日本が選挙で浮かれている頃、10月18日から24日まで中国共産党の党大会(第19回全国代表大会)が開催され、また閉会後の翌25日には1中全会(第19期中央委員会第1回全体会議)が開催されて、最高指導部となる政治局常務委員7人(所謂チャイナ・セブン)が選出された。「従来の『集団指導体制』を無力化して、『習一極の独裁体制』に踏み出した」(外交筋)とする見方が北京では支配的らしいが、なかなか懐が深い中国は一筋縄では行きそうにないように思う。
先ずは習近平総書記の3時間半に及ぶ政治報告が話題になった。文書にして3万2000字以上にも及ぶらしい。「新時代」という言葉が36回、「強国」「大国」という言葉が26回も繰り返され、もはや鄧小平が言った「韜光養晦」をかなぐり捨て、あからさまに「強国」「大国」を目指すことを宣言したものだが、ここ数年の態度を見れば別に目新しいことではない。むしろ、党の求心力を強め統治の正統性を主張する悲壮な決意を感じさせる。それは「安全」という言葉が55回も繰り返されたことにも表れているように思う。「社会矛盾が突出して、中国共産党体制は安全でなくなっている。大衆・公民が官僚や政府部門に対して大きな威圧感となっているので、これが彼らにとって強烈な不安感となっている」(人権活動家・胡佳のコメント、NYタイムズ紙)といった外野の声もある。大仰なものの言いは、政権基盤の強さを感じさせることを狙ったものには違いないが、却って足元の不安定さを感じさせる。
最大の焦点は、後継候補の人事だった。習氏の子飼いとされる陳敏爾・重慶市党委書記(57歳)や、共青団(共産主義青年団)出身の次期エースと目され胡錦濤前総書記が後ろ盾となっている胡春華・広東省党委書記(54歳)は、常務委員に昇格しなかった。つまり、ポスト習世代といわれる50代の政治家の名前が常務委員7名の中になかったわけで、習氏が慣例を破って二期目に続いて三期目も続投する可能性が高まったことになる。他方、過去5年間、党中央規律検査委員会書記として腐敗撲滅運動に辣腕を振るい、言わば習体制の権力基盤を固め、習体制の国民的人気を支えてきたチャイナ・セブンの一人、王岐山常務委員(69歳)の留任が叶わなかった。常務委員の68歳定年という慣例に従った形だが、これを見る限り、習氏の続投に疑問がないわけではない。
もう一つの焦点は、中国共産党の憲法ともいえる党規約に、毛沢東、鄧小平に続き、自らの名を冠した「思想」を盛り込ませたことだ。当初は「毛沢東思想」「鄧小平理論」に並ぶ「習近平思想」という5文字の文言を画策したらしいが、個人崇拝への反発があり、結果として「習近平新時代中国特色社会主義思想」という16文字で妥協せざるを得なかったという。しかしその実態は鄧小平が唱えた「中国の特色ある社会主義」の理論に「中華民族の偉大なる復興」という勇ましいスローガンを加えただけで、目新しさはないようだ。
こうした中国の5年に一度の一大イベントの過程で、BBCや英紙フィナンシャル・タイムズや米ニューヨーク・タイムズ紙を含むいくつかの国際的な報道機関は、人民大会堂での新体制発表の取材を認められなかったらしい。また、党大会最終日の模様を伝えるNHK海外放送のニュース番組の一部で突然、画面が真っ黒になり、放映が中断されたらしい。驚くことではない、日常茶飯事だが、何をかいわんや、である。習体制の「強国」は「教育強国」にも及び、「社会主義の価値観や伝統文化を重視する愛国的な教育を強化し、若者に共産党一党独裁への疑念を抱かせないことを狙った教育をさらに強めそう」(産経電子版)といことだ。
まったく、中国という国は、北朝鮮ほどではないにせよ、よく分からない国だ。習近平総書記に権力が集中するのは、恐らく中国共産党の総意であることは間違いない。良かれ悪しかれネットで自由が拡散する時代に、この一極集中の度合いは異様であり、裏を返せば、それほど中国共産党の統治の正統性が揺らいでおり、危機感を持っている証左だろうと、つい思ってしまう。習体制で国営企業の勢いが弱まることが期待されたが、皮肉にも却って強くなるばかりで、今後も党の経済活動への介入は強まりこそすれ弱まることはなさそうな状況は、日系企業にとってまことに不幸な話だが、その一つの現象である。前回ブログで、中国における政治エリートの選抜システムに触れたが、それは社会としての弱さの裏返しでもあろう。「習近平政権第二期は、共産党の大粛清時代の始まりであり、そして共産党体制の瓦解の始まりの時代かもしれない」とする報道があったが、まことに迷惑千万な話である。中国の隣に位置する地政学的な状況を恨みたくなる(韓国に言わせれば、島国で離れているからまだいいじゃないか、ということになるのだろうが)。
先ずは習近平総書記の3時間半に及ぶ政治報告が話題になった。文書にして3万2000字以上にも及ぶらしい。「新時代」という言葉が36回、「強国」「大国」という言葉が26回も繰り返され、もはや鄧小平が言った「韜光養晦」をかなぐり捨て、あからさまに「強国」「大国」を目指すことを宣言したものだが、ここ数年の態度を見れば別に目新しいことではない。むしろ、党の求心力を強め統治の正統性を主張する悲壮な決意を感じさせる。それは「安全」という言葉が55回も繰り返されたことにも表れているように思う。「社会矛盾が突出して、中国共産党体制は安全でなくなっている。大衆・公民が官僚や政府部門に対して大きな威圧感となっているので、これが彼らにとって強烈な不安感となっている」(人権活動家・胡佳のコメント、NYタイムズ紙)といった外野の声もある。大仰なものの言いは、政権基盤の強さを感じさせることを狙ったものには違いないが、却って足元の不安定さを感じさせる。
最大の焦点は、後継候補の人事だった。習氏の子飼いとされる陳敏爾・重慶市党委書記(57歳)や、共青団(共産主義青年団)出身の次期エースと目され胡錦濤前総書記が後ろ盾となっている胡春華・広東省党委書記(54歳)は、常務委員に昇格しなかった。つまり、ポスト習世代といわれる50代の政治家の名前が常務委員7名の中になかったわけで、習氏が慣例を破って二期目に続いて三期目も続投する可能性が高まったことになる。他方、過去5年間、党中央規律検査委員会書記として腐敗撲滅運動に辣腕を振るい、言わば習体制の権力基盤を固め、習体制の国民的人気を支えてきたチャイナ・セブンの一人、王岐山常務委員(69歳)の留任が叶わなかった。常務委員の68歳定年という慣例に従った形だが、これを見る限り、習氏の続投に疑問がないわけではない。
もう一つの焦点は、中国共産党の憲法ともいえる党規約に、毛沢東、鄧小平に続き、自らの名を冠した「思想」を盛り込ませたことだ。当初は「毛沢東思想」「鄧小平理論」に並ぶ「習近平思想」という5文字の文言を画策したらしいが、個人崇拝への反発があり、結果として「習近平新時代中国特色社会主義思想」という16文字で妥協せざるを得なかったという。しかしその実態は鄧小平が唱えた「中国の特色ある社会主義」の理論に「中華民族の偉大なる復興」という勇ましいスローガンを加えただけで、目新しさはないようだ。
こうした中国の5年に一度の一大イベントの過程で、BBCや英紙フィナンシャル・タイムズや米ニューヨーク・タイムズ紙を含むいくつかの国際的な報道機関は、人民大会堂での新体制発表の取材を認められなかったらしい。また、党大会最終日の模様を伝えるNHK海外放送のニュース番組の一部で突然、画面が真っ黒になり、放映が中断されたらしい。驚くことではない、日常茶飯事だが、何をかいわんや、である。習体制の「強国」は「教育強国」にも及び、「社会主義の価値観や伝統文化を重視する愛国的な教育を強化し、若者に共産党一党独裁への疑念を抱かせないことを狙った教育をさらに強めそう」(産経電子版)といことだ。
まったく、中国という国は、北朝鮮ほどではないにせよ、よく分からない国だ。習近平総書記に権力が集中するのは、恐らく中国共産党の総意であることは間違いない。良かれ悪しかれネットで自由が拡散する時代に、この一極集中の度合いは異様であり、裏を返せば、それほど中国共産党の統治の正統性が揺らいでおり、危機感を持っている証左だろうと、つい思ってしまう。習体制で国営企業の勢いが弱まることが期待されたが、皮肉にも却って強くなるばかりで、今後も党の経済活動への介入は強まりこそすれ弱まることはなさそうな状況は、日系企業にとってまことに不幸な話だが、その一つの現象である。前回ブログで、中国における政治エリートの選抜システムに触れたが、それは社会としての弱さの裏返しでもあろう。「習近平政権第二期は、共産党の大粛清時代の始まりであり、そして共産党体制の瓦解の始まりの時代かもしれない」とする報道があったが、まことに迷惑千万な話である。中国の隣に位置する地政学的な状況を恨みたくなる(韓国に言わせれば、島国で離れているからまだいいじゃないか、ということになるのだろうが)。