔平お父ちゃんは、既に23日のレイズ戦九回二死満塁の場面で劇的なサヨナラ本塁打を放ち、史上6人目の「40本塁打、40盗塁」、所謂「40-40クラブ」入りを果たしていた。今季126試合目での到達は、これまでの最速記録である2006年のソリアーノがマークした147試合を大幅に更新するものだった。今年から、接触プレーによる怪我防止のためベースがやや大きくなり(結果、ベース間の距離が僅かながら短くなり)、試合時間短縮のため投手の牽制回数を制限する(結果、走者はスタートが切りやすくなった)という、ルール改正に助けられているとは言え、同じ条件であるはずの他の選手を寄せ付けない圧倒的なパワーとスピードの両方で、魅了して止まない。そしてこの日は、愛犬の前で1本塁打2盗塁をマークし、1998年のA-ロッド以来、史上二人目となる「42-42」を達成した。

 こうして、この日は「大谷家」の躍動が絶賛されたのだった。そして、それを予告するかのように、デコピンと翔平お父ちゃんのボブルヘッド人形が配布され、MLB公式によると試合開始7時間前から長蛇の列ができる程の人気で、先着4万人に配付されたそうだ。羨ましい。

 なお、その後、30日のダイヤモンドバックス戦で、翔平お父ちゃんは史上初の「43-43」を達成し、前人未到の「50-50」も夢ではなくなって来た。余りの上出来ぶりに、最近、冗談半分で彼の弱点探しが始まり、「お〜いお茶」の期間限定「大谷翔平ボトル」にプリントされている彼の俳句が「つまらない」と話題になった。逆に言うと、それくらい翔平お父ちゃんに弱点が見当たらないのが、そら恐ろしい・・・

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甲子園球場100年

2024-08-24 00:09:50 | スポーツ・芸能好き

 第106回全国高校野球選手権大会、夏の甲子園は、夏のオリンピックと同様、17日間の熱戦の末、京都国際が初優勝を飾って幕を閉じた。京都代表の優勝は、1956年の平安高校(当時)以来、実に68年振りだった。

 夏のオリンピックは100年振りにパリで開催されたが、その前回パリ大会の年に開場した甲子園球場が100歳になったのを記念して、この夏の大会の始球式に江川卓氏が登場した。「阪神甲子園球場開場100年の節目に際し、球場の歴史の中でも鮮烈な印象を残した選手として、始球式をお願いした」(場内アナウンスによる)ということだ。

 確かに江川(当時を振り返るときは慣例により商標として呼び捨てにさせて頂く)の印象は鮮烈だった。1973年、彼が高三になる春と夏、私は草野球に興じて甲子園を夢見る小学生で、彼の試合をテレビにかじりついて、見た。とりわけ記憶に残るのは、夏の二回戦、強豪・銚子商を相手に0-0で迎えた延長12回裏、一死満塁、フルカウントの場面だ。どしゃ降りの雨の中で投じた渾身の一球は、この日の169球目、高めに大きく外れた。実は一回戦も延長15回にもつれ込んだので、二試合目ながら実質三試合目に相当し、疲れもあったと思われる。本人曰く「ボールにはなりましたが、高校3年間のなかで最も悔いのない、最高のボールでした」。押し出しという不本意な形でサヨナラ負けを喫したのに、サバサバとした表情で甲子園を去って行く後姿を、見ているこちら側が諦め切れない思いで未練たらたら呆然と眺めていたのを、つい昨日のことのように思い出す。この日を含めて、彼の野球人生は運命の女神に翻弄された劇的なもので、彼の性格を独特なものに形作ったように思われるが、それについてはまた稿をあらためたい。

 このように表向きはあっけない幕切れだったが、水面下ではちょっと劇的なことが進行していたことが後で明らかになる。チーム事情は良くなかったらしい。一つには、春から夏にかけて基礎練習ができず、徹底的に鍛えることができないまま、あの夏を迎えていたこと。春のセンバツで、栃木の"怪物"がテレビで全国にお目見えし、4試合で60個の三振を奪って大会記録を塗り替えるなど、噂に違わぬ活躍で注目を浴びたものだから、その後、全国から招待試合に呼ばれ、週末、遠征に出ると、月曜日の授業に間に合わせるために夜行列車で栃木に戻るというようなこともあったという。もう一つには、江川を巡って報道が加熱し、チームメイトは取材攻勢に晒される江川と距離を置き、仲間を気遣う江川は孤立するなど、チーム内がぎくしゃくするようになっていたこと。夏の予選の栃木大会のチーム打率は2割4厘で、「打っても評価されないから、みんなおかしくなっていった」(捕手の小倉氏談)。最後のあの場面で、マウンドに集めたチームメイトに、江川は「真っすぐを力いっぱい投げていいか」と尋ねた。江川がこんな頼りなさそうな顔を見せたのは初めてだったという。「お前の好きなボールを投げろ。お前がいたから、おれたちここまで来られたんだろ」と答えたのは、反・江川の急先鋒と言われていた一塁手の鈴木だった。「あの瞬間、勝とうというよりも、全員がこの野球を最後までやろうという気持ちだった。それまではいがみ合いとか、いろいろあった。最後の1球でチームがまとまったというのはその通りかもしれない」(前述の小倉氏談)。

 あれから51年、投球フォームこそ当時を彷彿とさせるとメディアはゴマをすったが、ふっくらとおじさん体形で投じた始球式の球はワンバウンドでキャッチャーミットにおさまり、まるでカーブのような山なりの球は「全力のストレート」と本人も苦笑いし、「甲子園は春と夏にだけ現れる"幻の場所"。プロ野球で投げるのとは全く違う感覚です。歴史のある大会で投げられたことに感謝です」と感慨深げに語った。

 前置きが長くなった。今日のブログは甲子園球場が主役だから、その100年の歩みを足早に振り返る。

 100年前の1924年8月1日に竣工式が行われ、当時、甲子園大運動場と命名され、同年8月13日に初めての選手権大会として、第10回全国中等学校優勝野球大会が開催された。1928〜29年にかけて芝生の張り付けが行われ、同年、アルプス・スタンドが建設され、1934年に外野中央にスコアボードが完成し、現在の姿に近くなる。戦時中はその鉄傘が供出させられ、戦後は球場自体が米軍に接収されたが、1947年3月にセンバツが復活し、同年夏の大会も復活して、現在に至る。

 そんな長い甲子園の歴史で、今年の京都国際の優勝は、ある意味で画期をなすものだった。同校の前身は在日韓国人向け民族学校で、2004年度から日本人にも門戸が開かれ、在校生138名中、男子生徒70名、その内61名が野球部員で、この夏にベンチ入りしていた韓国籍の者一名以外は日本人だったそうだが、校歌は韓国語で、その中には「東海」の言葉が出てくる。勝利して慣例により校歌が流れ、日本の公共放送NHKは、自国の領海を他国の基準に従って歌う場面を生中継した。韓国語の音は分からなくても、NHKは「日本語訳は学校から提出されたものです」とお断りのテロップを表示した上で、日本語字幕に「東の海」という言葉を流した。さすがにSNS上では誹謗中傷が相次いだようだが、別のシチュエーションであったなら、あるいは仮に逆のことが韓国で起こっていたなら、もっと大変な騒ぎになっていただろう。彼らにとっても甲子園は"幻の場所"なのであり、それを奪うことは出来ない。

 私にとっても・・・小学生の頃、クラスメイトと作った即席の草野球チームは、コーチを互選する民主的な運営の手作りチームながら、個性派のツワモノ揃いで、リトルリーグのチームを相手に連戦連勝する"幻の"強豪だった(笑)。私は守備コーチ兼任で、長嶋さんに憧れてホットコーナーの三塁を守り、自称「鉄壁の三遊間」を誇るとともに(笑)、後に江川さんに憧れて投手もやった。私には甲子園の舞台は遥かに遠く、自ら甲子園に出られる年齢を過ぎると、不思議なもので自分事としての関心が薄れて、まるで"幻"の如く遠い存在となったが、夢見る野球少年や選ばれた球児たちの夢を叶える場所として甲子園球場はそこにあり、これからもずっと"幻の場所"であり続けるのだ。

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アラン・ドロン死す

2024-08-20 00:01:02 | スポーツ・芸能好き

 フランス映画を代表する世紀の二枚目スター、アラン・ドロン氏が亡くなった。享年88。

 今は映画と言えばハリウッドだが、かつてはアンニュイな雰囲気を醸し出すフランス映画も人気があった。中学生になって突然、洋画に目覚めた私は、なけなしの小遣いをはたいて「スクリーン」なる月刊誌を毎月購入し、憧れの銀幕の大スターのリラックスしたプライベート映像をうっとりと眺めては溜め息をついたものだ。あの年頃にとっては永遠のヒーロー、ヒロインだから、いざ訃報に接すると、それだけの時間が経過していることを忘れて、ぎゅっと胸が締め付けられるような喪失感を覚える。あの頃の感性が蘇り、そうさせるのだろう。

 とりわけアラン・ドロンは(と、商標として、愛情を込めて呼び捨てにさせて頂く)ただの二枚目俳優ではない。透き通るようなブルーの瞳は、その決して幸せではなかった生い立ちの影を纏い、哀しみと危険な憂いをたたえて、男なのに色気があって美しいと思わせる唯一無二の男優だった。ルネ・クレマン監督の代表作「太陽がいっぱい」(1960年)では、殺害した金持ちの友人になりすまし、財産と女を手に入れる貧しい孤独な青年を好演した。イタリアの浜辺で太陽をいっぱいに浴びて完全犯罪に酔いしれて一息つくラストシーンは、ニーノ・ロータの甘美なメロディとともに、映画史上に残る名場面であろう。また、「地下室のメロディー」(1963年)ではジャン・ギャバンと、「ボルサリーノ」(70年)てはジャンポール・ベルモンドと、そして「さらば友よ」(1968年)では私の好きなチャールズ・ブロンソンと共演した。

 私生活でも、危ない影が付き纏った。1968年、ボディーガードだった男性が他殺体で見つかり、フランス政界を巻き込むスキャンダルに発展した。今年2月には、彼の自宅から無許可で所持していた大量の銃が押収され、話題となった。晩年、同居していたヒロミという日本人女性を巡って、彼へのモラル・ハラスメントなどがあったとして“お家騒動”が勃発した。そして多くの女性と浮名を流したが、中でも1964年、私の大好きなパリジェンヌ、「個人教授」(1968年)のナタリー・バルテルミー (本名フランシーヌ・カノヴァ 、後のナタリー・ドロン、実際にはイタリア=スペイン系のフランス人で、仏領モロッコ出身)と結婚し、その後、破局を迎えた。二人は子供時代が不遇で似ており、強く惹かれあったと言われる。

 映画館でリアルタイムで鑑賞したわけではなかったが、辛うじて、テレビの●曜ロードショーで見かけるほどには、すれ違った。私の人生で、洋画なるもの、フランス人なるものの深い印象を残してくれたことに感謝したい。合掌。

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オリンピックに見るフランスらしさ

2024-08-13 20:52:13 | スポーツ・芸能好き

 オリンピックが17日間の熱戦を終えて閉幕した。人間の肉体の限界に挑み、勝って涙、負けて涙の選手たちの躍動にもらい泣きした単純な私は、目も鼻もずぶずぶになりながら、せせこましい日常で濁った魂が多少なりとも浄化されたかのような爽快感を覚えたものだ。しかし終わった今となっては、まだ暑い日が続くというのに、心に秋風が吹き抜けるかのような一抹の寂しさを覚える。メダル獲得の有無にかかわらず、選ばれて参加された選手の皆さんに感謝の気持ちがあるのみである。

 今回は、100年ぶりにフランス・パリでの開催となった。「史上最もサステナブルな大会」を謳い、温室効果ガス排出量を従来の大会から半減させる意欲的な目標を掲げた。なるべく既存の施設を使うなど、理念には大いに賛同するが、あのセーヌ川でトライアスロンを実施するとは思わなかったし、100年前のパリ五輪で初めて導入されたという選手村システムに皺寄せが行き、選手には頗る評判がよろしくなかったようだ。まず、食事は植物由来のものが多く、まるでビーガン食のようだと話題になった。地産地消にこだわり、卵、肉、牛乳はすべてフランス産というのは理解するが、動物性たんぱく質を摂れる食品、端的に肉が少なく、これじゃあ元気が出ないと、栄養バランスに悩む選手が多かったようだ。また、部屋にエアコンが設置されていないことも話題になった。涼を取る手段は一台の扇風機と地下水を利用した床下冷房のみで、大会期間中のパリは朝こそ涼しいものの、日中は30度を超える日が多く、エアコン慣れした先進国の選手にはさぞ凌ぎ辛かったことだろう。簡易なエアコンを設置した国もあったらしい。

 高い理念を掲げ、誇り高く行動するフランスらしいと私は思う。

 かつてフランス革命を、ドーバー海峡を挟んだ対岸から眺めていた、保守主義の父エドマンド・バークは、急進主義の危うさに警鐘を鳴らした。それはイギリス経験主義と対比的に語られる大陸合理主義の哲学の祖デカルトを生んだフランスで、論理に溺れ熱狂する人々の危うさでもある。今般のオリンピックに無理矢理、結びつける必然性はないのだが、再生可能エネルギーへの傾斜が、ロシアのウクライナ侵攻で冷や水を浴びせられたように、過ぎたるは及ばざるが如し、理想と現実と、どちらか一方に偏るのは危険で、バランスが大事だと思っているに過ぎない。

 いや、そんな邪推より、単に他国の選手の体調を崩す遠謀深慮だったかもしれないと言った方が、此度のオリンピックでは説得力があるかもしれない(笑)

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オリンピックのスポーツと「道」の間

2024-08-04 05:53:41 | スポーツ・芸能好き

 柔道混合団体・決勝で、前回・東京大会で銀メダリストの日本は金メダリストのフランスと再戦し、3-4で敗れて、二大会連続の銀メダルに終わった。

 柔よく剛を制すとはよく言ったもので、第二試合では髙山莉加が一階級差、第四試合では角田夏実が二階級差をものともせずに勝利し、3-1まで追い詰めたが、続く第五試合では阿部一二三が一階級上のメダリストに敗れるなど、3-3でゴールデンスコアによる代表戦にもつれ込み、ネットでは仕込みがあったのではないかと騒がれたデジタル・ルーレットの抽選でよりによって90キロ超級が選ばれ、本戦に続き斉藤立がリネールと再戦し、6分26秒の死闘の末に地元フランスの英雄に屈し、リベンジはならなかった。

 この大会では(でも、と言うべきだろう)、男子60キロ級準々決勝の永山竜樹や、男子73キロ級準々決勝の橋本壮市など、不可解な判定が続出し、SNS上では“誤審ピック”なる言葉も出て来た。日本人ばかりでなく、イタリア柔道連盟は、母国代表選手らが受けた判定を不服として国際柔道連盟に正式抗議した。人間のなすことだから完璧ではないが、審判は絶対である以上、選手たちの真摯な戦いに応えるために厳正であって欲しい。

 他方、男子90kg級決勝の村尾三四郎のように、ルールはルールとは言え、微妙な判定には不満が残った。男子100キロ超級準々決勝のリネール対ツシシビリ戦では乱闘寸前の騒ぎになり、男子81kg級の表彰台では金メダリスト永瀬貴規を押しのける形で銅メダリストが前に出て目立つなど、柔道「らしからぬ」態度が物議を醸した。私たち日本人は、どうしても柔道は武道との思いが抜けきらないし、戦う選手たちも、ポイント狙いの柔道を嫌ってリスクを負ってでも一本を取るために組み合うことが多いと言われる。翻って、日本の大相撲は様式美を尊ぶ伝統芸能であって、格闘技と勘違いして横綱らしさに欠けた朝青龍や白鵬を批判するのは正当だと思うが、柔の道がスポーツの祭典オリンピックの競技種目に採用された以上は、判定や柔道着に関するルールにしても、それに臨む選手の態度にしても、「道」から外れてスポーツ「らしく」なることに、文句は言えない。

 それでもなおスポーツの国際舞台でも「道」を極めようとする日本人柔道家は、言ってみれば勝手なのだが、私はそれを美しいと思うし、本家本元の日本としては、それでも良いと思うし、それでも勝つ彼ら・彼女らを誇らしく思う。

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