風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

大震災から一年(前編)

2012-03-21 22:14:28 | 日々の生活
 あれから一年が過ぎました。起きた事象が特異・特別だっただけに、記憶は鮮やかで、つい昨日のことのように思い出されますが、月日が経つのは早いものだと思います。人それぞれの311体験があり、思うところも様々でしょう。私自身の今の気持ちを述べてみたいと思います。
 この一年を振り返るTV番組を見るのは余り熱心ではありませんでしたが、週刊誌や月刊誌の類いはいろいろ読み漁りました。その中で最も印象に残ったのは、子供たちに関するものでした。塩野七生さんによると、イタリアの雑誌に被災地の子供三人の顔の大写しの写真が掲載され、「ツラ構えがいい。この国の未来は明るいはずだ。」というようなコピーが(立ち読みした内容なので、かなりアイマイですが)添えられていたのだそうです。なんだか出来過ぎの感じもしますが(それとも塩野七生さんの脚色によるのか)、被災地の子供たちは、身内を失ったり、自宅を失ったりするなど、色々な試練に遭ったことと思いますが、逞しく立ち直りつつあるのを聞くと、大変心強く思います。これからの日本をリードするのは、そんな試練に打ち克つ子供たちだと思います。
 もう一つ、カナダの新聞だったと思いますが(これも立ち読みだったので甚だアイマイですが)、ハイチ地震の当時と今の写真を、東日本大震災の当時と今の写真と比較した記事が載っていたそうで、日本の復旧は着実に進んでいると評価が高いようでした。実際に、日経新聞に載った女川の今は、少なくとも瓦礫がきれいに片付けられていて、世間で言うほど復旧が進んでいないわけではないことを思わせました。勿論、今回の震災は阪神大震災と違って広域にわたり、基本的に復旧は簡単ではない上、地域差が大きく、日本のメディアは、復旧・復興のグランド・デザインが今なお呈示されていないとか、復興庁がこの2月まで設置されなかったなどと、総じて政治の危機対応の動きが遅すぎると口喧しいのはご存じの通りです。先ほどの女川の写真にしても、ガランとした空疎な様子は、却って津波被害の凄まじさと復旧の難しさを無言のうちに物語っているとも言えて、復旧についての評価は簡単ではありません。ただ、中国のメディアでも、日本人はパニックもヤケも起こさず忍耐強いとか、日本経済は意外に早く回復するのではないか、などと比較的好意的に受け止めているようで、私たちの自己評価の水準は低過ぎるのかも知れない、もう少し自信をもっても良いのかも知れません。
 このように被災地については、多かれ少なかれ復旧・復興が語られるのに対し、いざ私の周囲を見渡してみると、確かに平常を取り戻しているかに見えますが、ちょっとした揺れはもはや当たり前で、地震とともにあるのは仕方ないというような諦めともつかない思いに囚われるところからすると、311以前と以後とではやはり非連続であるのは間違いありません。もっと言うと、首都圏に住まう私たちにとって、いつ何時、直下型地震に見舞われるか知れず、明日は我が身の恐怖感と覚悟のようなものが芽生えたところからすると、実は復旧も復興もない代わりに、311以来の緊張感も決して終わらない、というのが正直な気持ちではないでしょうか。昨年の今頃は、ミネラルウォーターのペットボトルと乾パンを手放せない日々が続き、その後一ヶ月ほどで止めましたが、今も、携帯電話の充電器と災害時の帰宅ルート・マップは常時持ち歩いています。
 だからこそ、被災地ではない我々に必要なことは、被災地が身を以て示してくれた危機対応で何が良くて何が問題だったのか、真摯に事実を検証し、その中から貴重な教訓を引き出し、明日に活かすことだと思います。そういう意味では民主党政府の対応は遅すぎる、どうしようもなく遅すぎると言わざるを得ません。
 そして、高校球児に出来ること・・・今日の高校野球開会式で石巻工・阿部翔人主将が行った選手宣誓は良かったですね。2分を越える異例の長さでしたが、チームの皆がホワイトボードに思いを書き出し、それらをまとめたものだそうです。全文を掲載します。

 宣誓。東日本大震災から1年。日本は復興の真っ最中です。被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、今も当時のことや亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている方がたくさんいます。人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは、苦しくて、つらいことです。
 しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう。日本の底力、絆を。われわれ高校球児ができること、それは全力で戦い抜き、最後まで諦めないことです。
 今、野球ができることに感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。(時事)
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穏やかなフェルメール

2012-03-14 22:27:36 | たまに文学・歴史・芸術も
 今日、会社をサボって、渋谷BUNKAMURAザ・ミュージアムで開催されているフェルメール展を見に行って来ました(サボると言うと人聞きが悪いですが、ちゃんと半日休暇を申請しました)。
 キャッチ・コピーは「門外不出!アムステルダム国立美術館所蔵≪手紙を読む青衣の女≫修復後世界初公開そして日本初上陸!」というもので、この絵はモノトーンに近い抑えられた色調の中で、修復前に比べて、フェルメール・ブルーと呼ばれる天然ウルトラマリンの青が鮮やかに蘇って、印象的な作品に生まれ変わったことが紹介されていました。この作品を含めて、展示されているフェルメール作品は実は3点のみでしたが、同じ17世紀のオランダの風俗画家の写実主義的な作品が、多数、並行展示され、独特の雰囲気を醸し出していました。日常を切り取っただけに見える風俗画ですが、その多くは、背景に描かれている壁の絵や地図や配置されている小道具などを通して、オランダの諺や格言、道徳的なメッセージを示唆しているのだそうです。
 中でも、タイトル「フェルメールからのラブレター展」に触れられているモチーフとしての手紙は、ヨーロッパで最も識字率が高かった当時のオランダにおいて、郵便制度が発達するにつれ、それまでの公的な通知や商業的な情報発信という役割に加えて、個人が思いを伝える手段として一般的になり、人々のコミュニケーションのあり方を大きく変えた時期にあたるそうです。現存するフェルメールの作品30数点と少ない中で、手紙をモチーフにしたものは6を数え、当時の静かな高揚感が伝わってきます。
 今でこそ、一人一台の携帯電話をもち、いつでも望む時に即時的にピンポイントでコミュニケーションが取れる時代ですが、ほんの20年前は、例えばトレンディ―・ドラマの走りとなった「東京ラブストーリー」では、待ちぼうけを食わされる場面が当たり前のように何度も出て来ます。電話の時代とは言っても固定電話中心の当時は、彼女が自宅にいれば、お父ちゃんやお母ちゃんが電話に出るかも知れず、電話をかけること自体がハードルが高かったものですし、待ち合わせて外出してしまえば、なかなか連絡が取れずにやきもきし、すれ違いも多くて、郷ひろみが「よろしく哀愁」で歌ったように、「会~え~な~い~時間が~愛(あ~い~)育(そ~だ~)てるのさ~」というようなところもある、牧歌的な時代でした。ましてフェルメールの当時は、もとより電話はなく、手紙の授受には数日かかり、もし恋人が商船で海外に働きに出ていたら返信を貰うまで2年もかかる、というような、今の私たちには俄かに想像を絶する世界です。
 そんな時代背景に思いを致しつつ、あらためてフェルメールの描く世界を眺めてみると、静けさの中で、なんとも穏やかな幸福感に充ち満ちた明るさに溢れていることが見て取れます。ここまでお勧めするかのように書いてきたフェルメール展は、実は今日が最終日でした。合掌。
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山口美江のいた時代

2012-03-10 11:56:52 | 日々の生活
 またしても同世代に属する女性が死亡したニュースが飛び込み、ちょっとショックでした。山口美江さん、享年51。
 山口美江という女性に対して、恐らく同世代の男性一般に共通する思いとして、必ずしも良い印象を持っていたわけではなかったでしょう。それは一言で言えば、自分にないものを持っているという、やっかみ半分。今、あらためて見ると、当時の彼女はぷっくらとしていてツヤツヤで生き生きしていて、とてもかわいい。今の私のようなオジサン受けするタイプです。しかしそれは若ければ性格的に多少きつかろうが尖った部分があろうが許しちゃう・・・といったいい加減さにあります(ということが分かったのはこの歳になったからですが)。逆に言うと、当時の彼女は、恐らくそのキャリアや物腰が誤解を招いて損をしていたのだろうと、今にして思います。勿論、ちやほやされていたのは事実ですが、メディアでもてはやされていたのは、アンビバレントな感情があってこそのことです。美人で、英語が堪能で、ちょっと派手でお高く止まったワガママそうなお嬢さんタイプに見えて、同年代からはイケスカナイ女と思われていたに違いないのです。男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年で、折しもバブル景気に沸いて、その後バブルがはじけた後もなお日本に元気があった時代で、「バイリンギャル」という言葉を生んだ彼女の存在は、良くも悪くもあの時代の空気を映し出す鏡のようなところがありました。あの時代の流れに乗ったからこそ露出が増えたというような。
 Wikipediaを見ると、彼女の高祖父(祖父母の祖父)はドイツ人で、小学校から高校まで横浜のインターに通ったために英語が堪能なだけで、帰国子女ではなかったのが意外でした。私生活の彼女がどうだったかなんて余計なお世話ですが、1996年に芸能界を一時引退したのは、アルツハイマー病の父親を介護するためだったそうです。結局、彼女は独身を貫きました。
 彼女へのレクイエムとして本稿を書いているのは、あの時代へのただの感傷だけでなく、このブログでたまたま五回続けてモノへのこだわりを書いてきたところに、彼女の死に接して、なんとなく高度経済成長からバブルを経て長い凋落傾向を辿った日本経済を経験した私の世代こそのメルクマールなのではないかと、ふと思ったからでした。勿論、何か特定のコトにこだわるのは珍しいことではなく、人は誰しも経験するところでしょう。ただ、モノへのこだわりは、モノへの渇望が一種のトラウマとして付きまとっているからではないのか・・・と思うわけです。
 先日、朝まで生テレビで、今の自分が不幸だと感じている人の比率は46歳を中心とする世代で一番高いことが紹介されていました。この世代の特徴は、例えば卑近な例で言うと、年功序列といった制度に乗っかってこれから給料が増えると期待していたところに社会的変革の波に襲われて実力主義が蔓延り始めて右肩上がりでいられなくなったという制度が変容する過渡期にいたことだと言えましょう。それより10歳以上、上の世代は、良い時代のまま年金生活に入り、かつて大前研一さんが「滑り込みセーフ」と呼んだように、なんとか逃げ切れる世代です。他方、これより10歳以上、下の世代は、物心つく頃から既にモノは充足していて、成熟経済のもとで長い停滞または凋落を生きてきて、成長とかバブルといった妙な高揚感を知らない故に特に期待感もなく、それなりの幸せを感じているというわけです。かつて女性は結婚相手に三高、つまり高収入・高学歴・高い身長を求めたものでしたが、最近の女性は三平女子(さんぺいじょし、と読むそうです)つまり平均的な年収・平凡な容姿・平穏な性格を求めるものなのだそうです。
 何が良くて何が悪いという類いのものではありません。育った時代背景によって、すなわちどの年代でどんな事故や事件に遭遇し、どんな仲間(同級生というよりも、自分たちと違う経験をもつ集団(親など)だったり、日本以外の国だったりします)に恵まれたかといったことの違いによって、世代と呼ばれる括りが生まれるわけですが、こうした複数の世代が一つの社会を構成して、断層と呼んで他人事にしてしまうのではなく、共生する社会にそれぞれの世代がどのように関わっていけるのか、具体的には、私たちの世代は若い世代に何を伝えることが出来るのか、伝えるべきなのか、といったようなことを、つらつら思うわけです。こうした思いに囚われるようになったのは、40歳を過ぎた頃からのことでしょうか。ある程度、子供が大きくなって、自分自身にも親としての自覚が芽生えてきた頃のことです。
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物へのこだわり(5)究極の洗練・ポルシェ

2012-03-09 01:23:46 | 日々の生活
 モノへのこだわりで随分引っ張って来ましたが、最後に忘れてはならないのが、優雅な曲線のもつ美しさです。ちょっと横に張り出したお尻のふっくらと丸みを帯びた後ろ姿がこれほど魅せることが出来るのも珍しい。勿論、ちょっぴり飛び出したつぶらな丸い瞳もこの上なく可愛いですし、つんとせり出した顎のラインも、丸みを帯びてくどくなくて良い。「簡潔さは究極の洗練」と言ったのはレオナルド・ダビンチでしたが、まさにシンプルな丸みを帯びた曲線美は見飽きることがありません。
 そう、言わずと知れた車の中の車、ポルシェです。
 今のポルシェ911は、昨年出た7代目991型が最新ですが、スキがなさ過ぎるのが難点です。そういう意味で、個人的には3代目964型(1989年~1993年)が一番好き。やや骨ばって、もう少し努力すれば丸みを帯びてもっと美しくなれるだろうに(991型のように)、その手前のところでノリシロを持って控えめに自己主張しているところが好きなのです。そんなポルシェに比べれば、ランボルギーニやフェラーリのフォルムはなんとも青臭く見えて仕方ありません。ポルシェに近い曲線美の美しさを敢えて探すとすれば、フォルクスワーゲンのビートルですが、大人のもつ優雅さという点では、雲泥の差があります。
 そんなポルシェの運転席に座ってハンドルを握ったことがあります。5年ほど前、マレーシア・ペナンの展示会場でのことでしたが、思わず胸が高鳴りました。普通の車に比べれば、随分、運転席が沈んでしまいますが、エンジンを吹かせれば、スーッと音もなく優雅に走る始めるのだろう、革張りのテカテカした内装が、自分のものになって、自分の手に馴染んて来たら、可愛くて仕方ないだろうと、夢にまで見るほどでした。
 山口百恵さんは、かつて、「緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ・・・」と歌って、子供心に真っ赤なポルシェの強烈な印象を残しました。かれこれ10数年前、アメリカ・サクラメントに住んでいた頃、真っ赤なポルシェのオープンカー(多分ボクスター)に乗って、サングラスをかけた金髪のショートヘアのお姐さんが、まさに緑の中を颯爽と走り抜けていくのが、カッコよかった。そんなこんなで、記憶が入り混じって、私の部屋には、MAISTOの1/24サイズのモデルが二つ、イタリアの玩具メーカーBBURAGOの1/43サイズのモデルが3つ、Matchboxのコカコーラ・モデルが一つ、更にミニカー5台、写真集が数冊。いつかよぼよぼのおじいちゃんになって、小金がたまったら、真っ赤なポルシェに乗るのが夢です。
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物へのこだわり(4)未知なるモノへ

2012-03-06 21:49:04 | 日々の生活
 前回のブログでは、鉄道への憧れは、異国の地からやって来て、異国の地へと運んでくれる、つまり異国の地へといざなう列車への憧れ、ひいては未知の世界への憧れに由来するのではないか・・・というようなことを書きました。
 未知のものへのチャレンジという意味では、大航海時代ほど、大きな意味をもった時代はかつてなかったことでしょう。何しろ、地図を頼りに・・・ではなくて、地図を描くために船出した時代です。今はGoogleで地球儀を眺めながら、どんどん絞り込んで行けば、居ながらにして特定の一軒家にすら辿り着くことが出来る時代で、私のようにアナログからデジタルへの過渡期を生きて来た人間には、途方もない革新が進行中に思えて仕方ありません。ところが地図がない時代に、地図を自ら作って、あるいは地図をなんとか手に入れて、場合によっては作った人から盗んでまでして(何しろ当時、地図は国家機密の扱いでした)、航海に乗り出した人たちは、冒険者と呼ぶには生易し過ぎる、命知らずの途轍もない無謀だったことでしょう。有名なコロンブスもまた、地図作成者であり業者でもあったようで、今では探検家、航海者、コンキスタドール(征服者)、奴隷商人などと、いろいろな呼び名を冠せられますが、端的に海賊と呼ぶのが相応しいように思います。
 海賊と言えば、出現した時代や場所によって、さまざまな呼称や形態があるようで、スペインの無敵艦隊を破ったイギリス軍の主力は海賊でしたし、東インド会社をマネージした人も海賊出身者が多かったと言われます。近代的な軍隊や資本主義の初期に海賊がいた・・・というのは、なかなか象徴的です。とりわけアングロサクソン的な資本主義の原初形態に海賊的な侵略性があったというのは、昨今の行き過ぎた金融資本主義を彷彿とさせて、なかなか興味深い。
 私もボストン時代、19世紀半ばのマサチューセッツ州やボストン界隈の古地図を購入したことがあります。そのくすんだ色合いといい、線のいい加減さといい、レトロな美しさに惹かれたからですが、当時の人々が認知する世界を同じように眺めながら当時に思いを馳せるのは、なかなかエキサイティングです。同じシリーズもの(所謂アトラスを切り離したもの)と思われる日本地図の、北海道はEzo(蝦夷)、九州と四国はそれぞれKyusyu(九州)とShikoku(四国)と呼ばれていたのに対して、本州はNipponと呼ばれていたのが、なんだか不思議な気がして、今もなお印象は鮮烈です。その地図の欄外にシーボルトの文字があったのは、彼が持ち出すことに成功した地図が参考にされたのかも知れないと思うと、益々、興味深い(当時、地図は禁制品で、海外に持ち出すことは大罪とされました)。いずれにしても、地図というモノへのこだわり、未知なるモノへのこだわりは、私だけでなく、今なお多くの人々の好奇心を惹きつけて止みません。
 しかし、そんな未知の世界を地図に描いた先に求めていたものは、実は黄金郷、つまり南米のエル・ドラードや、中国の桃源郷だったりします。人間のなんと欲深きことか。
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物へのこだわり(3)鉄子と空美

2012-03-03 13:32:16 | 日々の生活
 モノへのこだわりのついでに。
 初めて「鉄子さん」と聞いた時、黒柳さんのことを思い浮かべて戸惑ったのは私だけではないでしょうが、私の場合はほんの2~3年前のことでした。Wikipediaなどによると、漫画「鉄子の旅」(菊池直恵作、小学館「増刊IKKI」「月刊IKKI」に2002年から2006年まで連載)やら「女子と鉄道」(酒井順子著、2006年11月)などの書籍によって広く知られるようになり、2007年にはユーキャン新語流行語大賞にノミネートされたほどメジャーになって、海外生活をしていた私はすっかり取り残されていた・・・などと必ずしも言っていられないのは、さる漫画の読者ページから1990年代に既に「鉄子」と呼ぶ慣習があったことが知られており、俄かブームに見えて実は根強かったものと言えそうです。「鉄道ダイヤ情報」の読者ページには、女性投稿者限定の「鉄子の部屋」というコーナーがあるのは、いかにものネーミングですが、国土交通省も、鉄道ファン向け参加型ホームページ「鉄男・鉄子、みなさんの部屋」を開設するなど、ブームに乗った宣伝に余念がありません。子供が興味を持ったのをきっかけにはまる人を「ママ鉄」、その子供は「子鉄」、独身女性は「ソロ鉄」などと分類されるのは、ご存じの通り。
 最近は、「空美ちゃん」もいるのだと、今朝の報道番組で紹介されていて、驚かされました。「男性は飛行機のメカ(仕組み)にこだわるが、女性は容姿にこだわる」「形や塗装の良い機体を『かわいい』と感じる」というのは、女性らしい視点ですが、「旅立ちを感じさせる離陸シーンが好き」などと言われると、モノそのものへのこだわりもさることながら、飛行機なり電車や汽車なりが「旅」を連想させることが、人々の心を惹きつけてやまないこともあるようで、この点は、我が身を振り返って、大いに共感できるところです。
 「鉄子」の例で言うと、マニア度が低い「ソフト鉄」の範疇に入るのでしょう。ハードにモノにこだわるのではなく、サッカー好きの子供につられてサッカー好きになるように、鉄道好きの子供につられて期間限定で鉄道が好きになるような、また旅好きの女性が惹かれるようなケースです。私も、子供の頃は、近所の東海道線(と言っても長い路線なので、厳密にはJR京都線)に出掛けては、インスタント・カメラで通り過ぎる客車や貨物を撮影したものでした。うまく撮れるわけがないのに、うまく撮りたいという一心もあり、また通り過ぎる車両にそこはかとなく漂う旅情に感じ入るところもあり。経済的な理由で、電車の撮影を目的にした旅行は経験がありませんが、旅行した時には電車や車庫や線路や駅を撮影したものでした。ここまで来ると、モノよりもコトに惹かれていると言えるのかも知れませんが、その境界は甚だ曖昧で、人は多かれ少なかれモノに惹かれつつ、モノが背後にもつストーリーを愛しているものだとも思います。
 上の写真は、上野公園に行ったついでに駅付近で撮影したもの。ついでに撮影したというのは、柱や梁や電線が多く、場所を選ばなかったのが、その証拠。私が持っている鉄道写真は銀塩カメラによるものが殆どで、デジタル映像としては数少ないものの一つです。
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