◆ 『死せる魂』(上) 水元 正介
◎ たばこ登場のシーン
p8 この種の広間がどんなものであるかは―-―旅の経験のある人ならだれでも知りすぎるほど知っている――ご多分にもれぬペンキ塗りで、上のほうは煙草の煙で黒くくすぶり、下のほうはいろんな旅人たちの、ことに土地の商人たちの――というのは商人たちは市日には6人連れ7人連れでここへ来てはきまってお茶の2杯ずつも飲んでゆくからで――背中でテラテラに光ってしまっている相も変らぬ壁。
p20 なお、なにかで相手を同意させようとする場合には、彼はきまってだれかれなしにエナメル塗りの銀の煙草入れを差しだしたが、その底にはにおいを添えるために菫の花が2輪、ちゃんとしのばせてあるのが眼についた。
p34 -35 それから、これはほとんどのべつだったが、長椅子にかけているときなど、まったくなんの理由もなしに彼のほうがパイプを置くと、彼女のほうも、そのときなにか仕事をしていればその手を休めて、二人はたがいにじつに悩ましげな、長い長い接吻をかわすのだったが、その長いことといったら、細巻のふわふわした葉巻ぐらいならゆうに1本はのめるほどだった。
p45-47 …。が、なにより多いのは煙草だった。それはさまざまな形にして置いてあって、紙袋入りもあれば、ケース入りもあり、はてはバラで卓上にじかに山積みしてあるのもあった。両方の窓には、ここにもまたパイプからはたいた灰が、そうとう苦心をしたらしくじつにみごとな列をなして並んでいる。どうやらこれはときどき主人の暇つぶしの仕事になっているらしかった。
――まあ一服おつけになってくださいませんか。
――いや、せっかくですが不調法なもので。――とチーチコフはもの柔らかに、いかにも残念そうなようすで答えた。
――それはまたどうしたわけで?――とマニーロフはこれまた、もの柔らかく残念そうなそぶりで言った。
――のみなれないですからね、こわいのです、煙草をのむとやせると言いますね。
―― 失礼ですが、それは偏見というものでしょうな。わたしはパイプでのむほうが嗅ぎ煙草よりはるかにからだにいいとさえ思っておりますよ。わたしどもの連帯に一人の中尉がおりましてね、すばらしい美男子のうえに、非常に教育のある男でしたが、この男なんぞは食事中はおろか、妙な話になりますが、その、どこへ行くにもパイプを口から離したことがないほどでした。いまでは40以上の年配ですが、おかげとこのうえなしの達者でおりますからね。
p50 -51 マニーロフはとたんに雁首のついた長煙管を床の上へとり落して口をぱっくりあけると、そのままの姿勢で、数分間呆然としていた。…。で、マニーロフは、自分はいったいどうふるまったらいいのか、なにをしたらいいのか、とずいぶん思案してみたけれども、たまった煙を細い細い流れにして口からはき出し以外にはなに一つ思いつくことはできなかった。
p52 この最後のことばはマニーロフにも気にいったが、しかし話そのものの意味はやはりどうしても腑に落ちなかった、そこで返事のかわりに彼は長煙管をファゴットのようなしゃがれた音を出すほど強くすいはじめた。あたかもそのようすは、この前代未聞の事態に関する意見をこの煙管のなかから吸い出そうとでもしているようだった。が、長煙管はしゃがれ声は出したが――ただそれだけのことだった。
p58 -59 マニーロフはしだいに遠ざかりゆく馬車を見送りながら、長いこと上がり口にたたずんでいた。そして馬車がもうすっかり見えなくなっても、パイプをくゆらしながら、なおいつまでも立ちつくしていた。…ああかこうかといくら思案しても説明がつきかね、とうとうそのままじっとすわりこんで、夕飯までパイプをふかしとおした。
p75 彼ら(フランス人、ドイツ人)は相手が百万長者でも、けちな煙草売りでも、ほとんどおなじ声やおなじことばで話している、もっとももちろん、前者にたいしては内心、相当にぺこぺこはしているにちがいないが。
p101 この赤ら顔からしても、彼が火薬はともかくとして、すくなくとも煙草の煙のなんたるかぐらいは知っていると言えそうだった。
p116 ところがこれがそっくりそのまま家へとどくということは、まずめったにないので、たいていはもうその日のうちに別の、幸運このうえなしの勝負師の手にそっくり渡ってしまい、ときにはさらにケースや吸口までついた自分のパイプを追銭にとられるか、さもなくば四頭立ての馬に馬車から馭者までそっくりつけて、進上させられ、当の主人公はちんちくりんのフロックか夏外套姿で、だれか馬車に乗っけてくれる友達はいないものかとさがしに出かけたりもするという始末だった。
p122 つぎに披露されたのはパイプで、木製、陶製、海泡石製といろいろあり、燻しのかかったのや、鞣革(なめしがわ)でくるんだのやくるまないのや、近ごろの賭でもうけた琥珀の吸口つきのトルコ煙管もあれば、どうこかの宿屋で彼にぞっこん惚れこんださる伯爵夫人の刺繍になるとかいう刻み煙草入れなどもあって、その夫人のかわいい手は、彼のことばをかりると、まったく「繊細な贅沢品」だったというのだが、――このことばは、おそらく、彼にあっては完成の頂点というほどの意味なのであろう。
p136 ところが、また庭を通ってもどって来る途中で彼はばったりノズドリョフと顔を合わせてしまった。相手もやはり部屋着のままで、歯のあいだにパイプをくわえていた。
p137 床にパン屑がころがっているかと思えば、卓布の上には煙草の灰まで目についた。
p143 自分に勝ち目がないと見てとると、もうごめんだなぞと抜かしやがる!こんなやつは殴っちまえ!――彼はポルフィリーとパーヴルシカのほうを向いて無我夢中に叫び、自分でも西洋桜の長煙管を手にして身がまえた。
――この男を殴れっ!――ノズトリョフは叫んで、まるで難攻不落の要塞でも攻略するみたいに、全身火だるまと化して汗びっしょりになりながら、西洋桜の長煙管を片手にさっと進み出た。
p144 彼が護身用にと思いついた椅子は、早くも奴隷たちによって手から奪われてしまったので、もはやかくなるうえは生死の彼岸に観念の眼を閉じ、主人の西洋桜の長煙管の一撃を甘んじて受けんものと覚悟のほどをきめた。
p145 ―――失礼ですが、ノズトリョフ氏とおっしゃるかたはどなたですか?――とその見知らぬ男(郡の警察署長)は長煙管を手につっ立っているノズドリョフと、かろうじておのれの不利な状態を脱しかけたチーチコフのほうとを、やや不可思議な面持ちでながめてから、こう言った。
p152 別嬪な娘だなあ!――と彼(チーチコフ)は煙草入れをあけて煙草を嗅ぐと、そう言った。
p203 ――あなたにご満悦がゆくなら、損のゆくことなどかまやしません。
―― へえ、これはどうも!なんとありがたいおかたじゃ!――とプリューシキンは叫んで、うれしさのあまり鼻から濃いコーヒーの滓(かす)みたいな嗅ぎたばこがじつにぶざまに飛び出しているのにも、部屋着の裾がはだけて、あまり見っともよくない肌着をのぞかせているのにも気づかずにいた。
p228 そしてさっそくポケットから煙草入れをとり出すと、足枷をはめる二人の廃兵らしき者になれなれしくそれをすすめ、退役になったのはよほど前のことか、どんな戦争に参加したかときいたりするに相違ない。
p269 もっともこんな微笑は、強い嗅ぎ煙草を嗅いだあとでくしゃみの出かかったときみたいな表情なのだが。
p291 それは旅行馬車とも、幌馬車とも、半蓋馬車ともちがって、いっそばかでかくふくれあがった西瓜を車輪にのっけたといったほうが似つかわしいような代物だった。…その西瓜の内部には煙草入れの形や、円筒形や、普通の枕の形をした更紗のクッションがぎっしりつまっていて、パンとか、輪パンとか、味つけ焼とか、さては早焼きだの、捏紛(こねこ)のふかしたので作ったビスケットだのの袋が山のようにはいっていた。
p312 と、両人はわれさきにと彼にことの一部始終を報告におよび、死んだ奴隷買入れの一件やら、知事令嬢誘拐の目論見などを話してすっかり相手を面くらわせてしまったので、彼のほうは左の眼玉をパチクリさせたり、ハンケチで顎ひげの煙草の粉をはらったりしながら、いくら一つどころにじっと立ちつづけていてみても、なんのことやらさっぱり納得がゆかなかった。…最初、彼らの状態は寝ぼけ半分の生徒が、さきに起きた友達に「驃騎兵(ひょうきへい)」、つまり煙草をつめた紙きれを鼻のなかへ押し込まれたときにそっくりだった。夢うつつのうちにも眠っている者特有のがむしゃらさで、その煙草を一気にぐっと吸いこんだところで、はじめて目がさめ、飛び起きざまに、眼の玉を四方八方へくばって、まぬけづらであたりを見まわすのだが、自分がどこにいるのか、なにが起こったのか、でんで見当がつかない…。
◎ たばこ登場のシーン
p8 この種の広間がどんなものであるかは―-―旅の経験のある人ならだれでも知りすぎるほど知っている――ご多分にもれぬペンキ塗りで、上のほうは煙草の煙で黒くくすぶり、下のほうはいろんな旅人たちの、ことに土地の商人たちの――というのは商人たちは市日には6人連れ7人連れでここへ来てはきまってお茶の2杯ずつも飲んでゆくからで――背中でテラテラに光ってしまっている相も変らぬ壁。
p20 なお、なにかで相手を同意させようとする場合には、彼はきまってだれかれなしにエナメル塗りの銀の煙草入れを差しだしたが、その底にはにおいを添えるために菫の花が2輪、ちゃんとしのばせてあるのが眼についた。
p34 -35 それから、これはほとんどのべつだったが、長椅子にかけているときなど、まったくなんの理由もなしに彼のほうがパイプを置くと、彼女のほうも、そのときなにか仕事をしていればその手を休めて、二人はたがいにじつに悩ましげな、長い長い接吻をかわすのだったが、その長いことといったら、細巻のふわふわした葉巻ぐらいならゆうに1本はのめるほどだった。
p45-47 …。が、なにより多いのは煙草だった。それはさまざまな形にして置いてあって、紙袋入りもあれば、ケース入りもあり、はてはバラで卓上にじかに山積みしてあるのもあった。両方の窓には、ここにもまたパイプからはたいた灰が、そうとう苦心をしたらしくじつにみごとな列をなして並んでいる。どうやらこれはときどき主人の暇つぶしの仕事になっているらしかった。
――まあ一服おつけになってくださいませんか。
――いや、せっかくですが不調法なもので。――とチーチコフはもの柔らかに、いかにも残念そうなようすで答えた。
――それはまたどうしたわけで?――とマニーロフはこれまた、もの柔らかく残念そうなそぶりで言った。
――のみなれないですからね、こわいのです、煙草をのむとやせると言いますね。
―― 失礼ですが、それは偏見というものでしょうな。わたしはパイプでのむほうが嗅ぎ煙草よりはるかにからだにいいとさえ思っておりますよ。わたしどもの連帯に一人の中尉がおりましてね、すばらしい美男子のうえに、非常に教育のある男でしたが、この男なんぞは食事中はおろか、妙な話になりますが、その、どこへ行くにもパイプを口から離したことがないほどでした。いまでは40以上の年配ですが、おかげとこのうえなしの達者でおりますからね。
p50 -51 マニーロフはとたんに雁首のついた長煙管を床の上へとり落して口をぱっくりあけると、そのままの姿勢で、数分間呆然としていた。…。で、マニーロフは、自分はいったいどうふるまったらいいのか、なにをしたらいいのか、とずいぶん思案してみたけれども、たまった煙を細い細い流れにして口からはき出し以外にはなに一つ思いつくことはできなかった。
p52 この最後のことばはマニーロフにも気にいったが、しかし話そのものの意味はやはりどうしても腑に落ちなかった、そこで返事のかわりに彼は長煙管をファゴットのようなしゃがれた音を出すほど強くすいはじめた。あたかもそのようすは、この前代未聞の事態に関する意見をこの煙管のなかから吸い出そうとでもしているようだった。が、長煙管はしゃがれ声は出したが――ただそれだけのことだった。
p58 -59 マニーロフはしだいに遠ざかりゆく馬車を見送りながら、長いこと上がり口にたたずんでいた。そして馬車がもうすっかり見えなくなっても、パイプをくゆらしながら、なおいつまでも立ちつくしていた。…ああかこうかといくら思案しても説明がつきかね、とうとうそのままじっとすわりこんで、夕飯までパイプをふかしとおした。
p75 彼ら(フランス人、ドイツ人)は相手が百万長者でも、けちな煙草売りでも、ほとんどおなじ声やおなじことばで話している、もっとももちろん、前者にたいしては内心、相当にぺこぺこはしているにちがいないが。
p101 この赤ら顔からしても、彼が火薬はともかくとして、すくなくとも煙草の煙のなんたるかぐらいは知っていると言えそうだった。
p116 ところがこれがそっくりそのまま家へとどくということは、まずめったにないので、たいていはもうその日のうちに別の、幸運このうえなしの勝負師の手にそっくり渡ってしまい、ときにはさらにケースや吸口までついた自分のパイプを追銭にとられるか、さもなくば四頭立ての馬に馬車から馭者までそっくりつけて、進上させられ、当の主人公はちんちくりんのフロックか夏外套姿で、だれか馬車に乗っけてくれる友達はいないものかとさがしに出かけたりもするという始末だった。
p122 つぎに披露されたのはパイプで、木製、陶製、海泡石製といろいろあり、燻しのかかったのや、鞣革(なめしがわ)でくるんだのやくるまないのや、近ごろの賭でもうけた琥珀の吸口つきのトルコ煙管もあれば、どうこかの宿屋で彼にぞっこん惚れこんださる伯爵夫人の刺繍になるとかいう刻み煙草入れなどもあって、その夫人のかわいい手は、彼のことばをかりると、まったく「繊細な贅沢品」だったというのだが、――このことばは、おそらく、彼にあっては完成の頂点というほどの意味なのであろう。
p136 ところが、また庭を通ってもどって来る途中で彼はばったりノズドリョフと顔を合わせてしまった。相手もやはり部屋着のままで、歯のあいだにパイプをくわえていた。
p137 床にパン屑がころがっているかと思えば、卓布の上には煙草の灰まで目についた。
p143 自分に勝ち目がないと見てとると、もうごめんだなぞと抜かしやがる!こんなやつは殴っちまえ!――彼はポルフィリーとパーヴルシカのほうを向いて無我夢中に叫び、自分でも西洋桜の長煙管を手にして身がまえた。
――この男を殴れっ!――ノズトリョフは叫んで、まるで難攻不落の要塞でも攻略するみたいに、全身火だるまと化して汗びっしょりになりながら、西洋桜の長煙管を片手にさっと進み出た。
p144 彼が護身用にと思いついた椅子は、早くも奴隷たちによって手から奪われてしまったので、もはやかくなるうえは生死の彼岸に観念の眼を閉じ、主人の西洋桜の長煙管の一撃を甘んじて受けんものと覚悟のほどをきめた。
p145 ―――失礼ですが、ノズトリョフ氏とおっしゃるかたはどなたですか?――とその見知らぬ男(郡の警察署長)は長煙管を手につっ立っているノズドリョフと、かろうじておのれの不利な状態を脱しかけたチーチコフのほうとを、やや不可思議な面持ちでながめてから、こう言った。
p152 別嬪な娘だなあ!――と彼(チーチコフ)は煙草入れをあけて煙草を嗅ぐと、そう言った。
p203 ――あなたにご満悦がゆくなら、損のゆくことなどかまやしません。
―― へえ、これはどうも!なんとありがたいおかたじゃ!――とプリューシキンは叫んで、うれしさのあまり鼻から濃いコーヒーの滓(かす)みたいな嗅ぎたばこがじつにぶざまに飛び出しているのにも、部屋着の裾がはだけて、あまり見っともよくない肌着をのぞかせているのにも気づかずにいた。
p228 そしてさっそくポケットから煙草入れをとり出すと、足枷をはめる二人の廃兵らしき者になれなれしくそれをすすめ、退役になったのはよほど前のことか、どんな戦争に参加したかときいたりするに相違ない。
p269 もっともこんな微笑は、強い嗅ぎ煙草を嗅いだあとでくしゃみの出かかったときみたいな表情なのだが。
p291 それは旅行馬車とも、幌馬車とも、半蓋馬車ともちがって、いっそばかでかくふくれあがった西瓜を車輪にのっけたといったほうが似つかわしいような代物だった。…その西瓜の内部には煙草入れの形や、円筒形や、普通の枕の形をした更紗のクッションがぎっしりつまっていて、パンとか、輪パンとか、味つけ焼とか、さては早焼きだの、捏紛(こねこ)のふかしたので作ったビスケットだのの袋が山のようにはいっていた。
p312 と、両人はわれさきにと彼にことの一部始終を報告におよび、死んだ奴隷買入れの一件やら、知事令嬢誘拐の目論見などを話してすっかり相手を面くらわせてしまったので、彼のほうは左の眼玉をパチクリさせたり、ハンケチで顎ひげの煙草の粉をはらったりしながら、いくら一つどころにじっと立ちつづけていてみても、なんのことやらさっぱり納得がゆかなかった。…最初、彼らの状態は寝ぼけ半分の生徒が、さきに起きた友達に「驃騎兵(ひょうきへい)」、つまり煙草をつめた紙きれを鼻のなかへ押し込まれたときにそっくりだった。夢うつつのうちにも眠っている者特有のがむしゃらさで、その煙草を一気にぐっと吸いこんだところで、はじめて目がさめ、飛び起きざまに、眼の玉を四方八方へくばって、まぬけづらであたりを見まわすのだが、自分がどこにいるのか、なにが起こったのか、でんで見当がつかない…。