風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

宗教雑感

2022-01-29 20:34:04 | 日々の生活
 もう一ヶ月以上前になるが、統計探偵/統計データ分析家を自称される本川裕さんが、プレジデント・オンラインに、ある統計データについての興味深い解説記事を寄せておられた(*)。
 「世界価値観調査」によると、世の中には「神の存在を信じる」国民がまだまだ(という言い方が適切かどうか分からないが)多いようだ。調査対象77ヶ国の内、95%以上の国民が「神の存在を信じる」国が26もあり、90%以上まで拡げると半数近い36ヶ国にものぼるという。他方で、東アジアの仏教圏(儒教的仏教圏)は最も低い部類に入るという(中国17%、日本37%など)。特に中国が極端に低いのは、共産主義社会だから、と言われるのはその通りで、マルクスは「宗教はアヘン」だと言って禁止する一方、共産主義をドグマ化し、宗教の代替にしようとした。逆に、かつての共産主義国家では、ソ連崩壊以降、共産主義の縛りが解けて、時系列で見ると「神」や「宗教」が復活しつつあるとする見方には、なんとなく納得する。
 もう一つ面白いのは、「分からない」という回答が極端に多かったのが日本なのだそうだ。日本人は「あいまいさ」を好む(許容する)とは思っていたが、まさにその通りのようだ。このコラムで気候学者の以下のような発言を引用されているのが興味深い。

(引用はじめ)
 気候学者の鈴木秀夫によれば、〈ドイツ人は、わからないという状況が耐え難くて、物事の理解より自分の意見をはっきり持つということを優先する態度をとる。例えば、よく知らないにもかかわらず訊ねられた道をきっぱりした態度で教える。これに対して、日本人は、人間の判断を空しいものとみなす仏教の思想に影響されている。理解していることでも自分の理解は不十分なのではないかと感じ、むしろ「わからない」と回答するほうがしっくりする気持ちを抱く〉 といった主旨の解説をしている(『森林の思考・砂漠の思考』NHKブックス、p.14~18)。そして、こうした東西の考え方の違いを気候風土に影響されて生まれたものとしている。すなわち、乾いた大地において水場に向かう道としてどちらかを選ばざるを得ない西洋の「砂漠の思考」に対して、どちらの道を選んでも生き残れる東洋の「森林の思考」とがあり、日本人は特に後者に親しんでいるためと見なしている。
(引用おわり)

 私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、正直なところよく分からないが、世の中で宗教はもっと形骸化しているものと思っていた。アメリカ駐在の頃(と言っても20年以上前になるが)、あるアメリカ人から、日曜礼拝しないアメリカ人が増えているとも聞いていた。もっとも、アメリカやオーストラリアなどの移民社会では、(宗教を含む)文化を鉄壁の鎧・・・とまでは言わないが、スーツや化粧で完璧に覆い隠して、文明人の装いをしているが、一皮剥けば文化が顔を出すものだ。他方、マレーシア駐在の頃に触れたイスラム社会は対照的で、一見、西洋文明に浴して(植民地支配されて)、文明国の一つに成長しているには違いないが、その文明の装いは天女の羽衣のように「すけすけ」で、文化的(宗教的)な地肌が露わになっている。マレーシアはまだ穏健な方で、アラブから来られたと思しき女性たちは、マレーシアのホテルのプールですら水着にならず、あの黒い装いのまま肌を見せていなかったことに驚いた。キリスト教社会にしか馴染みのない私に、イスラームはある意味で偉大だと思わせたものだ。
 結局、西欧社会は、人間がか弱い存在であることを自覚しつつ、宗教を聖なる世界に閉じ込めて、俗なる世界では宗教を克服しようとサイエンス(近代科学・・・政治を含めて)を発達させて来たが、それでも、「神の存在を信じる」人が多いということは、内面の解決には至らない、すなわち宗教(一神教)という心の問題は手ごわいというのは、人間存在の本質に関わるからだろうか。あの文明国・アメリカですら(いや宗教立国・アメリカだからこそと言うべきか)、進化論を学校で教えて裁判沙汰になって否定されてしまうほどだから・・・
 中国は、宗教やら文化やらの厄介モノ(文化的価値)はそれぞれなので、それを避けて、カネ(経済的価値)という共通の価値で交わろうとするように見える。かつて朝貢してきた周辺国の使者に対して「倍返し」で手なずける、あの発想だ。アメリカ撤退後のアフガニスタンに対しても、また他の一帯一路の国々に対しても、「内政干渉」を避けて、飽くまで経済的付き合い(カネ)に限ろうとしているように見える(そういう意味では、新彊ウイグル自治区や香港の問題は「内政干渉」だと、ことさらに反発するのは、相互主義の態度として一貫している)。もっとも、最近はカネの切れ目が縁の切れ目で、一帯一路はうまく行っていないと言われ、綻びを見せ始めているようだが・・・。
 翻って日本・・・このコラムの作者は「無宗教に最も近いのは日本」だと言うが、私は日本人は「無宗教」かも知れないけれども極めて「宗教的」だと思っている。大多数の日本人は、「神の存在を信じるか」と面と向かって問われれば、キリスト教などの一神教を思い浮かべて、否定的な反応を示すに違いないが、「神」ではなくて一般名詞の「神様」と呼びながら、あらゆるものに「魂」が宿ると思っている人は今でも多いのではないだろうか。いわゆる原始宗教のアニミズムの世界だ。豊かな自然の恵みに感謝する日本人らしい心性である。
 小学生の頃、友達と砂場で遊んでいて、その友達が砂の上の動物の玩具をフォークで突き刺そうとふりかぶったときに、その動物を守ろうと咄嗟に手を出して、そのフォークが私の指に突き刺さったことがあった。馬鹿なことしたものだと思うが、動物(の玩具)がかわいそう・・・と思ったごく自然な反応だった。子供心に動物の玩具にさえ憐れみを感じていたのである。すれっからしの今なら考えられない(笑)。当時は、ちょちょいと消毒してすぐに治癒したが、今の年齢なら化膿して大変なことになっていただろう・・・その面でも今となっては考えられない(笑)。

(*)「日本の若者が信心深くなっている…旧共産陣営ロシア・ベトナムと並び「神の存在を信じる人」増加の謎」 https://president.jp/articles/-/52644
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「したたかな外交」に見える危うさ

2022-01-21 20:50:45 | 時事放談
 前回ブログでは、心ならずも林外務大臣の姿勢に猜疑心を催したが、岸田首相の外交に関する発言にも首を傾げたくなる。今週月曜日の施政方針演説で、「日本外交のしたたかさが試される一年だ」と述べ、提唱する「新時代リアリズム外交」を展開していく考えを強調したそうだ(産経新聞による)。
 果たして、自ら「したたか」などと主張するものだろうか。他人が評価するなら分かる。そもそも日常的には(本来の意味合いは別にして)否定的なニュアンスで語られることが多い言葉だ。「リアリズム」にしても、自分から(自慢気に!?)言うものだろうか。時代が評価するなら分かる。その対極にある「リベラリズム」は、もともと岸田首相の看板だったはずで、君子豹変してしまったとも思えないから、その言わんとするところをいろいろ下衆の勘ぐりをしたくなる。
 産経新聞は、「首相が率いる自民党派閥の宏池会(岸田派)はリベラル派閥として、外交では『親中国』、安保では『軽武装・経済重視』を掲げてきた伝統がある。岸田政権にも『中国寄り』という〝疑い〟の目が向けられることを意識し、自身の外交・安保政策を『現実主義』と位置付けて反駁する意図も感じられる。」と解説する。なるほど、気負っておられるのは分かる。
 『小学館・精選版日本国語大辞典』によると、「したたか」の項の5番目に、「見かけはそうは見えないが、相当の能力をもち、簡単にはこちらの思うようにならない人のさま。多くは悪い場合にいう。一筋なわではいかないさま。」とある。そのように虚勢を張っておられるのだろう。あるいは、国民の8割以上が中国に親しみを感じないご時世に、まさか露骨に親中の姿勢を見せれば非難されるのがコワいし、だからと言ってアメリカのようにコワモテに対峙する勇気はなく、たとえ勇気があっても経済面へのダメージがあればやはり経済界から非難されるのがコワいから、その間で「したたか」に逡巡することがあっても責められないように予防線を張っているように見える。「言うべきことを言う」と自慢げにおっしゃることが多いが、とっとと態度で示して欲しいものだと思う。
 岸田首相お得意の「聞く力」というのもなかなか曲者だ。「決められない」のを糊塗しているようにしか見えない。安倍さんやスガさんのような頑固オヤジと違って、良く言えば柔軟、その実態は優柔不断で、野党には与しやすいと思われているようだ。しかし、信念や自己主張が見えないのは、腰が定まらなくて、頼りなく見えてしまう。
 そんな言葉遣いに加えて、もう一つ気になるのは、語りだ。どうも間延びするし、張りがないから、他所事のように聞こえて、説得力に欠ける。
 さらに、表情にもいまひとつ締まりがない。経産官僚OBの古賀茂明さんとは根本的に考えが合わないのだが、彼が「岸田氏の会見を見るたびに、違和感を抱く。なぜなら、岸田氏が非常に困難な課題について語る時、『涼しい顔』で用意した紙を読むだけで、全く危機感が伝わってこないからだ」と言われることには同意する。なるほど、「涼しい顔」。リーダーとして悲壮感がないのは時には良いこともあるが、良きに計らえ式のお殿様のような“他人事”感が漂うようでは、困る。
 このように言い切ってしまえば、良いところが何もなくなってしまうが、実はこれまでのところは、評判が悪かった安倍式、スガ式の逆張りで、内閣支持率は頗る良好だそうだ。コロナ禍対応では、水際対策が諸外国から批判的に見られるほどに世論に阿って厳しく処し、佐渡島の金山に関しては近隣国に配慮して遠慮がちで、といった具合いで、得意の「聞く力」が奏功しているのだろうか。一種のポピュリズムだと批判的に見る私は、あらためて偏屈者だと自覚する(笑)。
 私の友人の一人は、銀行員時代の岸田さんと接点があって、見た目が地味で、首相になるとは思わなかったと語っていた。庶民受けはしそうだが、この難しい時代に、軸を定めて、他から予見可能でないと、安定した外交は進められないし、外交に必要な強さも感じられないのを懸念する。
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竹島強奪70年

2022-01-19 20:43:31 | 時事放談
 70年前の昨日、韓国の初代大統領が「李承晩ライン」を一方的に設定し、竹島領有を表明した。その竹島について、知日派と思われる(しかし親日派かどうかは分からない)アメリカ人学者が現代ビジネスに寄稿された、なかなか日本人からは出て来ない、しかし日韓問題の核心をなすシンプルな論点を面白く思った(*)。
 竹島の領有権が日本にあることは、日本人なら誰しも信じて疑わないが、普段は日韓関係において喉元に刺さった小骨のように気にはなりつつ見過ごされがちだ。慰安婦問題にしても、徴用工問題にしても、その他諸々にしても、70年前の竹島領有問題にまで遡って韓国の不当を責めることはしない。だからと言って日本人は竹島問題が日韓問題の根底に横たわる重要問題であることを忘れているわけではなく、その日本人が言わない代わりに件の論者が明快に「韓国は、竹島の領有権放棄によって日本との関係に与えたダメージを元に戻すことから始め、その代わりに安全保障と経済の領域で大きな協力を追求するべきである」と結論づけてくれている。アメリカ人に言われることには何だか忸怩たるものがあるが、至極ごもっとも、だ。原点を忘れるべきではない。
 韓国がサンフランシスコ講和会議で図々しくも連合国側に加わろうとして米英から却下された話は有名だ。竹島問題は、当時、韓国がGHQ支配下という制約的な状況の虚を衝いて日本に仕掛けた、ある種の「戦争」と言えるかも知れない。少なくとも韓国人の一定割合は、そこで初めて日本に勝利したと自尊心を満足させているようだし、文在寅大統領はことあるごとに日本には二度と負けないと強がっている。何しろ実効支配しているのだから、黙って支配し続ければいいものを、ことあるごとに誇示するのだから、如何に晴れがましい、ある意味で疚しい気持ちが潜んでいるかが知れる。まあ「戦争」とまでは言わないまでも、積もりに積もった歴史上の怨恨の果ての、今に至る「復讐劇」の始まりを画するイベントだったのは間違いない。
 ルトワック氏だったか、戦争で死力を尽くして戦った者同士は後に仲良くなることが出来るが、そうじゃない者同士は難しい、というようなことを言われた。韓国はまさに後者の例で、国家間の関係は清算するのが難しいと感じる。
 もっとも国民のレベルで本気で復讐しようなどと思っているとは思えず、むしろ国民は日々の生活の方が大事だし、世代交代とともに記憶も薄れて行くものだと思う。ところが、民族の歴史は永遠に消すことが出来ず、わざわざ寝た子(国民)を起こし、国内で政治利用する輩がいる、というのが実相だろう。しかも、諸外国の目にどう映るかには頓着せず、病的なまでに(と、またしても佐渡金山を世界文化遺産に推薦する問題を巡る騒動を見ていて、そう思う)諸外国を巻き込んで騒ぎ立てて恥じないのは、歴史・地理的に中・露・日の大国に囲まれて肩身の狭い思いをしてきた事大主義の韓国の習い性であり、悲哀と言うべきだろうか。それに対して、引け目があるとは言え日本の宥和的な対応も問題だったのだろう。韓国も十分立派になったことだし、ええ加減、日本に甘えることなく自立して欲しいものだと思う。
 ところで、佐渡金山問題は、まさか林外務大臣は根負けすることはないと思いたいところだが・・・。

(*)ロバート・D・エルドリッヂ氏「竹島強奪70周年―韓国はアメリカも認めていない不法行為に終止符を」 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91477?imp=0
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新・南北戦争

2022-01-16 11:01:36 | 時事放談
 年明けのおめでたいと日本人なら思う時節に、米・英の有力マスコミは揃って「南北戦争の再発」を警告する異常なことになったと、木村太郎さんが伝えておられた(*1)。
 「南北戦争」という和訳を使うと、なんだかイメージがズレてしまう(苦笑)。150年ほど前の「南北戦争」では、商工業中心の北・中部が、奴隷制は「神の国」アメリカの汚点だとして、その廃止を訴えたのに対し、奴隷制に支えられた綿花王国の南部諸国が南部連合(アメリカ連合国=Confedelate States of America)を結成し、対立・抗争した。私たちが教科書で、リンカーンの奴隷解放宣言とともに記憶するもので、つい奴隷制廃止のための戦争とイメージしてしまうが、奴隷制は大きな争点ではあっても、問題はあくまで「内戦(Civil War)」であって、南部諸州が合衆国から離脱するのを防ぎ、国の纏まりを維持し得たため、The Great Warとも言われる。当時、60万以上の命が失われ、両大戦とベトナム戦争の犠牲者を合わせた数よりも多い。アメリカ合衆国誕生物語として、1630年の植民の始まり(1620年のピルグリム・ファーザーズ102人は象徴的な存在だが、ただの「移民」であって「植民」ではない)と、1776年の独立宣言(United ColoniesがUnited Statesになった)に続く、第三幕と捉える人もいる。
 そのアメリカが保守・革新の新たな「内戦」で、分裂の危機にあるということだ。「民主党支持者の85%は共和党が人種差別主義者に乗っ取られていると考え、共和党支持者の84%は民主党が社会主義者に支配されていると信じている」(タイム誌)という。保守・革新の対立自体は目新しいものではなく、その異なるベクトルはある意味で人間の性(サガ)に根付くものと言ってもよく、普遍的だ。そこに、多民族国家アメリカならではの白人至上主義のように土地に固有の事情が絡み、あるいはもはや誰もが豊かになれる時代ではなく格差が広がりつつあるといった時代に特有の精神が影響して、時に対立は先鋭化する。「米国の政治は毀損し崩壊するかもしれない。カナダはそれに備えなければならない」(グローブ・アンド・メール紙電子版は2日)との、ややセンセーショナルな見出しは、ある研究者の発言を根拠にしているという。「米国の民主主義は2025年までに崩壊して政治が不安定化し暴力がはびこるだろう。さらに遅くとも2030年までに米国は右派の独裁者に支配されているだろう」(ロイヤル・ローズ大学カスケード研究所のトーマス・ホーマー・ディクソン所長)。
 中国はとうの昔に見越している。習近平国家主席は、内部講話で「東昇西降」(東=中国が興隆し、西=欧米が衰退していく)と力説したと伝えられ、西側諸国は民主主義や富の分配といった面に大きな問題を抱え、自滅のプロセスにあると、冷ややかに眺めているようだ(*2)。習氏は中国共産党結党100周年の講話でも、「われわれは人類文明の新形態を創造した」と述べており、日本総合研究所上席理事の呉軍華氏によると、中国は西洋文明への依存から脱却できたという強い自信を持ち、米国との関係を融和的なものにする必要性を感じていない、と言う(同)。
 確かに、自由の国アメリカでは、社会の分断がそのまま露出して「内戦」の様相を示し、あらゆる不穏な動きを封じ込めて静けさを装う中国のような権威主義国家の目には、弱さとしか映らないかも知れない。しかし、国の強さや弱さはそのレベルにとどまるものではない。むしろ内部事情が伝えられない中国にこそ、マグマのように不満が鬱積し、いつ爆発するとも限らない、かも知れない。中国共産党を脅かすものとして、巨大IT企業や大富豪から芸能人に至るまで、社会的影響力を増しかねない可能性の芽を先んじて潰し、社会統制を強めるのは、弱さの表れに他ならないと、自由社会の目に映っているとは、習氏は思いもよらないだろう。近年、若者の人気を集める「娘炮」(女性っぽい男性)と呼ばれる中性的な男性タレントを「いびつな美意識」と断じて禁止するのを、姫田小夏さんは、国境地帯で紛争を数多く抱える中国が「戦争」を意識し、まだまだ若い兵隊を欲しがっているからだと言われるが、その真偽はともかくとして、子供がオンライン・ゲームで遊ぶ時間まで国が規制するのは、どう見ても尋常ではない。
 しかし、いずれの見方にもバイアスがかかる。中国が自由・民主的であったためしはないから、中国人民が実際にどう思っているかは、私たちには測り知れない。一部では、経済力の高まりに加えて(混迷する西側を尻目に)パンデミックに打ち克ったとして若者を中心にナショナリズムに沸き立つ事情が漏れ伝わって来る。他方で、歴史で鍛えられた民主主義の実態を知らない中国が思うほど自由・民主主義はヤワではなく、私はアメリカのレジリエンスを信じている。その米・中で、秋に中間選挙と中国共産党大会を控え、その結果のみならず、そこに至る過程でどのような動きがあるのか、注目される。米・中だけにフォーカスしていると、世界でその間隙(所謂「権力の真空」)を縫って、不穏な動きが広がらないとも限らず、東・西(台湾・ウクライナ)で中・露が連動するのではないかと懸念する声もある。その可能性は高くないとは思うが、私たちを取り巻く秩序の永続を望むなら、いろいろ小さい不満はあってもやっぱりアメリカに頑張って貰うほかはない。

(*1)「米有力マスコミが揃って“新南北戦争”を警告 カナダ紙も「米政治は毀損して崩壊か」と指摘 日本の備えは?」(1/11付FNNプライムオンライン) https://www.fnn.jp/articles/-/296713
(*2)「習近平氏の本音は『西側は自滅する』、米中の緊張が2022年も高まる理由」(1/9付ダイヤモンド・オンライン) https://diamond.jp/articles/-/291207
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年の始

2022-01-07 21:13:59 | 日々の生活
 年始と言いながら一週間が過ぎた。昨日は底冷えのする一日で、都心でも10センチの雪が積もり、昨晩は久しぶりに駐車場の雪掻きをした。それを知った近くに住む知人が驚いたのは、どか雪ではなく、今日の昼には陽のあたるところは溶けて消えてしまう程度だったからだが、雪掻きの「道具」と「意識」があるから、かも知れない。四半世紀前に4年間住んだボストンは、感謝祭の頃から3月一杯は雪に覆われ、雪が降った日の朝、雪掻きをしないで共同駐車場に一台だけ取り残されると酷い目に遭う(タウンハウスが契約する業者の除雪車が入るのだが、除雪の際に寄せられる雪の壁で車が囲まれてしまう)ので、ちょっとした雪→雪掻きしなきゃ思考がクセになっている(笑)。そして車上の雪を振り払う当時の「道具」は今でも重宝している。
 閑話休題。かつて三が日は商売が止まるので、各家庭は自衛のためにお節をつくるのが習いだった。しかし最初こそもの珍しい餅にもすぐに飽き、変わり映えのしない正月番組も見飽きて、子供心に世の中が早く元に戻らないかと待ち遠しかったものだ。その後、いつの間にか元旦営業が当たり前になり、さらに最近は人手不足のあおりで揺り戻しがあるとは言え、今年も近所のヨーカドーやコンビニは元旦も休まず営業されており、正月は暦の上で年があらたまるだけで、かつてのけだるい正月気分からは遠ざかったままである。今思うと、イスラム世界のラマダンとまでは言わないが、年に一度、数日間ではあるが日常をほぼ離れてこそ日常が有難く思える貴重なイベントだったのが懐かしい。
 そうは言っても幸先という言葉があるように晴れやかであって欲しい年始だが、オミクロン株が日本でも暴れ出し、あっという間に全国の感染者数が六千人を超えたようだ。日本のこともさることながら、お隣の中国のことも、お節介ながら気になってしまう。
 イアン・ブレマー氏率いるユーラシア・グループから、年始恒例、世界の「十大リスク」が発表された。その第一番目は、“No Zero Covid”(ゼロコロナ政策の失敗)だった・・・と言うよりこれから始まることとして、不吉に予想されている。問題は、欧米諸国がウィズコロナに移行しつつある中、なおも“ゼロコロナ”に拘る中国で、折しも北京では冬季五輪を控え、世界中から人が集まることだ。よりによって(とマスコミは騒ぎ立てた)デルタ株が流行するさなかに五輪が東京で開催されたように、今、オミクロン株が流行するさなかに五輪が北京で開催され、東京では一般の観戦は認められなかったのに、北京では中国人観戦客が受け入れられ、外国人と接触する。ただでさえ物流が停滞し、物価が上がりつつあるご時世に、これまでまがりなりにもコロナ対策の成功例と見做されて来た“世界の工場”中国で、コロナ対策に大失敗すれば悲劇的な状況が訪れないとも限らない。
 ここで、「まがりなりにも」と断り書きしたのは、ジャーナリストの福島香織さんがJBpress誌上(*)で、中国にあって“ゼロコロナ”とは“コロナウイルス”を排除するのではなく、“コロナ感染者”を社会(街)から人里離れた郊外に排除(隔離)して、表面上なかったこと(=“ゼロ”)にするのを意味すると暴露されたからだ(中国人は当然、気づいていたのだろうけれども)。「市内の居住区に住民がおらず、空っぽであれば、そもそも人がいないのだから、ゼロコロナが達成されたことになる」のだそうだ。なんとも相変わらず奇妙な中国式ロジックだが、“ゼロ”にこだわる習近平主席のもと、「“中央からの無茶な指示を受けた現場官僚たちが、何とか帳尻を合わせるために人民を欺くロジック”として確立した」もので、これでも現場官僚たちにとっては“目標達成”して、“めでたしめでたし”と相成るのだそうだ。それを福島さんは、「毛沢東の『大躍進』に匹敵する非合理さ」であり、「問題発言した女子テニスプレーヤーを失踪させたり、あってはならない事故を起こした高速鉄道車両を穴を掘って埋めてなかったことにするのと同じといえば同じ」とまで指摘される。何でも“臭い物に蓋をする”中国らしい対応と言えるが、人民にとっては難儀な国である。秋には5年に一度の共産党大会を控え、三期目を視野に入れる習氏にとって、北京五輪と“ゼロコロナ”は絶対成功させなければならない、“無謬”たるべき中国共産党(それを牛耳る習氏)の象徴であろう。習氏にとっての正念場であり、世界への影響を考えれば、そこだけは習氏に頑張ってもらいたい(「ゼロ」に拘れとは言わないのだが、今さら撤回できないだろう)ものだと、切に思わないわけにはいかない。
 こうして見ると、(前回も言ったように)コロナ禍対応は国の優劣や正邪を示すものと言うよりも国柄・土地柄を表すものだとつくづく思う。危機のときにこそ人柄なり国柄なりが表れるとする“あれ”である。野放図と言っては申し訳ないが奔放なアメリカ人から成る駐留米軍基地を抱える沖縄・山口・広島(はまん延防止等重点措置適用が決定された)や、反体制的気分が横溢すると言うのも言い過ぎかも知れない大阪が苦労するのは、よそ行き感が強いというのも田舎者の私の独断かもしれない首都・東京ほどの規律(あるいは個々人の自制)がなかなか守られない証ではないだろうか。それでも日本全体として見ればマシな方で、挨拶のキスやハグなどの濃厚接触が当たり前で声もデカくて同調圧力に屈するよりも自己主張が強い欧米諸国は、日本より規制が厳しくてもコロナ蔓延を抑え切れない。そんな日本でも、オミクロン株がいくら重症化率が低いとは言え、そしてインフルエンザ並みの対応(これが、とりあえず社会的に(疫学的には別にして)新型コロナ禍の「終焉」と言えるのだろう)が模索されているとは言え、絶対数が増えれば重症者の絶対数も増える。新年早々、なかなか気が抜けない日々が続く。
 なお、岸田首相は“聞く力”を誇示して、唯我独尊的なところがあった前任・前々任者の失敗の轍を踏まないで、これまでのところは無難に高支持率を保ってきたのは、ひとえにコロナ禍が落ち着いていたからであって、言わばワクチン接種を強引に進めたスガ前首相の置き土産である。岸田さんにとって、そして当然、私たち国民にとっても、いよいよ試練が始まる。どうも岸田さんが頼りなげに見えるのは、安倍さんやスガさんに見られた、時に世論を気にしない強引さ、言わば信念の強さが見えて来ないからで、ポピュリズムのニオイを嗅ぎ取るから・・・などと思うのは、ただの我が儘なのも知れないが。

(*)「住民の強制隔離で感染者ゼロ?中国式『ゼロコロナ』のカラクリ」 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68333
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