風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

中国のいま

2017-10-30 01:18:52 | 時事放談
 日本が選挙で浮かれている頃、10月18日から24日まで中国共産党の党大会(第19回全国代表大会)が開催され、また閉会後の翌25日には1中全会(第19期中央委員会第1回全体会議)が開催されて、最高指導部となる政治局常務委員7人(所謂チャイナ・セブン)が選出された。「従来の『集団指導体制』を無力化して、『習一極の独裁体制』に踏み出した」(外交筋)とする見方が北京では支配的らしいが、なかなか懐が深い中国は一筋縄では行きそうにないように思う。
 先ずは習近平総書記の3時間半に及ぶ政治報告が話題になった。文書にして3万2000字以上にも及ぶらしい。「新時代」という言葉が36回、「強国」「大国」という言葉が26回も繰り返され、もはや鄧小平が言った「韜光養晦」をかなぐり捨て、あからさまに「強国」「大国」を目指すことを宣言したものだが、ここ数年の態度を見れば別に目新しいことではない。むしろ、党の求心力を強め統治の正統性を主張する悲壮な決意を感じさせる。それは「安全」という言葉が55回も繰り返されたことにも表れているように思う。「社会矛盾が突出して、中国共産党体制は安全でなくなっている。大衆・公民が官僚や政府部門に対して大きな威圧感となっているので、これが彼らにとって強烈な不安感となっている」(人権活動家・胡佳のコメント、NYタイムズ紙)といった外野の声もある。大仰なものの言いは、政権基盤の強さを感じさせることを狙ったものには違いないが、却って足元の不安定さを感じさせる。
 最大の焦点は、後継候補の人事だった。習氏の子飼いとされる陳敏爾・重慶市党委書記(57歳)や、共青団(共産主義青年団)出身の次期エースと目され胡錦濤前総書記が後ろ盾となっている胡春華・広東省党委書記(54歳)は、常務委員に昇格しなかった。つまり、ポスト習世代といわれる50代の政治家の名前が常務委員7名の中になかったわけで、習氏が慣例を破って二期目に続いて三期目も続投する可能性が高まったことになる。他方、過去5年間、党中央規律検査委員会書記として腐敗撲滅運動に辣腕を振るい、言わば習体制の権力基盤を固め、習体制の国民的人気を支えてきたチャイナ・セブンの一人、王岐山常務委員(69歳)の留任が叶わなかった。常務委員の68歳定年という慣例に従った形だが、これを見る限り、習氏の続投に疑問がないわけではない。
 もう一つの焦点は、中国共産党の憲法ともいえる党規約に、毛沢東、鄧小平に続き、自らの名を冠した「思想」を盛り込ませたことだ。当初は「毛沢東思想」「鄧小平理論」に並ぶ「習近平思想」という5文字の文言を画策したらしいが、個人崇拝への反発があり、結果として「習近平新時代中国特色社会主義思想」という16文字で妥協せざるを得なかったという。しかしその実態は鄧小平が唱えた「中国の特色ある社会主義」の理論に「中華民族の偉大なる復興」という勇ましいスローガンを加えただけで、目新しさはないようだ。
 こうした中国の5年に一度の一大イベントの過程で、BBCや英紙フィナンシャル・タイムズや米ニューヨーク・タイムズ紙を含むいくつかの国際的な報道機関は、人民大会堂での新体制発表の取材を認められなかったらしい。また、党大会最終日の模様を伝えるNHK海外放送のニュース番組の一部で突然、画面が真っ黒になり、放映が中断されたらしい。驚くことではない、日常茶飯事だが、何をかいわんや、である。習体制の「強国」は「教育強国」にも及び、「社会主義の価値観や伝統文化を重視する愛国的な教育を強化し、若者に共産党一党独裁への疑念を抱かせないことを狙った教育をさらに強めそう」(産経電子版)といことだ。
 まったく、中国という国は、北朝鮮ほどではないにせよ、よく分からない国だ。習近平総書記に権力が集中するのは、恐らく中国共産党の総意であることは間違いない。良かれ悪しかれネットで自由が拡散する時代に、この一極集中の度合いは異様であり、裏を返せば、それほど中国共産党の統治の正統性が揺らいでおり、危機感を持っている証左だろうと、つい思ってしまう。習体制で国営企業の勢いが弱まることが期待されたが、皮肉にも却って強くなるばかりで、今後も党の経済活動への介入は強まりこそすれ弱まることはなさそうな状況は、日系企業にとってまことに不幸な話だが、その一つの現象である。前回ブログで、中国における政治エリートの選抜システムに触れたが、それは社会としての弱さの裏返しでもあろう。「習近平政権第二期は、共産党の大粛清時代の始まりであり、そして共産党体制の瓦解の始まりの時代かもしれない」とする報道があったが、まことに迷惑千万な話である。中国の隣に位置する地政学的な状況を恨みたくなる(韓国に言わせれば、島国で離れているからまだいいじゃないか、ということになるのだろうが)。
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選挙ごっこ

2017-10-29 00:23:09 | 時事放談
 私が選挙なるものに目覚めたのは、小学校5年生のときだった。
 その前の4年生の後期に、同級生の一人に応援演説を頼まれた。その友人は宮崎君といい、当時から家庭教師について勉強がよくできて、だからと言って鼻持ちならない優等生ではなく、むしろ人当たりが良くて好かれるタイプで、お母様の志が高かったのだろう、息子をこの若さにして児童会に立候補させたのだった。児童会は、会長、副会長、会計、書記2名の計5名で構成され、狙ったのは若年層にも参入しやすいと思われた書記というポジションだった。他方、私は天真爛漫な野人で、家庭教師など縁もゆかりもなかったが何故か勉強はできて(と自慢するつもりはないが 笑)、周囲からは強力な二人のタッグを歓迎され、児童会なんぞ全く関心がなかった私もなんとなく引き受けざるを得ない状況に追い込まれた。ある友人は、これで私が立候補できなくなった、私を立候補させないために応援演説に指名したのではないかと陰口を叩いたが、小学校4年生にしてはマセた分析である(笑)。二人して頑張ったが、案の定、落選した。所詮、児童会は6年生の独擅場である。
 翌5年生になって、宮崎君とはクラスが分かれ、選挙になんとなく興味を持った私は野次馬根性で書記に立候補し、彼とも争ったが、6年生の壁は厚く、二人揃って落選した。ところが後期に異変が起こる。その若年層にも参入しやすいと思われた書記の一角に、何年か振りで5年生の分際で私が食い込んだのである。児童会役員の先輩方からは、名前に引っかけて「小僧」と呼ばれて可愛がられた(遊ばれた)。
 そしていよいよ6年生の前期、4クラスそれぞれから会長への立候補があり、クラスの名誉を賭けた(!?)ガチンコ勝負は、既に知名度抜群(?)の私が圧倒的強さで当選し(史上最多得票だったと後から教師に教えられた)、廊下で胴上げされ感涙にむせぶほど盛り上がった。手書きポスターを工夫し、応援演説の相棒は、お世辞にも勉強はできないけれども明るく物おじせず各教室を回っては私の名前を連呼するような破天荒に元気のいい笠松君に頼んだ。今、思い出しても、なかなか戦略的な選択である(笑)。因みに後期は小田さんという女性が会長に当選し、可哀想だったが宮崎君は敗れ続けた。
 恐らく社会で最も小さな、初歩的で幼くてカワイイ選挙だろう。日本で選挙と言えば伝統的に三バン(地盤=組織、看板=知名度、鞄=カネ)が重要だと言われ、ガキの選挙に札束は要らないが、地盤と看板が必要だとの認識は小学生にもある(笑)。そして選挙なんぞ人気投票に過ぎないことも肌で知っている。しかし、生徒の自治はバックに教師がいて限定的であり、児童会にしても選挙にしても所詮は「学習」の一環、ぶっちゃけた話「ごっこ」遊びの一つに過ぎない。
 前置きが長くなったが、今回の衆議院議員選挙から一週間経って冷静に振り返ると、野党の動きはなんとなくこの「ごっこ」遊びに見えてしまう(苦笑)。初歩的で幼くてカワイイ。もっともガキの選挙と違って三バンは必要だろう。しかし同じように人気投票だ。最大の違いは、バックに教師はなく、政治のプロとして、国民の負託を受けて国政を運営する責任を負う。とりわけ衆院選挙は政権選択選挙であり、既存政権の信任を占うものになる。それなのにドタバタが続き、厳しい安全保障環境と好景気の経済情勢に助けられ、安倍政権が信認された。注目すべきは投票率であり、私は以前から投票率を全ての政治家を評価する際のKPIの一つにすべきだと思っているが(苦笑)、53.68%と、台風に見舞われたとは言え、前回に続く史上二番目の低調さだった。政治不信は政治家不信でもあり、政治家を如何に養成するかが日本の政治の課題のように思う。
 そんなことをふと思ったのは、折しも隣の中国では5年振りの党大会と中央委員会全体会議(中全会)が開催され、日本のドタバタとは好対照に、実に整然かつ厳格に政治エリートが選抜されていたからだ。現在8940万人と言われる共産党員になるためには、人格・業績ともに優秀でなければならない。その中から2300人の党大会代表が北京の人民大会堂に集まり、投票によって約200人の中央委員と約100人の中央委員補が選ばれる。その翌日、開催される中全会で中央委員によって25人の政治局員が選ばれ、更にその中から最高指導部である政治局常務委員会委員(常務委員)7人が選ばれる。所謂チャイナ・セブンだ。習近平「総書記」はこの集団指導体制の「議長」の意味で(一人で責任を負う「主席」とは重みが違うが)、見事なまでのピラミッド構造は、好き・嫌いは別にして、迫力がある。
 イギリスのように階級社会だった国では、かつて貴族の子弟が帝王学を学んだケンブリッジ大学やオックスフォード大学といった名門大学から、保守党や労働党は優秀な学生をリクルートし、政治家として養成していくシステムがあるようである。
 片や日本では優秀な学生は官僚になる。せいぜい、かつての自民党の派閥が若手政治家を養成する機能を担っていたが、派閥政治のイメージが地に堕ちて、今では崩壊寸前になってしまった。つまり日本には政治家を養成する制度的枠組みがないのだ。ぽっと出のキャスターや弁護士あがりに勤まるほどヤワな職ではないし、松下政経塾がその役割を担えているかどうかも、その出身者を見る限り疑問だ。各政党は足の引っ張り合いにうつつを抜かし、離合集散を繰り返すのではなく、有権者が投票したくなるような候補者を養成し立候補させて欲しいものである。企業は人だと言う以上、政治も人だ。誰がなっても同じだと言って済むような時代ではないと思うし、そうだとすれば政治も有能な人を惹きつける魅力ある職にする必要があるように思う。
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156万ドルのチップ

2017-10-25 23:08:53 | 日々の生活
 アインシュタイン博士が残した2枚の手書きメモが競売にかけられ、驚きの156万ドルと24万ドルで落札されたという。
 そのメモは、ノーベル賞を受賞した翌1922年に来日して帝国ホテルに滞在した際、メッセージを届けに来た日本人配達人にチップ代わりに渡したもので、ホテルの便箋を使ってドイツ語でそれぞれ「静かで節度のある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」「意志あるところに道は開ける」と書かれたものらしい。出品したのは配達人の親族だそうで、当時、アインシュタインは配達人に「あなたが幸運なら、これらの紙は通常のチップよりずっと価値があるものになるだろう」と語ったといい、現実化したのはともかく、まさか1億8千万円の価値になろうとは思ってもみなかっただろう。
これを読んで思い出したのは、ピカソにまつわるエピソードだ。レストランでピカソを見かけた婦人が「お礼はするので絵を描いて貰えないか」と頼みこんだところ、紙ナプキンにさらさらっと30秒足らずで描きあげた絵に「代金1万ドル」と吹っかけられて、「30秒もかかっていないのに!?」と驚くと、ピカソは「いや、この絵が描けるようになるまで40年と30秒かかっているのだ」と悠然と答えたという。よくできた作り話だ。
 たかがメモ書きの汚い文字でも、紙ナプキンに殴り描きされたスケッチでも、希少性に目がくらみ、芸術性に値段はあってなきが如しで、その価値を求める人の欲望が決めることだ。三島由紀夫や永井荷風といった人気作家の署名入り古本が300円じゃなくて10万円で取引されるのも同じことだし、テレビショッピングで番組終了後30分以内に受付ける特別価格というのも、パチンコ屋に(実は毎日)「本日開店」と花輪が飾られるのも、同じ理屈だ。
いやはや、人間は欲深いと見るか、付加価値に可能性を見出すか。
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宴のあと

2017-10-24 02:29:21 | 時事放談
 蓋を開けたら、自民党は公示前勢力をほぼ維持する284議席、公明党と併せて改憲発議に必要な3分の2に相当する310議席を僅かに超える313議席を獲得し、盤石だった。もっとも日経記者の振り返り記事を読んでいると、安倍首相周辺の話として、希望の党への民進党合流は想定外だったし、希望の党が民進党を丸ごと呑み込む観測が出ると、首相は「信じられない」と眉をひそめ、首相官邸には悲観的な空気が漂ったらしい。言わば電撃解散することによって野党の焦りを誘い、焦った野党が結束するとの観測によって却って自民党が良い意味での緊張感を保ち、しかし小池都知事の失言もあって野党の足並みが乱れることで、自民党を利するに至った・・・ということか。
 結果だけ見れば、昨年の英国BREXIT国民投票や米国大統領選挙、また最近のフランス、ドイツ、オーストリアの選挙結果と比較して、日本の政治の安定は際立っている。朝日・毎日・東京三紙やその系列テレビ局からさんざん「もり・かけ」疑惑を糾弾されながら、大したものである。もっともこうした海外主要国の政情不安を見て日本国民は安定を求めたとも言えるし、「北朝鮮の核開発など不安定な国際情勢の中で、自民党以外に信頼できる政党がなかった」(英ガーディアン紙)あるいは「北朝鮮の脅威が安倍首相を『救った』」(韓国・中央日報)などと言われるような安全保障環境が追い風になっているのは間違いないし、古くは民主党(当時)の「政権交代。」に対する国民の失望が今なお尾を引き、野党(反自民)が党勢を回復出来ていないことにも助けられているのだろう。現に、2012年、2014年、そして今回と、過去三度の選挙で、与党(自民+公明)の獲得議席数は殆ど変わらず、あくまで野党同士が潰し合い、2012年のときの民主党(57)、日本維新(54)、みんな(18)、日本未来(9)、共産(8)といった内訳が、今回、立憲民主(公示前15→55)、希望(同57→50)、共産(同21→12)、維新(同14→11)という分布に変わっただけである。
 このあたりは共同通信の出口調査にも表れていて、無党派層の内、過去三回の選挙で与党(自民+公明)への投票率は殆ど変わっていない。
 朝日新聞デジタルは、今回の衆院選を、政権批判票の受け皿となる野党が分散したのが大きな特徴と総括し、全289選挙区の内、78%の226選挙区で「野党分裂型」となり、与党183勝、野党43勝と与党側の大勝に終わったと振り返っている。現象としてはその通りだろう。だからと言って、もし「立憲民主、希望、共産、社民、野党系無所属による野党共闘」が成功していればという仮定のもと、これら選挙区で野党系の得票を単純合算すると、63選挙区で勝敗が入れ替わり、与党120勝、野党106勝になっていたはずだと、負け惜しみの分析をするのは如何なものか。まるで各政党の違いを超えて「野合」を煽るかのような想定は奇異だし、「野合」の一党が同じ支持を集められるか疑問だし、実際に過去に野党が一枚岩になったこともない、ちょっと現実的ではない恨み節だ。「反・自民」、「安倍政権打倒」のためにはなりふり構っていられないということだろうか。なんだか対立を煽るばかりで空しくなる。
 今回の選挙でも、まともな政策論争はなかった。急ごしらえの希望の党のベーシックインカムとか内部留保課税といった雑な議論にはとても信頼を寄せるわけにはいかなかった。選挙戦術としてどの党もバラマキを言うばかりで不毛だった。安倍首相にとって残り1年の任期を4年に更新することが出来てよかったと言えるのかも知れないが、野党のメンツが多少は変わったくらいで対立の構図は変わらない、ということは、また論争にならない非難合戦や印象操作が蔓延るのだろうか。このために700億円とも800億円とも言われる大金が費やされたのかと思うと、なんだか空しくなる。せめて、後から振り返って、あのとき解散・総選挙をしていてよかったと言えるような状況になればよいのだが・・・いやそんな緊迫した状況が来ても困るのだが・・・
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ゆりこはゆりこでも・続

2017-10-22 17:42:00 | 時事放談
 折角なので、立憲民主党にも触れておきたい。昨日のブログの議論から「排除」したのは(笑)、枝野幸男氏が「私はリベラルであり、保守である」などと、政治スタンスを説明するのに独自の紛らわしい言い方をして混乱させるからだ。枝野氏やそこに集まる面々は、「保守」の小池氏から排除されたように(日本的な意味での)「リベラル=革新」と見られており、「保守」ではないが、何故そんな世間の評価に盾突いて、しかも対立する概念を取り込んで敢えて人々を煙に巻くのだろうか。二つ問題があるようだ。
 一つは、枝野氏が言う「リベラル」は、今日の日本的な意味ではなく、本来の欧米的な意味でもなく、彼独自の解釈で雑に扱われている。HUFFPOSTに掲載されたインタビューによると、「そもそも概念論として、リベラルと保守は対立概念ではない。かつての(自民党の)大平正芳さんや加藤紘一さんは『保守だけどリベラル』と言っていました。あえて言うと、私の立ち位置はその辺だと思います」と、大平さんの時代=冷戦時代の「リベラル」概念?を持ち出してくる。ではその「リベラル」をどう定義するかと問われて、「多様性を認めて、社会的な平等を一定程度の幅で確保するために、政治行政が役割を果たすという考え方です。これは、かつての自民党そのものです。だから、保守とリベラルは対立しないんですよ」などと彼独自の解釈を加えて、紛らわしい。
 もう一つ、枝野氏が言う「保守」は、同じインタビューの中で「歴史と伝統を重んじて急激な変化を求めない。積み重ねた物を大事に、ちょっとずつ世の中を良くしていく考え方ですよね」と答えているのは、まあいい。そして今の自民党は「保守」かと聞かれて、「安倍さんの自民党は保守ではないですよ。これこそ、革新ですよ。申し訳ないけど(自民党の)安倍さんも(希望の党の)小池さんも保守ではない」と言われると、またしても混乱する。枝野氏が大事にしたい「保守の伝統」を問われて、「『和を以て尊しとなす』。まさに日本の歴史と伝統といったときに、一番古い、そして一貫している日本社会の精神です。『和を以て尊し』だから、多様性を認めているんですよ。日本は数少ない多神教文明ですからね。唯一絶対の価値ではないんです。日本社会は、もともとリベラルなんです」とも答えて、分かったような分からないような話になる。ポイントは何を「保守」するか、端的にどの時代の日本を「保守」するかの違いだろうと思う。枝野氏の主要な政策主張(護憲や反・安保法制)と突き合わせて考えれば、彼が守りたい日本は、戦後70年に積み重ねられた護憲を基礎とする(今日の日本的な意味での)「リベラル」な時代のようだ。他方、安倍氏の自民党が守りたい、あるいは取り戻したい日本は、GHQ改革によって骨抜きにされ、沖縄の米軍基地をはじめとして、今なお占領統治が続くかのような戦後を克服した、自主独立で誇りある「普通の国」としての日本であろう。歴史観の違いが絡むが、「保守」政党である自民党が、現行憲法改正を唱えるという、一見、矛盾した綱領をもつのは、日本の置かれた特殊事情による。そのため枝野氏の目には、安倍政権の進む方向が戦前の軍国主義復活と映り非難の対象となるのだろう。
 枝野氏ご本人は「リアリスト」を自任されるが、先ずは理念として、それぞれの時代背景の違いを現実的に明確に捉えられておらず、環境認識に甘さがあるように思うし、次にそれに応じた現実的な政策課題についても、時代毎に難しさがあると思うが、それが彼からは感じられない。明治という帝国主義の時代背景のもとで埋没することなく欧米にキャッチアップするために欧化の涙ぐましい努力を重ねた時代(その果てに欧米との衝突の大東亜戦争があった)に比べ、戦後は米ソが対峙し核戦争の恐怖に怯える高度の緊張のもと、日本は却って戦争に巻き込まれずに平和でいられるという逆説的な状況にあり、戦後復興から高度経済成長を遂げる時期とも重なり、誰もが豊かさを実感できるいう、ある意味で日本史上まれに見る幸運な時代だった。戦争を多少なりとも経験し戦後の「民主的」教育を受けた高齢者世代にとって、それを懐かしみ大切にしたい気持ちは良く分かるし、枝野氏の訴えに一定の効果があるのも認める。しかし冷戦が終わってイデオロギーの軛を離れ、グローバリゼーションが進展するや民族主義が勃興し、お隣では中国という異なる国家観や秩序観をもつ国が経済大国のみならず政治・軍事大国としても台頭し、ポスト・モダンから逆行するような難しい時代に入った。中国共産党大会の習近平演説を聞いていると、これから今世紀半ばに向かって米中が緊張し、国際情勢は益々不安定化するのは明らかだが(中国が分裂でもしない限りは)、そこで今の憲法を堅持し一国平和主義を貫けるとするのはナイーブに過ぎるように思うし、もとより日本が軍事大国化する必要はないしその財力もないが、それだけに、力による現状変更を厭わない相手に、欧米的な自由・民主的な価値観だけで欧米及び近隣アジア諸国と連携しつつ平和的に対抗していくのはそう生易しいことではない。そんな環境のもとで日本人の安全と暮らしをどう守っていくのかという観点から、枝野氏の話を聞く限り、観念的でレッテル貼りの議論(これはかつての左翼のお家芸だ)に終始し、とてもリアリストとは思えない。
 八幡和郎氏は、立憲民主党の面々を見たある人が「菅内閣残党」だと形容された話を引用されていた。当時、菅直人首相(今は最高顧問)、枝野幸男官房長官(代表)、福山哲郎官房副長官(幹事長)、辻元清美総理補佐官(政調会長)、長妻昭厚労大臣(代表代行)・・・八幡氏は、この中の一人と福島原発への対応について話したとき、ヘリコプターで福島へ飛んで現場で問題に取り組んだことを正しかったと胸を張っていたことを思いだし、その学習能力のなさを心配されている。有権者たる日本国民はそれほど忘れっぽいことはあるまいとも思うが、どうも世論調査を見ていると些か心許ない。先日、菅元首相の演説に通りがかったが、前回の選挙のときよりも明らかに人だかりがあった。
 アメリカでも、リベラル(=民主党)や保守(=共和党)の支持者はせいぜい各3割で、今や無党派層が4割と最大派閥になっているようだが、日本でも、第二次安倍政権以降、自民と反自民がそれぞれ4割弱と2割強で、無党派層が4割と最大派閥になっている(Real Politics JapanのPML Indexなどを見ていると)。この無党派層が、比例代表でどんな投票行動を示すか、議席シェアという結果だけでなく、投票率そのものや、希望や立憲民主の支持率など、興味深いところだ。
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ゆりこはゆりこでも

2017-10-21 11:01:39 | 時事放談
 「石田ゆり子(48)が、すごいことになっている」とは、産経電子版による。「男女を問わず人気を広げて、ドラマやCMにひっぱりだこ。“ゆり子バブル”が到来したといっても過言ではないだろう」とまで言われている。昨年のTBS系「逃げるは恥だが役に立つ」に出演して以降、いまや癒やし系女優の代表格となり、男性が、と言うより、女性が支え、しかも20~40代と幅広い層で人気を得ているのだという。「肩肘を張らない自然体の様子が、こうした女性たちにとって憧れの存在」(広告代理店関係者)になっており、実際のところ、インスタは110万のフォロワーがいるほどの人気ぶりで、「すっぴんに近い自然体の石田や、一緒に暮らす犬やネコの写真が多く、男性ファンを意識した投稿は少ないほうです。むしろ、石田が着こなすファッションに注目する女性の書き込みなどが多いのも特徴」(芸能サイト編集者)ということらしい。ほほう。
 もう一人のゆりこと言えば、ユリノミックスなる造語まで生まれた小池都知事だ。こちらも、逆の意味ですごいことになっている(ようだ)。一時期は、救世主の如くもてはやされ、それこそ「百合子バブル」が到来し、心ある自民党の心胆を寒からしめたはずだったが、いつの間にかバブルははじけてしまった。このあたりの動きは、ツイッターの時代になって加速しているように思う。百合子さんにとって、自民党は大悪党、民進党は小悪党だったようで、私もそれに異存はないが、その小悪党を懲らしめたつもりの「排除」発言によって、もともと売りにしていた権力に立ち向かうイメージが、権力側に立つ悪代官(ヒール)のイメージに変わってしまったのだろうか。いったん逆回転を始めた歯車は、今どき、あらぬものまで巻き込んで加速する。私自身は、政党である以上、理念を同じゅうする人たちが結集するのが当たり前と思っているが、民進党左派を「排除」した仕打ちは底意地の悪さ(飽くまでイメージだが)と受けとめられ、都政では見るべき成果がなくパフォーマンスだけというイメージも呼び覚まされ、さらにかつて「政界の渡り鳥」と呼ばれた計算高さまでほじくり返されて、爽やかさを際立たせんとするイメージカラー黄緑色の衣装では隠しおおせなくなってしまったように見える。東京都議会議員選挙で奏功した追い風がそのまま吹き続けることを期待し、都知事のまま国政の政党(希望の党)の代表を引き受け、衆院選の勝負に打って出たのだったが、風は立憲民主党にさらわれてしまった。ドタバタ劇で沈んだだけだという言い方でもいいが、背景に、どうも世論の読み違えというか国民性への誤解があったように思う。
 党を立ち上げ、「改革保守」という矛盾した用語を組み合わせてまでして「保守」を標榜し、ヌエの如き民進党を「選別」し整理したとき、自民党や民進党といった既存政党に飽き足らない「保守」層を取り込めると踏んだのは間違いないだろう。実際、シルバー民主主義のもと、無党派層のかなりの部分を「保守」化した若者が占めていると誤認しても止むを得なかったと思う。しかし若者は必ずしも「保守」化したわけではなさそうで、左傾化した既存メディアしか見ない高齢者層と違って、専らネットに依存する彼らは左傾化した既存メディアに毒されていないだけのようだ。その証拠に、若者ほど中国への親近感は高いというデータがある(意外な話だが、飽くまで相対的に、と言うべきもので、国民全体では過去20年間、史上なかったほどまで親近感は低下しているのだが)。それはともかく、百合子さんが「保守」を標榜したからと言って、民進党を超え、消極的に自民党を支持する「保守」層を味方につけ、あるいは(野党を支持しないと言う意味では「保守」的だが自民党を積極的に支持したくないと思っているはずの)無党派層を取り込めると想定していたとすれば、誤りではなかったかと思うのだ。自省もこめてそう思う。
 国民は、信頼できる「保守」を求めているのではなく、単に自民党に飽き足らず、その受け皿を求めているだけなのではないかと思うのだ。それは2009年の「政権交代。」がそうだったし、これに懲りてその後しばらくは自民党に回帰したが、またぞろ「安倍一強」「反・安倍政治」といった左傾メディアの政治宣伝にほだされて、自民党以外の受け皿を求める今もそうだ。そのときに、「保守」が旗印でなくても構わなくて、およそ政策の傾向や政治信条で選んでいるわけではなさそうなのは、結果として「排除の論理」を振りかざしてネガティヴなイメージで傷ついた百合子さんが支持を失って、民進党左派と言われた所謂護憲派の立憲民主党が代わって支持を得ている現象からも裏付けられる。
 どうも日本は欧米と違って、「リベラル」と「保守」といった区分が馴染まないようだ。そもそも「リベラル」の定義自体が欧米とは異なっていて、私もこのブログで「リベラル」と言うときは日本的な意味での「リベラル」、すなわち冷戦時代の左翼や左派や進歩派や革新であり、冷戦後の護憲派の意味で使っており、欧米での本来的な意味での「自由主義と進歩主義のコンビネーション」(三浦瑠麗さん)ではない。「歴史的に見たリベラルの出発点は、王や貴族に対するブルジョアジーの反抗であり、自分たちが正当な競争で得た財産をお上から守ろう、という私有財産制の主張です。その上で、世界の変化に際し進歩を担う側と、暴力的変革を忌避して押し戻そうとする側に分かれ、それがリベラル対保守の構図になった」(同)ということだ。確かに、この観点での日本と欧米とりわけ英国との歴史的な相違は明確で、イギリスの王は征服者・支配者といった「権力者」として君臨し、ブルジョアジーをはじめとする反抗があって、「支配」「被支配」の対立の構図が続く中で民主主義を発展させていくことになるのだが、日本で王と言えば、かつて民家のカマドから煙が立ち上らないのは炊くもの(食べるもの)がないからではないかと民衆の生活を気遣ったとかいう仁徳天皇に象徴されるように、民衆の側に立つ「権威者」に過ぎない。天皇・貴族の政治が天皇の支持を得た幕府政治へと受け継がれ、武士という「権力層」が出現したが、「自由」を求めて立ち上がるといった国民的な経験はない。
 それにつけても思い出すのは、大学に入学したての頃、北海道出身で寮に住むクラスメイトが、寮の自治闘争のために英語の講義(授業)を乗っ取ったときのことだ。教授もものわかりがよくて、文句を言うわけでもなく、講義は流れてしまった。それ自体も驚きだったが、まあそこには最初の二年間の教養課程を重視しない(ある意味では身勝手な)学生の根強い伝統があるからよしとしよう。むしろそのクラスメイトが「自由は勝ち取るものだ」と演説をぶったことに違和感を覚えたのだった。それは欧米の歴史の請け売りであって、日本の歴史ではない。そんな彼も今はのうのうと厚生労働省の役人をやっている(笑)
 日本ではなかなか政策論争にならなくて、単に「反」安倍とか「反」安保法制とか「反」改憲にとどまって、なんとなくそれでよしとする雰囲気があるのは、そんな日本の歴史に根差すような気がするのは、独断に過ぎるだろうか。こうして百合子さんは政治心情的に近い自民党ではなく敢えて政権交代可能な新しい「保守」を唱えた新党を立ち上げて、その主張(それ自体はさしたる訴えにならなかった)ではなく単なるその手段によって自滅した、ように見える。そしていつの間にか百合子さんの口から天下国家論が聞かれることは少なくなり、代わって「モリ・カケ」非難が増えているようだ。寂しい限りの選挙戦の一風景だ。
 明日の投票日には台風が接近する。伝統的に悪天候や逆に行楽日和は固定票をもつ共産党や公明党やかつての自民党が有利とされたものだが、期日前投票も増えるご時勢、どこにどう影響するものだろうか。
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選挙戦終盤

2017-10-18 00:56:29 | 時事放談
 ちょっと意外な展開になってきた。小池都知事が率いる希望の党が下馬評とは裏腹に失速しつつあるのに対し、希望の党から「排除」されたはずの民進党の残党である立憲民主党が意外にも健闘して野党第一党に手が届くかも知れないといい、こうして野党が共闘できずに票が割れる選挙区で漁夫の利を得る自民党が、内閣支持率が下落傾向にあるにも係わらず、単独で300議席をうかがう勢いだと(左の朝日からも右の産経からも)報じられている。小池都知事の実力を伴わないスタンドプレイが嫌気されてさすがの神通力も翳っているのか、一部の民進党出身者が馬脚を露わし明暗を分けているのか・・・。
 希望の党の失速については、小池都知事が民進党の全ての政治家を受け入れる気持ちは「サラサラない」とか一部の左派を「排除する」などと言ったことへの反発があるからだとか、更にはそのときの小池都知事が「上から目線」に見えたのが嫌気されたからだとか、党代表ながら出馬を見送ったことも失望されたからだ、などともっともらしく解説されるが、俄かに信じ難い。勿論、かつての民進党候補者に刺客をぶつける(しかし自民党でもお友達の石破茂氏や野田聖子氏の選挙区には候補を立てないといった)イジワルなところも含めて、小池都知事のイメージが多少なりとも悪くなったのは事実だろう。朝日新聞と東大・谷口将紀研究室が、希望の党の公認候補に対して実施した調査によると、小池都知事が「踏み絵」を迫った安保関連法に関して、民進党からの合流組以外では69%が「評価する」「どちらかと言えば評価する」という(希望の党の看板通り)評価寄りの立場だったの対し、合流組で評価寄りだったのは僅か10%に留まり、71%が「評価しない」「どちらかと言えば評価しない」と答えて否定的な立場を示したという。すなわち、前原氏が安倍政権打倒のため「名を捨てて実をとる決断」と語ったように、「小池マジック」の再来を頼りに、民進党からの合流組は変節したと言うよりも(それも信頼を失う話だが)、本心を偽って長いモノに巻かれただけで、実は政治信念は変わっていないという、そのご都合主義が、有権者から見透かされて見放されたのではないかと思う。自らのブログで白状する人も出て来ているようだ。
 他方、立憲民主党については、その獲得議席や比例得票率がいかほどか、最近の日本人のリベラル度数みたいなものが測れるので、私はちょっと楽しみにしているのだが、長いモノに巻かれることなく、かつての民進党時代の節を曲げなかったことが有権者から好感されたように思う。このあたりは、石原・元都知事が昨日、思想的には対極にある枝野幸男氏について「今度の選挙では候補者たちの卑しい人格が透けて見える。戦の前に敵前逃亡、相手への逃げ込み、裏切り。まるで関ケ原の合戦の時のようだ。その中で節を通した枝野は本物の男に見える」と投稿したのが話題になった(まあその限りにおいては認めないわけではないが、なにしろ政治信条が違うからなあ)。結果として、かつての民進党への支持は希望の党ではなく立憲民主党に流れている構図ではないだろうか。
 安倍内閣の支持率がまた下落傾向にあるのは、野党候補者が盛んに大義なき解散や加計疑惑隠しを叫び、その声をマスコミが拾って、国民の忌まわしい記憶が蘇っているせいだろうか。安倍外交はアメリカべったりで見苦しいところがあるが、リベラルな国際秩序を守るためにアメリカを繋ぎ留める役割を担っている点では重要だし、キナ臭い朝鮮半島情勢や不気味な中国の存在感を思えば、当面は(日本が軍事的に自立できない以上)気紛れなアメリカ(と言うよりトランプ大統領ご本人)の機嫌をとるしかない(その点で安倍さんには安倍さんならではの余人を以て代えがたいところがあるように思う)。景気は、世界的にも良いからと言ってしまえばそれまで。末端まで恩恵が行き渡っていないといった批判があるが、これほど多様化した社会であれば濃淡も出てくるだろうし、全般的に緩やかな回復基調にあって国民に余り実感がないかも知れないがそれほど大きな不満もないのではないだろうか。他方、社会保障や子育て・教育、そして成長戦略には大いに不満だが・・・概ね野党の混乱に助けられて支持を集めやすいのだろう。
 「永田町の内側の事情、政治家の事情より大事なことがあるだろう。国民の皆さんに『受け皿を作れ』と背中を押していただいた」と訴えた枝野幸男氏にせよ、「北朝鮮情勢? そもそもこんな時期に衆院解散するなよ、という話だ。よほど不都合なことを隠したいのでないか。このまま『安倍1強』政治を許すのか否か」と訴えた小池都知事にせよ、実質的に2009年の民主党「政権交代。」と変わらなくて、所詮、選挙なんて、実のある政策論争など期待出来なくて、人気投票に過ぎないのは分かっているのだけれども、「状況」を訴えるばかりで「中身」がない。それでも選挙はミズモノで、あと数日の間に無党派層がどう動くのか、大勢は決まりつつあるとは言え最後のところで結果は読めないから、やっぱり選挙は面白い。
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ゲバラの見果てぬ夢(下)

2017-10-16 02:13:48 | 日々の生活
 チェは異邦人戦士であることを自覚していた。キューバ革命政府では人材不足という厳しい現実があり、フィデルに乞われれば一定期間留まらざるを得ないと覚悟していたが、権力に興味はなく、いつ自由になれるかが問題だったようだ。ソ連を中心とする共産主義社会の連帯にも、分業という美名の下に貧富の差が固定化され、資本主義経済に似た覇権主義的構造にある(それでも貧しいキューバはソ連に頼らざるを得ない)ことに絶望し、高い理想と裏切られた現実のはざまで、祖国・アルゼンチンの解放という見果てぬ夢に向かって、予備演習的なコンゴ遠征に続き、ボリビアでの反帝国主義闘争へと、ゲリラとして死ぬことを半ば覚悟し半ば夢見つつ、自らを追い込んでいく。
 キューバを出て行くチェの心情について、米国人ジャーナリストで作家のIF・ストーンは、サルトル夫妻がチェに会ったのと前後してキューバを訪問し、回想記の中にしたためている。「チェは単に男前というだけでなく美しいと私が感じた最初の男だった。縮れた赤っぽい髭の彼は、林野牧畜の神ファウヌスと、日曜学校で配られるキリストの複製画の交じり合ったような風貌だった。私を最も驚かせたのは、彼が突然手にした権力によって変わりもせず腐敗もせず中毒にも罹っていない事実だった。彼の発言には共産主義の陳腐な言葉はなかった。米国人記者が感じ取るべきは、彼の抱く深い対米不信だろう。その理由はいろいろあるが、彼は、米国を西半球(米州)での競争相手と見做しているアルゼンチンの市民なのだ」「チェは癒されたいという気持ちを醸し、人はチェに苦しむ者への同情を感じ取るだろう。彼の政治的関心はメキシコからアルゼンチンまでのアメリカ(ラテンアメリカ)にあった。我々米国人が自国を指して〈アメリカ〉と言うときに忘れているアメリカだ。チェはカストロ体制について〈我々はカリブ海のチトーになろうとしている。米国はチトーと折り合いをつけた。我々とも徐々に折り合えるようになるはずだ〉と言った」。そしてチェがキューバを去ったことについて、「私は驚かなかった。彼は常に革命家だった。彼の味覚にとって、キューバさえも味気なくなっていたのだろう。革命は権力を握ったことで(道徳的な)罪に陥ったのだろう。無垢な価値が徐々に荒廃して行ったことにチェは我慢がならなかった、と容易に想像できる。彼はキューバ人でなかったため、ラテンアメリカの中で一国だけ米帝国主義から解放されたことに満足できなかった。彼は大陸規模で考えていた」と語っている。
 キューバ革命戦争中、反乱軍司令の中で最大の軍功を収めた人物とされ、フィデルやチェと知的応酬の出来る数少ない論客でもあったウベール・マトスは、自らの反共主義によってフィデルと路線対立し、禁固20年の刑に服し、1979年に出所してマイアミに移住した。2002年に出版した自伝の中でチェのことに触れて、次のように述べている。「フィデルはチェを酷使した。ソ連の援助が不可欠になるや、反ソ傾向のあったチェを切り離さねばならなかった。だからボリビアに行った。悲しいのは、見捨てられたのをチェが感知していたことだ。チェが犠牲になるや、フィデルはチェを宣伝に使った。思想の隔たりはあったが、チェとは友人だった。チェは優れたゲリラではなく、平凡なゲリラだった。チェは冒険好きで勇気があった。活躍できる場を求めていた。チェはキューバ革命の象徴というよりも犠牲者だ」。立場上、ジャーナリストのように中立かあるいは多少の興味なりシンパシーがあるのと比べれば、些か手厳しい見方だが、現実だろう。実際、マトスは革命政権の書いた正史から抹殺されたという。ハバナ入城時にカミーロ(革命軍の参謀長)とともにフィデルを挟んでいる有名な写真からマトスの姿は消されたらしいのだ(逆にマトスの著書の表紙は、まさにフィデル、カミーロと並んでのハバナ入城の写真だという)。
 驚いたことに、チェは父親と同い年であることに気づいた。日本とラテンアメリカという状況が違うと随分生きざまが変わるものだ。他に同級生は(どうでもいい話だが)、フランス文学者・澁澤龍彦、民主カンボジア首相のポル・ポト、未来学者アルビン・トフラー、漫画家・手塚治虫、言語学者ノーム・チョムスキーがいる。鬼籍に入った方が多く、生きていればそういう年齢なのだ。その2つ下のジェームス・ディーンが亡くなったときの24歳のままのイメージでいるのと同じで、チェは39歳の若さで伝説になったまま冷凍保存された。チェには、(やや広い意味での)同時代ということでのシンパシーと、そうは言っても今となっては時代背景が違い、置かれた環境も違うことから来る違和感とがない交ぜになる。その空気の一端を吸っているだけに、複雑な気持ちになる。それでも、写真展「写真家チェ・ゲバラが見た世界」で感じた、戦いの狭間に見せるナイーブなほどに優しいまなざし、超人的な勇気や行動力と人間的な弱さの背後にある、私心の無い大義に殉じる無垢さは、永遠に人々の心を惹きつけてやまないことだろう。89歳になる彼が生きていたら・・・とは俄かに想像がつかない(笑)。
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ゲバラの見果てぬ夢(中)

2017-10-15 13:06:39 | 日々の生活
 チェ・ゲバラは、フィデル・カストロの外交特使として、キューバ革命が成就してから半年後の1959年6月12日から9月8日まで3ヶ月弱の長期外遊に出たときに、日本に立ち寄っている。そのときに彼が抱いた日本の印象が興味深い。
 農地改革庁工業相に就任する前のことだったが、革命の英雄として著名だったのだろう、エジプトではナセル大統領に会い、スエズ運河を視察後、パレスチナのガザ地区やシリアを訪れ、インドではネルー首相に会い、ビルマ(ミャンマー)、タイ、香港に寄った後、7月15日に羽田空港に降り立ち、藤山愛一郎外相や池田勇人通産相や福田赳夫農林相や東竜太郎東京都知事と表敬会談している。そして、7月25日、予定されていた千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に行かずに広島へ向かい、原爆ドームを眺め、原爆死没者慰霊碑に献花し、平和記念資料館、原爆病院、広島県知事を訪ねた。広島の印象は強烈だったようで、フィルム4本を費やして写真に記録したという(そのときの写真の一部は、二ヶ月前に私が見に行った「写真家チェ・ゲバラが見た世界」に展示され、言わば目玉だった)。同行した大尉に、この恐るべき現実を見たからには広島と広島の人々を一層愛したいと思った、と語り、妻アレイダには「広島のような地を訪れると、平和のために断固闘わなければならないと思う」と書き送ったという。そして接待した広島県職員には「日本人は、米国にこんな残虐な目に遭わされて怒らないのか」と腹立たしそうに問い掛け、取材した中国新聞の記者には「なぜ日本は米国に対して原爆投下の責任を問わないのか」と質したという。米帝国主義こそ正面の敵と捉えるチェの面目だろう。そして訪日の印象として「工業の再建には目を見張るものがある。だが民族的誇りが失われていると感じた」と総括した。
 「米国の力に従属する日本」を感じとったのは、当然だろう。エコノミック・アニマルと揶揄されるようになるのはもう少し後のことだが、戦後14年、占領統治を脱して独立を果たしてから7年(因みに千鳥ケ淵戦没者墓苑はこの年3月に竣工している)、4月には東海道新幹線の起工式が行われ、5月には64年の東京オリンピック開催が決定して、冷戦構造下でもその緊張に直接晒されることなく、吉田ドクトリンの軽武装・経済成長に邁進し、戦後復興に沸いていた頃だ。バイアスがかかったアルゼンチン人・民族主義者の目には、国内はおしなべて民主的で勤勉な国民が驚異的な経済発展を遂げつつあるのが羨ましくもあり、他方で民族の自主自立への気概が置き去りにされているのが物足りなくも思われ、それが偽りの平和に見えたとしても不思議はない。そしてそれは58年後の今もさして変わっていない。
 その長期外遊の後のことになるが、キューバ革命政権の経済運営は、なかなかうまく行かなかったようだ。チェは徐々に共産主義に傾倒するが、人材の壁にぶち当たる。中央銀行総裁当時のチェがアルゼンチンの詩人フアン・ヘルマンに対して、「中国が羨ましい。長期の戦いで何万という幹部が育った」と語ったところを読んで、ハッとなった。生涯を通じて戦いを繰り返したチェの実感だろう。それは個人の能力のことではあるものの、組織のありようとして中国共産党だけではなくどんな組織にも、企業にも当てはまるように思う。戦いは試練と置き換えてもいい。私の会社は戦っているだろうか・・・ふと、不安に思った。その後、キューバの初代工業相になったチェは、生産性停滞の原因として労働規律の緩みや効率の悪さを問題視し、労働者の生産意欲をどう高めるかについて、物質的刺激をやむを得ず用いる場合は副次的なものに留まるとし、あくまで社会主義的情熱が基本だと主張したという。物質的刺激が盛んになれば革命的情熱は薄れ、資本制復活に繋がると危惧し、その兆しをソ連・東欧圏に垣間見ていたわけだ。そして、チェは率先して日曜や祭日を返上して砂糖黍を刈ったり工場で働いたりして、自発的労働の模範を示したらしい。チェは飽くまで理想主義的である。フランス人ジャーナリストのジャン・ダニエル(ケネディ大統領の密使として米国とキューバの和解工作を担ったとされる)に、「共産主義の倫理を欠いた経済中心の社会主義に興味はない。マルクス主義には利潤だけでなく利己心もなくすという基本目的がある。これを軽視したら共産主義は単なる生産再分配の方法となる。より多く生産し、よりよく食べるということなら資本主義者は我々よりずっと有能だ」と語っている。熱帯キューバに並はずれた努力を求めたが、熱帯ではチェのような頑張り過ぎは異常なのだったと、本書でも述べられているが、それとともに、後発国が資本主義的発展の前に多少なりとも社会主義的手法で経済の底上げを図るというのは分からないではないが、個人の欲望を些か軽視したのは、チェ自身の目線の高さのままで世間を見る誤謬であり観念的に過ぎたと言うべきだろう。
 そんなチェには、謎めいた、取っつきにくい人物だと見られるところがあったと言われると、なんとなく納得する。関心のない相手や気に食わない相手には冷淡だったという。哲学者レジス・ドゥブレに「アルゼンチン人の私は熱帯では迷子同然だ。私は打ち解けにくく、フィデルにあるような意思伝達の能力に欠けている。私はつい黙してしまうのだ」と語っているし、「革命戦争断章 コンゴ」の中で自ら告白して、「葉巻と読書という私の弱点に問題があり、読書への没入は日常性からの逃避だった。私には簡単に打ち解けられない性格がある。私には部下に最大の犠牲を求める気力がなかった」と述べている通り、コンゴのゲリラ戦基地での映像には、チェが部下たちから離れて独り読書する情景が映し出されているという。ニューヨークタイムズ紙の論説委員ハーバート・マシューズは著書「フィデル・カストロ」の中で、「チェはフィデルよりも遥かに自分の周りを壁で囲み、ごく親しい人しか入っていけない人間だった。彼が好意的なときですら怒っているかのようだった。このように感情が革の紐で繋がれている異常な人物で、どこか神秘的な雰囲気があった。宣教師のような革命への献身、政府に対してと同様、自分に対しても口とペンで失敗をこき下ろす例外的に鋭い知性だった」と述べている。
 チェが哲学や詩を好むところは、チリの詩人パブロ・ネルーダが、中央銀行総裁だったチェに会ったときの回想録で余すところなく伝えている。「彼の服装は銀行の環境には不調和だった。チェは色が浅黒く、話し方がゆっくりしていて、疑う余地のないアルゼンチン訛りだった。彼はパンパでマテ茶とマテ茶の間でゆっくり話し合う相手としてふさわしい男だった。彼の言葉は短かった。そして、まるで空中に注釈を残すかのように微笑して話を終えるのだった。私の詩集『大いなる歌』について彼が言ったことが私を喜ばせた。マエストラ山脈では(注:キューバ革命闘争中の意)、夜になるとゲリラに、この私の本を読んでやるのが彼の習慣だった。あれからもう何年も経ったが、彼の死に際し私の詩も彼に付き添ったのだと考えると、身震いする。私はこのことをレジス・ドゥブレから聞き知ったのだが、ボリビア山中で彼が最後の瞬間まで背嚢の中に入れていたのは2冊の本だけだった。数学の教科書と『大いなる歌』だった。(中略) 私にとり戦争は脅威であって運命ではない。我々は別れた。二度と会うことはなかった。やがてボリビアで彼の戦闘と悲劇的な死があった。私がチェ・ゲバラのうちに見続けているのは、彼が英雄的な戦いの中にあっても常に武器の傍らに詩のための場所を用意していたあの瞑想の男なのだ」と。
 ボリビアでは、政府軍兵士を満載したトラックを制圧しながら、殺傷することなく退去させる場面が出てくる。フィデルの「騎士道精神」を批判していたチェにもまた「騎士道」や「武士の情け」を思わせるロマン主義があり、それが実戦における弱さに繋がっていたようだ。
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ゲバラの見果てぬ夢(上)

2017-10-14 23:47:39 | 日々の生活
 キューバ革命の立役者の一人、チェ・ゲバラがボリビアの山中で捕えられ射殺されたのは、ちょうど50年前の1967年10月9日午後1時10分頃のことだったとされる。「上を向いて寝かされた彼の遺体の目は開いたままで、その表情は見る者にキリストの受難像を思わせた」(伊高浩昭氏の著書から)という(なかなか劇的な描写だ)。没後50年ということで、最期の地ボリビアでは追悼式典があった一方、故郷アルゼンチン中部ロサリオに設置された銅像を巡っては、右派系の団体が「共産主義の殺人者は公の栄誉に値しない」としてインターネット上で市に撤去を求める署名活動を展開し議論が起きていたともいう。
 多くの日本人にとっては、セピア色に褪せたやや遠い過去に(もはや歴史の一コマにさえ)映るのは仕方ないが、キューバ革命やミサイル危機やゲバラの死は、私が生まれてから地球の裏側で進行していた話であり、今もなおその強烈な生々しい記憶と共に生きている人たちがいる。ゲリラと言い、革命と言い、おどろおどろしさはあるが、負傷兵には味方も敵も分け隔てなく医療手当を施すのがフィデル・カストロの方針であり、従軍医師のときも指揮官のときも、ゲバラはこの戦場医師の倫理を守り続けたといったあたりは、小さなエピソードだが、現代のテロリストとは明らかに異なる、古き良き時代の反体制運動の理想と矜持を感じさせる。当時の時代背景を思うにつけ、革命に殉じたチェ・ゲバラには、保守の私でもその民族主義的信条と生きざまには同情的になる。というわけで、ここからは親しみを込めて彼のことをその愛称(綽名)のチェと呼ぶ。
 この夏、恵比寿ガーデン・プレイスで開催された「写真家チェ・ゲバラが見た世界」を、盆休みの徒然にふらっと見に行った。意外な人だかりに呆れてしまった気が短い私は、さっさと流し見して会場を出てしまったほどだった。郷愁を感じる(全共闘世代を中心とする)お年寄りばかりではなく、若い人も結構いて、今もなお人々を惹きつけるものがあるのを感じて、たまたま本屋で見掛けた比較的新しいゲバラ伝、「チェ・ゲバラ」(伊高浩昭著、2015年)を手にとって、読んでみた。三好徹氏や戸井十月氏のゲバラ伝も面白かったが、伊高氏はジャーナリストとして多くの資料を渉猟し、いろいろな証言を集めて、やや状況描写に冗長なところがあるが、ご本人曰く「実物大に近いチェを描こうとする新たな試みの一書」として、なかなか興味深い。以下、この本から印象深いところを拾ってみる。
 子供の頃から喘息に苦しめられ、サッカーやラグビーに興じて敢えて肉体を労わらずに痛めつけるようなところがあって、リルケの言葉「死は人生の暗い面にすぎない」を気に入っていたと言われるように、死を恐れず、むしろ危険を過小評価するのがチェのアキレス腱だったとも言われる。自身「私は穏健派ではありません。武器を手に敵を倒します」と母への手紙にしたためているほどだ。あるインタビューでは、「拳銃より吸入器を好む。喘息に取りつかれているときには沈思黙考する」と語っている。喘息は、彼の一生に大きな影を落とした。
 最初の妻イルダはチェの印象をこう描写している。「目鼻立ちは普通だが、全体的に美男子。見た目の虚弱さとは裏腹に男性的だ。いつも落ち着いているように見える。知的で、常に何かを観察している。やや思い上がった感じがしたが、後で、喘息の発作のため息をする際、胸を大きく膨らませないといけないのを知った」。フィデル・カストロの初期の革命運動の頃の同志カルロス・フランキは初対面のチェのことを「やや自己陶酔型で、中背、筋肉は逞しい。パイプを口にし、マテ茶を好んでいた。スポーツマンと喘息患者、スターリンとボードレール、詩人とマルクス主義者の間を往復していた」と描写している。
 その知的な面では、子供の頃から父母の蔵書に親しみ、「12歳にして18歳の教養がある」と父親に言わしめたのは、ただの親馬鹿ではなく、医学部を出た医者ながら学生時代にはイプセン、サルトル、パスカル、ネルーなどにも親しみ、後にコンゴ遠征には30~40冊の本を持ち込み、仲間から離れて読書に没頭する時間も見られたというし、日記や手紙の「書き魔」で、随筆や論文も多くものしており、キューバ革命が成功した後、国立銀行総裁としてのチェに会った哲学者サルトルに、「ゲバラ司令官は大変な文化人で、彼の言葉一つひとつの背後に黄金の蓄えがあるのを察知するのに時間は要らない」「今世紀で最も完璧な人間」と言わしめた。
 そんな彼は、ラテン・アメリカは「単一の混血主義者」だと公言するほど、シモン・ボリバルばりの理想主義を奉じていた。キューバ革命に参加したとき、ラジオ放送局のインタビューで何故キューバで闘っているのかと問われて「私の祖国はラテンアメリカ全体だ。だいぶ前からそう思い、どの国であっても、その解放のために戦うという民主的努力を払わねばならないと考えて来た。武闘以外に解放手段がないから戦っている」と答え、フィデルのことを「共産主義者ではない。民族主義の革命家だ」と答えている。その最後に「この放送を聴いている同胞にお別れする前に一つだけ言いたいのは、憲法や民主の大義をいまだに実現させることが出来ないでいるラテンアメリカの不幸な国々の人民のことに思いを馳せて欲しいということだ」。
 そしてキューバ革命が成就した1959年1月3日、メディアとのインタビューで共産主義者呼ばわりされたのに対し「従属を拒む者を一緒くたに共産主義者呼ばわりするのは独裁の古い手口だ」と反論し、「私は言われているような人間ではなく、自由を愛する者にすぎない。私は医者としてキューバに来た。この国に悪性腫瘍があったから、その除去を手伝ったまでだ。キューバ人への連帯を義務として戦った。外科用のメスと聴診器は手放した。一国民の心臓の鼓動を知るのに聴診器は不要だ。この革命戦争では、農民、労働者、知識人で構成する部隊が正規軍を撃破した。独裁者相手の戦闘で得た重要な事実だ」と答えた。次の目的を訊かれると、「革命に祖国はない。ニカラグア、ドミニカ共和国、パラグアイだろうか。もしブラジルが私を必要とするなら招いて欲しい。ポルトガル語を学ぶから」と応じた。その後のチェは、ペルー、ボリビア、アルゼンチンと陸伝いに繋がる三国のゲリラが同時に戦う「アンデス作戦」を構想する。
 アルゼンチン人は、ラテンアメリカで最も傲慢だと見做され、チェにもその傾向があったという。祖国アルゼンチンを離れてから、グアテマラに旅して革命家として目覚め、メキシコでフィデル・カストロと出会って、カストロについてキューバ革命を闘い抜き、予備演習のような位置づけでコンゴに遠征し、祖国アルゼンチン解放を夢見て、最期の地ボリビアで反体制の狼煙をあげたのだったが、どこにあっても、いくら熱意や善意を示しても、余所者扱いされるという意識が根づいていたようで、苦悩は深かったように思う。
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