『日本辺境論』(内田樹著、新潮新書)を読む。
販売のピークは過ぎているようだが、多作かつ超ハイペースで出版するウチダ先生の本としては珍しく(失礼!)、10万部以上売れているそうだ。
古代から現代まで、仏教からマンガまで、「辺境性」という切り口で日本人を論じている。筆者いわく「辺境性という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせている」と述べているがまさにその通り。日本人特有の政治イデオロギーも、宗教観も、言語も「辺境性」という主題で言い表せてしまう。
出色だったのは、日本語の特殊性について。それは世界にも類を見ない、表意文字(漢字)と表音文字(ひらがな・カタカナ)を併用する言語だということ。この特殊な言語を操ってきた日本人の脳は、絵的なものと音的なものを同時に処理できるようになった。従って「絵」と「ふきだし」で構成されるマンガをヘビー・リーディングできるのはわれわれ日本人ならではらしい。
新書なので、とりあえず様々な事象や、丸山眞男や養老孟司の日本人論までひっくるめて、ざっくりと書いてある。だが、日本人の「辺境性」を証明するに十分な論拠になり得る。そうやって考えると1980年代、数字上は世界No.1の経済大国になりながら、世界の中心・世界のリーダー国として自他ともに位置づけられなかったのも、この「辺境性」故と開き直ることもできる(気がする)。
奇しくも本日、わが国首相が沖縄入り。基地移転問題について、米国と期限設定された同月になってやっと現地の首長との対談が実現。どう客観的にみても遅すぎる。ベンチャー企業なみの意思決定スピードで物事を進めていかないとタイム・オーバーである。そうして6月、本件の責任を取って鳩山は退陣、民主党は新体制で7月の参議院選挙に備える(=勝手にそうすると踏んでいる)。
同盟国いや“宗主国”との約束が果たせずに、同盟国いや“従属国”の首相が退陣する。なんてことになれば、まさに「辺境性」の極みである。
販売のピークは過ぎているようだが、多作かつ超ハイペースで出版するウチダ先生の本としては珍しく(失礼!)、10万部以上売れているそうだ。
古代から現代まで、仏教からマンガまで、「辺境性」という切り口で日本人を論じている。筆者いわく「辺境性という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせている」と述べているがまさにその通り。日本人特有の政治イデオロギーも、宗教観も、言語も「辺境性」という主題で言い表せてしまう。
出色だったのは、日本語の特殊性について。それは世界にも類を見ない、表意文字(漢字)と表音文字(ひらがな・カタカナ)を併用する言語だということ。この特殊な言語を操ってきた日本人の脳は、絵的なものと音的なものを同時に処理できるようになった。従って「絵」と「ふきだし」で構成されるマンガをヘビー・リーディングできるのはわれわれ日本人ならではらしい。
新書なので、とりあえず様々な事象や、丸山眞男や養老孟司の日本人論までひっくるめて、ざっくりと書いてある。だが、日本人の「辺境性」を証明するに十分な論拠になり得る。そうやって考えると1980年代、数字上は世界No.1の経済大国になりながら、世界の中心・世界のリーダー国として自他ともに位置づけられなかったのも、この「辺境性」故と開き直ることもできる(気がする)。
奇しくも本日、わが国首相が沖縄入り。基地移転問題について、米国と期限設定された同月になってやっと現地の首長との対談が実現。どう客観的にみても遅すぎる。ベンチャー企業なみの意思決定スピードで物事を進めていかないとタイム・オーバーである。そうして6月、本件の責任を取って鳩山は退陣、民主党は新体制で7月の参議院選挙に備える(=勝手にそうすると踏んでいる)。
同盟国いや“宗主国”との約束が果たせずに、同盟国いや“従属国”の首相が退陣する。なんてことになれば、まさに「辺境性」の極みである。