ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

保守的の極み

2007-01-29 22:11:05 | Public
 先週、半年振りに髪を切りに行った。デンマークに発つ前日に切ったときよりも短い。大体冬にはあまり髪を切らないので、ちょっと自分には新鮮である。

加えて、顔が日焼けしている。髪の色も、ほとんど真っ黒に近い。また、冬服は概して地味な色が多い。よって今の私は大変地味な印象の女の子である。保守的の極みのような髪型・・・まるで中学生である。ほんとに。

ニート生活も1週間を過ぎた。朝から映画を観て、用事を済ませ、昼寝をしたり本を読んだりした後、海まで夕陽を見に行って(自転車で10分強)、帰りに喫茶店で本を読んでいた。ガラス窓に写る自分がほんとに子供みたいで笑えて来た。それでも、ため息は出なかった。むしろ、中身もびっくりするくらい無邪気なんだから、内面をあらわしているという点で悪くないか、とまで思えてきた。

明日は、化粧でもしよう。

そして、ひと粒のひかり

2007-01-29 00:33:01 | Public
 個人が幸せになるための政策と、国が、国民が豊かに暮らすための政策がときとして同じにはならないときは、どうすればいいのだろう?「どんな」個人が豊かになるのかを考えて、そこにウェイトをつけていくしかならないのだろうけど・・・。

 カンボジアに到着して空港を出てバイクタクシーに乗る。その10分後から私の中にはずっと違和感があった。「外国人料金と、カンボジア人料金」。外国人「だけ」を相手に働く―――日本にはないサービス形態。でもこの国の一番の収入源。

 フィリピンでは、日本やアメリカで働くため「だけ」の学校がある。おかげで、彼らは高い給料と可能性、フィリピンでのリッチな生活を手に入れる。でも、同時にこの5年間で病院数は半減。

 もし政府が、「税収を増加させる」とか、「GDP成長率を上げる」とかということだけを目的に政策を出せるとしたらなんて簡単だろう、と思わざるを得なかった。明らかに原因と結果の線が見えているのに、改善策がわからない。経済水準が違うって、なんて悲しいことだろう、と思ってしまう。そして少なくとも、海外からの人間を受け入れる側で、また、人材をキープすることだけが当面の政策課題であるように見える日本は幸せなんだと思う。精神的には。

 こんなことは、シンガポールでも感じた。英語スキルの水準が高く、欧米文化への偏見もない。教育水準も高そうだし、国際評価もそれなりにある。この国の人々の中で、シンガポールという国のことを考えて、シンガポールにとどまろうという人がどれだけいるだろうか、と思ってしまった。ぶらっとしただけで書くのは少し気が引けるが、どうにもアイデンティティーの希薄な国に見えて仕方なかった。

 「そして、ひと粒のひかり」というドキュメンタリータッチの映画の中で、ヒロインは小さな町から出稼ぎに行く―――大変なリスクとともに。お金さえあれば解決できる問題を解決したいだけのために。

・・・何気なく「お金さえあれば解決できる問題」と書いたけど、その本当の姿こそ、福祉だったり社会保障だったりするのかもしれない。フィリピンだって、国が病院や介護施設をマネジメントして、高いサラリーを保証すれば、最低限の国内住民への福祉と、国外労働者としての可能性を両立できるのだろうか?―――でも実際、そんなに高いサラリーが払えるわけがないのである。

 また脳みそが体力切れです。情けない。

食器

2007-01-24 09:34:30 | Public
 日本に帰ってきて、一番日本を感じたのは自分の食器だった。自分の、自分で焼いたお茶碗やお皿でご飯を食べたとき、「あぁこれだぁ」とぐぐっと嬉しかった。

 日本の風景の特徴のひとつに、学生服があると思う。登校時刻、下校時刻以降になると、街中には制服の中高生がそこらじゅうに居る。カンボジアやタイでも学生は制服が基本のようだったが、路上に見る人間全体に対する割合は大きくない(道に居るそれ以外の人間の数が半端なく多いため)。

 帰国して2、3日、自宅や自宅周辺で家事見習い生活をしていたため、電車に乗らなかったのだが、昨日ちょっくら千葉まで行ってみた。100%日本人で、日本語で、ちょっとおもしろかった。まるで、日本さえ旅行先のような感じ。すぐになくなるであろう貴重な感覚。

 家事見習い。掃除、買い物、料理に片付け。やっぱりやだな、専業主婦になるのは。これらの作業自体が嫌というわけではなくて、「それだけをやってる」のがやなんだな。『ブッダ』も読破したし(手塚治虫のマンガね)、そろそろ東京に挑戦してみようかな・・・。

明けまして、日本。

2007-01-20 23:16:55 | Public
 日本人は、環境的に「自分のペース」を作ることや、その必要性を感じることが苦手なのかもしれない。

 もし、アンコール・ワットの巨大な異空間の中で、ざわざわと風が通る南国の林の中で、ぎくっとした像の前で立ち止まらなかったら、そこに来る意味なんか半減する気がする。ほとんど何も感じない気がする。

 立ち止まって、一丁前にほんの少し対話した気になって、その前で昼寝してみたって。コストと便益で測れるような便益は得られないのかもしれないけど、何も感じないより随分ましだと思う。

 大学を出るまで、教育制度に乗っかって、船頭さんのいる水上バスみたいに停留所をいくつか回りながら大体定刻通りに川を通っていく。その後、何に乗り換えるかはわからないけど、日本の友人の中でも、海外で知り合った友人たちの中でも、本当にさまざまな進み方がある。ほとんどのケースは想定外の戸惑いながらの道だ。良し悪しはその人の問題だけど、その人がかっこいいかどうかと思えるかどうかは、その人が「自分のペース」の上に立っているかどうか、だなぁと感じる。

 国々の自然環境、社会環境、個々人の家族環境によって与えられる条件を消化しつつ吸収しつつ、自分のペースにいるかどうか。すなわち多感でいられるかどうか、これから人生を面白く出来そうかどうか。


 今朝、5ヵ月半ぶりに日本に帰国してみると、随分母が忙しそうだった。デンマークへの出発前は、非常勤ホームヘルパーの仕事を一時中断して、休憩しつつフルタイムの仕事に挑戦しようと職探しをしていたのだが、今はフルタイムの仕事(ケアマネージャー事務所)をしつつ、何か新しい資格を取るために休日は研修に通っている。7日間フル活動。

彼女は今、自分のペースを作って進んでいるっていう感じがした。

・・・

 というわけで、帰ってきました。コタツと、ちらかったリビングを見たとき、やっぱりホッとしました。幸いなことに(?)お正月に祖父母の家から帰ってきたときのものがいろいろとリビングや台所の端々に置かれていて、まだ正月気分の騒々しさが残っています。ちょっと北欧に後ろ髪引かれる瞬間があったりもするけど、東南アジアののんびりな景色でぼんやりしてきて、「ま、取り合えず始めるか」って感じです。

 まずは、衣替えから。クローゼットの中はみんな夏服のままなんです。したらスーツケース、片付けよう。