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『死言状』

2008年01月13日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
■■■山田風太郎著(角川文庫)■■■

◎ 本書には、愛煙家にとって心強いことが書いてある。少々、やけ気味クソ気味な論点も見受けられるが、ぼくは全面的に同意したい。「禁煙ファシズム」と題する小論が178~183ページに掲載されており、その要旨をご紹介し本書の感想に代えたい。

*** 大敗戦で大驚愕して以来、もう何事が起こっても驚かない習性を植えつけられた自分だが、近ごろになってそれでも驚倒することが続出するようになった。この日本にはあり得ない、現代には起こり得ないと思っていた事態や現象が、次から次へと現実のものとなるのを見てである。…その一つが、例の捕鯨問題だ。… そもそもペルリが日本に開国を迫ったのは捕鯨基地を求める目的のせいではなかったか。…
 アングロサクソンの言い分は、あんな知能指数の高い愛すべき動物を、銛で殺して食う日本人の野蛮性は憎むべきものである。これはわれわれだけの論理ではない、全世界の認める論理だ、というのだが、ホンネを吐かせると、およそ地球上に生存する生物で、第一のランクがアングロサクソン、第二は犬と馬で、第三はラテン、ゲルマンで、第四が鯨で、日本人はそれより下位だ、とにかく、昔は昔、今は今、今とかくわれわれがイカンといったらイカンのだ!といいたいところだろう。…
 それまで大っぴらに認められ、普通の風習として通って来たことが、突如許すべからざる悪として指弾されはじめたこと、喫煙問題がこれとそっくりである。…
 実は私も大のタバコのみだが、ずっと以前から、「酒は五害あって五利あり、タバコは九害あって一利あり」という持論の持主であった。
 一利というのは、本人のストレスの解消である。私なんかストレスの解消にとどまるが、しかしひろく歴史上の天才巨匠の話になると、もしタバコがなかったら生まれなかった大思想や大芸術が存在するはずである。
 漱石はタバコのけむりを「哲学の煙」と形容した。ゴッホの自画像もパイプをくわえている。近くは梅原龍三郎は98歳で死ぬまで恐ろしいヘビースモーカーであった。一利の効用は意外に大きい、と信じている。
 これに対し、禁煙派のふりかざすのは、タバコはみずからに害があるのみならず、他人のも有害である、という論告だ。…禁煙運動が禁捕鯨運動と相似た感じがあって相異なるのは、禁煙党の論理が、禁捕鯨党の理も非もないゴリ押しなのにくらべて、一応科学的であるという一事である。まったく筋が通っている。これには一言もない。
 が、それでも首をひねることがある。そんなに自他の健康のことをいうけれど、日本はこれまでタバコをのみまくって、世界一の長寿国になったではないか。……タバコを禁じればさらに、長生きするというが、そもそもこれ以上長寿国になって将来どうするつもりか。それこそ自他ともに、さらに苦難を招くことにならないか。百万人の肺ガン患者より、三千万人のボケ老人の始末のほうがはるかに厄介である。タバコはその苦難に対する有力な予防ではないか。
 私はこれを、冗談ではなく大まじめにいうのだが、テキはますますいきり立つだろう。それから、右のような憂国の念のない、トニモカクニモ自分だけは長生きしたい人々が、それに相呼応することいよいよ急になるだろう。…
 それを思うと、一応ゆくところまで、ひょっとするとタバコが阿片や大麻と同様の扱いを受ける日が来るかも知れない。
 が、結局のところ、日本からタバコが完全消滅することはないだろう。たしか徳川初期、肺ガンなどとは別の理由でやはりタバコ禁止令が出て、斬首に処せられたこともあったはずだが、長続きはしなかった。それから戦時中、何度かタバコの猛烈な値上げが繰り返されるたびに、「もうのめない!」「もうやめた!」と巷から悲鳴の大合唱があがったが、数日たつとまたもと通り、タバコの葉っぱをただ刻んだようなタバコを、自分で紙で巻いてプカプカふかしている光景を、私は目撃したおぼえがあるからだ。ほんとうに禁煙時代が来たら、タバコのみは松葉でも吸うだろう。
 自由は死すともタバコは死せず! ***(2003/11/07)
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『パプリカ』

2008年01月13日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
◆ 『パプリカ』における「たばこ」     水元 正介

◎  今朝(2003.5.8)の在来線車中で、筒井康隆さんの『パプリカ』(中央公論社版)を読み終えた。いつものように、「たばこ」が登場するページにドックイヤーをしてみたが、『最後の喫煙者』(新潮文庫)という作品のある筒井さんにしては、予想外に少なく10か所だけであった。さらに、村上春樹さんのような特定のたばこ銘柄にまったくこだわりがなく、たばこの表記は「煙草」で統一されていた。

◎ 本書では、実際にたばこを吸う場面が3か所しかなく、そのうちの2つも「一服」だけで終わっている。そのほかの7か所については、「煙草屋の裏」という場所に「たばこ」を用いているだけだから、喫煙シーンの極めて少ない作品だといえるだろう。しかし、次のようなとっておきの1か所(本書250ページ)があって、筒井さんの想いが込められた場面だと、ぼくは感銘を受けたのである。

*** 能勢が敦子にことわり、粉川にもすすめて珍しく煙草に火をつけた。彼らの精神に、たまの煙草が好ましく作用することを敦子は知っている。うっとりする男性的な香りが密室にこもり、とうとう敦子も能勢に1本ねだってくゆらせた。***

◎  乾副理事長たちとの壮絶なたたかいの渦中、それに立ち向かう3人の心境が見事に表現されていると感じた。なお、本書に登場するサイコセラピーの装置は、オウム真理教の「ヘッドギア」と似たところがあって、筒井さんの先見性が悪い意味で現実化されたような気がしたのである(本書は1993年発行、地下鉄サリン事件は1995年である)。さらに、小型化したDCミニについては、2003年現在、携帯電話の発展形態として、あながち荒唐無稽の代物とは言えないと思うのだ。というわけで、ますます筒井康隆ファンの度合いが深まった自分なのである。

1 P66 受付まで戻ると、よく開発室に出入りしている顔見知りの社員に辞意を告げ、記念品の紙袋を受け取って、パーティ会場の入口が見える黒革張りのソファに掛け、社長と資延を待ちながら一服した。

2 P76~77 パプリカは能勢が何かのこだわりを持っているらしい「煙草屋の裏」にもう一度戻りたかったのだが、能勢はまたしても以前の夢と同じ中学校の教室へ、すでに来てしまっていた。

3 P81 バック・スキップ。「その前は煙草屋さんよ」…
「この煙草屋の裏。小川のほとり。ここで、何かあったの」

4 P82 煙草屋の裏の空地は、それ自身が能勢龍夫の不安を激しく呼び起こすものであり、もしパプリカが彼の夢に立ち会っていなければ、能勢が眼覚めるなり抑圧し、忘れてしまった筈のシーンだった。

5 P113 「ここに煙草屋さんがあるわ。じゃ、さっき秋重君と篠原君が話していた場所はこの裏ね。つまり『煙草屋の裏』なのね」

6 P117 「…煙草屋の裏だってそうだ。あそこは秋重たちのいじめの現場だった。…それで、ぼくの、虎竹を煙草屋の裏へつれてこいって言ったんだ。…」

7 P118 「でも、あの煙草屋の裏のいじめをきっかけにして、虎竹はそれからずっと3人にいじめられ続けたんだよ」

8 P185 研究所に着き、小山内は自分の研究室で一服したのちすぐ病院へ行き、看護婦詰所で待っていた研究生や看護婦を引き連れ、担当の病室をまわった。

9 P250 能勢が敦子にことわり、粉川にもすすめて珍しく煙草に火をつけた。彼らの精神に、たまの煙草が好ましく作用することを敦子は知っている。うっとりする男性的な香りが密室にこもり、とうとう敦子も能勢に1本ねだってくゆらせた。

10 P384 夢中存在の能勢はその超現実的な能力で現実を変えた。能勢、敦子、浩作の3人は今、遠くの山なみに続く一面の畠の中、広い街道に立っていた。パプリカにはおなじみの、煙草屋の前、バス停の表示の立つ場所である。
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