もう一ヶ月以上前になるが、統計探偵/統計データ分析家を自称される本川裕さんが、プレジデント・オンラインに、ある統計データについての興味深い解説記事を寄せておられた(*)。
「世界価値観調査」によると、世の中には「神の存在を信じる」国民がまだまだ(という言い方が適切かどうか分からないが)多いようだ。調査対象77ヶ国の内、95%以上の国民が「神の存在を信じる」国が26もあり、90%以上まで拡げると半数近い36ヶ国にものぼるという。他方で、東アジアの仏教圏(儒教的仏教圏)は最も低い部類に入るという(中国17%、日本37%など)。特に中国が極端に低いのは、共産主義社会だから、と言われるのはその通りで、マルクスは「宗教はアヘン」だと言って禁止する一方、共産主義をドグマ化し、宗教の代替にしようとした。逆に、かつての共産主義国家では、ソ連崩壊以降、共産主義の縛りが解けて、時系列で見ると「神」や「宗教」が復活しつつあるとする見方には、なんとなく納得する。
もう一つ面白いのは、「分からない」という回答が極端に多かったのが日本なのだそうだ。日本人は「あいまいさ」を好む(許容する)とは思っていたが、まさにその通りのようだ。このコラムで気候学者の以下のような発言を引用されているのが興味深い。
(引用はじめ)
気候学者の鈴木秀夫によれば、〈ドイツ人は、わからないという状況が耐え難くて、物事の理解より自分の意見をはっきり持つということを優先する態度をとる。例えば、よく知らないにもかかわらず訊ねられた道をきっぱりした態度で教える。これに対して、日本人は、人間の判断を空しいものとみなす仏教の思想に影響されている。理解していることでも自分の理解は不十分なのではないかと感じ、むしろ「わからない」と回答するほうがしっくりする気持ちを抱く〉 といった主旨の解説をしている(『森林の思考・砂漠の思考』NHKブックス、p.14~18)。そして、こうした東西の考え方の違いを気候風土に影響されて生まれたものとしている。すなわち、乾いた大地において水場に向かう道としてどちらかを選ばざるを得ない西洋の「砂漠の思考」に対して、どちらの道を選んでも生き残れる東洋の「森林の思考」とがあり、日本人は特に後者に親しんでいるためと見なしている。
(引用おわり)
私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、正直なところよく分からないが、世の中で宗教はもっと形骸化しているものと思っていた。アメリカ駐在の頃(と言っても20年以上前になるが)、あるアメリカ人から、日曜礼拝しないアメリカ人が増えているとも聞いていた。もっとも、アメリカやオーストラリアなどの移民社会では、(宗教を含む)文化を鉄壁の鎧・・・とまでは言わないが、スーツや化粧で完璧に覆い隠して、文明人の装いをしているが、一皮剥けば文化が顔を出すものだ。他方、マレーシア駐在の頃に触れたイスラム社会は対照的で、一見、西洋文明に浴して(植民地支配されて)、文明国の一つに成長しているには違いないが、その文明の装いは天女の羽衣のように「すけすけ」で、文化的(宗教的)な地肌が露わになっている。マレーシアはまだ穏健な方で、アラブから来られたと思しき女性たちは、マレーシアのホテルのプールですら水着にならず、あの黒い装いのまま肌を見せていなかったことに驚いた。キリスト教社会にしか馴染みのない私に、イスラームはある意味で偉大だと思わせたものだ。
結局、西欧社会は、人間がか弱い存在であることを自覚しつつ、宗教を聖なる世界に閉じ込めて、俗なる世界では宗教を克服しようとサイエンス(近代科学・・・政治を含めて)を発達させて来たが、それでも、「神の存在を信じる」人が多いということは、内面の解決には至らない、すなわち宗教(一神教)という心の問題は手ごわいというのは、人間存在の本質に関わるからだろうか。あの文明国・アメリカですら(いや宗教立国・アメリカだからこそと言うべきか)、進化論を学校で教えて裁判沙汰になって否定されてしまうほどだから・・・
中国は、宗教やら文化やらの厄介モノ(文化的価値)はそれぞれなので、それを避けて、カネ(経済的価値)という共通の価値で交わろうとするように見える。かつて朝貢してきた周辺国の使者に対して「倍返し」で手なずける、あの発想だ。アメリカ撤退後のアフガニスタンに対しても、また他の一帯一路の国々に対しても、「内政干渉」を避けて、飽くまで経済的付き合い(カネ)に限ろうとしているように見える(そういう意味では、新彊ウイグル自治区や香港の問題は「内政干渉」だと、ことさらに反発するのは、相互主義の態度として一貫している)。もっとも、最近はカネの切れ目が縁の切れ目で、一帯一路はうまく行っていないと言われ、綻びを見せ始めているようだが・・・。
翻って日本・・・このコラムの作者は「無宗教に最も近いのは日本」だと言うが、私は日本人は「無宗教」かも知れないけれども極めて「宗教的」だと思っている。大多数の日本人は、「神の存在を信じるか」と面と向かって問われれば、キリスト教などの一神教を思い浮かべて、否定的な反応を示すに違いないが、「神」ではなくて一般名詞の「神様」と呼びながら、あらゆるものに「魂」が宿ると思っている人は今でも多いのではないだろうか。いわゆる原始宗教のアニミズムの世界だ。豊かな自然の恵みに感謝する日本人らしい心性である。
小学生の頃、友達と砂場で遊んでいて、その友達が砂の上の動物の玩具をフォークで突き刺そうとふりかぶったときに、その動物を守ろうと咄嗟に手を出して、そのフォークが私の指に突き刺さったことがあった。馬鹿なことしたものだと思うが、動物(の玩具)がかわいそう・・・と思ったごく自然な反応だった。子供心に動物の玩具にさえ憐れみを感じていたのである。すれっからしの今なら考えられない(笑)。当時は、ちょちょいと消毒してすぐに治癒したが、今の年齢なら化膿して大変なことになっていただろう・・・その面でも今となっては考えられない(笑)。
(*)「日本の若者が信心深くなっている…旧共産陣営ロシア・ベトナムと並び「神の存在を信じる人」増加の謎」 https://president.jp/articles/-/52644
「世界価値観調査」によると、世の中には「神の存在を信じる」国民がまだまだ(という言い方が適切かどうか分からないが)多いようだ。調査対象77ヶ国の内、95%以上の国民が「神の存在を信じる」国が26もあり、90%以上まで拡げると半数近い36ヶ国にものぼるという。他方で、東アジアの仏教圏(儒教的仏教圏)は最も低い部類に入るという(中国17%、日本37%など)。特に中国が極端に低いのは、共産主義社会だから、と言われるのはその通りで、マルクスは「宗教はアヘン」だと言って禁止する一方、共産主義をドグマ化し、宗教の代替にしようとした。逆に、かつての共産主義国家では、ソ連崩壊以降、共産主義の縛りが解けて、時系列で見ると「神」や「宗教」が復活しつつあるとする見方には、なんとなく納得する。
もう一つ面白いのは、「分からない」という回答が極端に多かったのが日本なのだそうだ。日本人は「あいまいさ」を好む(許容する)とは思っていたが、まさにその通りのようだ。このコラムで気候学者の以下のような発言を引用されているのが興味深い。
(引用はじめ)
気候学者の鈴木秀夫によれば、〈ドイツ人は、わからないという状況が耐え難くて、物事の理解より自分の意見をはっきり持つということを優先する態度をとる。例えば、よく知らないにもかかわらず訊ねられた道をきっぱりした態度で教える。これに対して、日本人は、人間の判断を空しいものとみなす仏教の思想に影響されている。理解していることでも自分の理解は不十分なのではないかと感じ、むしろ「わからない」と回答するほうがしっくりする気持ちを抱く〉 といった主旨の解説をしている(『森林の思考・砂漠の思考』NHKブックス、p.14~18)。そして、こうした東西の考え方の違いを気候風土に影響されて生まれたものとしている。すなわち、乾いた大地において水場に向かう道としてどちらかを選ばざるを得ない西洋の「砂漠の思考」に対して、どちらの道を選んでも生き残れる東洋の「森林の思考」とがあり、日本人は特に後者に親しんでいるためと見なしている。
(引用おわり)
私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、正直なところよく分からないが、世の中で宗教はもっと形骸化しているものと思っていた。アメリカ駐在の頃(と言っても20年以上前になるが)、あるアメリカ人から、日曜礼拝しないアメリカ人が増えているとも聞いていた。もっとも、アメリカやオーストラリアなどの移民社会では、(宗教を含む)文化を鉄壁の鎧・・・とまでは言わないが、スーツや化粧で完璧に覆い隠して、文明人の装いをしているが、一皮剥けば文化が顔を出すものだ。他方、マレーシア駐在の頃に触れたイスラム社会は対照的で、一見、西洋文明に浴して(植民地支配されて)、文明国の一つに成長しているには違いないが、その文明の装いは天女の羽衣のように「すけすけ」で、文化的(宗教的)な地肌が露わになっている。マレーシアはまだ穏健な方で、アラブから来られたと思しき女性たちは、マレーシアのホテルのプールですら水着にならず、あの黒い装いのまま肌を見せていなかったことに驚いた。キリスト教社会にしか馴染みのない私に、イスラームはある意味で偉大だと思わせたものだ。
結局、西欧社会は、人間がか弱い存在であることを自覚しつつ、宗教を聖なる世界に閉じ込めて、俗なる世界では宗教を克服しようとサイエンス(近代科学・・・政治を含めて)を発達させて来たが、それでも、「神の存在を信じる」人が多いということは、内面の解決には至らない、すなわち宗教(一神教)という心の問題は手ごわいというのは、人間存在の本質に関わるからだろうか。あの文明国・アメリカですら(いや宗教立国・アメリカだからこそと言うべきか)、進化論を学校で教えて裁判沙汰になって否定されてしまうほどだから・・・
中国は、宗教やら文化やらの厄介モノ(文化的価値)はそれぞれなので、それを避けて、カネ(経済的価値)という共通の価値で交わろうとするように見える。かつて朝貢してきた周辺国の使者に対して「倍返し」で手なずける、あの発想だ。アメリカ撤退後のアフガニスタンに対しても、また他の一帯一路の国々に対しても、「内政干渉」を避けて、飽くまで経済的付き合い(カネ)に限ろうとしているように見える(そういう意味では、新彊ウイグル自治区や香港の問題は「内政干渉」だと、ことさらに反発するのは、相互主義の態度として一貫している)。もっとも、最近はカネの切れ目が縁の切れ目で、一帯一路はうまく行っていないと言われ、綻びを見せ始めているようだが・・・。
翻って日本・・・このコラムの作者は「無宗教に最も近いのは日本」だと言うが、私は日本人は「無宗教」かも知れないけれども極めて「宗教的」だと思っている。大多数の日本人は、「神の存在を信じるか」と面と向かって問われれば、キリスト教などの一神教を思い浮かべて、否定的な反応を示すに違いないが、「神」ではなくて一般名詞の「神様」と呼びながら、あらゆるものに「魂」が宿ると思っている人は今でも多いのではないだろうか。いわゆる原始宗教のアニミズムの世界だ。豊かな自然の恵みに感謝する日本人らしい心性である。
小学生の頃、友達と砂場で遊んでいて、その友達が砂の上の動物の玩具をフォークで突き刺そうとふりかぶったときに、その動物を守ろうと咄嗟に手を出して、そのフォークが私の指に突き刺さったことがあった。馬鹿なことしたものだと思うが、動物(の玩具)がかわいそう・・・と思ったごく自然な反応だった。子供心に動物の玩具にさえ憐れみを感じていたのである。すれっからしの今なら考えられない(笑)。当時は、ちょちょいと消毒してすぐに治癒したが、今の年齢なら化膿して大変なことになっていただろう・・・その面でも今となっては考えられない(笑)。
(*)「日本の若者が信心深くなっている…旧共産陣営ロシア・ベトナムと並び「神の存在を信じる人」増加の謎」 https://president.jp/articles/-/52644